本物のぼっち   作:orphan

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第7話

 八幡の目の前が真っ暗になった。

 

 そんな文章が目に浮かぶような一日を終え翌日になって何事も無く授業を消化したものの、回復しきれなかった疲労感を抱えて奉仕部の部室前に立った俺はかれこれ5分もこうして部室に踏み入れないまま立ち尽くしていた。それもこれも全て昨日の雪ノ下陽乃来襲に端を発する、一連のやり取りのせいだ。思い出したくもない30分。そのたった30分のおかげで俺は……。

 

 汚れちまった悲しみに。そんなつい先日目にした詩集には書いてあったが、今の俺もそんな気分である。ああ、叶うなら昨日という日が無かった事にならないものか。そんな事を願った所でファンタジー小説の中のようには行かない。結局俺は幾ら時間を掛けたとしても部室の扉を開けるか、それとも平塚先生との約束を破って踵を返すかという選択をせずにはいられないのだ。

 

 ああ、どうしてあんな事に。

 

 そんな思考のループを楽しんでいる俺に声をかける者があった。

 

「比企谷君」

 

 俺が二の足を踏む原因、誰あろう雪ノ下雪乃その人であった。

 

 浮かない顔で(思い出してみてもうきうきとした雪ノ下など見たことはない)、俺に話しかけたその言葉にはそうする事に対する申し訳なささえ滲ませて(尊大な雪ノ下らしくない態度だが、普段からもっと見せてもよい。特に俺を罵った後には)、俺の後ろに立っていた。スクールバッグを小脇に抱えた雪ノ下は俺と目が合うと視線を廊下に這わせる。それきり、もうその言葉の続きも彼女の歩みも止んでしまう。

 

 彼女が俺より遅く部室に来る事など今までに無かった。俺はてっきり彼女はもう教室の中で、俺自身の心の準備が出来てから入れば良いと思っていただけに、思いもかけないタイミングで顔を合わせてしまった彼女に対してどうすればいいか決められない。

 

 俺と雪ノ下の間柄など、ここ1周間同じ部室に居た程度の物であり、吹けば飛ぶような関係だ。だからこういう事が起こるとお互いに相手の考えを推察することも出来ない、お互いに歩み寄ることさえ出来ずに沈黙し続けるような薄っぺらいものでしか無いのだと実感してしまう。実感してしまうのだが……そんな事を寂しく思う事は無い。少なくとも居心地の悪さを感じて逃げ出してしまいたくなる事もまたないのだから。

 

 それに、こうして雪ノ下も俺同様に動きを見せない今、昨日のことを整理する機会が得られたとも考えられる。

 

 俺は脳裏に昨日の顛末、雪ノ下陽乃の来訪から、今日気まずい再開を果たす原因となった最悪の別れまでを回想した。

 

 

 

「はじめまして。私雪ノ下陽乃と申します。先頃の事故の件改めてお詫びに参りました」

 

 そう玄関を開けた俺に切り出した女性、女性だ。先生程でも無いが俺達よりは確実に年上だと分かる、そう思わせる雰囲気を持った女性は突っ込みどころ満載の台詞を、しかし全く反論も思いつかせぬまま話を続けた。

 

「こうしてお詫びに来るのが遅れてしまい大変申し訳ありません。諸般の事情により両親から固く止められておりましたが、雪乃が部活でお世話になると聞いて居ても立っていられなくなり。その後お加減は如何でしょうか?」

 

 作り自体は活発さを感じさせるが、何処か冷たさを感じる相貌。怜悧で狡知、生意気さを感じさせる口元。シュッと通った鼻筋。明りが有るとはいえ夜闇の中でパッと光っているようにさえ見える瞳。俺が見てきた中でも間違いなく5本指に入る美人だ。見覚えが有るように感じる事だけが引っかかりを覚えるが。それが春らしいデニムシャツの上にコート、白のパンツというカジュアルなファッションで頭を下げる。おまけにヒールの入った靴。この顔でこの苗字、雪ノ下の血縁に間違いないだろう。彼女には似合いそうも無い格好だが、目の前の女性にはよく似合っている。一目でそう思わせるほど2人の雰囲気は違っている。そう、顔の形は似通っているというのにである。

