ハイスクールD³   作:K/K

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傀儡、冷怒

 まるで踊っているようだ。マザーハーロットとグレイフィアの戦いを見る者が居れば、その様な感想を零すだろう。

 互いの顔を近付け、誰かが背を押せば唇が触れ合うだろう至近距離。かと思えば離れて距離をとったかと思えば、瞬きほどの間の間に互いの位置が入れ替わっている、と目まぐるしく動く。

 重力も体重も疲労も感じさせない軽やかな動きで二人は殺し合っていた。

 正しく言えば『し合って』いる訳では無い。グレイフィアが一方的に攻撃し、マザーハーロットが舞を思わせる動きで全て避けているのだ。

 マザーハーロットが下がれば、それを追ってグレイフィアも前に出る。魔力が宿されたグレイフィアの手が、マザーハーロットの顔を消し去る為に振るう。マザーハーロットは体を弓なりにし、上級悪魔さえ直撃すれば消滅しかねない魔力の籠ったその手を鑑賞する様に眼前を通過させる。

 芸術品の様に完成されたマザーハーロットの肉体は動き一つとっても艶めかしく、戦いの最中であっても相手の理性を引き剥がそうという猛毒に等しい誘惑を放つ。

 弓なりの体勢になったことで強調される彼女の美の極致の様な体の線に、見惚れない存在はどれだけいるのだろうか。

 攻撃を躱されたグレイフィアはすぐさま二撃目を放つ。今度は直接当てるのではなく、威力は落ちるが何十もの魔力の弾へと変えた。

 移動が限られた通路で、逃げ場を埋め尽くす魔力の弾が一斉にマザーハーロットへ襲い掛かる。

 マザーハーロットは佇む。その立ち姿はこの世のどの絵画よりも目を惹く程ものであった。

 飛んで来る魔力の弾に向かって、ふっ、と短く息を吹きかけた。途端、先頭の魔力の弾が突然軌道を変え、真横に曲がる。すると、別の魔力の弾に当たり、最初と二つ目の魔力の弾が軌道を変える。軌道を変えた先でまたも衝突が起こる。

 ビリヤードの様に連鎖する魔力弾同士の接触。軌道を変えられた魔力弾は、床、天井、壁を貫通しどこかに消えていくもの、残りは狙いを外されマザーハーロットの脇や横を通過していく。

 マザーハーロットに傷一つ無い。たった一息でグレイフィアの魔力をどうにかしてみせた。

 グレイフィアの攻撃を無効化してみせたマザーハーロットは、白骨の顔でグレイフィアに――恐らく――微笑みかける。

 どこまでも余裕を含み、どこまでも底を見せないその態度で相手の心を折ろうとする。

 しかし、この場に於いてマザーハーロットの思惑通り折れる者は誰一人として存在しない。

 『女王』と『大淫婦』のダンスに二頭の『番犬』が加わる。

 『番犬』の一頭――セタンタは、グレイフィアの弾幕が全て逸らされたときにはマザーハーロットの眼前に躍り出ていた。グレイフィアの魔力弾を隠蓑にし、僅かの間だけでもマザーハーロットの注意を逸らす。セタンタとグレイフィアの言葉を交わす事無く行った即席の連携である。

 セタンタは、マザーハーロットの喉元に突きを繰り出す。しかし、槍の穂先はマザーハーロットの喉に触れる寸前に止まる。セタンタが寸止めしたからでは無い、マザーハーロットが一瞬にして槍の間合い外まで移動したのだ。それも挑発するかの様に届くか届かないかのギリギリの位置に。

 目の前で舐めた真似をされるセタンタだが、至って冷静であった。何故ならばまだ彼の――彼らの攻撃は終わっていない。

 セタンタの攻撃が躱されたと同時に、通路の壁を走っていた二頭目の『番犬』ケルベロスは、四肢で壁が割れる程蹴り付けマザーハーロットに飛び掛かる。その際に両前脚が振り上げられ、先端の太く、鋭い爪に魔力が収束される。

 空中で振り下ろされるケルベロスの前脚。爪から放たれる魔力の斬撃は、一瞬にして床や壁に賽の目上の傷跡を深く残す。

 だが、やはりマザーハーロットは無傷であった。傷跡の縁に優雅に立ち、跡の深さを確かめる様にその白い足先で縁を撫でる。

 動きの一々が、相手を淫らに誘う挑発と怒りを誘う挑発だと感じさせられる。

 セタンタは、コメカミに青筋を密かに浮き上がらせながらもマザーハーロットの動きを観察していた。ハッキリと言えば、マザーハーロットの動きは戦う者の動きでは無い。動きのどれもが大仰なものに思え、無駄を感じさせる。

 だが、当たらない。こちらが本気で攻めているのにどの攻撃も当たらない。この事実は、マザーハーロットの動き以上にセタンタを苛立たせる。

 次はどう攻めるべきかと、セタンタが戦いの動き方を高速で思考させたとき、不意にマザーハーロットが後退する。

 誰も何もしていない――とセタンタたちが不審に思った次の時には、拳を突き上げた格好のディハウザーがマザーハーロットの前に立っていた。

 セタンタたちは気付く。今の今まで彼らはディハウザーの存在を完全に忘れ去っていた。影が薄いから、存在感が無いからなどと言う簡単なものでは無い。人手、それも強力な者を欲している状況で、『皇帝』であるディハウザーの存在を無視することなど在り得ない。

 マザーハーロットに避けられたディハウザーは、深追いはせずに素早く下がり、セタンタたちと合流する。

 

「申し訳ありません。折角の好機を逃してしまいました」

 

 謝罪するディハウザー。セタンタは気にする必要は無いことを動きで伝える。

 ディハウザーは何かしらの能力を使ったと思われるが、セタンタが知るベリアルが持つ特性とは異なる。もしかしたら今の現象事態が特性の応用なのかもしれない。それについて詳しく聞きたい所だが、その余裕は今は無く後回しにして先程あったことを一先ず忘れる。

 

「……にしても厄介ですね」

 

 グレイフィアの愚痴めいた言葉に、他の者たちも無言で同意する。何度も仕掛けているが、未だにマザーハーロットは無傷。それどころか触れることすら出来ずにいた。

 加えて――

 

