自主、朝練
どうしてこうなったのだろうか。心の中でその言葉を何度も反芻する。
どうしてこうなったのだろうか。俺たちはやるべきことをやっていただけであった。間違えたという選択も後悔も無かった筈なのに。
最初から掌の上で踊らされていたのだろうか。それとも何もかも利用された挙句が今なのだろうか。
どうしてこうなったのだろうか。短い人生の中だが、これ程戦意が湧かない戦いは後にも先にも無いだろうと確信出来る。戦いそのものに嫌気が差してしまうというのに、俺は絶対に負けてはならない。
──負けてはならない、この言葉は正しくない。
これから挑む戦いに勝者はいない。俺もあいつもこうなってしまった時点で負けている。勝っても負けても敗北者であり、真の勝者はあの高笑いの声の主なのだ。
「……きっとお前は後悔する」
自分にも相手にも向けた言葉。最悪の未来を阻止する為に、最善の選択であると自らに言い聞かせて為に。
「そうなる前に俺がお前を殺してやる──イッセー」
これから俺は戦友と殺し合う。
◇
「よーよー。随分と出世したみたいじゃねぇか、曹操よー」
五分刈りの頭にアロハシャツ、丸レンズのサングラスに首には数珠というどう言い繕ってもチンピラにしか見えない男が曹操へ気さくに声を掛ける。
曹操はその男を見て一瞬硬直したが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「これはこれは帝釈天様。『禍の団』の支部へようこそ」
丁寧な作法でチンピラ風な男──帝釈天を迎え入れる。
「いらっしゃるのなら迎えの者を寄越しますのに」
「はっ。世間を賑わすテロリスト様と仲良くしている姿を誰かに見られたら事だZE」
(乗り込んで来ておいて良く言う)
上辺は笑っているが、内心では帝釈天の突飛な行動に強い警戒心を抱いている。
「それと警備はもうちょっと厳重にしておいた方がいいぜぇ~? 俺様みたいに散歩がてらに入れちまうんだからなぁ~HAHAHAHA!」
(ゲオルクの霧とレオナルドの探知用モンスターで何重にも警備していたんだけどね……)
神滅具二つでも捕捉することが出来なかった帝釈天。改めて人と神との間にある格の差を見せつけられているような気分になる。
「──それで? 俺に何か話でもあるんですか?」
「昔のよしみで少し忠告を、な。……曹操」
空気の圧が一瞬で変わる。空間そのものが帝釈天という神により塗り替えられたような錯覚を覚える。
「裏でコソコソと動いているな」
「……それがお気に障りましたか?」
刹那、曹操は全身を穿たれる──幻覚を視た。何てことは無い。曹操が恐れることなく平然と返したことに帝釈天が少しだけ生意気と思っただけのこと。その僅かな怒気が曹操に死を錯覚させたのだ。
喉元に刃物を突き付けられている比ではない重圧。舌を噛み切って自害した方が楽とさえ考えてしまう。しかし、曹操はそれでも笑みを崩さない。全身から冷や汗が滲み出ていようとふてぶてしさを消さない。
それが英雄の子孫だから。それが聖槍を持つ者だから。曹操が『曹操』という生き方を選んだときから『曹操』という在り方を貫き通す。正直、賭けのようなもの。帝釈天の気分次第では曹操はこの世から跡形も無く消し去られる。
「はぁー。可愛くねぇ」
張り詰めていたものが一気に霧散する。神を前にして人間らしくない態度を貫いた曹操に、帝釈天は興醒めをしたという表情になっている。
「神様からのありがたーい小言を一つ言った所で、お前が生き方を変えるような信心深い奴だとは微塵も思ってねぇーYO! この不敬者が」