 

 下手に顔付きが似ているからこそ、却ってそこに宿ったものが違っていることを強く主張している。恐らく中身の方は雪ノ下とは似ても似つかない筈だ。そうそうあんな女が居ても困るという話でも有るが。

 

 その雪ノ下陽乃が何故か俺の家の玄関で、俺に謝罪しこういう時の常套句を述べている。振る舞いにはきっと文句のつけようがないのだろう。彼女の謝罪には心が篭っているように『見えた』し、彼女の言葉には心配の響きが有るように『聞こえる』。が、何の冗談だと俺でなくとも思っただろう。何せ俺が事故ったのは1年も前の話で、この時間アポもなしに唐突に謝罪に現れ、格好も相応しくなく、両親の同席もない状況、おまけに相手が事故を起こした張本人でもないときてる。これは十中八九謝罪などではない。何か他に目的が有るのだ。

 

 ちなみに何故俺が雪ノ下さんを事故の加害者でないと思うかといえば、俺を轢いたのは正真正銘男だったからである。それも中年の。入院中に病室まで挨拶に来たその相手と言葉も交わした事が有る。それでは勘違いのしようもない。当時身代わりでも立てていなければという前提が必要になるが。

 

 標的は容易に特定可能だ。俺とは初対面だし、由比ヶ浜も雪ノ下とのやり取りを見てる限りでは、雪ノ下さんとの面識はないと見ていいだろう。消去法で雪ノ下が残る。姉妹という関係から見ても彼女がやはり最有力。だが目的は分からない。状況が状況だ。雪ノ下が我が家に居ることを承知で来たのか、それとも知らなかったのか。そもそもそんな事に意味が有るのか無いのかも分からない。

 

 分からないし、姉妹の間の出来事に俺を巻き込んでも欲しくない。どのみちここまで来られた時点で巻き込まれるのは確定的だが、態々雪ノ下の盾になってやるほどの義理もないだろう。そう思った俺は早速手っ取り早い方法を採ることにした。

 

「よく分かりませんが、中へどうぞ。妹さんも中にいらっしゃいますし」

 

 火災が起きた油田はニトロで派手に吹き消すそうである。収集の付かない居間の状況にどう考えても揉め事の気配のする人物を放り込む。おまけに雪ノ下さんの標的が雪ノ下だと言うならウチで長期戦を繰り広げる訳もない。というかあまり長居されると両親も帰ってくるし、そうなれば両親も雪ノ下さんの家に何かしらの申し立てをする筈だ。そうなれば雪ノ下さんにとっても良くない事になる筈だ。悪くない手だと思えた。謝罪してさっさと帰る位ならこのタイミングでの来宅もおかしい。いや怒鳴り散らして追い返せば良いのかもしれないが、俺が彼女に何を怒鳴り散らせば良いのか分からず、どの道他に手がない。

 

 望み通りの展開の筈なのに怪訝な反応を見せる雪ノ下さんもしかし、俺が有無を言わさず中に招くと大人しくそれに応じた。

 

 それにしても妙な日だ。妹の知り合いでもない年若い女性が3人も我が家に集結しているのである。はっきり言って異常事態だ。まあそれも向こう十数年に渡ってもうない事だと思えば僥倖なのかもしれいが。

 

 雪ノ下達にそうしたようにスリッパを用意して、居間の扉も開けて中に入るよう手で示すと甘やかな香りをさせながら俺の前を通り過ぎて行く。当然予期しない来客に中に居た3人が驚いた。特に身内が来たという雪ノ下の驚きは大きかった。

 

「姉さんがどうしてここに!?」

 

