本物のぼっち   作:orphan

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第9話

 あれから早朝のトレーニングまで追加しようとした雪ノ下を必死に制止して自主トレに留めさせたり、テニスコートの使用許可についてテニス部顧問とやりあったりと、色々些事があったものの無事に開始することが出来たのは平塚先生の助力のお陰だろう。特に顧問を説得する際には奉仕部という怪しげな部活に使わせるのを渋られた。雪ノ下の協力という決定打こそ有ったが、平塚先生の執り成しが無ければそもそも交渉にも辿り着けなかった程だ。後から戸塚から聞いた話では、今のテニス部顧問はテニス部があまりにも弱いのをいいことに、活動を縮小させようとしていたらしい。地域の進学校として知られた総武高校としては強くなる目の無いテニス部の連中には勉学に専念して欲しい、少なくともあまり熱の入れるような事にはなって欲しくないという話が有ったというのだ。そのせいかつい最近までテニス部員にさえ昼休みのコート使用許可を出していなかったと聞いた時にはらしくなく戸塚を応援してやりたくもなった。

 

 そんな顧問に使用許可を出させる雪ノ下のテニスの腕というのも未知数だが、確かに期待してもいいらしい。殆どが過去この学校に在籍していた雪ノ下の姉が、在学中あちこちで大暴れした結果の期待だというのはその時平塚先生に聞いた話だ。俺はあの悪魔の様な女を思い出さないよう話を遮ったので、具体的な逸話までは耳にしていないが、雪ノ下が人知れず拳を握りこんでいたのが見えていた。あれきり雪ノ下さんについて話題にすることも無かったが本当に姉妹仲は険悪なようだった。

 

 何はともあれ特訓が始まった。そんな出来事を瑣末な出来事とも思えるような地獄の期間が幕を開けたのだ。

 

 雪ノ下は嘘を吐かなかった。

 

「死ぬまで走ってから死ぬまで素振り、死ぬまで練習」

 

 そう言ったのは殆ど誇張抜きだったと思えるほど激しく扱かれたのだ。

 

 初日の昼休みからありったけのボールをかき集めて、ひたすら打つ、走るの繰り返し。少しでもフォームに違和感が有れば容赦なく修正し、そして容赦なく走らせた。スーパーなどで目にするカゴ3つ分を打ち終わると、球拾いをしそれを50分間只管繰り返させる。昼休みという短い時間を有効活用させるために戸塚と俺には早弁を強要し、一人楚々としながらサンドイッチを摘んでいた雪ノ下の姿を俺は一生忘れないだろう。打ち込み中、常に目標とすべきコースを指定し、僅かでも集中をが欠けばすかさず戸塚を叱責する雪ノ下の恐ろしさも。

 

 結局1時間足らずの間で戸塚と、ボール出しを続けた俺までがへとへとになり、雪ノ下には基礎体力の不足を指摘されて翌日からの早朝トレーニングメニューもその日の内に作成されたが、部活終了後帰ろうとする戸塚を捕まえて筋トレをさせた雪ノ下に鬼のような女だと思った俺を誰も責められないだろう。ぼろぼろになった戸塚にした約束。早朝トレーニングを学校で一緒にやるという約束が少しでも慰めになってくれればと思いながら、その日は学校を後にした。

 

 翌日からは日に3度のトレーニングを挟みながら、戸塚は本当に頑張っていたと俺は思う。相変わらず休み時間は寝ていたので、教室での戸塚がどうだったのかは分からないが、トレーニングに現れる戸塚はいつも元気で、自販機に飲み物を買いに行った際などはテニス部男子の先頭を切ってランニングしてる姿も目にした。

 

「ありがと。本当に来てくれたんだ、比企谷君」

 

 朝のトレーニングの為にいつもより早く登校した時は、そう言って満面の笑みを浮かべていたし(妹には彼女でも出来たのかと信じられない事を言われた。世間では彼女が出来ると登校時間が早まるらしい)。それ以降も朝会えば。

