緋弾のアリア~影の武偵~   作:ダブルマジック

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Aiming3~Florence~

 ──女の幸せとは何なのか。

 世の中の女性にこんな質問をしたならば、おそらくは半数以上が結婚や出産などといった子孫繁栄に関わる何らかのことを答えるのだろう。

 それが理解できないほど私もひねくれてはいないし、否定だってするつもりはないが、それを考えた時に私自身が出すべき回答は、今のところない。そんな話だ。

 

 1年365日のほとんどをしっかりとした休みもなく活動し続ける私のライフサイクルは、他人から見れば狂っていると思われても仕方ない。会社ならばブラックもブラック。訴訟すれば余裕で勝ててしまうだろう。

 しかしそれは私自身が望んで投じている状況であり、ロンドン武偵局やリバティー・メイソンはことあるごとに「長期休暇を取ってくれ頼む」などと言う始末。

 さすがに1年もそんな調子だと上の方が泣いてしまうので、4月14日から3日間だけは完全休暇でのんびりすることにしている。

 

 そんな休日の初日はやることが決まっていて、朝から訪れたのは私の母校だったロンドン武偵高。

 訪れるのにはしっかりとした理由があるのだが、今年はどうにも気乗りしない理由も存在し、登校時間から少し遅れて敷地内へと入って、その理由と万にひとつも遭遇してしまわないように校内へと踏み入り、まっすぐに教務科を目指す。

 授業中なこともあって教務科も今は教師がほとんど出払ってしまってガラガラだが、私の入り用には授業はあまり関係ないので、毎年来てることもあってグイグイ奥へと進み、校長室へとノック1つで返事を待たずに入る。

 

「今年は遅かったわね。時間にはうるさいあなたにしては、のんびりしているわ」

 

「10分程度ならば然したる問題もないでしょう、校長」

 

 その校長室には、まぁ当然ながらこのロンドン武偵高の校長がいて、ロンドン武偵高で初の女校長は、小皺と白髪はずいぶんと増えているが、まだまだその身からほとばしる活力は衰えを知らない。

 ──マリアンヌ・ナイチンゲール。

 今年で確か57歳になるはずの彼女は、私が来たことで奥の席から立ち上がって、備え付けのティーセットを取り出して紅茶の準備を始め、私もその招きに応じて備え付けのソファーへと腰を下ろして待つ。

 紅茶にはうるさいマリアンヌ校長はその淹れ方にもこだわりがあるので、私は口出しさえ許されていないため、ただ待つしかないこの時間は手持ち無沙汰になる。

 

「あなたが遅れた理由について、推理してもよくて?」

 

「出来れば遠慮願いたいですね」

 

「あら、あなたがそんなに追及を嫌がるなんて、よっぽどなのね。そんなにあの留学生と顔を合わせたくないなんて思わなかったわ」

 

「…………始めからわかっていたなら確認を取らずとも良かったのでは?」

 

「珍しいあなたが見られて面白かったからじゃ、怒りますか?」

 

 だからマリアンヌ校長も紅茶を淹れながら会話へと興じてくれて、それに応じる形で成立させてみるが、おそらくは私が来る前から遅れた理由についてわかっていたマリアンヌ校長は何故か楽しそうにしていて、お茶菓子と一緒に淹れた紅茶を運んでテーブルに置いてくれ、自らも私の向かい側のソファーに腰を下ろしてまずは紅茶を啜る。

 

「猿飛京夜さん。留学初日に挨拶程度の会話をしましたが、とても良い目をしていました。礼儀も良くて、英語もお上手で。今のところ問題も起こしていません。留学生はカルチャーショックなどで在学生とギクシャクしたりあるものですが、それもなく校長としてとても助かります」

 

「そういう風に見える立ち振舞いをして波風を立てないのがあれのやり方ですよ。周りに溶け込む能力というか、周りに詮索されない能力が秀でているだけで、あれ自身は問題が多々あります」

 

「あなたが男性を嫌うのはいつものことですが、彼に対してのトゲはいつにも増して鋭いですね」

 

