ゲームが始まり時間が経過していく度に新たなアナウンスが聞こえる。それが聞こえる度にアーシアは体を硬くし、朱乃は見えない角度で衣服を強く握り、リアスは表面上平静だが内心穏やかでは無かった。
相手の下僕ならば一先ず安心し安堵の息を吐くが、自分の下僕がリタイヤを聞くと暗い気持ちになると同時に、リタイヤした者の分まで戦わねばという気持ちも湧く。
『ソーナ・シトリー様の『女王』一名、リタイヤ』
ソーナ側の最強格の駒を落としたという報告が頭上から告げられると、朱乃とアーシアは喜びを露わにする。リアスも心の裡では歓喜するが表情には出さなかった。自分まで素直に喜んでしまうと無意識に油断をしてしまうかもしれないと思ったからだ。
『王』という立場は皆が寄り掛かれる精神的支柱であると同時に、常に平常心を心掛けることで、どんなときでも下僕たちに冷静さを取り戻させる為の楔でもあるべきだとリアスは思う。
すると、通信機に木場からの連絡が入る。
『聞こえますか? 部長』
「ええ。聞こえているわ」
『真羅先輩を落としました。これからどう動きましょうか?』
「よくやったわ。貴方の方は大丈夫なの?」
『はい。多少は傷を負いましたが、まだ戦えます』
このとき、リアスは木場の言葉に若干の違和感を覚える。付き合いが長いこともあって、木場の言葉に嘘の気配を感じとっていた。
恐らく、多少では済まない程の傷を負っている可能性がある。
「――本当に大丈夫なの?」
念を押す様な質問に、木場が通信機の向こう側で言葉を少し詰まらせるのが分かった。
少し間を置いて、木場は椿姫たちとの戦いで何があったのかを簡単に説明した。ソーナの眷属の一人が『反転』という神器らしきものを使用したこと。その『反転』により聖の気を流し込まれたこと。
「アーシアの回復を受けた方が良いわね」
『――そうかもしれません』
天使や堕天使の光の毒ではなく、魔を反転させて出来た聖の気。前者はアーシアの『聖母の微笑み』で回復出来るが、後者はどうなるか分からない。通常の効果を発揮するかもしれないし、効果を阻害される可能性もある。
『一旦こっちに戻れる?』
木場は少し黙考する。
『途中で合流しませんか?』
「いいの? 貴方、怪我をしているのよ?」
『寧ろ、それで相手を釣れるかもしれません』
木場の自分を危険に晒すやり方を素直に認める気にはなれなかったが、逆に却下するのも木場の士気に関わる。
リアスは苦渋の選択の末、木場の意思を尊重することにした。
「――分かったわ。私たちも相手の本拠地を目指して前に出るわ。今が攻める時かもしれないわね」
ゼノヴィアが倒され、木場が負傷していることから、オフェンスの力は大分弱まっている。まだ一誠と小猫が居るが、前線にシンがいることを考えると、戦力を出し惜しみしている場合では無い。
「祐斗、今はどこにいるの?」
『一階の立体駐車場です』
「じゃあ、私たちも一階に向かうわ。合流場所は――」
朱乃がリアスの前で見取り図を開く。それを見て選んだ場所は――
「一階の中央広場で落ち合いましょう」
『分かりました。じゃあ、中央広場で』
東と西に置いてある本陣の丁度中央にある地点がこの中央広場であった。
場所を指定し通信を終えると、朱乃とアーシアを見る。
「聞いていたわね。これから私たちは――」
『リアス・グレモリー様の『戦車』一名、リタイヤ』
相手の『女王』を倒したことで上がった士気。それに乗って進軍しようとした矢先に冷水を浴びせる様なアナウンスが聞こえてくる。
「そんな、小猫さんが……」
口を押えながら動揺を露わにするアーシア。小猫が心配なのは勿論だが、彼女に同行している一誠もまた、危機的状況になっていてもおかしくない。そう考えた一秒後には一誠脱落の報せが聞こえるのではないかと、後ろ向きな想像をしてしまう。
「小猫……」
憂いを帯びた表情を見せるのは一瞬。すぐにリアスは表情を引き締める。前線に送ったオフェンスの駒はこれで二つ落ち、戦力の半減を意味する。
「すぐに動くわ。いいわね? 二人とも!」
一秒でも早くここを発つ理由が出来た。
「ええ」
「はい!」
間髪入れずに返事が来る。アーシア、朱乃も同じ気持ちらしく、居ても立っても居られない様子であった。
一同は中央広場を目指す。だが、焦る気持ちとは裏腹に三人は急ぎ足では無い。たとえ気持ちが逸っていても注意を怠り不用心な真似はせず、常に周囲に気を配り罠や待ち伏せなどに警戒する必要がある。
仲間を助ける為に動いた筈が、返って仲間の足を引っ張ることになったら目も当てられない。
そんなに離れた距離ではないというのに、警戒して動くだけでこうも遠くへ感じる。心を削る様な進軍であった。
すると頭上から微かに音が聞こえる。アナウンスが報せる前兆であり、それが聞こえたとき、リアスたちの動きが固まる。
『ソーナ・シトリー様の『兵士』、一名リタイヤ』
アナウンスが告げたのはソーナ側の脱落であり、それを聞いて皆ホッと息を吐く。
ソーナの『兵士』は二名。その内一名は既にリタイヤしており、今の放送で『兵士』は全滅である。本陣に入れば様々な駒の特性をプロモーション出来る『兵士』がいなくなったのは大きい。更にソーナの下僕の中でも一、二番目に厄介だと思っていた匙が脱落したと分かったことも、リアス側にとっては追い風であった。
その時リアスは体、それも胸の辺りに何かが通過していく様な感覚を覚え、反射的に胸を手で押さえてしまう。悪意のある感覚はしなかったが、良いものとも言えない。見ると朱乃とアーシアもリアスと同じ構えをしている。
「貴女たちも感じたの?」
「はい。何だったんでしょうか……」
「嫌な感じはしなかったんですけどね……」