 

「おはよう比企谷君。今日もよろしくね」

 

 などと話しかけてくる。その笑顔が早朝の澄んだ空気の中であまりにも眩しく輝くものだから、危うく俺のモチベーションが上昇しかねないのだが彼は全くお構いなしである。

 

おまけに戸塚ときたら顔形から中性的だというのに、その振る舞いが輪をかけて色っぽいものだから頭痛までしてくる。

 

 太陽に焼かれてなお白く、細い首筋を汗が一雫垂れていき、誘われるままに視線が首を伝う汗と共に鎖骨に導かれると、俺は今まで他人に感じたことのない衝動に胸をざわめかせた。

 

 しかも、戸塚は何故か知らないが距離が近い。気がつくとすぐ近くで練習の汗を拭いていて、上気した頬や汗で透けた体操服とその向こうに息づいた柔らかな肉体を見せつけられているのかと思った事は数知れなかった。

 

 男にこのような感情を覚えるなど、まさに不覚である。

 

 と俺の胸中に渦巻く感情など露知らず、戸塚は練習に励んだ。戸塚自身も飲み込みはいい方らしく日に日に上達していくのが素人目にも分かった。

 

 絶望的になかった筋力も直向きに取り組んだおかげか徐々に改善しつつあるし、戸塚の依頼は順調にいっていると言ってもいいだろう。

 

 今朝のトレーニングでも初日に比べて随分とメニューをこなす回数も増えていた。

 

「腕立て30回も終わったし、次は腹筋な」

 

「うん。でも比企谷君凄いね。僕と同じ時間で50回もやるなんて」

 

「でもこれ以上は絶対に無理だし、お前より回数が多いのも単に俺の体がデカイからだと思うぞ。お前もどんどんこなせる回数増えてるし」

 

 そうなのだ。戸塚の筋力はトレーニング開始当初本当に無かった。これは体自体が細いのも原因だと思うが、腕立て伏せ10回で四苦八苦していた時は、本当に女みたいだと思ったもんだ。

 

 戸塚とは対照的に運動もしてないくせにそこそこのガタイをしていた俺が脇で50回を終わらせるのを、本当に羨ましそうに見つめていた。だからと言って上腕に触ろうとした戸塚からは距離を取っておいたが。

 

 より効率的に筋肉に負荷をかけるために腹筋運動はペアで行うように。雪ノ下からそう指示を受けて戸塚の足を抱え込む俺の眼前で、戸塚の顔が近づいたり遠ざかったりを繰り返す。

 

 大した数ではないが、戸塚にとってはまだ辛い数なのだろう。序盤こそ平気な顔をしていたが、徐々に苦しげな表情を浮かべ始め、終盤には時折苦悶の表情が浮かんでいた。もしかしたら筋肉痛なのかもしれない。

 

 何故かそれでもいい匂いがする辺り、戸塚という存在はつくづく不思議である。

 

 「テニスの方はどうなんだ? 多少でも良くなったか?」

 

 役割を交代して今度は俺の足を押さえる戸塚に問い掛ける。

 

 「うん。まだ自慢できる程じゃないけどね」

 

 男子テニス部の部員が何人か知らないが、4面しかないコートを女子テニスと共同で使用し、かつ他の部員もいるなかで練習することを考えると、コートを占有して只管にボールを打ちまくる時間はたとえ昼休み程度でも馬鹿にならないということだろう。

 

 とはいえ、こうして戸塚が練習しているというのに他のテニス部員が姿を見せないことには悲哀を感じざるを得ない。

 

 だからこそたった一人でも奉仕部の扉を叩いたのだろうが。

 