 女性3人しか居なかったからだろう。いつも油断のない表情をしていた雪ノ下が弛緩した顔を見せていたというのに、一瞬で表情を強張らせ信じられない物を見るような目で雪ノ下さんを見つめている。その顔は最早当惑を滲ませる由比ヶ浜と小町のそれとは一線を画す、戦慄と敵意を感じさせるものだった。対する雪ノ下さんも雪ノ下の存在に驚きが『感じられる』声を上げた。

 

「雪乃ちゃんこそどうしてここに?」

 

 何てことはない。何処にも疑問の余地のない、至って当然の台詞。だが今の雪ノ下さんの言葉にどうしてかザラッとした、ヤスリで削られた様な不快感を感じた。雪ノ下も、リア充故か空気に敏い由比ヶ浜と小町もきっと同じように感じたのだろう。2人が驚きとは別の種類の感情に微かに身構えたのが見えた。そして最も劇的な反応を見せた雪ノ下はと言えば。

 

「……」

 

 口を噤み、姉を睨みつけるばかりである。但し、色白の顔を真っ青にさせて。

 

 俺の予想を遥かに超えて雪ノ下陽乃という人物は強力な爆薬だったという事だろう。ともすれば油田ごと吹き飛ばすような。

 

 その雪ノ下さんは雪ノ下の視線など柳に風と受け流し、それでいて強力無比な一撃をお見舞いした。

 

「私は今日、雪乃ちゃんが乗っていたウチの車が比企谷君を轢いた事故のお詫びに来たの」

 

 やはりというべきか雪ノ下の反応は激烈なものだった。髪の毛を逆立てんばかりの形相を浮かべ、白く透き通るようだった顔がまるで怒りで膨れさせその怒りのままに何事かを言おうとした。しかし、全く意外なことに彼女を観察していた俺と目が合うと、みるみるうちに萎れていくのだ。いやいや先程俺をドン引きさせるような追い込みを見せた雪ノ下とは思えない、常人らしい反応に俺も驚きを隠せなかった。

 

 そして理解できた事が1つ、雪ノ下が俺を轢いた車に乗っていたというのは本当のことらしいという事である。

 

 俺は視界の端に小町を捉えて慌てて言った。

 

「小町、悪いけど今度はお前が部屋に戻れ。終わったら呼びに行ってやるから」

 

「お兄ちゃん。……でも」

 

「デモもストライキもありません。良いから。何だったら今日の夕飯も代わりに作ってやる」

 

「……分かった」

 

 本当に納得して貰えたかは分からないが、どうにか首を縦に振ってもらえた。夕食当番の交代は面倒くさかったが、この場に同席させれば暫く尾を引くような面倒な状況にもなりかねない。どちらが面倒臭いかを考えればこれが正しいだろう。大人しく居間を出て行く小町の背中を見送りついでに由比ヶ浜も家に帰そう。雪ノ下姉妹の諍いに巻き込まれるのは俺一人で十分である。というか偶々居合わせただけで面倒な場面に巻き込まれるのも可哀想だからか。出来れば彼女を送っていくという事で俺も家を出て行きたいのだが、流石にそうもいかんだろう。いや、待てよ。そう言って雪ノ下姉妹を家から出せば俺も離脱可能なのではないだろうか。

 

 妙案が浮かんだ俺がそれを実行に移そうとした時、それを制するように雪ノ下さんが声を発した。

 

「偶然ですが、ここに由比ヶ浜さんにもお尋ねします。 ペットの犬はその後何ともないなかったでしょうか?」

 

 本日2回目の大爆発。由比ヶ浜は標的に入っていないという俺の目算は外れ、爆撃を食らった由比ヶ浜は見ている俺が哀れに思うほど狼狽えた。

 

「比企谷君のお陰で何とも無かったと思いますが、その後怪我とかが見つかっていればその分の治療費は出させて頂きますので」

 

 もう一度俺にしたように頭を下げる雪ノ下さん。泡を食って由比ヶ浜が反応した。

 