 落ち着いての会話になってマリアンヌ校長が切り出してきたのは、私がしたくもない、現在進行形でこの校内で授業を受けているであろうあれの話で、去年の帰国後にうっかり話したのが悪かったか、私との関係を探ってきている節がある。

 この人に対して隠し事はあまりしたくないが、さすがにあれを過去に殺しかけたなどと言えるわけもないので、単に嫌いなだけという態度で示してみせるが、私の奥底を見てくるようなマリアンヌ校長は落ち着いた雰囲気で私を見てくる。

 

「……シャンプーを変えましたね。それも男モノではなく、フローラの香りの女モノ。昔のあなたなら、そんなことをすれば心穏やかではいられなかったでしょうに、今はとても自然体です」

 

「それとこれとは関係ありませんがね」

 

「スキンケアもしっかりとしているように見えますね」

 

 フフフッ。私の言うことなど聞く耳を持ってないようにして笑うマリアンヌ校長がこの上なく不快で、珍しくそれを表情にも出してしまったが、そんな私の表情すらも受け流してしまうマリアンヌ校長は、しかし次には子供を見守る親のような優しい目で私を見て口を開く。

 

「私は素直に嬉しいんですよ。あなたが女として多少なりとも立ち振舞いを気にし始めていることがね。あなたがそうなってしまった原因は、私にありますから」

 

「校長は悪くありません。あなたが道を示してくれなければ、今も私はどこかの施設に隔離されて、狂気に満ちた表情で何かを壊していた」

 

 その優しい目は少し苦手なのだが、私のことを心配してくれているのは痛いほどにわかって素直に受け入れるしかないが、恩人であるマリアンヌ校長が自分を責めるようなことを言うのだけは真っ向から否定する。

 

「それでもですよ。私が武偵の道を示さなくとも、別の誰かがあなたをもっと真っ当な道へと導いたかもしれない。結果論でしかないけど、私はあなたの手が血に染まるのを手伝ってしまった。それを申し訳なく思います」

 

「それ以上あなたが自責の念にかられるのは止めさせてもらいます。私はあなたに感謝こそすれ、恨んだことなど1度としてない。あなたの選択は間違ってなかった。他の誰があなたを責めようと、私自身があなたを肯定する。それは未来永劫、変わることはない」

 

 マリアンヌ・ナイチンゲールは、その名からもわかるように、イギリスが誇る偉人、ナイチンゲールの直系の子孫だ。

 偉大な曾祖母にも負けず劣らずの衛生武偵だった彼女は『人を救う』という一点において妥協はなく、それが叶わなかった時。もしくは自分の意に沿わない結果となった時は、今のように自分のことを責めてから反省し、その後の糧とする。

 

 彼女と私が出会ったのは、私が社会復帰のためのリハビリをしている最中。

 もはや手立てがないと施設の人間が匙を投げる寸前の状況の時にふらりとやってきたマリアンヌ校長は、不気味な笑みを浮かべる私を見ても顔色ひとつ変えずにまっすぐに見つめてきて、施設から渡されたカウンセリング成果を見て提案をしてくれた。

 

 ──普通に生きられないなら、普通から遠いところで生きればいい。

 

 当時の私にとってその言葉は残酷にも思えたが、抑えられない衝動を別のベクトルへと導く必要があると考えたマリアンヌ校長は正しかった。

 

「……あなたを見つけた時。私は柄にもなく神のお導きだと思いました。呪縛に苦しむあなたをなんとしても助けなければと、ただ老いていくだけの私が奮起することを決意したのです。単なる偶然かもしれません。ですが私はあなたのその名が私をあの場所に導いたと思っています。『フローレンス』」

 

「この名は……両親が付けてくれたんです。あなたの曾祖母……フローレンス・ナイチンゲールのような偉大な人間になれるようにと。だから私も運命だと思いました。この名がマリアンヌ校長をたぐり寄せてくれたのだと。だからあなたの言葉を信じて私は武偵、羽鳥フローレンスになることができた」

 

 今の私でさえその選択が最善だと考えるのだから、マリアンヌ校長はあの段階で優れた判断をしていた。

 その後すぐに私と共にロンドン武偵高へと赴任し、以前からあったらしい校長の打診を受けて現在に落ち着いているが、校長の立場でありながら、在学中は親身になって私の指導をしてくれたし、今の男装の案もマリアンヌ校長が発案。

