どことなく爬虫類を彷彿とさせるような漆黒の鱗を身に纏う全体のシルエット。
その黒に染まることなく煌めく金色の眼は宝石のようであり、しかしその口は肉食獣のそれに近く、わずかに開いた口からは鋭い牙がちらりと見える。
前足と思われる部分はその獰猛さからすれば幾分か小さく、脅威の度合いとしてはおそらく外野どの部分よりも低いだろうが、親指のような少し離れた位置にある指と3本の並んだ指が手のような形で鳥類の足に酷似している。
対して後ろ足はライオンなどのようなしっかりとした足で、大腿も太く蹴りだけで人間など粉々に粉砕できてしまうだろうことは想像するに容易い。
尻尾は付け根から徐々に細くなり、しなやかさを落とさないフォルム。
何よりも鮮烈なのはその背中から生える大きな翼で、片翼ですら自身の体高よりも大きなその翼は左右に開かれた時には幅30mに到達している。
月光を背に受けてオレ達のいるカボ・ペーニャス灯台付近に姿を現したドラゴン、クエレブレは、着いて早々に海上に陣取っていたテルクシオペーをその尻尾で吹き飛ばし、それによって展開されていた氷のドームが瓦解。
何も隔てるものがなくなったクエレブレとシャナは、Nという組織による介入で生じた亀裂を修復したいかのように見つめ合う。
いや、クエレブレはもちろんそうだろうが、現れたクエレブレに対して言葉を詰まらせて動けずにいるシャナは別のことを考えているかもしれない。
「まさかドラゴン退治まですることになるとはな」
そんなクエレブレの登場でオレの役割はほぼ終わりだと安堵しかけていたのに、何を見ようと畏れも躊躇もないサイオンはクエレブレもまた障害であると認識してそのプレッシャーを引き上げてくる。バカなのこの人!?
そのプレッシャーを察知したかシャナへと向けていた優しげな瞳がギロリとサイオンへと向けられて、その口の奥から赤々とした光が漏れ見えて攻撃を牽制。
「黙っていろ人間」
「ほう。話ができるのか」
その気になれば周囲を焼き尽くせるだけの力があると踏んだか、サイオンも下手に前へは出ずに隙をうかがう様子になるが、倒すべき対象という認識を変えるつもりはなさそうだ。
何かのきっかけで再び状況が動いてしまいそうな雰囲気の中で、これ以上の戦闘行為は無意味と判断しているオレは、炎を吐きそうなクエレブレを手で制してサイオンとの直線上に移動し再び立ちはだかる。
「サイオン・ボンド。ここはもう退いてくれ。これは警告でもある」
「警告だと? それはこちらの……」
「ここアストゥリアス州の海産品はな、安定した漁獲量と品質が高く評価されて長年に渡りヨーロッパ各国に出荷してるんだ。もちろんお前の愛する祖国であるイギリスもその中に入ってる」
「……それがどうした」
「その根幹を支えてるのがあそこにいるドラゴンだとしたら、それを打ち倒すことはイコール。イギリスの損失じゃないのか?」
「仕入れ先の1つや2つで国益にはさほどの影響はない。それ以上に我々はNから損害を受けている。お前もそれはわかっているだろう」
まぁ確かに黄金の損失は国を揺るがすほどの額なのは事実だが……
ここで引き下がってくれれば楽だったが、そうもいかないかとやれやれな態度で返されたことには肯定を示しておく。
それでも何も準備をしてこなかったわけではないオレは、サイオンにとって割と痛手になる手を放つ。これで退けよ。
「だがその海産品が『王室御用達』の食材だったらどうだろうな。特に女王陛下はここのロブスターで作る料理がお気に入りらしくて、シェフにはなるべく振る舞ってくれるように頼んでるって話だ」
「…………ブラフ」
「だと思ったか? 残念」
ただの口先だけの戯れ言なら斬首の刑でも待ってそうなハッタリをぶち込んだからか、サイオンからもプレッシャーが高まるが、即座に懐から携帯を取り出して事前に調べていた『王室ジャーナル』なる記事を表示したままサイオンへと放る。
携帯を受け取って記事にパッと目を通したサイオンは、ここでようやくその迸るプレッシャーを収めて携帯を閉じ、オレへと投げ返してくる。
「……情報は聞き出せ。そして我々にも共有しろ。何も出なかったはどうなるか、わかっているな?」
「情報に関しては後日、ICPOを経由して送る。救援には感謝するよ、サイオン」
「お前達を助けたわけではない。それは結果論に過ぎん」
おそらく比重としては一般論で言えばまだまだ黄金の方が上だろう。
それでも王室が絡むと無視できない案件に昇華してくれるのが国の組織というもの。