良く分からない事態に三人は少し戸惑う。
それから少し後のことであった。通信機に連絡が入る。
『――部長』
「イッセー!」
連絡を入れたのは一誠であった。彼が無事と知り、リアスたちは何度目かになる安堵の息を吐く。
「今、何処にいるの? 怪我はしていない?」
『今すぐ、屋上に向かって、下さい。そこに、ソーナ会長が、います』
途切れ途切れの喋り方。何かを言うという単純な動作すら、苦痛を伴っているようであった。
「どういうこと? 何故貴方がそれを? それより貴方、大丈夫なの? もうすぐそこに祐斗が――」
『お願いです。俺を、信じて、屋上へ。これが、俺が出来る、最後の精一杯、です』
間も無くリタイヤするであろうと自ら告げる一誠に、リアスたちは言葉を失う。
『アーシア、部長たちの、回復は、任せた』
「は、はい! 朱乃さんも部長さんも全部治します!」
『頼んだぞ――朱乃さん』
「――はい。聞こえていますよ」
『約束を、守れなくて、本当に、本当にすみませんでした!』
レーティングゲーム前に交わした、朱乃が堕天使の力を使う所を見守るという約束を果たせないことに心の底から謝罪する。その声は、自分への不甲斐無さで震えていた。
『約束を、守れなかった俺が、こんなことを言う資格なんて、無いかもしれませんが、どうか、アーシアと部長を、守って下さい……! お願いします!』
自分がもう誰かを守る力が無いことは分かっている。アーシアに身を守る術は無く、リアスは『王』として最後まで守り抜く必要がある。故に二人を守ることを朱乃に託す。
約束を破った自分がこんなことを願うなど、烏滸がましいと自覚している。だが、それでも託すことしか出来ない。朱乃の返事が例え拒否でも、恨む気持ちは無い。
「分かったわ。イッセー君。二人のことは私に任せて下さい」
『ありがとう、ございます!』
「だから、悔いが残らない様に安心して全力で戦って下さいね?」
『――はい!』
通信が切れる間際の一誠の返事は安堵に満ち、はっきりしたものであった。
「朱乃?」
「はい? 何ですか?」
リアスが朱乃に声を掛ける。彼女はいつも通りであった。
「貴女、大丈夫なの?」
朱乃は眉を下げ、僅かに哀しみを混ぜた笑みを浮かべる。
「本当を言うと、少しだけ寂しい気持ちがあります。でも、私、イッセー君ともう一度約束しちゃいましたから」
「その、もう一つの約束のことなのだけど……」
「大したことじゃありませんわ。お気になさらず」
「そうなの?」
堕天使の力を使うという約束をリアスの前で敢えてぼかす。彼女にこのことを言えばきっと気を使う。その優しさに甘える訳にはいかない。
「このままイッセー君が言った通り、屋上を目指すということでいいですか?」
「そうね。詳細は語らなかったけどわざわざ知らせてくるということは、イッセーなりの根拠が有る筈よ。ここはあの子を信じて屋上を目指しましょう」
一誠の言葉を信じ、屋上を目指すことにする。木場にもそのことを連絡するがどういう訳か返事が無い。
「祐斗? 聞こえる? 祐斗?」
もう一度呼び掛けるが返事は無く、それどころか通信機そのものが切られた音がした。
「もしかしたら敵と接触したのかもしれませんね」
「……取り敢えず私たちだけで屋上に向かいましょう」
『リアス・グレモリー様の『兵士』、一名リタイヤ』
行こうとした矢先、一誠脱落が知らされる。事前に声を聞いていた為、こうなることは分かっていた。受け入れる準備も出来ていた。だが、どんなに身構えようとも歯を食い縛ろうとも、受ける痛みや衝撃が消える訳では無い。
「――行きましょう」
この中で最初に口を開いたのはリアスであった。他人が見ればその内にどんな感情が渦巻いているのか悟らせないほど、表情から感情を排し冷静な態度を見せる。
「……はい!」
表情から分からなくとも同じ心境であると理解しているアーシアは、気丈に振る舞うリアスを見習い、いまだ声を動揺で震わせているも立ち止まらない意思を見せる。
そして、朱乃もまたリアスに応えようとし口を開く――
「朱乃っ!?」
――かと思いきや、いきなり羽を広げて飛び出した。
突然の行動に驚きを隠せないリアスであったが、朱乃の飛ぶ方向を見てその疑問は解消される。
吹き抜けの通路の向かい側にソーナの『僧侶』である花戒桃がいた。他に眷属の姿は無く単独で動いていること、『僧侶』という特性を考え魔術か結界でも仕込みに来たのかもしれない。
そして何より花戒はまだリアスたちの存在に気付いていない。
朱乃の動きはまさに迅速であった。木場や一誠といった存在、また朱乃が魔力による攻撃を主としていることで隠れがちであるが、彼女は悪魔の駒の中で最強の特性を持つ『女王』を宿す者。個々の力は一誠たちに引けを取らない。
飛翔する朱乃は、魔力によって風の流れを変え更に加速する。花戒が朱乃の存在に気付いたとき、既に彼女は通路の縁に優雅に腰を下ろし、華やかな、それでいて寒気立つ微笑みを浮かべていた。
「会長は屋上ですか?」
「何――」
そこまで言い掛けて花戒は自分の失言に気付き、口を無理矢理閉じる。しかし、そこまで聞ければ朱乃には十分であった。今の言葉でソーナが屋上に居るという確証を得た。尤も朱乃は、一誠の言葉を信じていないから花戒にわざわざ聞いたわけで無い。
狙いは一つ。花戒の動揺を誘うこと。
体術だろうが魔術だろうが、ある程度の心の余裕が無ければそれこそ体に染み付く程の鍛錬でも行わない限り咄嗟に出ることは無い。
朱乃は質問と同時に、花戒の胸に人差し指を突き付けていた。自分の失言に気付き、そして朱乃の指先が当てられていることに気付いたときには、もう遅い。
「ありがとうございます」