 そうした過程があっての今の私を見てマリアンヌ校長は、今まで語ったことがなかった当時の本音を吐露し、フローレンスという名が導いた今を噛み締める。

 人を殺める血を持つジャック・ザ・リッパーが、人々を救ったナイチンゲールの名を持つなんて、おこがましいにもほどがあると幼いながらに思ったこともあったが、今はこの名を誇りにさえ思える。

 だからこの名が私を踏み留まらせてくれる。断じてあの男のおかげではない。

 

「酷く歪で危ういものではあったけど、今のあなたはどこか安心して見守ることができます。あなたは認めたくないのでしょうけど、留学から戻ってからのあなたは自然な笑顔をいくらか見せてくれるようになりました。そのきっかけをくれたのは、猿飛京夜なのですよね。否定するのは構いませんが、忘れないでください。人は誰かと繋がることで安定していく生き物です。孤独は人を殺してしまう。それがわからないほどあなたは愚かではないと信じていますよ」

 

「今はまだ男を信用などできません。トラウマなどと言うつもりはありませんが、私を女から遠ざけた男に心を開くには、もう少しだけ時間がかかると思います」

 

「時間がかかっても改善しようとするあなたは確実に進歩しています。昔のあなたはそれすらも拒否していたくらいでしたからね」

 

「……もう昔の話はやめましょう。私のことを探っても面白くもなんともないでしょう」

 

「フフッ。そんなこともないのだけど、あなたが嫌ならやめましょう。でもそうなると話題がね……ないのだけど?」

 

「…………私の土産話でよければいくつかしますよ」

 

 そこまで考えたところで、いつまでも律儀に付き合う私を良いことに話が終わらないことで苦笑してしまい、マリアンヌ校長も暇なのかいつまでも話す雰囲気があったので、私から無理矢理に会話を終わらせて別の話題を提供してあげる。

 結局は私がほぼ一方的に土産話を1時間ほどもして満足したマリアンヌ校長は、授業の終わりを告げるチャイムで切り上げて校長の仕事に戻っていき、なんだかんだで一緒にいてストレスがないマリアンヌ校長との時間を満喫した私も、次なる目的地を目指してロンドン武偵高をあとにしていった。

 

 ロンドン東部のホワイトチャペル地区にあるザ・ロイヤル・ロンドン病院。

 かつてジャック・ザ・リッパーの被害者が運び込まれたことがある病院として少し有名だが、何の皮肉か今やここにはその加害者の子孫が入院してしまっている。

 緊急の連絡を受けない限りは私もこの休暇中にしか来ないが、この病院の一室へと赴いた私の目の前には、静かな寝息を立てて眠る両親の姿が変わらずにあった。

 

「…………私は元気だよ」

 

 物言わぬ両親に1人呟いた私の言葉に、当然ながら反応はない。

 それはわかっていてもついやってしまう人の心理に基づく行動だが、そうしたことをして備え付けの椅子に座った私は、この6年の間に1度として目覚めていない事実を噛み締めながら両親の顔を見つめる。

 

 私が人身売買で売られていった後、両親はその自責の念から心中を謀り、不幸中の幸いと言えるのか一命は取り留めて、それからずっと眠り続けているらしい。

 私が両親のことを知ったのは、警察に保護されて割とすぐのことだったが、当時はまだ私も精神的に不安定すぎてそれどころではなく、こうして見舞いに訪れるようになったのは3年前。

 医者によればいつ目覚めても不思議はないが、いつまでも目覚めない可能性もあるといった診断で、あまり期待はしていない。

 期待して裏切られるくらいなら、悲観論で備えていた方が精神的に楽なこともある。

 それは武偵憲章にもある事柄で良くできていると思うが、こうして毎年見舞いに来るのはやはり私の中でまだ何かを期待している表れなのだろう。

 

「……また一緒に暮らせるようになったら、私もこの装いを剥いでみせるよ。そして人並みの1人の女性として幸せを……」

 