 上体起こしが終わり今度は背筋を、更にはスクワットやコアトレーニングなどに移行していく。正直な所朝っぱらから、しかも学校の始業前からやらされる運動としてはかなりうんざりさせられる類の物ばかり。だというのに戸塚はこれが始まってからまだ一度も弱音を吐いていない。俺なんか日に1度と言わず、朝のうちに1度、昼休みには2度3度、奉仕部の活動中にも1度は口にしているというのにだ。ちなみに初日以降奉仕部でその事を口にする度、雪ノ下から舌打ちと同時に「男の癖にぐちぐちと五月蝿い」というような論旨の言葉を頂いている。全くそのとおりだ。

 

 そこを見てみてもやはり戸塚という男には疑問を覚える。これだけのトレーニングを黙々とこなせる奴が何故奉仕部に来るまで同じことをしていなかったのだろうかという疑問を。

 

「比企谷君、行こ?」

 

 ああ、この天使は俺を何処に誘ってくれるのだろうか、とか阿呆な事を考えている場合ではない。首肯を返して走りだした戸塚の横に並ぶ。ここからは始業まで只管ランニングのお時間である。

 

 軽快な戸塚の足音と、ドスドスと鈍重な俺の足音が暫く横並びに響いてやがて離れていった。

 

 そんな風にトレーニングと、戸塚は余程雪ノ下の奴よりも可愛いという実感を重ねながら時間は過ぎていった。途中土日を挟んだが、俺達の行っているトレーニングの負荷はそう重いものではない。それは徒に筋肉量を増やしても、アスリートの体として不必要な筋肉まで身につけてしまっては意味が無いという雪ノ下の判断によるものだ。そしてその負荷の軽いトレーニングという物は基本的には休日を作らなくても良いものらしい。どうせ戸塚ならばやってくるだろうと考えると俺一人サボっているのも気分が悪いので、らしくなく運動をしていると小町の奴には「どうしたのお兄ちゃん、今更スポーツマンに転向? うーん小町にはさわやかなお兄ちゃんって想像つかないよ」とか言われたのもまあどうでもいい事だろう。

 

 そして週明けの月曜日。俺と戸塚は抜けるような青空の下、昼休みだというのに部活さながらのハードワークを強いられていた。何故か由比ヶ浜まで同席しており、雪ノ下が指示を出し、由比ヶ浜がボール出し、戸塚が打ち、俺が拾うという完全分業制が敷かれると、球拾いというインターバルが発生せず一際キツイトレーニング環境の出来上がりである。情け容赦のないコースを指定する雪ノ下と、それに応えるつもりが、狙いが甘いのか毎回さらにキツイコースに投げ込む由比ヶ浜という史上最悪のコンビネーションに、開始10分で戸塚の額からは汗が吹き出し、肩で息をする様になっていた。だが、その程度で手を緩めるような雪ノ下では無かった。このトレーニング風景を流行りの4Kビデオカメラで撮影するための費用と、銀行口座の残高を調べようなどと考えていた俺の目の前でついに力尽きた戸塚が倒れこんだ。

 

 幸い勢いこそ無かったが、心配する由比ヶ浜と一緒に戸塚の体を検めると膝小僧がすりむけている。「いたたた」と言って膝を撫でながらも俺達に大丈夫だと笑顔で伝えてくる戸塚の健気さに胸を打たれていると、すぐ後ろから足音が遠ざかって行く。振り返ってみれば雪ノ下が後者の方へと歩いて行く姿が見えた。

 

「雪ノ下さん呆れちゃったのかな」

 

 戸塚が何処かしょんぼりとした風に言う。

 

「あいつが? 馬鹿言うなって、マジギレした相手でも見捨てない様な奴が、あんなもんで呆れたりする訳無いだろ。なあ?」

 

「え、うん。そうだと思うけど。ゆきのん何処行ったんだろうねー」

 

 何故か棒読み気味に話す由比ヶ浜を他所にクッキー作りの時の雪ノ下を思い出す。心の底から震え上がりそうな声で皮肉を言って由比ヶ浜を詰った雪ノ下。けれど彼女はそれでも由比ヶ浜に愛想を尽かさなかった。それはきっと由比ヶ浜が自らの意思で努力することを決めたからなんだろうが、それは今の戸塚も同じだ。なら雪ノ下が戸塚を見捨てるということもないだろう。