魔力による防御を行うよりも速く朱乃の指先から雷が放たれ、花戒の体を貫く。体内で暴れる雷により、花戒はその場で仰け反った後に光に包まれて消失した。
『ソーナ・シトリー様の『僧侶』一名、リタイヤ』
雷を操ることから『雷の巫女』と呼ばれている朱乃。だが、今回はそのイメージを覆す様な雷が如き行動の速さを衆目に見せつけた。
迅速な対応を見せた朱乃は、微笑みを消して哀しみの表情となる。出来ればこれを一誠に見せたかったという思いからであった。
一誠が約束を守れなかったことを裏切られたとは思っていない。あの必死な声から、一誠がどれだけ一生懸命戦っていたのかが伝わってきた。全力を尽くした彼に裏切りを感じるなど薄情が過ぎる。
(……あ、そうだわ。私が約束を守り通したら、イッセー君に何かお願いしちゃおうかしら)
一誠との最後の約束のことを思い、何をお願いしようかと少し明るさを取り戻して前向きなことを考える。
一誠を赤面させたりドギマギさせるお願いを色々と考え、一人クスクス笑う朱乃。そんな朱乃を遅れてきたアーシアとリアスが少し離れて場所で見ていた。
「――何か朱乃さん、楽しそうですね」
「ほら。朱乃ってドSだから」
変な勘違いをする二人に気付かないまま朱乃は少しの間、楽しい未来へ思いを馳せていた。
◇
『ソーナ・シトリー様の『兵士』一名、リタイヤ』
屋上で匙の敗北を告げられたとき、ソーナの表情は変わらなかった。しかし、側にいる『僧侶』の草下憐耶は、匙の負けを知った瞬間、ソーナが強く拳を握り締めていたことに気付いていた。
匙が一誠と戦っているのは魔術によって知っていた。その為にどんな無茶をしたのかも。
ほぼ同じ時期に転生悪魔になり、同じ『兵士』、ドラゴンを宿した神器を持つ二人だが、そこで明確な差が出た。
只の嫉妬ならばここまでの執念を見せない。嫉妬と同じくらい、一誠のこれまでの戦歴や性格に匙は敬意を抱いていた。だからこそ命以上のものを懸けて戦いに挑み、そして敗れた。
敗れた匙が今、どんな感情を抱いているのかソーナには分からない。
だが一つ確かなことは、匙の顔を見た瞬間、自分のしでかしたことの責任の重さをきっちりと教え込む。
ソーナは握り締めていた拳を開き、音を鳴らしながら指を小指から順に曲げ、曲げ終わると親指から立てていく。
近くで見ていた草下はその無言の圧力に気圧されていた。
(きっちり教え込んだ後に――)
『リアス・グレモリー様の『兵士』、一名リタイヤ』
(――少し褒めてあげましょう)
指を鳴らすのを止め、ソーナは硬かった表情を少しだけ柔らげた。
「元ちゃんやりましたね! 大金星ですよ!」
一誠とほぼ相打ちという匙の戦果に草下ははしゃぐ。赤龍帝、それも禁手を発動させた相手に勝つことは、草下の言う通り大きな戦果であった。
ソーナは内心で匙の結果を喜びつつも、思考はリアスたちの今後の動きについて予想していた。
前線に送った『兵士』『戦車』『騎士』の三つが落とされたことで、リアスたちが前に出て来ることは間違いなく。既に本陣に向かっている可能性もある。
それを見越して、前に送った花戒には後方に待機している草下と協力し、特殊な結界を張る様に指示を出してある。
結界内に本物とほぼ変わらない立体映像を映し出す結界。これを用いて少しでもリアスたちを消耗させる。更にシンとも無事合流できればシンの攻撃力と結界の攪乱が合わさり、かなりの相乗効果が得られると考えていた。
指定した場所に花戒が到着すれば連絡が入って来る筈だが――
『ソーナ・シトリー様の『僧侶』、一名リタイヤ』
アナウンスにソーナは息を一つ吐く。
「そう簡単には思惑通りに行きませんか」
ソーナはあくまで冷静を貫く。『王』である自分が少しでも動揺する素振りを見せればたちまちそれが味方に伝播してしまう。
現に草下はソーナの表情を窺う様に何度も視線を送って来る。ソーナはいつも通りの態度で草下に指示を出した。
「結界の方は、私と貴女で張ります。桃がリタイヤしたとなると、貴女に前に出て貰うことになるわ。憐耶」
「はい」
前線に送られることに草下は躊躇うことなく頷く。
「貴女は少しでも早く間薙君と――」
そこまで言い掛けた時、ソーナたちは屋上にあるドアに目を向けていた。屋上周辺には探知用の結界が張られている。そこにソーナとその眷属以外が触れたとき、結界内のソーナたちだけに聞こえる警鐘が鳴る仕組みになっていた。
今、ソーナたちの頭の中でうるさい程の警鐘が鳴り響いている。
階段を昇ってリアス側の誰かが迫って来ていた。
「会長……!」
「予定変更よ。ここで迎え撃つ」
何も無い筈の空間に水が集まり始め、瞬く間に二メートルを超える水塊となった。魔力による水の操作により、デパート内にあるありとあらゆる水が、ソーナの意思一つでコントロールされる。
階段から足音が聞こえる。段々と近付き、ある一定の所で止まった。そして、ソーナが見ている前でドアノブがゆっくりと回され、ドアが開こうとする。
その瞬間、ソーナは集めた水塊をドア目掛けて放つ。
トン単位の水を圧縮したことでその破壊力は、直撃すれば受けたものの原型が留まることはまず無い。
圧壊の水がドアの向こうの人物をドアごと吹き飛ばそうとしたとき、ドアに備わっているガラス窓越しに紅い光が見えた。
紅い閃光が放たれたかと思えば水の塊が、音も無く、飛沫も無く、痕跡も無く消失する。
跡に残るのは、円形状に綺麗にくり抜かれた屋上の出入り口と、そこで片手を突き出した構えで立つリアス・グレモリー。
「出会い頭にこんな挨拶をしてくるなんて、少し過激になったんじゃないかしら。ソーナ?」
「私としては少し後悔しています。――もっと強めにしておけば、と」
双方不敵な言葉を交わす。