 それでも私自身のこれからを語るのが両親の前であることは自然なことだし、思いは口にする方が良いとも言うから、私もそれに倣って色々と言いかけるが、最後まで言うより前にそれを引っ込めて飲み込んでしまう。

 まだ私は、そこまで望めるほどに自分を変えられていない。

 血の呪いは未だに私の中でくすぶっているのが本能的にわかるし、まだ人を殺している自分を俯瞰で見る不思議な悪夢を見ることだってあるほどだ。

 

 そんな私が人並みの幸せなど高望みも甚だしい。

 仮に今の言葉を口にするならば、その時の私はおそらくもう、武偵としては活動をやめてしまっていることだろう。

 そんな自分の姿が想像すらできない今の私では口が裂けても言うことは叶わないなと自虐したところで、いつまでも両親を眺めていても状態が良くなるわけでもないと椅子から立ち上がり、最後に一言だけ「また来るよ」と残して病室を出ていった。

 

 見舞いのあとは少し気持ち的に沈んでしまうので、病院を出る前に受付の看護師さんを軽く口説いて華麗に流されてから病院を出て、普段は全くといっていいほどにしない買い物なんかを敢行しにデパートへと足を伸ばし、防弾性のシャツやら実用性に特化した衣服類を中心に買い漁っていく。

 私の装備は基本的にオーダーメイドが多いので市販品は衣服がせいぜいなものだから、買い物が片寄ってしまうのは仕方ないが、どれもこれも男モノばかりを自然と選んでしまう辺りが笑えない。

 マリアンヌ校長が気づいたように、小さなところから自己暗示を緩めて、少しずつ女性らしさを取り戻していってはいるが、全体で言えばまだ98%くらいは男。

 身に付けるものもまだ全てが男モノで、ブラジャーなどといった下着すら自宅にはないのが本当に仕方ないし、マリアンヌ校長が知れば頭を抱えそうだ。

 それを思えば下見くらいはしておくべきかと、それなりの勇気を持って女性用下着の店に入ってみるが、普段着が男モノなせいで店員さんからも怪しむ気配がうかがえて、なんだか長居するのがはばかられてしまう。

 しかしながら、女性用の下着というのはキラキラしていて眩しいとさえ思えるね。

 口説いた女性のを見ることは多々あるが、自分が身に付けることを考えて見てみる下着は、どうにも気乗りしない。

 結局、試着したいなどと言おうものなら、そっちの趣味の人に見られそうだったので下見だけで店を出てしまったが、今度来る時は女装して……いや違うな。正装……いやこれも言い方がおかしい。

 ……ちゃんとした女性らしい服装で来られればいいなと思いつつ、これ以上の買い物も必要ないとデパートを出て1度帰宅。

 3月辺りにあの男が整理整頓したはずだが、すでに見る影もなく元通りの衣服が散乱する汚部屋へと変貌したところへ買ったものを置いて、適当なところで外食しようかと外へと再び出たのが運の尽き。

 

「…………ちっ」

 

「いい加減にそのあからさまな舌打ちはやめろ」

 

「やめてほしければ私の視界に入らないでもらえるか。君が視界に入るだけで吐き気まで催す私の気持ちになってくれたまえ」

 

「オレは汚物か何かなのか」

 

 日本食は私の中に流れる服部の血が合うのか、ここロンドンでも外食時は割と足が向く選択肢の1つで、今日はそんな気分だったから行ったことのない店を検索して行ってみたら、先に来てカウンター席でラーメンをすすっていた猿飛京夜とばったり会ってしまい、この上なく不快で表情にも表れてしまう。

 向こうも向こうで私が入ってきた瞬間に嫌そうな顔をしたのがまた殴りたくなるが、私は大人だから毒を吐くだけに留めて、不幸なことに隣しか空いてない席に可能な限り離れて座って注文。

 

「まだ授業はあるはずだがね」

 

「わかってて聞いてんのか。例によって依頼の後だよ」

 