賭けに勝った。尤も、曹操は分の悪い賭けだとは最初から思っていない。帝釈天は『禍の団』のことを目障りだと思っているのは間違いない。それと同じ位に他の神話勢力も目障りに思っている。どんなに表面上は協力的であったとしても、腹の中では自分たちこそが最高であり最強だと自負している。特に帝釈天に至ってはそれを隠そうとしていない。彼の中では『禍の団』や曹操たちがまだ利用出来ると考えているのだ。
「まあ、今の所は見逃してやるよ。オーフィスが邪魔だし目障りだが、まだ俺様たちに噛み付いてないからなぁ」
「それを言いに? わざわざありがとうございます」
慇懃無礼に映るかもしれないが、曹操にとっては有り難い情報ではある。帝釈天たちが介入して来ないとなれば他に戦力を回せれる。帝釈天の言うことを鵜呑みにするのは浅慮だと思われるかもしれないが、曹操が言うようにわざわざ言いに来たということはそれなりに信用していい。
「さくっと悪魔や天使、堕天使どもを滅ぼしちまえよ。ついでに二天龍もな。神滅具同士の戦いは良い見物だ」
軽く言ってくれる、と曹操は心の中で愚痴る。やろうと思ってやれるなら既に終わっている。
「三勢力に関してはまだ時間が掛かりますが、二天龍に関しては近いうちに期待に添えるかと」
「へぇー? 何か策があるのかーい?」
「内緒です。その時が来たらお披露目します」
「HAHAHAHA! 人間が神を焦らすのか? いいZE。楽しみに待っておいてやるよー!」
帝釈天は余裕しか感じない笑い声を出す。三勢力や二天龍を倒せば次に狙われるのは自分たちかもしれないのにこの態度。尊大と傲慢に満ちた自信。だが、帝釈天はそれが許される実力を持っている。
「──にしてもだ」
帝釈天がサングラスをずらす。
「いつからそんなに過保護になったんだ? お前らは?」
曹操を指した言葉では無い。帝釈天の視線は曹操ではなくその背後へと向けられている。曹操が後ろを向くと宙に浮かぶ魔人だいそうじょうと赤い獣に腰を下ろす魔人マザーハーロットがいつの間にか居た。さっきまで何も感じなかったのに二人を認識した瞬間に魔人特有の死の気配が感じる。帝釈天と同じくこの二体もまた規格外。
「かかかか。良からぬ輩が忍び込んでいる、ましてや同盟を結んでいる曹操の許へ現れたとなれば出向くのが道理。さて、神仏はいつから盗人紛いのことをするようになったのかのう? 帝釈天殿?」
「ホォーホッホッホッホッ。神の気を感じて来てみれば、そなたであったか。神仏の気配は不快で堪らぬ。今すぐ去るか、死んでくれるかえ?」
犬猿の仲という言葉ですら生温く感じるぐらいに互いを忌み嫌っているだいそうじょうとマザーハーロットが肩を並べている。この二人でも帝釈天相手では不仲を一旦忘れて警戒する程であった。
「クソ坊主が神仏に説教か? 偉そうに。よー、淫売。相変わらず体だけは良いな、体だけは。一回ぐらいなら抱いてやってもいいZE」
神から魔人への侮蔑と挑発。
「かかっ。神仏に念仏を唱えても無意味よ──馬や猿と同じじゃのう」
「戯言を。そなたには妾の肌に指一本触れる資格もないぞよ」
挑発には挑発を以って返すのが魔人の流儀。互いに言葉だけで人を殺せそうな程の悪意と敵意が渦巻く。その間に挟まれている曹操。顔色を変えずその場に留まり続けるのは流石としか言いようが無い。
「──全く。曹操は小生意気だが、お前ら魔人共はそういうレベルじゃねぇなー、ホント。天に向かって唾吐くなんざ……魂ごと消されても文句は言えねぇよなぁ?」
「いつまで上から見下していられると思っているのかのう……その驕りの代償は痛みだけでは済まぬぞ?」
「やってみるといいぞ。その前にそなたの魂が穢れ尽すだろうて」
「言うねぇ……何なら三対一でも俺様は構わないぜぇ?」
だいそうじょうが握る数珠が擦れた音を出し、赤い獣は主に代わってその七頭で牙剝き威嚇する。帝釈天は魔人二人を前にしても臆する様子は無く、纏めてかかって来いと尊大さを崩さない。
(やるのか……ここで……!?)