 

 それだけ分かっているなら雪ノ下が今何処に行ったかなど瑣末な問題だった。

 

「取り敢えず水で流しとけよ。で唾でもつけたら絆創膏だな」

 

「うん」

 

「えー、絶対消毒液使った方が良いよ! ヒッキー不潔!」

 

 コートに併設された蛇口まで歩いて行った戸塚が靴を脱ぎ、靴下も脱いでから冷水に脚を晒した。どんなに折り曲げても膝を濡らせば、脚を伝って靴が濡れる。それを避けるための方策なのだろうが、土の汚れが落ちた戸塚の脚が、水に濡れ太陽光線を眩しく跳ね返す白い脚が、その足先までを完全に露出させているというのは非常になんだ、その……

 

「あははは、冷たくて気持ちいい」

 

 止めろ、止めるんだ。脚をぶらぶらさせて蛇口から放射される水を蹴ってみたり、無邪気に笑うのは。俺は有害指定ボーイ戸塚から目を逸らさんとポケットに入っていた財布からある物をを取り出した。

 

「ヒッキー何やってるの? お財布?」

 

 不思議そうな顔で見つめる由比ヶ浜。俺は取り出した物を戸塚に差し出した。

 

「ありがとう比企谷君」

 

 戸塚に笑顔で礼を言われる。礼を言われるような事でもないが、やはりこうされると俺も嬉しくはなる。照れくさくなって頬を掻く俺に由比ヶ浜が言った。

 

「お財布に絆創膏入れてるんだ」

 

「いつ怪我するか分からんからな。随分前から持ち歩くようにしてる」

 

「あ、……そうなんだ」

 

 俺の不用意な発言で由比ヶ浜の顔が曇りかけたので慌ててフォローを入れる。嘘は言っていない。財布の中の絆創膏は事故以前から入っていたものだ。しかし何故こうも怪我をした俺が気を使ってやらなければならないのか。そこだけが不満だ。

 

「よし、それじゃあ雪ノ下さんが来るまでさっきのを続けようか」

 

 タオルで汗やら水やらを拭いて靴を履いた戸塚がそう言って立ち上がった。念の為に後で保健室に行くことだけは進めておきたいが、膝の方も問題無さそうだし、練習を再開しようという戸塚の意見には賛成だ。雪ノ下が戻ってきた時に俺達が座って休んでいる所を見たら何を言い出すか分からない事も有るし。

 

「……ひどーいヒッキー。ゆきのんそこまで怖くないから」

 

「ある程度怖いってのは認めるのな」

 

「う、だって」

 

 無理もない。一言の鋭さだけを取り上げれば、三浦の吊し上げよりも鋭い一言を平然と投げかけてくる女である。怖くって当然だ。

 

 噂をすればという奴だろうか。コート入り口のフェンスが開いた音がした。雪ノ下が戻ってきたのだろう。やはり聞かれていれば無事では済まない会話をしていた所だったので慌てて振り返ったが、そこに居たのは雪ノ下ではなかった。

 

「あれー、ゆいたちじゃーん。テニスしてんの? いいな、あーしらもやろ」

 

 雪ノ下というただ話しているだけでも誰にでも緊張を強いるような女とは全く対称的に、間延びした話し方をするその女は同じクラスの三浦だった。

 

「って、げえ、比企谷。なんでアンタが」

 

 俺を発見するなり露骨に嫌な顔を見せる三浦。げえなんて今時の女らしくない台詞を吐く位には俺の事が嫌いらしい。 安心して欲しいというのも変な話だが、俺も全く同じ気分だ。そんな存在と敢えて口を聞くことも有るまい。由比ヶ浜も居ることだし、交渉役は彼女と戸塚に任せてだな。

 

 俺なりの平和安全策として三浦から距離を取る。すると三浦の関心が俺から逸れ、由比ヶ浜をちらりと見てから戸塚に向かった。

 