「グルル……気持チガワルイ」

 

 ケルベロスは喉を鳴らしながら苛立ちを含んだ言葉を洩らした。ケルベロスは場に漂う甘い香りに顔を顰める。嗅ぐだけで脳が蕩け、恍惚とし、嫌な気持ちが全て消えてしまいそうになる極上の香り。それがマザーハーロットから絶えず放たれている。

 時間を追うごとにその香りは濃さを強めていく。そして、その影響でセタンタたちにはある異変が起きていた。

 戦意の低下である。戦いの最中であるというのに、戦う気力が徐々に落ちてくる。マザーハーロットに対し、本来ならば怒りや敵意を向けることが当たり前だというのに、その感情が薄まっていくのを感じていた。

 セタンタやグレイフィアにしてみれば屈辱もいいところである。怨敵に対し、無限に湧く筈の怒りをわざわざ心を奮い立たせなければ枯れてしまいそうになる。

 ディハウザー、ケルベロスも意思を強く維持しなければ途端に思考に霞がかかる。ケルベロスが気持ち悪いと言ったのは、外から自分の意思に影響を与えることへの不快感からであった。

 マザーハーロットを前にしてまだ正気を保つことが出来ること自体、彼らの精神力が並外れていること。そして、その心にマザーハーロットの誘惑を撥ねる確固たる思いがあることを意味している。

 ならば、もしそれが無い者がここに訪れたなら。その答えは複数の足音と共にやってきた。

 

「ムッ……」

 

 通路の曲がり角から現れる数人の悪魔の姿を見て、ケルベロスは唸る様な声を出す。通常時ならニオイですぐにその存在に気付いたが、漂う濃厚なマザーハーロットの香りのせいで鼻が上手く動かず気付くのが遅れた。

 

「お前たちは……!」

 

 セタンタ、グレイフィア、ディハウザーを見て目を丸くし、途端に殺気立つ。その反応で旧魔王派の悪魔だとすぐに分かった。

 

「ここに来るんじゃない!」

 

 ディハウザーは思わず声を出していた。敵対する関係だが、同じ悪魔としてつい情けからか助ける為に動いてしまう。

 しかし、そんな思いのディハウザーの声は、固執した考えを持つ彼らの耳には届かない。ディハウザーの警告も命乞いか何かと勘違いをする始末である。

 旧魔王派たちの悪魔がセタンタたちに襲い掛かろうとしたとき、その間に割って入るマザーハーロット。

 

「誰だ! 貴様は!」

 

 道を阻むマザーハーロットの背に、悪魔の一人が怒声を浴びせる。魔人を前にして強気でいる悪魔たち。彼らが恐怖に対して鈍い訳では無い。マザーハーロットという巨大過ぎる存在は、彼らの感覚の許容量を遥かにしのぐものであり結果として魔人の恐怖を認識出来なかったのだ。

 マザーハーロットはゆっくり悪魔たちの方へ振り返る。マザーハーロットの顔を視界に収めた途端、目の前で赤や桃色の閃光が放たれたと感じた。

 それはマザーハーロットの魅了する力を幻視したに過ぎない。しかし、それを深く考えることはもう彼らには出来ない。光を見たときから彼らの人格は完全に破壊された、自分たちが仕える魔王たちを元の玉座に戻し、真の悪魔として誤った道を進もうとしている悪魔たちを正すという使命感は全て塗り潰され、跡形も無く彼らの心から消える。

 今あるのはマザーハーロットに対し我が身が滅びるまで奉仕しようとする隷属の精神のみ。彼女の為に死に、その死を以て彼女を喜ばせることが今の彼らの使命。

 もう、それしか彼らには無い。もう、そのようにしか生きられない。彼らの悪魔としての長い月日は僅か数秒で終わりを迎え、傀儡としての一生が始まる。

 理性を失った濁った眼で悪魔たちはマザーハーロットを見ると、一斉に膝を着いて忠誠の構えをとる。

 

「ホォーホッホッ! 良き眺めぞよ」

 

 物言わぬ傀儡たちが頭を垂れる姿に、マザーハーロットは嘲りとも高揚ともとれる声を掛ける。

 

「悪趣味な……」

 

 グレイフィアが吐き捨てる。他の者たちも同意見であった。傍から見ていて嫌悪感を覚える光景である。

 

「楽しいか? そんな真似が……?」

 

 セタンタが刺し貫く程の殺気を込めてマザーハーロットを睨むが、マザーハーロットはその殺気すらも玩具の様に扱い、嗤う。

 

「楽しいか? 楽しいぞよ。妾の為に堕ちて生きる姿は。そして、それが死に行く姿はもっと甘美な筈」

 

 その言葉を合図に、膝を着いていた悪魔たちが全員立ち上がる。正気を失った眼に、濁った殺意を宿している。

 敵であり、内に宿すかつての悪魔の生き方を戻すという信念も肯定することは出来ない。しかしながら、たった十数秒の間でその信念を捨てさせられ、踏み躙られ、傀儡として人格を塗り潰された彼らに憐みの感情を覚える。

 

「……どうすることも出来ないのですか?」

 

 ディハウザーが小さく洩らす。誰もそれに言葉を返すことは出来なかった。あそこまで正気を失わされた者を救う術は無い。ディハウザーは皆の沈黙が答えだと知り、それ以上喋ることは無かった。

 マザーハーロットが、指揮者の様に指を振るう。その動きに従い、悪魔たちは皆奇声を発しながら、セタンタたちに襲い掛かる為全速力で走る。

 心を失った彼らを解放する手段は最早一つしか残されていない。

 悪魔の一人が、セタンタに向け、奇声と共に拳を――

 

「ひゅっ」

 

 息を吹き掛ける様な声を、セタンタに仕掛けた悪魔が出す。その音は彼の口から発せられたものでは無い。うなじの皮一枚残して斬り裂かれた彼の喉から出てきた音であった。

 真横に振るわれたセタンタの槍。あまりに速く振り抜かれた為、穂先には血一つ付いていない。一瞬にして悪魔を一人倒したセタンタだが、その表情はマフラーで顔半分隠していても分かるぐらいに苦々しいものであった。