曹操もまたいつでも聖槍を顕現させる準備をしているが、心の内では焦燥している。『禍の団』の総戦力を用いても帝釈天に勝てる保証は無い。そもそも、事前の策や準備無しで戦うような相手ではないのだ。
空気そのものが重みを増したかと錯覚する重圧感。戦いが始まればこの周囲は人も土地も消滅することはまず間違いない。
曹操がこの状況をどう変えようか必死になって頭を働かせていたところ、突如前触れもなく戦闘前の緊迫感が消失した。
「阿保らし。俗なテロリスト共と違って俺様は色々とやることがあるんだよ。お前らと違って世の為人の為に、なぁ?」
「どの口がほざくか……」
「笑えぬ冗談よ」
互いを小馬鹿にした発言。敵意は健在だが殺意の方はすっかりと消えており、急な展開に曹操は話についていけない。
「んじゃ、言いたいことも言ったし俺様は帰るわー。暴れるなら俺様の知らない所で暴れろよー。じゃないと消すぞ?」
朗らかに物騒なことを言い残す。勝手に来て勝手に去ろうとしている帝釈天の行動に曹操は目を瞬かせた。すると、その瞬きの間に帝釈天は姿を消してしまう。文句の一つを言う前に居なくなってしまった。
今の時間は何だったのだろうかと曹操には珍しく呆けてしまう。それぐらいの緊張感を強いられていたので無理もないことではあるが。
「曹操よ。こちらは進んでおるが、そちらは何か変化はあったのかのう?」
「……ヴァーリが何か行動を起こそうとしている。アザゼルと接触した形跡を見つけた」
「ほう? 飼い慣らせんと思っていたがいよいよ牙を剝くときが来たか」
何事もなかったかのように話し掛けて来ただいそうじょう。曹操は半ば自動的にそれに応じる。
「ホォーホッホッ。何やら企んでいるようだが、妾は好きに動かせてもらうぞえ」
あまり自主的に行動しないマザーハーロットだが、彼女も何か企んでいる様子。
「女狐め。今度は誰を食い潰す気じゃ?」
「最近、活きが良くなって戻ってきた奴がおる。きっと妾を愉しませてくれるぞよ」
「……シャルバか」
マザーハーロットが注目している人物はすぐに見当が付いた。
シャルバ・ベルゼブブ。冥界でのレーティングゲームに乱入して以降姿を消した旧魔王派の悪魔。ある日突然『禍の団』に異常なまでの魔力と風貌を変えて帰還してきた。
旧魔王派の残党はシャルバの帰還を快く歓迎し、長期間何処へ行っていたのかの詳細も訊ねていない。度重なる撃退で弱体化している旧魔王派にとっては理由はどうあれ強くなったシャルバの存在は有り難いもの故、丁重に扱っているのだ。シャルバも我が物顔で旧魔王派の連中を仕切っている。
理由はどうあれ失踪していたことに対し、少なくとも同じ旧魔王の血を引き、旧魔王派の代表とも言えるあの男が何かしら行動をとっても可笑しくないのだが、何故か今回に限って沈黙をしている。普段は不快な程に騒がしいというのに。
曹操は『禍の団』の勢力図が再び変わろうとしていることに懸念を抱いているが、マザーハーロットが絡んでくるとなると今後の予想は更に難しくなる。マザーハーロットは孤独な者、見捨てられた者に対しては聖母のような存在だが、それに当てはまらない者には地獄以上の地獄を見せる。天国か地獄、マザーハーロットに目を付けられということはそういうことなのだ。
「……好きにしてくれ。尤も、貴女を止めることなど出来はしないが」
「ホホホホ。流石は曹操。良く理解をしておる」
「あまり甘やかすな、こ奴を」
実質曹操の許可を得たに等しいのでマザーハーロットは上機嫌に笑うが、だいそうじょうの方は苦々しい様子で苦言を呈する。
魔人二人を御することなど出来ないと曹操は自覚している。魔人たちの行動を上手く自分たちの利にする。それが最も適切な立ち振る舞いだと理解していた。
「はぁ……」
会話の区切りが出来ると曹操は重い溜息を吐く。先程積もったストレスを吐き出しているかのようであった。
「疲れているのか?」
「始まってもいないのに既にそれとは頼りないこと」