「ぜ、ぜんぜん平気でした。だから……」

 

 だから何だと言うのだろう。由比ヶ浜も俺と目が合うと二の句を継げなくなり、結局由比ヶ浜が言おうとした言葉は空気を震わせることなく終わった。

 

 居間は雪ノ下さんの二言で先程までの大混乱が嘘のように静まり返り、通夜のようにしめやかな雰囲気となった。見習いたい場の収集能力である。ちなみに今から由比ヶ浜を帰そうとするとそれもまた面倒な事になりそうな事は承知している。単にその誘惑に抗いがたいだけで。

 

 なので由比ヶ浜の早急な送還は諦めて、せめて色々誤解を解いてからさっさとお帰り願うことにしよう。

 

「何が目的か知らないですけど、俺の家を舞台に勝手な事をするのは止めてください。貴方別に俺に謝罪に来た訳じゃないんでしょう?」

 

 由比ヶ浜の方を向いていた雪ノ下さんが俺の方に向き直る。俺がこんな態度を取っていることに驚いている風だが、口元に微かな笑みが浮かんだのを俺は見逃さなかった。あれ? もしかして藪蛇か? 

 

 雪ノ下さんの目的の分析は出来なかったが、もしかしたらこの人只単に雪ノ下を攻撃するのが目的でついでに視界に入った由比ヶ浜にも致命傷を与えたくなったという可能性が頭に過ぎった。だとしたら大変に不味い。俺は嵐が過ぎ去るのを待たず、家から飛び出してTMごっこを始めた少年のように飛来物で大怪我をこさえてしまうかもしれないのだ。

 

「そんな事はありません。私は」

 

「雪ノ下、聞きたいんだけどお前のお姉さんて頭いいだろ?」

 

「……ええ」

 

「そんな人が事故が起こってから1年も経ってから謝罪に来るわけがない。さっきは両親に止められていたと言ってましたが、それもおかしい。何がおかしいって貴方が俺に謝る理由がない。家族が起こした不祥事だから? 今更被害者感情を掻き立てるような方法で謝罪を? 違うな」

 

 矢継ぎ早に言葉を繰り出す。一度開いた口を閉じてしまう訳にはいかなかった。下手に由比ヶ浜や雪ノ下のように弱みがないだけに、何をされるのか全く予想が着かないからだ。雪ノ下さんが口を開いても言葉を被せて先を言わせない。

 

「話を」

 

「由比ヶ浜。俺が怪我したのは100%俺の責任だ。確かにあの時犬が車道に飛び出したのは事実だが、それを見てアホみたいに犬を助けようとした俺が悪い。あ、アホみたいというのは運良くリードを掴めたものの、犬を引き戻そうとしてバランスを崩した俺のアホという意味だ。それから雪ノ下。運転手は確かに前方不注意だったかもしれないが、あんなの俺だって事故る。普通突然チャリが倒れてくるとは誰も思ってないからな。しかも乗ってただけのお前にはどう考えても責任はねえな」

 

 まあ事故後聞いた話によると、自動車の運転手には前方を走る自転車の転倒をある程度予測する義務が有るので過失が無いとは言えないだろう。とはいえそれも運転手にしか及ばない話。強いて言うならあの車の落ち度はさっくり俺を轢き殺しておかなかった事である。

 だと言うのに何が気に入らないのか2人が口にするのは「でも」という言葉である。デモクリトスもカントもない。

 

「いいから、何も気にするな。というか今更そんな事を気にされてもぶっちゃけ迷惑だ。怪我は治ったし、俺の留年の危機も回避された。まあまる3週間学校を休んだお陰で英語は壊滅的な点数を取ったが、元々の点数考えたら目くそ鼻くそだしな。……よし、いいな。納得したな。納得したと言え。ついでに私は悪く無い位言っておけ」

 

 そんなに他人の事故に関わった責任を持ちたいのか二人はそれでも中々頷こうとしなかったが、詰め寄って強引にでも頷かせた。これで一先ず攻撃の材料はなくなった筈である。

 