 戦う前から分かっていたが、この悪魔たちは下級、中級程度の実力しかない。セタンタたちには到底敵わない実力だが、それが魔力も使用せずに原始的な拳だけで挑んできているなら尚更勝てる要素は薄くなる。はっきり言えば駒としては、実力不足もいいところ。だが、ある意味では負けることよりも苦い気持ちにさせられる。

 首を斬られて絶命する悪魔。その顔は満面と呼べる笑みを浮かべていた。マザーハーロットの為に死ねることが至上の幸福であると体現する。

 ディハウザーは戦いの中である試みを行おうとし、接近してきた悪魔の何の技術も無い打ち下ろしの拳を半身になって避けると、その頭を鷲掴みにする。

 ベリアル家の血には、『無価値』という魔力が宿る。相手の特性を一時的に消し去るという能力であり、セタンタたちやマザーハーロットに気付かれずに攻撃を仕掛けられたのは、この特性をディハウザーがある応用をしたからである。

 この『無価値』の力を使えば、マザーハーロットの魅了から彼らを解放出来るかもしれないと思い、この場で試す。

 力を掴んで悪魔の精神に流し込む。その結果――

 

「……」

 

 その悪魔は全ての生気を失い、自らを支え力も無くなり、空っぽの目のまま弛緩した口から涎が垂らす。

 悪魔は廃人同然と化した。彼の精神は、マザーハーロットの魅了と完全に融けあった状態にあり、マザーハーロットの魅了を消すということは彼の精神を消し去ることに等しくなっていた。

 ディハウザーは既に取り返しのつかない状態になっていることを嫌でも思い知らされる。『無価値』の力を消せば、マザーハーロットの魅了の力が再び発揮されて彼の精神は戻って来るだろうが、その時はディハウザーに襲い掛かってくるだろう。

 一縷の望みは消えた。ならばせめて傀儡ではない今のままの状態で屠ることが情けだと考え、ディハウザーは指先を揃え手刀の形にすると、その心臓を貫く為に放とうとする。

 が、先に走る銀の光が悪魔の心臓を穿つ。銀の光は、セタンタの槍であった。

 

「セタンタ殿……」

「――こういうことは、私の役目なので」

 

 白い鎧と、トレードマークと言っていいマフラーに点々と血の染みが付いている。

 他の悪魔たちは、物言わずに横たわっている。傷から見てどれもセタンタの槍によって既に絶命していた。

 自分から進んで汚れ役をするセタンタに、ディハウザーは複雑な表情を浮かべる。同胞を殺したことに礼を言うこともセタンタを傷付ける様な気がした。

 グレイフィアもまたセタンタの行為に複雑な表情を浮かべていたが、若干の怒りも見える。そんなことをセタンタに望んでいないと暗に伝えている様であった。

 唯一、ケルベロスだけがセタンタの行動に対し関心を示さないでいる。それよりも、どれもこれもが笑みを浮かべて死んでいる悪魔の死体を興味半分、気持ち悪さ半分という感情で見ている。

 セタンタは、幽鬼の様な力の無い動きでマザーハーロットを見る。しかし、その眼光は今までに無い程に強く、昏い光が込められており、闇夜であったならば浮かび上がりそうであった。

 

「……これで満足か?」

 

 マフラーの内から聞こえるセタンタの声。ディハウザーが初めその声を聞いたとき、獣の唸り声かと勘違いしそうになる。低く、感情を極限まで抑え込まれたそれは辛うじて人語として聞き取れる具合であった。

 マザーハーロットは口を手で覆っており、セタンタの問いに合わせてその手を僅かにずらし、剥き出しの歯を見せる。肉も皮膚も無い白骨の顔だというのに、セタンタたちにはマザーハーロットが口の端を吊り上げて笑っている姿を幻視した。

 

「――お前は存在するべきじゃない」

 

 セタンタは、マフラーに指を掛けてずらす。露わになる口元。犬歯を剥き出しにし、唇を僅かに震わせていた。

 奇しくも同じく口の端を吊り上げた表情を互いに見せるが、片方は悦び。もう片方は怒りと内包する感情が真逆である。

 指を掛けていたマフラーを掴み、引き剥がそうとする。その行為が何を意味するのかディハウザーとケルベロスは分からない。しかし、グレイフィアはその後に何が起こるのか分かっているのか、セタンタを明らかに止めようとする。

 グレイフィアの伸ばした手が、セタンタの腕を掴もうとするが、間に合わず一気に引き剥がされ――る前に突然セタンタの手が止まった。

 不自然な停止に皆が訝しむ中で、セタンタは視線をある一点へと向けていた。

 嗤うマザーハーロットの手につままれている杯。何時、何処から、どうやって取り出しのか、マザーハーロットを凝視していたセタンタにすら見抜けなかった。

 白色の本体(ボウル)。本体の側面には青色の宝石が複数埋め込まれている。本体を支える(ステム)(プレート)は黄金によって作られていた。

 美麗なマザーハーロットが持つに相応しい燦爛たる黄金の杯。

 その黄金の輝きが目に映ったとき、カツンという小さな音がセタンタの足元で聞こえた。

 何かと思い足元を見て愕然とする。セタンタの足は、一歩後退をしていた。自分でも気付かない無意識の後退。退る足が小石を蹴らなければ認識出来なかったかもしれない。

 もう一人自覚出来たことがあった。先程まで烈火の如く渦巻いていた怒りが嘘の様に消え去り、熱が消えた思考でここから退避する方法を考え始めていた。

 セタンタの培ってきた経験が、感情を排してでも戦いを避けようとさせている。

 

(何だ、あれは……?)