「ふーん、ねえ戸塚。あーしらもここで遊んでいい?」

 

 但し答えは聞かないと言わんばかりに三浦は戸塚の答えも待たずにコート内にズカズカと入り込んでくる。戸塚が断るとは夢にも思っていないという態度だ。

 

 その三浦の後ろに葉山、戸部、男子2人と海老名さんが続く。いつもの面子で昼休みの暇潰しでも探していたのだ。教室で話し込んでいれば昼休みなどあっという間だと思うのだが、この辺がリア充がリア充たる所以という奴なのだろう。刺激や遊びを探しまわるのも大変結構である。今回に限っては傍迷惑という他無いが。

 

 そう彼女こそは我がクラス、いや学園でもトップカーストに所属している三浦、みうら、三浦某なのだ。女子の平均よりも少し高めの身長。ゆるふわウェーブのロングヘアを校則違反の茶髪に染め上げ、これまた校則違反のだらしない着こなしとペンダントだのイヤリングだのと言った装飾品。その気の強さが外面に現れた鋭い目付きと、これでもかと言わんばかりの女王様気質。口を開けばあーしあーしと言う彼女はその実頭も割りと良い筈なのだが、これが彼女のオリジナリティなのだろう。あれか、強さと幼稚さが合わさって最強に見えるという奴か。そんなものがなくても十分に最強の風格漂わせし猛者なのだが。

 

 そんな彼女は少なくとも俺の先だっての紹介通り、かなり我が道を往くタイプ。彼女の中ではもう今日の昼休みはテニスの時間なのだろう。勝手知ったる様子でラケットなどが置かれた倉庫の方に移動しようとしている者もいる。

 

「え、ええと、三浦さん」

 

 戸塚が三浦に声を掛けた。三浦と戸塚の視線が交錯すると、戸塚の方が震える。雪ノ下の時も思ったが、戸塚の気も相当に小さい。俺も人の事を言えた義理ではないが。とはいえ、戸塚もその程度で引くわけもない。

 

「ああ、何? 用件が有るならさっさと言って欲しいんだけど。時間なくなっちゃうっしょ」

 

「僕ら、別に遊んでる、わけじゃ」

 

「え? 何? 聞こえないんだけど」

 

 特段戸塚の声が小さすぎるという訳でもないのに三浦が聞き返す。

 

 若年性難聴か。雪ノ下や平塚先生のように薦められる医者はいないけど、取り敢えず早めの手術をおすすめしたい。

 

 戸塚は敬老精神故か親切にもう一度言い直して聞かせた。

 

「れ、練習してるんだ。僕達」

 

 とはいえその程度では三浦は全く意に介さない。それどころか反論までしようとする始末。

 

「でもさ、部外者混じってるじゃん。ってことは別に男テニだけでコート使ってる訳じゃないんでしょ? じゃあいいじゃん」

 

 俺と由比ヶ浜を指していう三浦。葉山は彼女の後ろで困ったような顔をしているが止める様子もない。悪いけど言うとおりにして欲しいとでも言いたげな態度だ。戸部他2名の男子も非難がましい目でこちらを見ていた。

 

 無理もない。昼休みに他人が娯楽に興じている姿を見て、自分もと思うのは当然の心理だろう。しかしながら俺達にはそれを許してやる事は出来ない。本当に残念である。ああ、残念だ。

 

「それとも何? そこの2人は良くてあーし達は駄目な理由でもあんの?」

 

「えっと、そのー」

 

 三浦に正面から見据えられ、戸塚が言葉を接げなくなる。そして何故か俺の方を横目で見やるのである。助けでも求めているのだろうか。或いは由比ヶ浜の活躍を期待しようにも女王様のご下命の前に、ってか普通に首を傾げていた。

 

 そういや、由比ヶ浜は職員室に来てなかったな。

 

「悪いがお前らにここを使わせる訳には行かん。顧問から厳命を受けてるんでな」

 