「これで雪ノ下さんも文句無いでしょう? 雪ノ下に責任がない以上、貴方が俺に謝る必要もないんですから。さて、話が一段落した所でもう時間が時間だし帰れ。駅までなら送って行ってやろう」

 

 2人の後ろに回って背中を押す。そう押そうとしたのだが、こいつらが女であることを思い出して思いとどまった。代わりに由比ヶ浜が背負っていたバッグを軽く押した。危ない危ないセクハラを働いてしまう所だったぜ。

 

 羊を追い立てる牧羊犬の様に2人を玄関に誘導した俺は、続いて雪ノ下さんを玄関に誘導しようと振り返った。

 

「ぴゃっ!?」

 

 俺の意識より早く体が反応し、神速で飛び退った。着地に失敗し強かにケツを打ったが、痛いのはむしろ驚きで跳ね上がった心臓の方だった。

 

「ぷ、……あははは、あははははは」

 

 俺の心臓が早鐘を打っている。その原因を作った雪ノ下陽乃が口から空気を漏らしたかと思うと笑い出した。その笑いは収まるどころか徐々に勢いを増していき、最初は顔が笑っているだけだった雪ノ下さんは徐々に肩を震わせ、俯向いたかと思うと膝に手を置いて体を支えない事には立っていられない程の勢いで笑い始めた。

 

「な、な、な」

 

 何がそんなにおかしい!? と言おうとしたが上手く口が回らない。それほどまでに強い驚きを俺に齎していたのだ。彼女が俺に近づいていたという事実が。

 

「え? え? 何? どうしたの?」

 

「比企谷君?」

 

 玄関にも響き渡る雪ノ下さんの笑い声に振り返った2人が疑問符を連発する。

 

「ひ、比企谷君、ひぃ、ひいい」

 

 遂には引き笑いまで始めた雪ノ下さんが俺を指差して笑いながら玄関に出てきた。その目が蛍光灯の光を反射した訳でもなくきらりと煌めいたのを見て、俺の生物的本能が悟った。や、殺られる。

 

 玄関の方を向いていた俺に背中に音もなく近づいていたのはやはり俺に対する殺意の発露。面白おかしく玩具を蹂躙するという遊戯が邪魔されたのがそんなにも気に喰わないのだろう。とはいえ、俺の家でやりさえしなければ無視出来るが、俺の家でやられては堪ったものではない。俺の家は戦場ではないのだ。半ば不可抗力だと訴えたかったが、この種の目をした人間には最早それは命乞いにしか映らないことを知っている。

 

 腰でも抜かしたか立ち上がろうとする俺の足に力が入らないので、仕方なしに匍匐前進を開始したが、そのような牛歩の歩みで音速を超える鷹から逃げ切る事など出来はしない。あっさりと捕まった俺は自然の掟に従い無残な最期を迎えたのだった。

 

「うりゃうりゃ、あははは比企谷君って本当面白いね」

 

「あははははっ、あははははあはははははは。ち、ちぬ。あはははは」

 

 

 

「ごめんなさい。あんなにも気持ち悪いものを見たのは初めてで、今日どんな顔をして貴方を部室に迎えれば良いのか分からなかったの」

 

 雪ノ下からこんなにも真摯な、心底からの謝罪を受けたのも初めてだった。だからだろうこんなにも目頭が熱くなるのは。決して羞恥心で俺の顔が赤くなっているのではないと思いたい。

 

「まさか男子高校生があんな醜態を晒してそれでも生きているとも思えなかったけど」

 

 ええ、そうね。いっそ殺してええええと叫びたいよ俺も。

 

 一日日を置いてもそう思いたくなるような有様だったのだ昨日の俺は。

 