 

 黄金の杯を見るだけで体の芯を震わす怖気が走る。見ることも、意識することも、その杯の前で息をすることすら体が拒絶する。

 黄金の杯の影響はセタンタだけでなく他の者たちにも影響を与えていた。

 

「うっ……」

 

 常に冷静沈着なグレイフィアが口を手で覆っていた。込み上げてくる吐き気を耐えている。

 

「グルルル……!」

 

 ケルベロスは威嚇する様に唸る。しかし、本能には逆らえないのか背中や肩甲骨周辺の毛が逆立ち、尾が丸まっており、恐怖を覚えている。

 ディハウザーは声を出すことは無かったが、その顔色は土気色に変わっている。精神が疲労しているのが見て分かってしまう。

 マザーハーロットは、セタンタたちの反応を愉しみながら、黄金の杯をゆっくりを傾ける。

 杯の中からナニカが零れ出た瞬間、地獄が広がった。

 

 

 ◇

 

 

 

「アーシアァァァァァ!」

 

 最奥の神殿内に足を踏み入れると一誠は叫んでいた。

 

「アーシア! 大丈夫かっ!」

 

 同じくゼノヴィアもアーシアの名を大声で呼ぶ。

 

「ちょっと落ち着きなさい。二人とも」

 

 いきなり近くで大声を出され、目を白黒させながらリアスは二人を窘める。リアスも一誠たちの気持ちは良く分かるが、相手の陣地内で無謀なことは出来ないので冷静を努める。一誠とゼノヴィアが代わりに叫んでくれたことで、少し落ち着けたという理由もあるが。

 

「す、すみません。アーシアのことが心配で……」

「……すまない。自分でも驚くぐらい冷静でいられないみたいだ」

 

 リアスに言われていくらなんでも勇み足過ぎたと思い、二人は少し冷静になる。しかし、胸の内では焦燥は消えることは無い。寧ろ神殿内に入ってから更に強くなったと言える。

 

「小猫、アーシアの場所は分かる?」

「……確認します」

 

 小猫は猫の耳をピクピクと動かす。

 

「……あ」

 

 すると虚を衝かれた様な声を出す。

 

「どうしたの?」

「……すぐ近くにいます。しかも一人です」

『えっ!』

 

 今度は全員が虚を衝かれる思いであった。何かしらの苦難があるかと思っていたが、想像を下回る程簡単にアーシアを救い出せる状況。喜びよりも先に困惑の方が来る。

 

「アーシアァァァァァ!」

「いるなら返事をしてくれ! アーシア!」

 

 すぐに切り替えたのは一誠とゼノヴィアであった。神殿に入ったときの様にアーシアを呼ぶ。

 

「アーシア! 助けに来たわ!」

「アーシアさん、何処にいるんですか?」

 

 リアス、朱乃も事情が変わったので、アーシアを呼ぶ。

 

「ア、 アーシア先輩ィィィ!」

「……アーシア先輩。私たちはここです」

 

 ギャスパーは精一杯声を出し、小猫も普段よりも声を張る。

 神殿内を進みながらアーシアの名を連呼するリアスたち。神殿内に反響する声。すると、その反響を返す様に別の反響音が聞こえる。それは、足音であった。

 

「――さん!」

 

 足音だけでは無い。正確に聞き取れなかったが、声も聞こえた。その声は間違いなくアーシアのもの。

 

「アーシアっ!」

 

 一誠が名を呼ぶ。

 

「イッセーさん!」

 

 応える様に名を呼ぶアーシア。

 やがて、神殿奥からアーシアの姿が見えた。

 無事な姿のアーシアを見て、全員駆け出す。アーシアもまた走る。

 両者の距離は、大して離れていなかったが、今はそんな距離すらもどかしく感じるぐらい、すぐにでも触れ合いたかった。

 あと少し。もう少し。そして――

 

「イッセーさん!」

 

 アーシアが走ることすらもどかしくなったのか、一誠へ向かって飛びこんでくる。それを優しく受け止める一誠。この時ばかりは纏っている鎧を解除したくなる。アーシアの温もりと感触を直に感じ取りたかった。

 

「良かった! 無事で! 本当に良かった!」

「はい! 私は大丈夫です!」

 

 アーシアは安堵から涙を流す。一誠も兜の下で涙目になっていた。

 

「アーシア!」

 

 ゼノヴィアが、一誠とアーシアを纏めて抱き締める。

 

「怪我は無いか? ディオドラに変なことはされなかったか?」

「ゼノヴィアさん! 安心して下さい。私は私のままです」

 

 喜びで更に二人を強く抱き締めるゼノヴィア。

 傍から見ていたリアスは少しだけ拗ねた表情となる。

 

「もう。あれじゃあ、私が入れないじゃない」

 

 リアスもまたアーシアを抱き締めて無事を喜びたかったが、一誠とゼノヴィアが先にしてしまったせいで入る余地が無くなってしまっていた。

 

「でも、アーシアちゃんが無事で本当に良かったわね、リアス」

「ええ、本当に」

 

 朱乃は、リアスの肩の強張りが緩まったのが分かった。アーシアが攫われてからずっと強い緊張状態であったことを知っていた。全てが解決した訳では無いが、少しだけリアスの重荷が軽くなった。

 

「う、うあああああん! よ、良かったぁぁ! アーシア、先輩が戻って来てー!」

「……ギャー君、泣かない」

 

 アーシア以上に号泣するギャスパーを、小猫が撫でて宥める。

 

「――そうか。ギリメカラがちゃんとアーシアを守ったんだな」

 

 アーシアが逃げ出した経緯を聞き、一誠は自分のしたことが間違っていなかったと安心した。それと同時に約束を守ってくれたギリメカラに感謝する。

 

「それでギリメカラは?」

「私の影の中に入っちゃいました」

 

 一誠は、アーシアの影に近付き叫ぶ。

 

「ギリメカラ!」

「あ、あの!」

 

 アーシアが何か言おうとするが、一誠の大声に掻き消されてしまう。

 

「ありがとな! アーシアを助けてくれて、本当にありがとなっ!」

 

 すると、アーシアの影の中からギリメカラの鼻が伸びる。

 一誠はハイタッチをするつもりで手を掲げ――思いっ切り頬を鼻で殴打された。

 

「へぶあっ!」

 

 五メートルほど地面と平行に飛んだ後、頭から柱に突っ込む。鎧が無ければかなりのダメージだったかもしれない。

 

「な、何故……!」

 

 ギリメカラは『喧しい』と一声鳴いて鼻を影の中に戻す。

 

「ギリメカラさん、私の影の中で寝ていたみたいで……」

「そ、それを早く言って欲しかったな……」

 