「ちっ。はあ? あんたも部外者なのに使ってんじゃん」

 

 俺が話しかけるや即座に舌打ちとドギツい視線を向けてくる三浦。蛇蝎の如く嫌われているらしい。しかしどうだ蛇蝎の如くって字面が格好良くないか? 蠍はともかく蛇ってのは陰湿臭いが。

 

「俺は奉仕部ってなボランティア活動を主とする部活に所属してて、今回のこれはテニス部戸塚からの正式な依頼に基づく部活動だ。テニス部顧問からも正式な許可を受けてる」

 

「別にあんたたちが全部のコート使ってる訳じゃないでしょ? 空いてるコートも使えない訳?」

 

「ああ無理だ。ボールやらコートの管理の問題でな」

 

「別にボール無くさなきゃいいんでしょ?」

 

 諦めろと言っているのに尚も三浦は食い下がる。そんなにテニスがしたいのか、それとも単に俺の言うとおりにするのが嫌なのか。苛立ちを深める三浦はヒートアップしていく。

 

「知るかよそんな事。ボールも無くさない。コートも傷めないって顧問の長塚の所行って来い。体育教官室辺りに居るだろ」

 

 体育館の傍の小屋を指差す。そこは文字通り体育の教師が詰めてる部屋で、体育倉庫の鍵やその他体育用具の管理をしている場所でも有る。俺とて顧問が許可を出すので有れば文句はないのである。まあそんな事を言った所で許可が下りるとも思えないが。

 

「はあ? 別にいいじゃん。今だって使ってないし。意味分かんない。キモいんだけど」

 

 来ました伝家の宝刀意味分かんない。続いて最終兵器キモいんだけどであらゆる議論を捩じ伏せる最強の兵装である。対抗手段として最も有効なのは暴力である。平塚先生が俺に振るっている所をよく見るあれである。まあそもそもの原因であるテニスコートの閉鎖性はテニス部顧問長塚の物臭が原因である以上、三浦に同情すべき点が無いとも言えないので今回使用はしない方針である。

 

 かと言って、俺はこんな暴論を唱えられて腹を立てないほど器の大きい人間でもない。議論が出来ないなら罵詈雑言でもって対応すれば良いだけの事だった。

 

 そう思って口を開こうとした矢先葉山が俺と三浦の間に割って入る。

 

「まあまあ、あんまヒートアップすんなって。みんなでやった方が楽しいだろ? 今回だけだと思って使わせてくれないか?」

 

 葉山は三浦の顔を覗きこむようにして宥めると、背中越しにこちらを振り返ってそう言った。一見して三浦を止めようと話に入ってきたのに、提案が三浦の意見ゴリ押しってなどういう事だ? 俺は三浦よりも葉山のこの態度に腹が立った。

 

「お前ね、テニス部員の戸塚が長いこと直談判した結果、漸くテニス部員限定で開放されたようなコートを部外者に使われて使用許可取り消されたらどうすんだよ」

 

 総武高校の部活は軒並みさして強くないが、葉山の所属するサッカー部は別だ。葉山が入部した去年の成績は知らないが、今年は奴を中心にして随分盛り上がっているようだ。テニス部顧問の目から見てもウチで唯一県大会上位・全国を狙える部活動らしく、進学校の総武高校としては珍しい快挙達成に燃えたサッカー部顧問が朝練をしている風景はここの所のトレーニングで何度も目にしている。そこに参加している葉山とて、まあ在り得ないだろうが朝練時グラウンドの使用許可が取り消されたら困る筈だ。だから葉山は何も言えない。

 

「それとな、何がみんなでやった方が楽しいだろ? だよ。アホか。遊びでやってんじゃねえんだよ。俺は仕事だし、戸塚だって上手くなろうって必死になってやってんだ。楽しくなんかなくていい。ああ、それでも結構、みんなでやろうってんならどうぞお願いしますよ。俺がこれから顧問の所行ってきて許可取ってきてやるから存分にテニスを楽しんでくれ。但し、朝昼夕3回のトレーニングには必ず参加しろ。これから戸塚が納得するまでずっとだ。いいな」