 情けなく地面に這いつくばる俺を人差し指でただ突き回す雪ノ下陽乃。そして、恐らくはその場にいた誰もが目にしたこともないほど擽ったがる俺。危うく呼吸困難に陥る一歩手前まで追い込まれた俺を見つめる2対の瞳が、それはそれは雄弁にその感情を俺に伝えていた。あんまりにも激しくのたうち回る音で階下に降りてきた小町にまで汚物でも見るような目で見られた事はきっと一生忘れられないだろう。

 

 雪ノ下陽乃許すまじ。彼女を俺の尊厳を蹂躙した怨敵と胸に刻む。

 

 が、どうした所で今更昨日起こった事は変えられない。俺は勇気を振り絞って雪ノ下に語りかけた。

 

「何でも良いから鍵を開けてくれ」

 

 そうして部室の中でいつも通りの部活を始めさせて欲しい。俺も雪ノ下も互いに言葉を交わさず、静かにページを送る音だけが響くそんな時間を。

 

 今日を、今日という1日さえ過ぎ去れば、この2人の顔も見られるくらい俺も回復する。そうなればこいつらが。

 

「ふふっ」

 

 こいつらが。

 

「あ、ひっきー。……ぷっ」

 

 こいつらが幾ら俺を笑っても俺は平気で居られるだろう。

 

 由比ヶ浜が廊下に現れ部室前に佇む俺と雪ノ下を、正確には俺を見つめるなり笑いを堪え始めても俺は顔を背ける以上の事はしなかった。雪ノ下が、由比ヶ浜が思い出し笑いをする程度で逃げていては、教室という一種の閉鎖空間で由比ヶ浜と一緒に居られないからだ。

 

「うふふふ、ご、ごめんなさい比企谷君。べ、別に笑っているわけでは。……うふふ」

 

「あははは。ひ、ヒッキー昨日は、き、き、キャハハハ」

 

 朝のHRから由比ヶ浜の失笑を聞いた俺は、今日何度目になるか分からない帰宅衝動に襲われる。座席の関係上授業中には俺の後頭部しか見えない筈の由比ヶ浜が、それでも度々微かな笑い声を上げる。それに気が付いた俺が由比ヶ浜の方を向くと更にその声は大きくなる。俺の顔を見る度耐え切れずに笑い出すので完全にお手上げだ。結局俺は高校生活で初めて休み時間に教室から避難するという行動に出ざるを得なかった。

 

「由比ヶ浜、いい加減笑いすぎだろ」

 

「だって、昨日のヒッキーマジでキモかったんだもん」

 

 こんな短いやり取りの間にも2回笑いを噛み殺す由比ヶ浜。下手に笑いを耐えようとするのを見るのが却って辛いので、俺はもう由比ヶ浜が失笑する度それを記憶から消去することにした。また気軽に何か言い返すことも出来ない。俺が必死の形相で笑いながらフローリングの床をのたうち回る様など気持ち悪いに決まっているからだ。

 

 俺は話題を逸らそうと何故由比ヶ浜がここにいるのか尋ねた。

 

「昨日帰ってからまたクッキー焼いたの」

 

 そう言って由比ヶ浜が鞄から取り出したのはセロハンの包みに入ったクッキー。金色の葉っぱの模様の入った包みに赤いリボンをあしらったそれは、明らかに誰かに手渡す物であることを示している。どうやら帰ってから納得のいくものが作れたようだ。透けて見える中身もなるほど綺麗な出来だった。それはそれとして昨日俺の家でも何回か作って家に帰ってからもまた作り、昨日1日で由比ヶ浜が作ったクッキーは凄い量になっていそうだ。何処を探しても発見できなかった雪ノ下の作ったクッキーを合わせると1日2日で食いきれる量ではなくなってしまうだろう。全部持ち帰ったという事なのか、本当に何処にやったのだろう。何故か登校前の小町はほくほく顔だったが。

 

 由比ヶ浜はそのクッキーを照れくさそうに胸の前で持ち、俺の顔を見つめた。

 