滅びの魔力で消し去られた出入り口から一歩前に出るリアス。その後ろから朱乃とアーシアがついてくる。
「もう! いきなり前に出るなんて危ないですわ! 部長!」
「ごめんなさい。ソーナの魔力を感じたからもしやと思って」
「私には部長とアーシアちゃんを守る責任があるんですからね!」
リアスの行動に本気では無いものの怒った態度を見せる朱乃。取られたら負けという『王』という立場から、もう少し自重して欲しいという願いからであった。
ソーナはリアスたちを一瞥する。
「ようやく生身の貴女と顔を合わせることが出来たわ」
「全員来るかと思っていました」
「祐斗が気になる? ならきっとシンと戦っているんでしょうね」
「そうですか」
ソーナからすればそちらの方が望ましい。アーシアは治療担当から攻撃に参加する可能性は極めて低い。となると戦うのはリアスと朱乃の二名。ここに木場が加わっていたら、三対二という数として不利な状況になっていた。
「まさか真っ直ぐ屋上に向かって来るとは思いませんでした」
「イッセーが教えてくれたのよ。貴女が屋上に居る、と」
「イッセー君が?」
意外な名前が出てきて、ソーナは表情を僅かに変化させる。一誠はそういった索敵能力は極めて低いと分析していた。仮に位置がばれるとしても、気を扱う小猫辺りだと考えていたので予想外のことである。
「ソーナ、どうして屋上に?」
「簡単なことです。『王』は最後まで生きること。それが役割であり責任です。『王』が取られたらそこでゲームは終わってしまうでしょう?」
それを肯定するかの様に草下がソーナの前に出る。それに応じて朱乃もまたリアスの前に出た。
本当のチェスの様に互いの駒を一手差し、向き合う『王』たちは語り続ける。
「今私がこうしてここに立っているのも、リアス、貴女と話しているのも『王』の私を生かす為に皆が尽力してくれたからこそ。良くやってくれました。本当によくやってくれました。ままならない中で私の為に動いてくれました」
「ままならない? それはこっちの台詞よ。おかげできっと私たちの評価はボロボロでしょうね。悔しいわ、貴女に一歩先行かれたみたいで――でもね」
悔し気な表情を一転させ、曇りの無い笑みを浮かべる。
「お陰で何も気にすることが無くなったわ。誰かの顔色を窺う様な必要も無い。純粋に貴女に勝ちたい、という気持ちだけで戦える」
幼い頃からの親友であり、互いに切磋琢磨し、魔力や知識を深め合ってきた。どこまでも肩を並べ、先へと進みたいとも思っている。だからこそ勝ちたいのだ。どこまでも努力し続けるソーナに、自分以外が土をつけることが許せないし、見たくもない。
エゴに満ちた思いだと自覚している。こういう考えもグレモリーの血かもしれないと、内心苦笑する。
リアスの体から焔の様に紅色の魔力が立ち昇る。それに呼応してソーナの周囲に大小の水の塊が浮き上がる。浮き上がった水の塊の形は一定せず常に形を変化させていた。
『王』同士が戦闘体勢に入ったことで、朱乃もまた魔力を解放する。朱乃から放たれる金色の魔力。それは爆ぜる音を響かせていた。
朱乃の手が草下に向けられた瞬間、落雷の如き轟音と共に雷が撃たれる。直撃すればリタイヤを免れない大出力の一撃。
しかし、草下は自分が狙われることを見越して、朱乃が雷を放つ前に両手を突き出す構えをとっていた。閃光が煌くと同時に草下は叫ぶ。
「
雷は呆気無く消え、後には空気が焦げ付く様なニオイだけ。
自分の雷を容易く消されたことに朱乃は少しだけ驚くが、それ以上動揺することは無かった。
事前に木場から聞かされていた『反転』の能力。どうやら固有のものではなく、複数存在するものらしい。ソーナもまた、この『反転』の能力が使えると考えても良い。
草下が今やったことは魔力によって発生した雷を反転させ、元の魔力に戻したのではないかと朱乃は推測する。
ならば破る方法は既に自分の中に有る。
(本当は、彼の前で見せたかったわ……)
魔力以外の力が体の中を這い上がってくる。どうしてもそれに嫌悪感を覚えてしまう。自分もまた、あの忌むべき父の血と力が流れているのだと自覚させられる。
ポタリ、と何かが衣服に落ちるのを感じた。最初はソーナの操る水かと思ったがそうではない。頬に伝わる濡れた感触。無意識のうちに朱乃の片目からは涙が流れ落ちていた。
強過ぎる嫌悪感から来る涙か。自分の決意を見守ってもらおうとしていた一誠の不在か。あるいはもっと別の――。
そこから先を考えるのを朱乃は止めた。今はそんなことをしている場合ではない。
朱乃が魔力を高めるのを見て、草下は再び『反転』の構えをとる。
朱乃の周辺に光の球体が無数に発生する。先程雷を放ったときとは全く別の現象であった。
その光を見た時、草下の背筋に冷たい汗が流れる。本能がその光に対し強い拒否感を覚えていた。
このままだと不味いかもしれないと草下が思ったときには既に手遅れ。浮かび上がる光球から雷が放たれる。
出力は先程と同じ。しかし、迫る数は数倍。鼓膜を通り越して脳が直接震わせられていると錯覚するほどの轟音の束。
逃れられないと分かり覚悟した草下は、『反転』に全ての魔力を懸けてそれを防ごうとする。
「反転!」
迫る雷を全て反転させようとするが、雷は消えることなく草下の体に突き刺さり、轟音と共に突き抜ける。
直撃と同時に草下の体は光に包まれ、場外へ転送された。
『ソーナ・シトリー様の『僧侶』一名、リタイヤ』
これで残すは『王』のソーナとシンだけである。
「――反転するものを違えれば力を覆せません」
朱乃の言葉でソーナは何故反転出来なかったのか悟る。
「……そうですか。光の力と合わせましたね?」