ストレスの原因たちがいけしゃあしゃあと言ってくる。
「目の前であんなことをされたら誰だってこうなりはするさ……」
曹操が嫌味っぽく言うと二人は何故か少し戸惑った様子になる。
「あんなものはただの戯れだが……?」
「帝釈天が悪ふざけをするので乗ってみただけぞよ?」
「はぁ……?」
帝釈天も魔人たちもあんな空気感を出して於いて実際のところは本気では無く互いに冗談を言っただけとのこと。上位の者たちのみが許される最高に質の悪い戯れ。
まるで自分だけが空気を読めなかったかのような雰囲気になり、曹操は今まで以上の疲れを覚えてしまう。
神も魔人も人智の及ばない遠い存在なのは知っている。しかし、今日一つだけ分かったことがある。
「神と魔人の冗談は笑えない……」
◇
ある日の早朝、シンは動きやすい服装である人物の前に立っていた。
「きょ、今日はありがとうございますぅぅぅぅ!」
向かい合うのは緊張した面持ちのギャスパー。
ギャスパーはサイラオーグとのレーティングゲーム以降早朝から自主練習を行っていた。主に行っているのは体力作りの為の走り込みと筋トレである。これはリアスにもちゃんと相談してから始めたものであり、ハードワークにならないようにちゃんとメニュー内容も事前に報せてある。
ギャスパーが鍛えるようになった切っ掛けは、やはりサイラオーグとのレーティングゲームである。ギャスパーはゼノヴィアと組んでサイラオーグの『戦車』と『僧侶』と戦い、奮戦し、最後はゼノヴィアに全てを託してリタイヤした。リタイヤ寸前まで足掻き、ゼノヴィアにエクス・デュランダルを解き放つチャンスを作った立派な成果を上げている。しかし、ギャスパー本人はそれで満足していない様子。
「あ、あの! お、お、お願いしますぅぅぅぅ!」
ある日、ギャスパーはシンに朝練に付き合って欲しいと願って来た。
ギャスパーが早朝から自主練していることをシンはこのとき初めて知ったので、何故自主練を始めたのかギャスパーに訊いた。
『ぼ、僕! 強くなりたいんですぅぅぅ!』
ギャスパーはあのときのレーティングゲームで自分の力不足を思い知った。結果だけ見ればちゃんと勝利に貢献しているが、ギャスパーはそれに納得していない。
『ぼ、僕はグレモリー眷属の男子です! グ、グレモリー眷属男子訓戒その一! だ、男は女の子をま、守るべし! グレモリー眷属男子訓戒その二! 男はどんなときも立ち上がること! グレモリー眷属男子訓戒その三! 何が起きても決して諦めるな!』
それはシンが初めて聞くものであった。グレモリー眷属男子訓戒なので協力者という立場のシンが知らないだけなのかもしれないので、誰に教えられたのか確認をしてみた。
一誠との合同特訓の際に教えられたものであり、ギャスパーはそれを胸に刻んで生きているとのこと。
暑苦しいが実に一誠らしい、というのがシンの感想であった。
ギャスパーがレーティングゲームの結果に納得出来なかった理由はこの訓戒である。最後に立ち上がれずに負けたことが悔しいと思うと同時に、ギャスパーはゼノヴィアを勝たせたかったのではなくゼノヴィアと共に勝ちたかったのだ。
これが自主練を始めた理由の一つ。もう一つの理由は、レーティングゲーム後に見た一誠とサイラオーグの一騎打ちの映像である。
ギャスパーはこの映像を穴が開くほど凝視し、何度も何度も繰り返し再生を行っていた。映像の中には彼にとっての理想と憧れが映っていたのだ。
ギャスパーに教えた訓戒通りに立ち上がり、諦めることなく戦い続けた一誠。そして、それに勝るとも劣らない漢らしさを見せてくれたサイラオーグ。自分の力不足を痛感していたギャスパーにとって眩しい程に尊く映った。
あの領域に近付きたい。ギャスパーはその為に一から体を作り直すことを決心したのだ。
慣れない体力作りに苦戦しながらも少しずつ体力を伸ばしていくギャスパーであったが、ある種の不安があった。
『この程度の練習で良いのだろうか……?』