 ヨロヨロと立ち上がる一誠。

 

「全く、どいつもこいつもまるで役に立たないなぁ」

 

 再会を喜ぶ空気を全て吹き飛ばす苛立ち混じりの声。

 

「ディオドラ……!」

「気安く呼ばないでくれるかな?」

 

 神殿奥からディオドラが姿を現す。彼の姿を見た途端、アーシアは一誠の背後に隠れ、その肩を震わせた。

 

「ディオドラ……よくも私の可愛いアーシアを攫ってくれたわね! そして、レーティングゲームを穢す様な真似を! その代償は払って貰うわ!」

「あははは。そう睨まないでくれよ、リアスさん」

 

 怒気を込めた目で見るリアスを、ディオドラは不遜な態度で笑う。

 

「少しばかり悪魔としての自分に正直になっただけじゃないか。アーシアが欲しい、という自分の気持ちに素直になっただけさ」

「貴方が同じ悪魔であることを、私は恥じるわ」

「はっ! サーゼクス様たちが掲げる今の悪魔というのは、僕には息苦しいだけさ。まるで躾られた飼い犬だ。飼うのは趣味だが、飼われるのは趣味じゃない」

 

 敬称を付けてサーゼクスの名を出すが、その声には明らかな侮蔑が込められている。

 

「奪い、破壊し、蹂躙するのが悪魔の本質の筈さ」

「……その下らねえ本質であの人たちを苦しめたのか? お前は?」

 

 一誠の声。余程、感情を押し殺しているのか声量は小さい。だが、神殿内に反響し、皆の耳に届く。その声は前震を彷彿とさせ、次に来る感情の爆発を予見させる。

 一誠の後ろで震えていたアーシアは、自分の震えが大きくなったことに気付く。それは、触れていた一誠の震えが伝わってきたせいであった。顔の見えない鎧越しでも分かる。一誠が怒りで震えていることに。

 

「あの人たち……? ああ、もしかして気付いたのかい?」

 

 一人理解するディオドラ。

 

「君には女性限定で心を読む能力があるらしいね。成程、それで分かったのか」

 

 ディオドラの顔が悪意で歪む。

 

「なら鈍そうな君でももう分かっているんじゃないかな? アーシアが教会を追放された事の顛末を」

「……お前、アーシアにそれを言ったのか?」

「当然!」

 

 真実の暴露。それは逃げ出したアーシアに対するディオドラからの一方的な罰。傷つけた心の傷をもう一度抉り、心の傷から溢れ出る血を啜る様な外道の行為。

 

「君に! 君たちに! 見せて上げたかったなぁ! あのときのアーシアの顔を! 映像に残せられなかったことが非常に悔やまれるよ!」

 

 事情を知らないリアスたちは、一人高揚するディオドラに嫌悪感を覚える。動き、言葉から溢れ出る悪意。

 

「アーシアは――」

「黙れ、クソ野郎」

 

 興奮するディオドラに冷水の様な冷めきった一誠の声が間近で浴びせられる。

 ほんの僅か一誠から目を離しただけだと言うのに、一誠は既にディオドラの側に移動しており、尚且つ拳を放つ為の溜めの動作に入っていた。

 

「くっ!」

 

 ディオドラからオーフィスの『蛇』によって得た力が、どす黒いオーラと化して出る。その力をすぐさま防御に転じ、一誠と自分との間に何十に重なった障壁を生み出す。

 

『薄い壁だな』

 

 目の前の壁をドライグは詰まらなそうに評する。

 

「全くだ」

 

 溜めた力を解放し、一誠は一直線に拳を撃ち出す。拳が障壁に触れたかと思えば、紙を突き破るかの様に一発で数十の重なった壁を突き破る。

 

「なっ!」

 

 あまりに呆気無く障壁を貫いていく様子に驚くディオドラであったが、一誠の拳が障壁を突き破る前に後ろに飛ぼうとする。

 一誠の拳が貫通するのと、ディオドラが飛び退くのはほぼ紙一重の差であった。

 不必要なぐらい一誠との距離をとるディオドラ。加虐に満ちた笑みは既に無く、整えられた髪は冷や汗によって乱れていた。

 

「は、はははは! 少し驚いたが、僕には届かなかったね!」

 

 哄笑するディオドラであったが、それが虚勢であることは誰が見ても分かった。

 

「はははは! はは――は?」

 

 ぬるりとした生暖かい感触を唇に感じ、ディオドラは笑うの止めて唇を手の甲で拭う。手の甲には鮮血がべったりと付いていた。

 

「当たってんじゃねーか」

 

 ディオドラは、鼻から血を流していた。一誠の拳は、ディオドラに直接触れることは無かったが、振り抜いた際に発せられた拳圧はしっかりとディオドラに届いていたのだ。

 

「部長、皆、一つだけお願いがあります」

「何かしら?」

「こいつだけは俺の手で倒させて下さい」

「ダメよ。全員で倒すわ――と言いたいところだけど、そんなことを言っても貴方止まりそうにないわね」

 

 一誠の全身から放たれるドラゴンのオーラ。神器は想い、感情を反映させる。一誠がどんな想いを抱いているのかが視覚化されていた。

 

「全く、先走って……。怒っているのは貴方だけじゃないのよ?」

「すみません……」

「だから、私たちの分を貴方に譲ってあげるわ。手加減無しでぶちのめしてやりなさい」

「はい!」

「イッセー」

 

 ゼノヴィアが声を掛け、何かを投げ渡す。受け止めるとそれは、ゼノヴィアに貸していたアスカロンであった。

 一誠がゼノヴィアを見ると、ゼノヴィアは何も言わずに頷く。自分の分まで戦ってくれという意思がそれだけで伝わってきた。

 受け取ったアスカロンの柄頭を、左手の拳頭に押し当てる。閃光を発した後、アスカロンは籠手の中に収納された。

 一誠の戦いの準備は完了した。一誠はディオドラを兜越しに睨む。一誠の殺気立った視線にディオドラは怯むことは無かったが、その顔は先程一撃で屈辱に歪んでおり、右目を見開き、左目は細め、左右異なる歪な顔で一誠を睨み返す。