「ええ。今のが雷光。雷と光。力一つ反転させても無意味です」
朱乃の素性を知っているソーナからすれば、堕天使の力を使用したことに内心驚く。そして、この土壇場で更なる力を見せられたことに苦い気分となった。
だが、同時にこうも思う。「最初にあれが向けられたのは自分でなくて良かった」と。
草下がその身を犠牲にしてくれたことで、受ける前に、相手の手の内を一つ知ることが出来た。そのことに感謝し、リタイヤした下僕の無念を力に変える。
一方で雷光を使った朱乃は、平静を装いつつ想像以上の消耗を隠していた。肉体の消耗では無く、精神の消耗である。
見守られない代わりに約束を以って一歩踏み込んだ。克服には程遠いが、それでも自ら望んで堕天使の力を使用した。小さくも確かな前進である。
朱乃の頑張りを見て、リアスの士気も高まる。親友が心を削りながらも戦ったのだ。それに応えなければ、主として面目が立たない。
先程の朱乃の様に、リアスの周囲にソフトボール大の魔力の球体が無数に浮かび上がる。
数は小さけれど、一発一発が触れれば消滅する滅びの力を宿している。
それらの照準を全てソーナに定め、一斉に発射した。
逃げ場を埋め尽くす紅い魔弾。
ソーナは逃げることなくずれた眼鏡を直す仕草をすると、宙を漂う水がソーナの前方に集まり壁を創り出す。
水の壁に衝突する魔弾。水が紅い魔力に触れればその箇所は消失するが、当たった箇所から水が埋まっていきすぐに塞いでしまう。
滅びの力でも貫けない水の壁。水の中に大量に含まれるソーナの魔力を、リアスの魔力が完全に消し去ることが出来ない為のことであった。魔弾のどれもが、分厚く張る水の壁の半ばまでくると、滅びの力がソーナの魔力で飽和し消えてしまう。
「さて。貴女の芸を見せて貰った次は、私の水芸をとくと披露しましょう」
「望む所よ、ソーナ!」
応じた瞬間、水の壁の中から半透明の鮫が大口を開けてリアスに向かって飛び掛かる。水の魔力による変幻自在の召喚である。
リアスは水の鮫に向け指を一閃させる。指先から放たれる線状の魔力が鮫を真っ二つに裂く。
上顎と下顎の境から綺麗に二つされた鮫。するとその体が蠢き、体の表面を波立たせる。すると鮫の体の一部が球体となって飛び出す。拳大程の水の塊が空中で見る見る姿を変え、一匹の蝶と化した。それを切っ掛けに鮫の体から何百もの水の蝶が飛び立ち始める。
蝶の大群が目の前で大量に展開し、視界を阻む。すぐに魔力を撃ち出し、蝶を落とし始めるが、数が多い。
一気に消し去ろうと魔力を溜め込もうとしたとき、リアスは視界の隅で何かが動いたと感じ、その場から咄嗟に跳ぶ。
離れて気付く。自分が立っていた位置に水の蛇たちが忍び寄っていたことに。
蝶のせいで足元への注意が疎かになっていた。
標的を失った蛇たちは、透明な目をリアスに向け威嚇する様に出した舌を震わす。蛇たちは絡み合い始め一つとなる。水の塊と化したかと思えば、それを突き破る様にして今度は水の狼が群れとなって現れる。
宙を飛ぶ蝶たちもまた次々と合わさり形を変え、蝶の群れから数匹の鷹へと変化した。
魚類が昆虫に、その昆虫が鳥に。爬虫類が哺乳類に。次々に起こる幻想的とも悪夢的とも言える脈絡も規則性も無い変化。それを目の当たりにしているリアスたちは白昼夢を見せられている様な錯覚を覚えてしまう。
狼の群れが真紅の魔弾で蹴散らされる。砕け散りバラバラとなっていく狼たち。その千切れ飛んだ手足がグニャリと形を変えると、触手の様に一部を伸ばして繋がり合い、引き寄せ、集い、勇ましい獅子という新たな姿となった。
獅子は声無き咆哮を上げ駆け出す。駆けだした先に立つのはリアス――ではなく朱乃であった。
このことにリアスも朱乃も驚く。狙われたことに驚いた訳では無い。リアスとソーナの一対一の戦い。それが暗黙の了解だと思っていた。数が勝っているリアス側がやれば卑怯に映るかもしれないが、数で劣る筈のソーナの方から仕掛けたことに二人で驚いていた。攻撃してくるならば朱乃も迎え撃たねばならない。それは同時に、朱乃がソーナとの戦いに加わることを意味している。
均衡していた状況をわざわざ自分に不利な方に傾ける、ソーナの意図が分からない。
迫る獅子に朱乃は仕方なく雷光を放つ。雷と光の力は水の獅子を真正面から撃ち貫き、ただの水へと還す。
そして、そのまま返す刃の如くソーナに向け雷光を撃つ。眩い輝きと轟音がソーナに襲い掛かる。
だが、直撃する前にソーナの足元の水が隆起し、大蛇の形となるとソーナを守る為に雷光の前に立ち塞がる。
雷光を大蛇が呑み込む。雷光は大蛇の体を貫くことなく、半透明の体内で閉じ込められ、そのまま帯電した状態となった。
魔力を強く練り込んだことで可能とした荒業。事前に朱乃の技を見ていたからこそできた対策である。
雷光の力を宿した大蛇は文字通り蛇行しながら朱乃に襲い掛かる。
口を百八十度開き、牙を見せつけながら朱乃を頭から呑み込もうとする大蛇。しかし、その牙が届く前に紅の魔弾が頭部を吹き飛ばす。
頭を失った大蛇の断面から取り込んでいた雷光が飛び出し、その体を爆散させてしまう。
広範囲にまき散らされる水。すると、散らされながらも水は変化し、大蛇の体から魚の群れが生み出された。
宙を泳ぐ魚群がリアス、朱乃に牙を剥いて攻める。
滅びの力と雷光がそれらを次々に打ち落とし、今度は水滴一つ残さずに消し去っていく。
後方で待機しているアーシアは、その嵐の様な攻防に見ているだけで体に力が入ってしまう。それだけ苛烈なものであった。
二対一という不利な状況でもソーナは大量の水を自在に操り、リアスと朱乃に攻めさせず守りに徹しさせる。