サイオンとて最強レベルの戦闘力を持っていてもあくまでエージェントの1人だ。独断で動いていいものではないし、こっちが情報を聞き出す可能性を示している以上はリスクよりもそちらを取る。
そうしてオレの最後の手札で引き下がってくれたサイオンはクールに踵を返してこの場を去っていき、邪魔者がいなくなったことでクエレブレにアイコンタクトすると、ようやく両者が会話を始めた。
「シャナよ。俺がいま何を考えているかわかるか?」
「……怒っているのでしょう。あなたに黙ってNに与したことを」
「そうだな。俺は怒っている」
「でも! 私は間違ったことをしているつもりはないわ! 全てはあなたがこの世界で自由を手にするために!」
「そうだな。そんな風にお前が考えていたことにさえ気づかなかった」
「私は! あなたがあんな洞窟でひっそりと生きなきゃならない世界を変えたい! それだけが願いで……」
「もういい」
立場としてクエレブレが圧倒的に上なせいか、あの高圧的だったシャナが別人のように声を震わせていたが、その思いだけは曲げられないと自分の気持ちを吐き出していた。
コミュニケーション不足が見えていたクエレブレとシャナにとって、これが初めての本音のぶつけ合い。
その気持ちを本人からぶつけられたクエレブレはシャナに怒っていると言われて肯定した上で言葉を切らせ、タイミングのせいでシャナが殺されるとでも思ったのか怯えた様子で身を縮め固く目を閉じてしまった。不器用だなぁ、このドラゴン……
「俺はお前に怒っているのではない。お前に本音を話させることすら出来ずにNに与させた自分自身に怒っているのだ」
「…………えっ?」
「俺がNの誘いを断った時、お前はきっと俺とは違う考えを持っていたのだろう。そしてお前が俺のためにと動き今に至っているのは、俺がお前の考えを聞けば止められると、そう思ったからだな」
「ッ……わかってクエレブレ! 私は怒られることを怖れたんじゃないの! ただあなたに否定されたら、あなたのために私が出来る唯一のことを失ってしまう。それが心の底から怖かった……」
不器用だからこんなことになってるのかと2人に気を遣って話が聞こえるくらいの距離まで下がって、レキ達には周囲への警戒をハンドサインで指示。
オレもテルクシオペーが戻ってくる可能性を考慮しつつシャナが完全に折れるのを待つ。
「お前が俺に出来る唯一のこと? 唯一などと、なぜ思う?」
「あなたがこの海を守護し、その報酬として人間達から食糧を搾取するサイクルへと変えたのは私の案だった。けどそれは本心ではあなたのためではなく、私自身のため。ここで悪名が立てばあなたは遠くない未来にこの地を離れてしまう。そうなったら私はきっと置いていかれる。私はまた絶望するんだって、そう思ったら怖くなった……だからあなたがこの地を離れなくていいようにって、私は……」
「それではお前の行動には矛盾が生じるだろう。仮にNの望む世界が生まれたとすれば、俺はこの地にこだわる必要がなくなるぞ」
「それでもよかった! あの洞窟でひっそりと佇むあなたを見る度に私は自分のしたことの罪に苛まれた。こんな自由に翼を広げられもしない生き方を強いた私を呪った! だって私は……あなたが何の憂いもなくこの空を雄々しく飛ぶ姿が、初めて見たあの日から愛おしいほどに好きだから……その姿がまた見られたのなら、私はもうどうなってもいいって」
「…………それがお前が秘めていた全てか」
今にも泣き出しそうなほど声を震わせて思いを吐き出したシャナは、穏やかながらまだ威圧感のあるクエレブレの問いに対して首を縦に振り肯定。
クエレブレも予想の範疇でしか語らなかったシャナの本音が全くの見当違いってわけでもなかったのは確実にプラス方向で、シャナが自分自身のためだったと語った部分も人間として当たり前の感情と思えばそこまで逸脱したものではないだろう。
あとはそれを聞いてクエレブレがどういう答えを出すか。どういう思いをシャナに伝えるかだ。
「ならば俺も応えねばならんな。お前が胸の内を明かしたなら、俺もまたお前に秘めていた思いを全て吐き出そう」
「クエレブレ……」
「400年前。俺がお前を助けたのは単なる気まぐれだと話したな。十中八九で死ぬ人間などどうでもよかったと。正直、生き長らえてしまった時は面倒なことをしたと後悔もした。人間から見放されたお前をまた人里へと送れるはずもなく、仕方なしにそばに置いていた数ヶ月は、幾度となく話しかけてくるお前を鬱陶しいと思っていた」