一誠とサイラオーグの戦いはギャスパーに憧憬を抱かせたが、同時に焦燥も与えた。このままの歩みでは一誠たちに追い付けないのではないか、という不安をギャスパーは覚えてしまっていた。
そこで自らに試練を課した。それがシンとの特訓なのだ。
「あのさ~止めるなら今のうちだよ~?」
ギャスパーを心配しつつもその無謀な行動に呆れているのは唯一の外野であるジャックランタン。彼はギャスパーが過激な方へ進んで行くのを何度も止めたが、ギャスパーが意外と頑固だったのでそれも叶わず、今日という日を迎えてしまった。尚、ピクシーたちは早朝の特訓に全く興味を示さなかったので今もシンの家で寝ている。
「や、止めないよ! こ、これは、ぼ、僕が強くなるのに必要なことなんだっ!」
腰が引け、膝は笑い、顔は蒼褪めているが断固とした意志を示すギャスパーに、ジャックランタンはこれ以上言っても無駄だと悟って溜息を吐く。
「ねぇ~。ギャスパーが変な風に火が点いちゃっているからさ~。ボコボコにして頭を冷やしてくれる~」
説得を諦めたジャックランタンはシンに物騒なことを頼む。
「場合によっては、な」
シンが指を鳴らすとギャスパーは体を硬直させる。威圧の意は無かったが、ギャスパーからすればシンの言動全てが圧そのものにしか感じられない。
「……もう一度確認するが、最初の条件を変えるつもりはないか?」
「か、変えません! こ、こ、このまままままやりますぅぅぅ!」
虚勢を張り続けるギャスパーだが、体は素直に反応しており舌が回っていない。
体力作りのランニングと筋トレが終わった後に始まるのはシンとギャスパーによる模擬戦。ただし、ギャスパーは神器の魔眼は使用しない。吸血鬼の能力は使用可能である。シンの方も技は使用禁止であり素手のみ。最大の強みである『停止世界の邪眼』を自ら封じたことにギャスパーのこの特訓に懸ける意思の強さが窺える。
「こ、この眼に頼ってばかりじゃダメなんですぅぅ! き、きっと今後は相手も対策をしてくると思います! 通じないとなった時点で手遅れなんです!」
ギャスパーの言うことは一理ある。ギャスパーの魔眼は良くも悪くも知れ渡っている。見られたら体を停止させられる能力は厄介だが、事前に知っていれば幾らでも対策を講じられる。アザゼルの特訓では邪眼を鍛えることを主としているが、ギャスパーなりに先のことを考えてこの特訓をやろうと思ったのだろう。
「……そうか。ならもう何も言わない」
シンはただ佇む。構えと言えない構えであるが、両手にはしっかりと紋様が浮かび上がっている。
ギャスパーはシンの静かな圧に一瞬身震いする。今からこの人と戦う、そう考えただけで体から血の気が引いていく。しかし、既に決めたこと。後には退けない。
シンに、自分に失望したくないから。
「ラ、ランタン君! スタートの──」
「じゃあ、始め~」
「合図を! ……ってええ!?」
ギャスパーの言葉の先を読んでジャックランタンはフライングで開始の合図を出してしまう。これにはギャスパーも出鼻を挫かれてしまう。
思わずジャックランタンの方を見てしまうギャスパー。これが悪手であった。
「──あっ」
突如として暗くなる視界。何が起こっているのか理解する前に頭蓋が圧迫される痛みが襲って来る。
(こ、これって!?)
締め付けられる痛みに悶えながら自分の身に何が起こっているのか少し遅れて理解した。
ギャスパーが余所見をした瞬間にシンはギャスパーへ接近。視界に収まる前にギャスパーの顔面を鷲掴みにしたのだ。しかも、掌でギャスパーの瞼を押さえつけているので目を開くことも出来ない。事前に邪眼は使わないと伝えていたが、こういう攻略法もあるということをギャスパーに身を以って教えている。
(に、逃げ……いだだだだだっ!)
体を蝙蝠にし分裂して脱出しようとするが、シンはその前兆が分かるのかギャスパーが変身する前に一段階締める力を上げた。指先が頭蓋骨に突き刺さっているのかと思ってしまう激痛によりギャスパーの集中力は妨げられ、蝙蝠に変身が出来ない。
(ぼ、僕のミスだ……!)