零から水を生み出すにはそれなりの魔力が必要だが、既にある水を魔力で操るのは消費が少ない。一方でリアスと朱乃は自前の魔力を消耗し力を放っている。豊富な水があるという戦場がソーナの力を後押しする。
とは言っても水は有限。必ず尽きる。それまでにリアスたちを倒せる保証は無い。
しかし、既にソーナは手を打っていた。この目まぐるしい攻防こそ、その布石である。
ソーナの創り出した水のドラゴンがリアスの魔力を受け、その身を大きな水溜りへと変える。
この瞬間、ソーナは仕掛けた。
水溜りから一斉に飛び立つ水の鳥たち。羽ばたき狂った様に周囲を飛び回る。
視界全てに映り込む鳥、鳥、鳥。群れずに単独で動いている為、狙いを付け難かった。
「きゃあ!」
目の前に飛び込んできた鳥に、アーシアは頭を押さえながらしゃがみ込む。
「くっ!」
リアスは魔力が籠った手で飛び掛かってくる鳥をはたきおとす。しかし、次から次へと飛んで来るのでキリが無い。
目の前の鳥たちに意識が集中し、リアスは気付くことが出来なかった。頭上に向かって飛翔する一匹の鳥。その鳥が持つ小瓶のことを。
鳥が目的の位置まで小瓶を運んだとき、それを落とす。
鳥たちを迎撃していたリアス。そのとき、上から落下してくるモノが視界に入った。
見覚えある小瓶。リアスも知っている。フェニックスの涙が入っている小瓶である。
何故こんなものが、と思ったとき、リアスの思考は閃光の様に一つの答えを導き出した。
ソーナの眷属たちが使用した『反転』の能力。それをソーナもまた使用することが出来たら? あらゆる傷を癒す万能の薬もその性質を反転されれば身体を侵す毒へと転じる。
逃げなければ。そう思うリアスの前で小瓶に亀裂が入る。ソーナならば液体を操って内から小瓶を割るなど造作も無いこと。場を乱し、荒らすことで本当の狙いを隠す。
これが、ソーナがリアスに仕掛ける策であった。
『王』が取られたらゲームは終わる。だが、咄嗟のことに魔力で防ぐことも出来ない。やれることがあるとすれば次に起こることから目を閉じるだけ。
ガラスの砕け散る音と共に毒と化したフェニックスの涙がリアスに浴びせられる。
リアスは自分の迂闊さを呪う。
――大丈夫。
しかし、どういう訳は何も感じない。苦痛どころか浴びた感触すらない。何が起こったのかリアスが閉じていた目を開く。
「朱乃っ!」
大きく広げられた堕天使と悪魔の羽。朱乃がリアスの前に立っている。その背や羽からは白煙が立ち昇り、毒からリアスを守る為にその身を盾にしていた。
「この、羽も役に立つことが、あるみたいですね?」
血の気を失った顔に無理矢理微笑を浮かべながら、朱乃はリアスに倒れ込む。それを受け止めるリアス。傷の具合を見ると朱乃の翼は重度の火傷を負った様に爛れており、傷が見えない衣服も同じ様な状態になっているのが想像出来る。
「アーシア! 私の側に!」
「は、はい!」
すぐに指示を飛ばしアーシアを側に寄せると、リアスは魔力を頭上に向け放つ。球体であった魔力が広がり、ドーム状となってリアスたちを守る壁になった。
「すぐに朱乃の回復を!」
「朱乃さん! 待っていて下さいね!」
『聖母の微笑み』の光が朱乃を包み込む。だが、回復の速度が遅い。未だに反転したフェニックスの涙が朱乃の体を蝕んでいる為に、治癒の阻害が起きていた。
「どうしてこんな……!」
自分を守る為にその身を犠牲にしたのは勿論のこと、その為に混血の象徴であり、忌み嫌っている筈の堕天使と悪魔の双翼を衆目の目に晒したことをリアスは問わずにはいられなかった。心身共に傷付くことなどして欲しくなどなかった。
「気付いたときには、動いちゃいました。羽を、広げないと、貴女を完全には、守れなかった」
「それなら――」
「悪魔の、羽だけって、結構意識しないと、出来ないんですよ? 咄嗟には無理です」
リアスの言いたいことを先回りして朱乃が答える。
「約束を、破りたくなかった……でもねリアス、本音を言うとね」
朱乃は、リアスを慈しむ目で見る。
「私の、親友が危なかったから、つい動いちゃった」
約束があったから身を呈した訳では無い。朱乃がリアスの危険に気付いたとき、そのことは頭から抜け落ち、ただ守らなければという思いだけがあった。
リアスは朱乃の言葉を聞いた瞬間、朱乃の手を取りその手に額を当てる。まるで祈る様な姿であった。
深く目を閉じる。その想いを心に受け取る為に。
数秒の後リアスは朱乃の手を放し、閉ざしていた目を開く。その紅玉の様な双眸には猛々しい光が籠められていた。
「朱乃。まだ少し頑張れる?」
「……はい」
「なら見ていなさい。――私が勝つ所を」
朱乃から離れ、二人から数歩離れる。
「アーシア、朱乃のことは頼んだわ」
「はいっ!」
覇気に満ちたリアスに影響され、アーシアもまた強い声で返す。
リアスは、自分が張った防御のギリギリの位置に立つ。薄膜上の魔力向こう側には、狼、大蛇、鷹、ドラゴンなどの多種多様な水の魔物たちがリアスを待ち構えている。
リアスが体表に魔力を張ると薄膜をすり抜け、外に出る。その途端、待機していた魔物たちが一斉にリアスへと襲い掛かる。
しかし、リアスは自然な動作で両手に魔力を溜める。瞬く間に数度繰り返される圧縮。掌には直径数センチ程の球体が作り出される。
それを胸の前で打ち鳴らしたとき、音と共に滅びの力が拡散され、襲い掛かっていた水の魔物たちがその身を崩されていく。
滅びの力の波はソーナが居る場所にまで影響を及ぼし、張っていた水の壁の三分の一がこれによって消失する。
「また一つ負けられない理由が出来たわ。このゲーム、絶対に私が勝つ!」
「そうですか。ですが、想いでも力でも私が貴女に負けていると思っていませんよ、リアス!」