「……だからあなたは私に『黙れ』と何度も言っていたわね……でもあの頃の私にはあなたのそばしか居場所がなかった……あなたにしか心の拠り所がなかった」
「そうだ。そんな寂しさを生み出したのは俺で、こんなことになるならいっそ殺してやろうかと何度も考えた。だが必死に生きようと話しかけてくるお前の姿を見て、俺はいつしかお前と話をするようになった。何気ないことを何度も何度も話して、それはいつからか当たり前になった。俺にとってお前との時間が苦痛ではなくなった」
空気が、変わりつつあった。
クエレブレの登場からずっと怯えている雰囲気だったシャナが、どんどんと穏やかな声を強めていくクエレブレに呆然として話に聞き入っていた。
2人で笑い合うことはあったと話していたクエレブレだが、それは会話の中であった話題に対する反応であって、互いに気持ちをぶつけるものではなかったんだ。おそらく1度も、な。
「笑うようになった。誰かと過ごす時間を尊いと思えるようになった。誰かがそばにいることの幸せを思い出した。俺は1人ではないと寂しさを感じなくなった。お前との時間を最も大切に思うようになった。そして俺は今、400年前の自分にこう言ってやりたいと思っている。『お前は生涯で最高の選択をした。シャナという世界で最も素敵な女に、お前は救われるぞ』とな」
「クエレ……ブレ……」
「なぜ俺がNの誘いを断ったのか。それは俺にとって、自由に空を駆けるよりもお前と穏やかに過ごす日々の方が、何倍も大切になったからだ。その日々を壊しかねないNの企みには賛同できなかった」
「ひっぐ……ぐすっ……」
「俺は気持ちを言葉にするのが苦手だから、もう2度と言わんかもしれんが、今は言わせてくれ。『シャナ、お前を愛している』」
「……私も……愛してるわ……クエレブレ……」
たった一言。『愛してる』の言葉が言えなかっただけですれ違っていた2人の心が、ようやく通い合った。
感動のあまり泣き崩れたシャナに優しく寄り添うようにゆっくりと顔を近づけたクエレブレに、甘えるようにして自らも近づきピタリと頭と体を寄せたシャナ。
それから少しの間、シャナは泣きながらクエレブレに何度も何度も謝罪の言葉を述べ、クエレブレはやめろとも言わずに黙って受け入れて寄り添い続けた。
人とドラゴン。生物としてこれほどまでにかけ離れた種族同士でも育むことができた愛は偉大だと、本当にそう思う。
自分もかつて同じ境遇にいたから、なのかはわからない。
それでもクエレブレに吹き飛ばされながら、遠巻きにでもオレの視界に捉えられる海面に戻って上半身だけ出して様子をうかがっていたテルクシオペーが、これ以上の邪魔をしてくることはなく、最後まで見届ける前にその海面に静かに沈んで姿を消していった。
これでお前はかつて自分が愛した男を信じられるようになったのか、テルクシオペー。
どんな事情があってあの結末になったのかは最早オレには推測するしかないが、種族の違いなんて些細なことなんだよ、テルクシオペー。愛は相手を思う気持ち。そこに種族はない。それが今回のことでわかってくれたら嬉しいよ。
ひとしきり泣いてスッキリして、クエレブレの本音を聞いたからか、シャナからは完全に戦闘の意思はなくなり大人しくクエレブレのそばで座ってオレを呼ぶような目で見てくる。
最後まで警戒だけは怠らずに話が出来る距離にまで近づいたところでクエレブレに対するものとは明らかに別人レベルの力強い口調で話をする。
「戦闘の途中で気づいていたが、私はこの結果でNのメンバーではなくなった。あそこで聞き知ったことも手駒程度の私では計画の根幹に関わることは何もわからないぞ。それでも私から何を聞く?」
「聞けることは出来る限り全てだよ。そうでもないとお前をMI6に引き渡すことになりかねない」
「……驚いたな。私はどこかに拘束されるものとばかり思っていたが、そうしないというのか?」
「オレはクエレブレから『シャナを取り戻してくれ』って依頼された身だからな。『どこの組織・団体から』までを曖昧にしちゃった以上は、MI6だろうとICPOだろうと拘束やら収容をするならクエレブレの元へは帰れない。それじゃ依頼失敗だ。だから協力してくれ、シャナ。お前とクエレブレの平穏を守るために」
自分のしてきたことの重要性がわかっているからか、明日にでも何らかの機関に身柄を拘束されると踏んでいたらしいシャナは、拘束するつもりがないと取れるオレの発言にかなり驚いていた。
オレも職業上は拘束すべきって思ってはいるさ。でもなぁ、クエレブレからの依頼が漠然としていたのもあるし、何よりシャナの後ろから見てくるクエレブレが目力だけで『シャナを連れていくなら殺す』みたいな態度だからそう言うしかないでしょうが……