 ラッピングまでされたクッキーが今ここに有るということはまだお礼のクッキーは手渡されていないという事になる。相手はこの学校の人間ではないのか。それとも単に渡していないという事なのか。それともこれから一緒に渡しに行ってくれとでも頼むのか。何にしろ面倒臭い、さっさと済ませてこのにやけ面とおさらばしたい。

 

 ともあれ奉仕部に来たのだからこいつの相手をするのは俺でなくとも良いだろう。そう思い雪ノ下に目配せすると、雪ノ下は意味深なにやけ面で俺を見つめ返した。注意して欲しいのは意味深はにやけ面に係っていない点だ。

 

 ぶっ飛ばしてえ。そして逃げ帰りたい。がどちらも選べない。

 

「だったら早く渡した方が良いだろ」

 

「うん、だからここに来たの」

 

 ここに来ても居るのは俺とぼっちの雪ノ下だけだ。雪ノ下ならいざ知らず俺には由比ヶ浜に礼を言われる義理など無い。と言う事は由比ヶ浜は雪ノ下にクッキーを渡しに来たのか。

 

 雪ノ下ならそこに居るぞ。そう言おうとして俺と由比ヶ浜の視線がかち合う。全くブレることなく真っ直ぐに俺を見つめる眼。緊張した面持ち。しかしいつだったか見せたような気の弱そうな、自信の無さそうな由比ヶ浜はそこにはいない。今ここに居るのは強い意志を持った女性だった。

 

「ヒッキー。サブレを助けてくれてありがとう」

 

 そう言って由比ヶ浜の手が俺の胸元に向かって伸びる。ぐんぐんぐんぐんと彼我の距離を縮めるそれは一呼吸の間に俺の胸板にふれんばかりの近さになった。

 

 俺の目が自然とクッキーに吸い寄せられ、それから由比ヶ浜の顔を2回往復する。それでも由比ヶ浜は揺るぎなかった。

 

「昨日も気にするなって言ってくれてありがとう。それといつも私を助けてくれてありがとう」

 

「私の気持ち受け取ってください」

 

 感謝の気持ちと受け取って良いのだろうかとか、気にするなってそういう意味じゃないんだがとか、いつもっていつだとかまあ色々言いたい事が有る。それに助けるというのも昨日のを指して言うのならば全くの的外れだ。俺は由比ヶ浜の気持ちなど全く斟酌することなく、ただ俺が面倒だからというだけで気にするなと言ったのだ。あの時お前がきっと罪悪感を感じていたのだと言う事も後から何となく分かっただけで、自分から言い出しにくい事を他人に暴露されたお前の気持ちなど俺にとってはどうでも良かったのだ。

 

 だからお礼なんか言わないで欲しい。

 

 先程とは別種の逃避衝動が俺を襲う。それは羞恥でも苛立ちでもなく嫌悪に起因するものだと簡単に気が付いた。だが、それを口にする事は出来なかった。

 

 由比ヶ浜が何を見て、俺をどう思ったのか分からない。だが、その由比ヶ浜の見た俺の姿が、真実の俺の姿を捉えていない事だけは確かだ。それでも由比ヶ浜の差し出したクッキーをここで拒絶することは出来ない。ならば俺はここで己を否定しなければならないのだ。後ろめたい真実(俺)を包み隠して、由比ヶ浜の中の事実(俺)を肯定する。その胸を掻き毟りたくなるような行為を。

 

「ああ、まあくれるっていうなら頂きます」

 

 クッキーの入った袋に手が触れると、それは奇妙な温かさを持っていた。それが胸に沁みて一瞬ズキズキと痛んだ。その痛みが無くなると俺は袋を掴み取った。俺も由比ヶ浜も多分おっかなびっくりだっただろう。クッキーを落とさないよう、そこに込められた何かを取りこぼさないように。

 

 やがて完全に袋から由比ヶ浜の手が離れた。

 

 そのまま10秒程誰も喋らず時が過ぎたが、袋からずっしりとした重みを感じながら、俺は未だに由比ヶ浜の目から視線を離せないでいた。というのも由比ヶ浜のはにかんだ表情が、潤んだその眼が何かを待っていたからだ。

 

 えと、ありがとうと言われ私の気持ち受け取ってくださいと言われた。感謝の印だろうクッキーを受け取った。うんうん。

 

 で、これで何か返さないといけないのか?