互いの内にある想いを魔力に乗せ、紅の魔力は阻むもの全てを滅し、魔の水は変幻自在を以って立ち塞がる。
◇
『ソーナ・シトリー様の『僧侶』一名、リタイヤ』
また一人、誰かが消える。
ソーナ側に残るのは自分を含め残り三名。対するリアス側は四名。本当ならば今すぐにでもソーナと合流すべきなのかもしれない。しかし、目の前に立つリアス側の四人の内の一人、木場を掻い潜ってそれを実行するなどまず無理であり、そして無謀と言えた。
「ようやく君と一対一で戦えるときが来たね」
「お互い万全とは言えないがな」
シンは左手を大きく負傷し、更には体の内側はボロボロな状態である。さっきから耳鳴りや動悸、体温の低下を感じており右足の動きもぎこちない。一方木場の方も体の至る所に切傷が出来ており、制服の所々に血が滲んでいる。特に肩に大きな負傷があるらしく、そこから流れ出る血が腕を伝わって、木場の足元に血溜まりを短時間で作っていた。
両者とも長い時間戦える体では無い。
尤もそんな負傷など木場にとっては些細なことらしく、全身からは普段の落ち着いた態度からは想像出来ない程ギラついた気を放っている。限りなく殺気に近い闘気とも呼べる。
その気に影響を受けているのか、手に持つ聖剣アスカロンとデュランダルからもより鋭い聖の気が放たれている。前までが針に刺されている様な感覚だとすれば、今は剃刀を滑らされている様な気分である。
一体いつの間に聖剣を二振りも操れる様になったのか。状況が違えばその成果を称賛するだろうが、それを向けられている今のシンには、そんな余裕など隙間一つ生まれなかった。
木場が床を滑る様に一歩出る。戦いを開始する合図など無い。しいて言えば一方が相手の姿を捉えた瞬間から戦いは始まっている。
シンは後退しない代わりに横に一歩動いた。可能な限り木場の姿を左眼内に収めておきたいからである。グレモリー眷属内最速の男の前では、瞬き一つしただけでも出遅れる。
木場は更に一歩前に出る。今度は、シンは動かなかった。五体を十分に動かせないシンは木場の動きにはついていけない。残されたのは相手の動きを待ち、迎え撃つことだけある。
木場が更に一歩前に足を踏み出そうとしたとき、異音がシンの耳に入ってくる。亀裂が生じるときの音。
このときシンは気付け無かった。木場の踏み込もうとしている右足ではなく、残っている左足元の床が割れ砕けていることに。
踏み込もうとしているこの時、既に木場は力の充填を終えていた。
右足が床を踏み付ける直前、木場は左足で床を割り砕く勢いで突いて前に出る。
木場の足運びに意識を傾けていたせいで、半歩早い木場の動きにシンの反応は遅れた。
その遅れた反応の間に木場はシンを己の間合いに捉える。
アスカロンの横薙ぎ。間合いに入れて即放たれたそれは、シンの目から見ても届くか届かないかの絶妙な位置であった。
龍殺しの剣がデュランダルの影響で聖なる気を纏っている。剣先が僅かでも肉体に埋もれば、そこから悪魔にとって猛毒である聖なる気が流れ込む。勿論魔人のシンであっても毒である。
額目掛けて奔る銀閃。その軌跡を把握しシンは動く。
僅かに上体を反らすシン。その直後にアスカロンが目の前を通過する。
ミリ単位の傷ですら致命傷に等しい中、散ったのはシンの前髪一本。それが宙で溶けて消える。
文字通り髪の毛一本程の見切りを木場の目の前で成してみせたシン。木場の目からすれば、刃がシンをすり抜けていった様に見えていた。
シンの動きに通常の相手ならば動揺していたであろう。しかし、相手は互いを知る相手。木場からすればシンが目の前でやったことなど『彼なら出来るだろう』と即納得し、前に出てくるシンにデュランダルを斬り下げるという行動に移っていた。
アスカロンを避けた直後に見計らったかの様に上から迫るデュランダル。シンはそれに向けて左の掌打を放つ。
生身で聖剣に触れることなど自殺行為。当然狙いはデュランダルそのものでは無い。狙うのはデュランダルを握る木場の手。そこ目掛け掌底を打つ。
打たれた木場の腕は一瞬だけ止まったが、すぐにシンの力を押し返し始める。
シンの左手は大きな怪我を負っておりまともに力も入らない。完全な状態なら掌打で木場の指をへし折っていたであろう。
力でシンを斬ろうとしたとき、シンは左肘を自分の膝で突き上げた。
腕と足の二つの力には木場も勝てず、腕が跳ね上がる。
隙だらけになった胴体目掛け、シンは拳を握り踏み込もうとする。
そのとき、背筋が粟立つのを感じた。この短い期間で散々殺気などを浴びせられたせいか、危険に対し勘が働く様になっている。
踏み込もうとしていた力を、そのまま真後ろに向けて放つ。絶好の機会を敢えて放棄するシン。その直後に、木場の足元から無数の刃が飛び出してきた。
後退するシンの胸元に剣の刃が掠める。衣服一枚裂いただけで皮膚にまで到達することは無かったが、飛び出してきた剣の群れはそこからシンを追う様に次々と床を突き破って現れる。
床に足が接すると同時に更に床を蹴ろうとする。無理な体勢から行ったこと、小猫の気によって内側に損傷を負っていることから足に鋭い痛みが走るが、構わず全力で蹴る。剣に串刺しにされるよりかはましだと思った。
背中に衝撃がくる。いつの間にか壁際にまで移動していた。
追っていた剣の群もシンから二、三メートル先の場所で止まっていた。剣の群の向こうでは、木場が肩で息をしている。
これ以上追撃出来ないと判断し止めたのか、それともこれ以上剣を創造出来ず止まったのか。どちらが正解にせよ最早シンにとってはどうでもよい。もう足が碌に動かない。壁に背を預けてやっと体を支えることが出来る程度。
遠距離から魔剣や聖剣を創造し、ひたすら撃ち続ければ木場の勝利は確実である。