そんなクエレブレの圧力に屈したオレは、携帯を取り出してメールで百地さんに拘束はしない方向でお願いする旨を伝えておく。
「そのような頼まれ方をされては協力せざるを得ないな」
「だがシャナよ。Nにとっても外部に漏れては困る情報もあるはず。それを漏らした報復を受けるようなら、話すべきではないこともあろう」
「それを言ったらそもそもの口封じもこの段階であり得たよ。それをしなかったなら、おそらくシャナの知りうる情報はNにとって痛手にはならないんだろ」
「そういうことになるか。それにもしもNが来たとしても、クエレブレが守ってくれるものね?」
「むっ、それはそうだが……」
とりあえず話をしてくれる流れになったのは良しとして、クエレブレの懸念も常に先手を打ってくるNの動きからすれば後手に回っている今から考えればほぼないだろう。
そうして油断したところを後ろからブスリ。みたいな可能性もなきにしもあらずだが、クエレブレを出し抜くのもNにとって至難の技と見ている。
シャナもその辺で絶対の信頼があるのか、相思相愛がわかって急に距離感が近くなった甘え声で頼り、クエレブレも慣れない感じで応えていた。惚気なら他所でやってほしいね……
というオレの視線に気づいて2人して誤魔化すように下手な咳払いをしてから話を戻すが、そういう気まずい空気もやめてもらえます?
「そういえばシャナ。Nは3人1組が基本だって話だが、ここにも3人で来たのか?」
「いえ。今回は特殊なケースだったし、テルクシオペーがついてきたこと事態が私にとってイレギュラーだったわ。同じチームにされてから読めない人魚だとは思ってたけど」
「ああそうか。テルクシオペーはモリアーティ以外とは会話を禁じられてるから……」
「……何でそれをお前が知っているんだ?」
「たまたま話す機会があって本人がそう言ってたからな。それよりここにはお前とテルクシオペーしか来てない。それは確定なんだな?」
「…………いや、確定では……ない……ッ!」
他人の惚気はこっちが冷めてれば自然消滅してくれると信じて話を進め、今回はイレギュラーとわかりつつもNのセオリーに当てはまっているかを聞いておく。
シャナによれば同伴者はテルクシオペーのみということだったのだが、この話で何かを考え出したシャナが唐突にハッとした表情をしてオレを見てくる。
「お前達はどうしてNが、私が今夜ここに来るとわかった?」
「それは先月にお前があそこにある奉納品をクエレブレの元に届けたから……」
「違う。もっと根本的なことだ。その情報は『どこからもたらされた』かを聞いている」
「どこから? そりゃ……あっ!」
……迂闊だったと言うしかない。
シャナにそんな質問をされて今回の経緯を辿ると、恐ろしい事実が浮かび上がることに今更ながら気づく。
そうだ……この情報を持ってきたのは他でもないあのバンシーだった。
クエレブレとオレ達の繋がりは確かにNにも知られる事実としてあったが、ここアストゥリアス州とは物理的な距離があって、クエレブレも文明の利器を持たず連絡を取る手段がない。
だからこそその使いとしてバンシーが動いてくれて、オレ達もこうやって準備をしてシャナ達を迎え撃てた。
つまりオレ達がここに来るには、クエレブレが得た情報を『誰か』が伝える必要があった。
そしてオレ達は導かれるようにこの場に来てシャナとテルクシオペーと激突してしまった。
その結果が出てしまえば、たとえ土御門陽陰が残した痕跡があろうとバンシーの存在が浮き彫りになるということだ。
「クエレブレ! バンシーは今どこに?」
「バンシーならついてくるのを引き止めたからな。俺の住み処で不貞腐れているだろう」
「くそっ……今すぐ洞窟に戻ってバンシーがいるか確認してくれ!」
「無駄だろうな。クエレブレがここへ辿り着いてすでに20分以上は経過している。それだけの時間があれば……」
時間的な猶予もなく、チャンスとも思ってしまったから3割くらいは勢いで実行したことが仇になった。
オレ達がシャナが来る根拠を探ったのと同じように、Nもオレ達が来る根拠を探っていたってことかよ。追い詰める側が誘き出されてりゃ世話ねぇぞバカ野郎が……
その後、わずかな希望にすがってクエレブレに洞窟の確認をしてきてもらったものの、そこにはもうバンシーの姿はなく、オレ達はシャナを奪還したのと同時にバンシーをNに奪われる痛み分けの後味の悪い結末を迎えることとなってしまった。