 

 こういう時きっと出来る奴は過去の経験から正解を見つけ出すのだろうが、俺にはこんな状況に陥った経験が無い。だから俺は出来ない奴なんだ。

 

 俺はクッキーをしげしげと見つめて何かヒントが隠されていないか探したり、頭を掻いてさり気なく分からない事をアピールしてみたが状況は好転しなかった。

 

 こんな事ならリア充のお友達から女子と接する上でのいろはでも習っておけばよかったと後悔しても遅きに失している。

 

 俺は最後の手段として雪ノ下に助けを求めた。この人非人が俺の救援に答えてくれるとも思えないが、場を壊してくれるだけでも十分だ。後は適当に場を濁せばこんな居心地の悪い雰囲気からは逃れられる。

 

「そうね、昨日のあれを見せられただけでも比企谷君には随分貸しを作ったつもりだけど。これ」

 

 雪ノ下が億劫そうにバッグから取り出した物。それはやはりセロハンの包みに入ったワッフルだった。それを叩きつけるように俺に押し付けると雪ノ下は胸を撫で下ろしてこうも続けた。

 

「比企谷君が女子から贈り物なんてきっと一生に一度しかないでしょうけど、私と由比ヶ浜さんから同時に貰えたんだもの。これで思い残すこともなくなったでしょう」

 

「え?」

 

 これ幸いに俺は雪ノ下の軽口に乗っかった。

 

「まるで俺がもうすぐ死ぬみたいな不吉な事を言うのは止めろ。てかその場合間違いなく死の原因はお前にあるだろうが」

 

「え?」

 

「あらいやよ。どうして渡した比企谷君の為に一生を台無しにしないといけないのかしら。ただそうね、私なら完全犯罪を行える自信が有るわ」

 

「え?」

 

「お前なら罪悪感とか感じ無さそうだしな」

 

「え?」

 

「比企谷君、貴方蟻を踏み潰して可哀想だと思った事は有るのかしら」

 

「え?」

 

「俺は昆虫と同類かよ! いや、一寸の虫にも五分の魂と言ってだな」

 

「え?」

 

「言っておくけどその言葉には命の平等を訴える意味合いは全く無いわよ。まあバカ谷君には分からないでしょうけど」

 

「もう完全に直球じゃねえか。初めて言われたぞそんな事」

 

「比企谷君が人類と初めて会話を持ったのだからそれは当然よ」

 

 気がつけば雪ノ下との罵り合いが始まっていたが、これこそが平常運転というものだろう。うん。由比ヶ浜が信じられない物を見たような目で俺を見ているが、もう最近その類の視線を何度も浴びせられているせいで何も感じなくなってしまっている。

 

 何かを致命的に間違えてしまったらしい。ぼっちである雪ノ下に助けを求めたのは失敗だったというのか。

 

「勘違いしないでちょうだい。由比ヶ浜さんからは純粋な謝意、私からは、……やっぱり比企谷君に謝るのは癪に障るわね」

 

「お前ね、あんだけ狼狽えてた人間の言う事じゃねえぞ、それ。由比ヶ浜はありがとうな。美味しく頂きます。いやー、いいことってしてみるもんだな」

 

 こっちからも感謝したりしてみたが、どうにも違うらしい。由比ヶ浜が肩を震わせながら叫んだ。

 

「ヒッキーのバカ! 最低! もう死んじゃえ!!!」




地の文において雪ノ下と雪ノ下さんが混じっているのは仕様です。
読みにくいかもしれませんが比企谷君の心内語ママだとこうなるって感じで。

それと雪乃のキャラが原作と全く違うものになってきてしまっているような。

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