しかし、木場は構える。彼はあくまで決着は接近戦で終わらせるつもりであった。
シンの推測通り、木場に大量の剣を創造する余力は残っていない。尤も、仮に残っていたとしても今の様に直接剣を打ち込むつもりであった。
木場はシンに勝ちたい。だが、勝ち方にも形というものがある。自分が納得出来ない勝利など上辺のものに過ぎない。
全身の疲労及び負傷。魔剣想像、聖剣創造、そしてアスカロン、デュランダルによる消耗から、全力を出せる時間は残り少ない。
『ソーナ・シトリー様の『僧侶』、一名リタイヤ』
そして、ゲーム自体残された時間も少ない。ソーナ陣営は残り二名。ソーナがリタイヤした時点でゲームは終わる。
待ち望んだ戦いを不完全に終わらせたくない。
構える木場の前でシンは大きく息を吸い、同じ量息を吐く。木場と違って構えをとらない。だが、それを無気力には見えなかった。無駄な消費を一切省き、次の動きに全てを懸けている様に木場には見えた。
「勝たせてもらうよ」
「来い」
交わす言葉は短い。次に声を上げるとき、それは勝利への歓喜の声か、あるいは敗北の嘆きの声か。そして、それを上げるのはどちらか。
その答えは間もなく明かされる。
木場はイメージする。己の足に巻き付く鎖を引き千切るイメージを。疲れと怪我という鎖からの解放。それは同時に体をこれ以上酷使すれば壊れてしまう警告でもあったが、纏わりつくそれを全て取り払う。
全力を出せるのであれば壊れてしまえばいい。その後のことなど考えない。
崩壊への一歩。同時にそれは最速への一歩。破壊の二歩。それは神速に至る二歩。
絞り出された速さは、誰の目にも映らず、誰の意識すらも追いつけない。
シンの目に木場の姿が映り込んだとき、二本の聖剣は振り下ろされていた。
最速の動きに対しシンもまた最速の反応を以って応じる。
胴体へとその刃を走らせる左のアスカロンをシンは木場の左手首を掴まえることで止め、鎖骨付近を狙い右から袈裟切りを放つ右のデュランダルに対し、左の手刀を鍔に叩き込むことで止める。
左右から迫る聖剣を見事に受け止めてみせたシン。しかし、ここで止まらない。木場の手首を掴んでいる右手にありったけの力を注ぎ込んだ次の瞬間――鈍い音が外にも、そして木場の体の内にも響き渡る。
歪に変形する木場の手首。シンが握力のみで手首の骨をへし折った。
木場の顔に汗が浮かび始める。痛みで叫んでもおかしくはないというのに、木場はそれを奥歯ごと噛んで押し留めていた。
だが、いくら気丈に耐えても肉体は言うことを聞かず、木場の手からアスカロンが滑り落ち、地面に向け落下していく。
残す聖剣は一本。そう考えるシン。この時、反射的にシンの意識がデュランダルへと向けられる。
この愚は、大きな代償として我が身に襲い掛かってくるとも知らずに。
落下していくアスカロン。その柄頭を木場が足の甲で蹴り上げる。蹴り放たれたアスカロンは、シンの右腕を貫き、背後の壁に刺さってシンの右腕を磔にする。
腕に熱の様な痛みが駆け巡るが、シンもまた呻き声一つ洩らさなかった。それどころか、木場の手から離れているアスカロンには聖の気が宿らないことが分かり、運が良かったとすら思っている。実際、聖の気が宿っていたらこの時点でシンの敗北は決まっていた。
右腕の自由を奪われ、残るのは負傷している左腕のみ。それも木場のデュランダルに押されつつある。
木場は折れた右手もデュランダルの柄に押し当て更に圧を強める。
迫る聖剣の刃。
すると、シンは磔にされている右手の五指を曲げ、その右手を木場に向かって振り下ろそうとする。その攻撃は突き刺さったアスカロンが阻み、壁から数センチほど腕が離れただけであった。
失敗に終えるとシンは腕を壁に接しさせ――再び振り下ろす。今度は十数センチ前に出た。
失敗すれば壁に接しさせもう一度振り下ろす。傷が大きくなる度に、アスカロンの剣身が赤く染まっていく度に、シンの攻撃が木場へと迫っていく。
自らを省みない痛みなど一切無視した自傷行為に等しい、繰り返される攻撃の失敗。
間近でそれを見せつけられる木場。その頬に散った血が浴びせられる。
突き付けられる行為に、木場もまた行動を以って答える。
デュランダルに押し当てられた右手を更に強く当てる。歪さが増す木場の右手。
両者の頭の中で痛みという命に対する警鐘が喧しく騒ぐが、二人は自分のしていることに一切手を抜かない。
これは我の見せつけ合いであり、覚悟の見せ合いでもある。
怯んだ方が、臆した方が、躊躇った方が負ける。
徐々に壁から抜けていくアスカロン。シンの衣服に触れる寸前のデュランダル。
あと数センチ、あと数ミリで勝負は決する。
勝つのは己だと信じ、互いに身を削り合う。
やがてアスカロンが壁から完全に抜け、開かれた鉄の爪が木場の頭部に繰り出され、木場は最後の一押しの為に右手を振り上げた後柄に向けて振り下ろす。
勝負の行方は――
『ソーナ・シトリー様のリタイヤを確認。リアス・グレモリー様の勝利です』
――アナウンスによって告げられた。
シンの右手は木場の側頭部に触れる直前で止まり、木場の振り上げた右手も柄に打ち付けられる前に止まっている。
視線が合う二人。すると木場は苦笑を浮かべた。
「残念」
「こういうこともある」
最後の決着を告げる前と同じ様に短い言葉を交わし、シンと木場は退場用の白い光に包まれるのであった。
リアス・グレモリー ソーナ・シトリー
B R×
N× P
N× N
N P×
N× Q
R R×
P× P×
Q× B
Q× B
K K+
K# K
1 - 0
見る方によっては不完全燃焼に思われますが、今回はこの様な結果にしてみました。
次回でようやく五巻話が終わります。長かったー。