ジャックランタンの合図が想定していないタイミングであったとはいえ、戦いが始まった瞬間にシンから目を逸らしてしまった。シンはキチンと合図に従って行動したに過ぎない。全てはギャスパーの油断が招いたこと。
こうなることは予測出来た筈であった。ギャスパーは先輩である三人を尊敬している。一番凄いと思っている一誠、一番速いと思っている木場、そして一番怖いと思っているのがシン。唯一畏怖しているがそれと同じ位に敬っているのも本当である。
後悔するギャスパー。不意に頭部の圧迫が消え、暗かった視界が光を取り戻す。
ギャスパーが見たのはこちらへ腕を伸ばすシン。
「最初はこれぐらいだな」
そう呟いた後、バチンという音がギャスパーの額で鳴った。
シンがやったことはギャスパーの額を人差し指で弾いただけ。拳に比べたら遥かに軽い。しかし、手加減無しな上にギャスパーが今のシンの攻撃を受けたのはこれが初であった。
額から入り右脳と左脳の間を貫き、後頭部から抜けていく衝撃。今までの人生の中で経験したことが無い痛みが情報となってギャスパーの神経を灼く。大の大人ですら仰け反って倒れる程の威力が一切の無駄なく綺麗に貫いていく。
結果、ギャスパーは立ったまま白目を剥き、ゆっくりと後ろへ倒れ込んでいくのであった。
「う、うう……」
暗闇に沈んでいたギャスパーの意識が少しずつ浮上していく。何故、自分が寝ているのか最初は分からなかったが、額から伝わる断続的な痛みが意識を失う前の記憶を蘇らせてくれる。
(ああ、そうだ……僕は……)
意気込んでシンに特訓を頼んだのは良いが、指一本で情けなく気絶させられてしまった。指で額を弾かれただけであの衝撃と痛み。シンが全力で殴っているシーンを何度か見たことがあるが、痛そう、怖いと思うだけでどんな威力かは想像出来なかった、というよりもしたくなかった。今なら百分の一ぐらいならリアルにイメージが出来る。
(うぅ……情けない……)
醜態を晒してしまったことに自己嫌悪する。シンも呆れているに違いないと思ったとき、シンが誰かと話していることに気付いた。ジャックランタンかと思ったが、声は明らかに女性のもの。
ギャスパーは目を開ける。意識が完全に覚醒し、背中の硬い感触で自分がベンチに横たわっていることが分かった。
起き上がって周囲を見ると隣のベンチでシンが黙々とおにぎりを食べている。その隣ではレイヴェルが満面の笑顔でそれを眺めていた。
「レ、レイヴェルさん?」
「あら? 起きられましたか? ギャスパー君」
レイヴェルはギャスパーが起きたことに気付くと立ち上がり、ギャスパーの隣へ移動する。
「どうぞ。差し入れです」
そう言ってレイヴェルが差し出したのは弁当箱。
「皆さんの手作りです」
蓋を開けられた弁当箱の中には卵焼きや焼き鮭などが入っている。レイヴェルの言う皆さんとは一誠宅のキッチンを任せられている四人を指し、一誠の母、リアス、アーシア、朱乃のことである。残りのメンバーはこの四人と比べると料理の腕が落ちるので主に食べる係であった。
「ギャスパー君が御一人で朝練をしていると思っていたのですが、まさか間薙様もいらっしゃるとは思いませんでしたわ。念の為に少し多めに持って来て正解でした!」
ギャスパーだけでなくシンにも差し入れが出来たことにレイヴェルは嬉しそうに興奮している。
「ギャスパー様が熱心に自主メニューを行っているのは聞きましたが、間薙様までお誘いになるとは……ですが、よろしいのでしょうか? このことはリアス様に御報せしているのですか?」
「そ、それは……」
「言っている訳ないじゃ~ん」
フワフワと寄って来たジャックランタンが言葉を詰まらせていたギャスパーの頭の上に降りる。
「むむむ……それは少しいただけませんわ、ギャスパー君」
「そうだね~。言ってやってよ~。頑張り過ぎだって~」