 

「さっきクソ野郎って言ったけどよ、改めて考える、お前がクソ野郎で良かったよ」

「何を急に……」

 

 鼻血を拭い取りながら、ディオドラは言っていることが理解出来ないという表情をする。

 

「――おかげで躊躇わずに全力で殴れる」

 

 一誠は、拳を握り締めるのを見せつける。

 

「ふざけたことを……!」

 

 ディオドラの全身から先程と同じ黒い魔力が迸る。それだけでディオドラから放たれる圧が数段増す。

 

「さっきは少し油断したが、今度はそうはいかない! 見たかい! これがオーフィスから貰った『蛇』の力だ! 僕の力を何倍にも高めてくれる!上級悪魔である僕ならもっと力を引き出すことが可能だ! たかが下級悪魔の分際で! 現魔王のベルゼブブの血筋である僕を前に粋がるな!」

『オーフィスの『蛇』か、オーフィスと何か契約をして力の一部を貰ったか』

「粋がるなっていう癖に、自分は貰いもんで粋がってるじゃねぇか」

 

 一誠がそう吐き捨てると、ディオドラの額に青筋が浮かび上がる。痛い所を突かれたか、或いは一誠の態度そのものが気に入らないのか。

 ディオドラは両腕を広げる。体から昇る黒い魔力がディオドラの頭上で球体と化していく。その数は、一目で数えるのが無駄だと悟らせる程の無数。

 

「僕の気高い血を流させた罪は、君の命で償って貰う!」

 

 ディオドラが腕を振り下ろす。待機していた魔力の球が、雨の如く一誠に降り注ぐ。

 一誠もまた背部の噴射口から魔力を噴射し、動き出していた。

 魔力の集中豪雨に自ら飛び込んでいく一誠。その行為を愚かだと言わんばかりディオドラは罵る。

 

「君の様に下級で!」

 

 黒い魔力が石造りの床を穿つ。

 

「下品で! 下劣で! 模造以下の転生悪魔如きが!」

 

 黒い雨は、ドラゴンの赤い光すら塗り潰す。

 

「この僕に――」

 

 塗り潰された黒い雨の中で一瞬煌く赤い閃光。

 

「――触れることす……ら?」

 

 ディオドラは、突如として現れた一誠に、自分が胸倉を掴まれているという現状を呑み込めなかった。

 一誠がやったことは至って単純なことである。ディオドラまでの最短の距離、つまりは直線を最速で駆け抜けただけであった。

 その際にディオドラの魔力を幾つも浴びており、その箇所から白煙を上げているが、それだけであり、鎧は全くの無傷。

 避けようと思えば避けることは出来たし、弾くことも出来た。だが、一誠はそれをしなかった。それによって生まれる時間すら惜しんだ。それほどまでにディオドラを早く殴りたかったからだ。

 ディオドラの魔力の雨に突っ込むことに何の恐怖も無かった。修行の時にタンニーンとマダに追い掛け回されたことの方が比較にならない程恐ろしい。

 ディオドラは迎撃の為に魔力を放とうとするが、それよりも先に一誠の拳がディオドラの頬に打ち込まれる。

 叩き付け、振り抜くまでの間に拳を捻じり込む様に押し込む。頬の内側が裂け、歯が折れ、顎に罅が入っていく音がディオドラの体内に響き渡る。

 一誠が拳を振り抜くと、ディオドラの体は軽々と飛んで行き、数十メートルの距離を移動した後落下し、地面に横たわる。

 

「ぐあ、はぐ……!」

 

 だが、ディオドラはすぐに体を起こす。『蛇』のおかげで魔力だけでなく生命力も強化されていた為であった。

 顔を床から離すディオドラ。その口からボタボタと血が垂れ、その血が床に広がる。広がった血溜まりの中には白い物も混じっている。ディオドラの折られた歯であり、一本だけでなく数本転がっていた。

 

「こんな、こんなことが……!」

 

 肉体よりもプライドが大きく傷付けられる。確実に強くなった筈なのに、あっさりと一撃を受けてしまったことが、上級であり高位の血を受け継ぐディオドラのアイデンティティを揺さぶる。

 

「僕は、アスタロト家の、ディオドラだぞ! こんなことは……!」

 

 立ち上がるディオドラ。しかし、その足はダメージのせいで震え、辛うじて体を支えているだけであった。

 

「それがどうした」

 

 一誠はディオドラが立ち上がっている間に既に距離を詰めていた。数歩移動すれば拳が届く距離である。

 

「下級風情が、僕に、よくもこんな!」

 

 喚くディオドラを無視して一誠は構える。ディオドラは左手を突き出し、そこに魔力を溜める。

 一誠が左腕を振り上げながら最速で走る。するとディオドラの左手の魔力が障壁を創り出し、それを阻んだ。構わずその障壁に殴る一誠。しかし、今度は最初の障壁よりも頑強に出来ており、一撃では罅も入らない。

 

「アハハハハハハ! これだ! これが正しいんだ! 僕の方が君よりも上だ! 上であるべきなんだ!」

 

 一誠の魔力とディオドラの魔力が衝突し合い、金属を研削盤に触れ合わせた様に反発する魔力が二人に降りかかる。その光景は、お互いの意思すら反発し合う両者を表している様に見える。

 

「――本当に上か、確かめてみるか?」

『Boost! Boost! Boost! Boost! Boost! Boost! Boost! Boost! Boost!』

 

 倍化を告げる音声が立て続けに響く。一瞬にして一誠の力が跳ね上がる。

 

『Blade』

 

  突き出していた左手からアスカロンの刃が飛び出し、ディオドラの障壁を貫く。刃は障壁を超え、ディオドラの前にその切っ先を見せる。

 一誠は左手を斜め下に向けて振り下ろす。分厚い筈の障壁はその一太刀で紙よりも容易く切断された。

 だが、アスカロンが斬ったものはそれだけでは無かった。

 

「つあっ!」

 

 アスカロンの切っ先が、突き出していたディオドラの掌を斬り付ける。刻まれる裂傷。深くは無いが、体の傷以上にディオドラの精神を深く傷付ける。またもや自分の自信を揺さぶられた。