 

 葉山は運動神経抜群だし、戸部やその他男子2人も俺よりは運動神経がいいだろう。それに風に聞いた話じゃ三浦はかなりテニスが上手いとか。俺よりも戸塚の練習相手としては望ましいだろう。こいつらが戸塚のトレーニングに参加してくれるというなら願ってもない話だ。

 

 俺は持っていたラケットを持ち替えて葉山に差し出したが、受け取ったが最後練習には参加して貰うという俺の意図を読み取った葉山はそれを受け取ろうとはしなかった。戸部やそれ以外の連中も同様である。

 

「おいどうした三浦。練習手伝ってくれんのか? それが嫌なら今から許可貰ってこい。それともまた意味分かんないか?」

 

「っ!!!」

 

 くるくるくるー、ぱー。と頭の横でバブリーなジェスチャーをしてやると三浦が激発しかかる。親父直伝のこの仕草が三浦に通じるか疑問だったが馬鹿にするニュアンスは最低限伝わってくれたのだ。が、やっぱり葉山がそれを制止する。

 

「昼休みだけなら構わないんだけど」

 

 その一方で反撃も忘れない所には感心するが。

 

「なんで俺がお前の要求を飲まなきゃならん。俺は顧問の意向に従ってるだけ。俺の代わりになるってんなら1日3回の練習。それが出来ないならコートの使用許可を取ってこいって話をしてるんだが。許可が貰えたら俺は何も言わねえよ」

 

 取引する相手がそもそも間違いである。あくまでテニスコートの利用の主体は戸塚である。この場合戸塚に申し出るのが筋だろう。それか顧問。

 

「分かった。コートは諦めるよ」

 

 取り付く島もない事を悟ると、葉山はあっさりと憤懣遣る方無い三浦の背中を押しながらコートの出口に向かって歩き始めた。彼の取り巻きもそれに逆らう様子もなく従った。唯一人異論が有りそうな三浦だったが、葉山に促されると静かにそれに任せたようだ。

 

 カシャンとフェンスが音を立てて閉じると、漸く練習の事が頭を過ぎった。緊張のせいかすっかり体は冷めてしまっていたが気を取り直して戸塚に声を掛ける。

 

「練習再開しようぜ」

 

「あ、うん」

 

 頷いてコートに走っていく戸塚。葉山の協力の申し出を俺が断ってしまったことについて、何か思う所がないか聞いてみたかったが、それよりももっと気になる事が有った。その背中から由比ヶ浜に視線を移して、謝罪した。

 

「悪かったな。お前が居るのにあんな風に言って」

 

「う、うん。でもしょうがないよ。顧問の先生に言われた事なんでしょ?」

 

「ああ、でも三浦はお前の事めっちゃ見てたけどな」

 

「ウソっ!?」

 

 気づいてなかったのか。既にいなくなった三浦が立っていた場所を見る由比ヶ浜。当然だが、今更確認そんな事をしても三浦の視線が何処を見ていたのか確認することは出来ない。だが本当である。男子はそうでも無かったが、三浦は俺に何も言わない由比ヶ浜を見ていた。俺の挑発に引っかかって激怒していたので案外忘れているかもしれないが。

 

「うわっ、うわっ……どうしよう」

 

 そう言って頭を抱える由比ヶ浜に、掛ける言葉も無い俺はそっとその場を後にした。

 

「ちょっ、ヒッキーのバカバカ。どうしてくれんのさ!」

 

 うん、本当にやってしまったかもしれん。

 

 ちなみにこの後雪ノ下のテニスの腕が気になったので、すこしばかり披露してもらい俺の懸念は見事に晴れたのだった。

 

 俺はこの日初めて雪ノ下雪乃が嘘偽りなく才能の塊であるという事を知った。


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