ジャックランタンとレイヴェルに責めるように見られ、ギャスパーは項垂れる。意気消沈した途端に額がズキズキと痛みを発していることに気付く。その痛みすらもギャスパーには自分自身が責めているように感じられた。
「あ、焦っているつもりはないんですぅ……ただ、やれることがあるんだったら、やるべきだって思って……このままじゃずっと僕は守られているだけなんです……」
一誠や木場、シンのように戦えない自分を情けなく思っているギャスパー。出来ることならば彼らのように戦いたい。しかし、それは今のギャスパーにとって叶わぬ望み。少しだけ近付きたいと思い、やや空回りしてしまっている。
半泣きのギャスパーを見てレイヴェルもジャックランタンもそれ以上彼を責めることが出来ず、助けを求めてシンの方を見た。
シンは今までの話を聞いていなかったかのように淡々とおにぎりを食べ続けていたが、最後の一個が無くなるとベンチから立ってギャスパーの前に立つ。
「あ、あの……やっぱり迷惑だったでしょうか……?」
ギャスパーは上目遣いで恐る恐る訊ねる。特訓にも成らないうちに気絶してしまった。ギャスパーはシンから失望されることを酷く恐れている。
シンは無言で手を翳す。翳した箇所はギャスパーの額の位置。先程指で弾いた箇所であり、ギャスパーが色白なことも相まって目立つぐらい赤く腫れている。
シンの掌から光が放たれる。掌の紋様とは異なる輝きの光であり、その光を浴びるとギャスパーの額から赤みと腫れが引く。
「あ、あれ?」
額の状態はギャスパー自身には見えないが、先程まであった痛みが和らいだことにギャスパーは驚いた。
「まあ! それは──」
何かを言い掛けてレイヴェルは口を慌てて閉ざす。サイラオーグとの戦いで見せた重傷からの回復のことを思わず言ってしまいそうになった。あれはごく限られた者しか知らないことであり、口外することも禁じられている。
「す、凄い! アーシア先輩と似たようなことが出来るなんて……!」
いつの間にか出来るようになっていたシンの治癒魔法にギャスパーは素直に賞賛するが──
シンは自分の掌を見た後、もう一度ギャスパーの額に手を翳して治癒の光は放つ。
「あ、あの……?」
何故シンが同じことを繰り返したのか分からなかったのでギャスパーは戸惑っている。
「……いまいちだな」
ギャスパーは賞賛したが、シン自身の評価はそれであった。
自分の体なら複雑骨折していても短時間で完全に治すことが出来るが、他人に同じことをすると途端に効果が激減する。ギャスパーに二度治癒を施したのは一回目では赤みと腫れが完全に引いておらず、二回目でやっと完治した。仲魔のピクシーの治癒よりも大分劣る。
練度が低いことが原因の一つと思われるが、今までどちらかといえば壊すことばかりやっていたので精神的な意味でも治癒に関する意識が低いのも原因かもしれない、とシンは考える。
折角使えるようになれたのだから、放置はせずに鍛えた方が良い。ギャスパーのように出来ることは一つでも増やすべきである。
なら、どうやって鍛錬するのか。答えは一つしかない。そういう意味ではギャスパーとの特訓はシンにとって丁度良かった。
「お前との特訓は迷惑じゃない。寧ろ、今の俺には必要だ」
「え? それは……どういう意味でしょうか……?」
「治癒の力を伸ばすには……やっぱり練習しかない」
しかし、傷を負っていない者には効果は無い。効果を見るには怪我人が必要。
「練習ですか……練習? ……はっ!?」
ギャスパーはシンの言葉に気付き、蒼褪める。ジャックランタンとレイヴェルも察して憐れむような眼差しをギャスパーへ向けていた。
「俺もお前も鍛えられる……一石二鳥だな、ギャスパー?」
ギャスパーの肩に手が置かれた。最早、逃げる術は無い。
「や、や、優しくして下さい……」
ギャスパーは蚊の鳴くような声を出し、数分後の未来の自分を想像して静かに涙を流すのであった。
不穏な始まりを書きましたが、何がどうなってそれに繋がるのかは先のお楽しみで。