 

「痛い。痛い。痛いよ! どうして! こんな痛み、僕に起こって良い筈が無いんだ!」

 

 鮮血を垂らす掌の傷を痛がりながら、涙目で現実逃避染みた言葉を叫ぶディオドラ。

 

「泣くんじゃねえよ。アーシアはもっと悲しい思いをさせられたんだぜ。お前の眷属にされた人たちは、もっと苦しい思いしたんだぜ」

 

 言葉にするだけで一誠の中で怒りが湧いてくる。今起こっていることが自分が行ってきたことへの因果とも分からず、醜態を晒して喚くディオドラを見ていると、怒りが溢れ出そうになってくる。

 

「ふざけんな、ふざけるなよ。僕はアガレスに勝った! 能力の無いバアルにも勝つ! 情愛だけが取り柄のグレモリーにも勝つんだ! 僕が一番なんだ! アスタロトであるこの僕が!」

 

 現実を認めず否定する様に叫ぶディオドラ。反省の見えない態度どころか、サイラオーグやリアスのことを侮辱するディオドラに、一誠は兜の下で血管が千切れそうなほど形相を歪める。

 

「――もう黙れ」

 

 怒りが一周回って言葉に絶対零度の冷たさが宿る。今まで生きてきた中で、感じたことも無い程の嫌悪をする。

 

「この僕がぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 ディオドラが右手を頭上に向ける。幾つも魔力の塊が生み出され、それが捩じれて形を変え、先端尖った螺旋状の細長い形となる。

 三百六十度。一誠の逃げ場を全て塞ぎ、耐えるという一択しか与えない状況をつくる。

 螺旋の魔力が一斉に回転し始める。空気を震わす耳障りな音が神殿内に響く。

 ディオドラが掲げた腕を振り下ろす。それに合わせ、切っ先が全て一誠に狙いを定め、次々と射たれる。同時にではなく避けられない様に一本一本に時間差を付けていた。

 あらゆる角度からの攻撃。一誠に躱す場所も手段も無い。

 全弾が一誠の体に刺さり、その身に穴を開ける為に回転を増す。

 

「イッセーさん!」

 

 全身を刺された一誠を見たアーシアの悲痛な叫び。

 

「あははは! 中々似合っているじゃないか!」

 

 全身を刺された一誠を見たディオドラの哄笑と皮肉。

 

「あはははは! ――は?」

 

 ある異変にディオドラが気付く。全身を突き刺され、更には抉られている筈だというのに、一誠の体から血が一滴も流れていない。

 

「――嘘だ! そんな筈が無い!」

 

 ディオドラの魔力は、一誠の鎧を貫けていなかった。装甲が厚い箇所を外し、関節部などの装甲が薄くなっている箇所を集中して狙った。だというのに、ディオドラの魔力はその薄い箇所すら貫けていない。

 

『自分のしてきたことを全く理解してないな。――相棒を怒らせ過ぎた』

 

 ドライグがディオドラに向けた言葉は全くの無感情であった。虫にでも話し掛けている様な冷めた声。その声の冷たさに、ディオドラは身を震わせる。

 ドライグの言葉の通り、一誠の内には怒りが溜め込まれていた。神器は想いによって力を増す。通常時の『赤龍帝の鎧』だったのなら先程の攻撃は効いていたかもしれない。だが、激しい怒り、ディオドラを許せないという心が『赤龍帝の鎧』の力を引き上げ、強度が増すという変化を起こしていた。

 ショックを受けているディオドラに、一誠は魔力のブーストで瞬時に距離を詰める。

 

「あ」

 

 ディオドラが我に返ったとき、一誠の拳は放たれていた。

 頬に打ち込んだ拳を振り抜く。ディオドラの体は回転し、その勢いの速さで全身が溶けて色が混じった様に見えた。

 空中にいる間に何回転したかは分からないが、少なくとも百に迫る数はあったと思われる。

 回転したままディオドラは顔面から無様に着地する。

 ディオドラが落ちた場所は、一誠から数歩ほど離れた場所であった。ほぼ真上に跳んだせいである。尤も、そういう風になる様に一誠が殴ったのだが。

 一誠はディオドラの胸倉を掴み無理矢理立たせる。

 ディオドラの顔は片頬が倍ほど腫れ上がり、足がダメージで震えている。

 

 ある女性が居た。敬虔な信者であり、日々を清く正しく生きてきた。

 その生き方は誰もが尊敬し、ゆくゆくは人々を導く立場になる。誰もがそう思っていた。

 とある悪魔の目に止まるまでは。

 彼女が気付いた時には、既に取り返しのつかない状況となっていた。

 彼女は責めた。陥れた悪魔でなく神を裏切った無知なる自分を。

 故に彼女は自分を罰した。誰にも助けを求めず、怨敵に奉仕し、穢れていくことを知りながら悪魔の道を進むことこそ自分に与える罰。

 彼女は願った。いつか正しい道を歩む者が、穢れた自分に罰を与えるその時を。

 

 一誠はディオドラを殴る。折れて歯とその破片が口から飛び散り、殴られ旋ることで口内の血が宙を描き、汚らしい花を浮かび上がらせた。

 地面に落ちるディオドラ。だがすぐに引き摺り上げられる。

 顔の半分が青黒く染まり、腫れ上がっているせいで顔の形が歪になる。

 目を殆ど白目を剥いており、意識も殆ど飛び掛かっていた。

 

「や、やへ、やへて、ふれ……」

 

 ディオドラの殆ど歯が抜け落ちた口から、掠れた声が洩れる。許しを乞う声。それは一誠の耳にも届いている――

 

 ある女性が居た。その女性は慈悲深く、親を失った孤児たちの為にお菓子などを差し入れする優しい女性であった。その慈悲は人だけに止まらず、動物にも植物にも与えられた。

 その優しさに惹かれる男性が居た。女性もまたその男性の好意に気付いており、同じく男性に惹かれていた。

 このまま惹かれた者同士、同じ運命を並んで歩いていく――筈だった。

 ある悪魔に慈悲を与えるその日まで。

 彼女の慈悲は最悪な形で裏切られ、彼女は悪魔に堕ちた。

 自分の身に起こった不幸。しかし、彼女はそれを悪魔の甘言に惑わされた自分への罰として受け入れようとした。

 本当の罰はその後に起こるとも知らずに。

 男性は女性を愛していた。愛しているからこそ、その愛を貫くことを決意した。

 男は自ら悪魔へと堕ちた。愛する彼女の側に居る為に。

 女性は泣いた。自らの過ちに男性を巻き込んでしまったことに。

 悪魔は嗤った。その愛すら自分の欲望を昂らせる道具にする為に。

 