 ラーメンを待つ間は暇なので隣のバカに暇潰しで話しかけてやると、ロンドン警視庁の犬として今日も張り切っていたことがわかる。

 呑気にラーメンを食べてるところを見ると依頼自体は簡単なものだったと予測できるが、よりによって私が選んだ店にいなくてもいいだろうに。

 そんな視線のジト目を向けてやると、何もしてないのに隣が不機嫌になるから、ちょっと居づらそうにその食べるスピードを上げる。よしよし、さっさと消えてくれたまえ。

 その様子にちょっとご機嫌になった私は、退散される前に会話に興じる余裕ができ、出来心で話しかけてしまった。

 

「時に数々の女性を泣かせてきた君に質問がある」

 

「自覚はあるがその言い方だと誤解を招くから、恋愛関係じゃないことは理解してろよ」

 

「さして変わりはしないと思うがね。そんな女泣かせな君は、女の幸せは何だと思っている?」

 

「質問の意図がなんなのかわからなくて怖いんだが」

 

「何も企んではいない。答えたまえ」

 

「そんなのは……よくわからん。女としてならそりゃ、好きな男と結ばれて子供を作って家庭を築くとかなのかもな」

 

「はぁ……100人に聞いたら99人が回答しそうな模範だね。さすがだよ君はうん」

 

 質問の意図などと言われて珍しく回答の用意がなく頭が真っ白になって素で返してしまったが、私の質問にありふれた回答をされたことで思考が回復。

 すぐに呆れ顔を披露してやると、仕返しのつもりなのか「だったらお前はどう考えてるんだよ」と質問を返されてしまうと、答えの用意がない私はダメな間を作ってしまう。

 

「……そんなものは千差万別だよ。君には模範ではない回答を期待したんだがね」

 

「逃げたな。でもまぁ結局はそんなもんだとオレも思うぞ。幸せなんて人に押し付けていいもんじゃない。独身だって色んな男に愛されることが幸せだって思う人もいるんだろうし、仕事に生きて死んでいくのが幸せだって人も……って、これだと女とかは関係ないが、女として生まれたからには、女にしか得られない幸せを考える権利くらいは、平等にあるんじゃないか?」

 

 その間でバカにも察せる逃げを披露してしまったが、そこに噛みついてくることなく運良く同調すると、なんかそれらしいことをいきなり言うもんだから困る。

 上手いこと言ったつもりかもしれないが、冷静に考えれば深い意味もない、ありふれた言葉をそれらしく言っただけ。

 漠然とした回答にはまた呆れてしまったが、そんな私の表情にも反応が薄くなったバカは、ラーメンを食べ終えてさっさと席を立って行こうとする。

 

「その権利を放棄するのは自由だがよ。お前にだってその権利ってやつは当然あるんだからな。その辺、諦めたりしたら勿体ないと思うぞ」

 

「わかったようなことを言うなよ。それに私は放棄するなんて一言も言っていない。なぜ話を飛躍するのだ君は。バカなのか? バカなんだねああそうだったよすまなかった」

 

 その去り際に変なことを言うからつい突っかかってしまったが、言われた瞬間に先ほどまでの自分が幸せを考える権利とやらを放棄しかけていたことに気づき、これも珍しく動揺してしまったが、それを悟らせないまま彼を追い出しにかかると、私との会話がストレスなのだろう彼は「はいはい」と投げやりな感じで店を出ていく。

 

「最後に言っておく。校長に迷惑がかかるようなことだけはしてくれるなよ」

 

「あっ? 言われなくてもしねぇよ。厄介事なんてこっちから願い下げだ」

 

「……フッ。それならいい。行きたまえ」

 

 最後の念押しにマリアンヌ校長を困らせるなと忠告して、それを聞いて消えていった彼を目で追うこともなく、カウンター席で1人笑った私は、そんなありふれた彼の言葉で張り詰めていた何かが消えたのを自覚。

 ──幸せを考える権利か。

 それがあっても考える暇も余裕もなかった私にとって、何故か心に響く言葉となったが、気づかせたのがあれなのが気に食わない。

 気に食わないが、私も大人だからね。人並みに感謝はしているよ。

 その考える余裕を与えてくれた君に、少なからずはね。猿飛京夜。

 そうしたことに気づいた今日この頃。その幸せの答えはまだ、私の中にはない。


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