 ――だが、一誠は殴った。その声に耳を貸さず。

 ディオドラはクルクルと宙を舞う。もがく意識すら既に無く、四肢が風圧ではためき、操られているマリオネットの様に無茶苦茶な動きを見せる。見ようによっては滑稽な踊りを宙で踊っている様に見えるかもしれない。

 マリオネットことディオドラは、頭から落ち、床にへばりついた様に動かない。

 一誠は無言でディオドラを引き摺り上げる。微かに口が動いており生きていることは分かった。しかし、ディオドラの意識は完全に飛んでいる。

 一誠は、拳を硬く、硬く握り締める。握り締めた籠手が砕けそうになる程に。

 

「おおおおおおおおおおお!」

 

 自然と喉の奥から声が出た。義憤と理不尽への怒りが合わさったその声は、ドラゴンの咆哮に近い。

 握り締めた拳を引き、上半身を捻り、威力を生む出す為の距離を作る。骨も肉も神経も纏う鎧も、全ては絶命の一撃を放つ為の歯車。

 悪意を以て他者の人生を弄ぶ輩を破壊する為の引き金は、一誠の理性が握る。

 心が叫ぶ。殺れ、と。そいつが生きている限り、誰かを不幸にする。

 心が叫ぶ、待て、と。そいつを殺しても、犯した罪は残り続け、結局何も変わらない。

 拳が放たれるまでの刹那の間、心は叫び続ける。

 殺れ待て殺れ待て殺れ待て殺れ待て殺れ待て殺れ待て殺れ待て殺れ待て殺れ待て。

 一誠が出した答えは――

 理性が引き金を引く。全ての歯車が嚙み合わさり、一つとなって力となる。その力は拳に乗せられ、死神の鎌の様にディオドラの側頭部を打ち抜く為に空気の壁を突き破る。

 その鎌は狙いを定め――大きな風切り音を鳴らした。

 一誠の拳の下で、ディオドラは崩れ落ちている。拳が当たる直前、一誠はディオドラの胸倉を掴んでいた手を放していた。つまり、ディオドラを生かしたのだ。それが一誠の出した答えであった。

 硬く握られた拳がゆっくりと開く。指先から、殴った時に付いたディオドラの血がポツポツと垂れ、床に小さな点を作る。

 

「イッセー」

 

 側にゼノヴィアが立っていることに気が付いた。その手には、デュランダルを持っている。

 

「代わりに私がやろうか?」

 

 異端、異形を狩ってきたゼノヴィアが、ディオドラへの止めを代わりに刺すことを提案してくる。ゼノヴィアがディオドラを見る目に一切の感情は無く、声に感情も無い。止めを刺すことが簡単な作業だと錯覚してしまいそうになる。

 

「いや、いいよ」

「――また、アーシアを狙ってくるかもしれないぞ? 今後の為に首を刎ねた方がいいんじゃないか?」

「かもな」

 

 ゼノヴィアが言いたいことは良く分かる。一誠は、ディオドラが自らの過ちを反省するなど微塵も思っていない。きっと自分の身に降りかかった因果応報も全て降って湧いた理不尽と感じ、自分は何も悪く無いと自己肯定するだろう。

 そう考えてしまうと殴っても殴ってもスッキリはしない。気分が晴れたのは、最初の一撃くらいであった。

 

「だったら――」

「こいつにはテロのことで色々と聞かなきゃならないことがあるし、殺したらそれを理由に部長や部長のお兄さんに迷惑を掛ける」

 

 それが理由の半分であった。もう半分は彼女らが関わっているせいで、簡単にゼノヴィアに言うことが出来ない。

 一誠は、彼女たちにしたことをディオドラの命で償わせることを軽いと思ってしまった。これから先、彼女らは悪魔として生きていく。それをディオドラの命一つで無かったことにならないし、釣り合わない。

 ならどう償わせるのか。相応しい案が浮かばない。ディオドラの行く末を保留にしたのと同じ。一誠はそんな自分を情けなく思う。

 

(これで良かったのかな……)

『俺は肯定も否定もしない。相棒、それはお前のすることだ』

 

 頭の内のドライグが、優しくも厳しい言葉を掛ける。

 

(――だよな)

 

 選んだからには今後の責任を背負わなければならない。それがどのように圧し掛かってくるかは分からないが、今は取り敢えずオカルト研究部の仲間たちが一緒にいることの幸福を噛み締めたい。

 

(そういや、間薙の奴、どう――)

「イッセー!」

 

 ゼノヴィアの鋭い声が飛ぶ。同時に、腹部に軽い衝撃があった。初めは何も感じ無かったが、やがて熱に、熱の次は痛みに、痛みの次は激痛と化し、一誠は片膝を突く。

 

「ぐ、あ……」

 

 腹部を見る。脇腹の辺りに五百円玉程の円形が鎧を貫いて出来ており、その穴から白煙が出ている。一度この身に味わったことがある。出来た傷は間違いなく光の力によるもの。

 

「未熟なドラゴンに一つ助言を送ろう」

 

 神殿奥から誰かがこちらに向かって歩いて来る。

 

「戦いの場では気を抜くな。勝った直後は、緊張の糸が途切れて狙い易い。感情と能力が直結している神器使いは特にな。今の貴公の鎧、脆いぞ」

 

 黒い軽鎧を装備した冷ややかな気配を纏う美丈夫、シャルバ・ベルゼブブはリアスたちを見渡して、冷笑を浮かべる。

 

「尤も、これから死に行く貴公らには無駄な言葉だったかな?」

 

 

 




気付けば百話目の投稿になりました。
今後もこんな感じで書いていきます。

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