本物のぼっち   作:orphan

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第17話

 溜め息が漏れる。その理由は至極簡単だ。今日から学校に通わなければならないからだ。とはいっても別に引きこもっていた訳でも長期間通学できなかった訳でもない。

 

 たった1日でも学校を休んでいる間に俺の体が怠惰な生活に味をしめてしまったのだ。お陰で俺は通学中誰にも挨拶はしなかったし、教室に入った時だって誰とも言葉を交わさなかった。どうにも頭がボーっとするので休み時間中だって机に突っ伏していたりして、こうして放課後を迎え、奉仕部の部室に着いてから漸くこの日最初の言葉を紡いだ。

 

「あー、疲れた」

 

「ってヒッキー疲れるような事何かしてた!? 1限から6限まで完全にずっと寝てたじゃん! 起立礼着席すやーってな感じで休み時間中まで寝てたじゃん」

 

「開口一番周囲の士気を下げるような発言なんてもう少し空気を読んだらどうかしら? いえ、ごめんなさい。貴方にそんな事出来る訳が無かったわね」

 

 すかさず既に部室に詰めていた女子生徒2人から心ない言葉で突っ込まれる。それに後者、申し訳無さそうな台詞の割にしれっとした顔をしてるのはどういう事だ。

 

「生存競争という言葉が有るだろう? つまり生きていること自体が闘争な訳だ。四六時中緊張しっぱなしでは心身ともに疲弊を防ぐことは出来ない。その為人間は適度な休息を取るわけだが、その休息だってただ安穏としている訳にはいくまい。いつ何時誰に襲われてもいいように警戒を怠ることは出来んのだ。よって寝ていた俺もまた疲労を感じることに何の違和感もないという事になる」

 

「休み過ぎで人間性を腐らせてしまったようね。それは単なる寝過ぎよ」

 

「何だと? たかが20時間寝ていただけだというのにか?」

 

「完全に寝過ぎだから!!」

 

 由比ヶ浜に突っ込まれるという精神的ダメージは俺に二の句を継がせない。俺は崩れ落ちるようにして椅子に着地、いつからか部室中央に置かれるようになった長机に突っ伏した。

 

「って、また寝るつもりだし!?」

 

「由比ヶ浜うるさい」

 

 子供は風の子というがいい加減高校生にもなって落ち着きというものを身に着けていないのはどうなんだ? 俺を見習えとは言わんが、せめて体育の時間バスケットコート内で孤立する材木座位には静かにしていて欲しいもんだ。

 

 とはいえ俺の切なる想いが由比ヶ浜に伝わることはなく、ヒステリックに「そんな訳ないし!」とか言われると確かにその通りとも思う。

 

 なのでそれ以上の追求を止め、俺は孤独な思考の沼へと沈み込んで行こうとした。

 

「ってヒッキー、ちょっと待ってってば」

 

「なんだよ、何か用か?」

 

 誰にも話しかけれらない事に定評の有る俺だが、今日の由比ヶ浜は一味違う。執拗に俺の睡眠を妨害し、注意を惹こうとしてくる。これはつまり俺に何か用が有るということなのだろう。

 

 渋々俺は至高の頭置きと化していた腕から別れを告げ、由比ヶ浜を見た。

 

 初めてこいつを認識した4月から早一月が経とうという今、こいつの変化といったら服装が多少ラフになった程度だ。上着は椅子の背凭れにかけられ白いブラウスの胸元から色白の肌が覗いている。

 

 それに比べて雪ノ下の変化ときたら。

 

「こっちを見ないで貰えるかしら比企谷君。貴方に見られていると貞操の危機を覚えるのだけど」

 

 全く容赦が無い。というか女子の口から貞操の危機なんて言葉を聞くのにも抵抗を覚える俺によくもそんな台詞を吐けたものだ。確かに先日は姉と病院のベッドで絡みあうというショッキングな場面を見せてしまったが、あれの責任は俺にはないと弁明をさせて貰いたい。

 

 肩まで震えさせる芸の細かさには真に迫るものを感じてしまう。待って、それ本当に震えてたりしないですよね。

 

 そのまま数秒固まったように雪ノ下を見つめていた俺の視界に、何故かむっとした口調の由比ヶ浜が視線を遮るように割り込んだ。

 

「ヒッキー何処に行ってたの? 教室に居なかったから部室かと思ったのに居なかったし」

 

 机に突っ伏する俺の視界一杯に由比ヶ浜の腹の辺りが映る。俺の頭上からこっちを見下ろしているのだろうが、視線を上げるのすら面倒な俺はそのまま答えを返す。

 

「何処って職員室だよ。平塚先生に面倒を掛けた事を詫びに行って来たんだ。ま、俺の親も騒ぐつもりはないみてえだから先生もお咎めは無かったみたいだが」

 

 失神させられたのが戸塚辺りだったならば、それはもう大変な事態に発展していたことは予想に難くない。俺だって烈火のごとく怒っただろう。だが、今回被害に遭ったのは俺である。両親も説得に応じてくれたのでこれであの日曜日の出来事は一件落着だ。

 

 尾を引いているのも雪ノ下さん関連のあれこれと、俺の親父への殺意。そして。

 

「そう、それだよヒッキー。大丈夫だったの?」

 

 気遣わしげな声は俺からすれば行き過ぎた心配によるものだろう。だが、それだけ俺の事を気に掛けてくれた事そのものには喜びと感謝を感じる。

 

「全然平気だ。むしろその後の親父に殴られた場所の方がヤバイ位だ」

 

 雪ノ下が幾ら天才的な才能を秘めていると言っても、素人にあれほど綺麗に人を気絶させる拳が打てるとも思えない。何かしらの格闘技の心得でも有るのだろう。それにしたって惚れ惚れとする腕前だ。目が覚めた時には既に痛くも痒くもなかった。殴られた時のことは何も覚えていないが。

 

「あの糞野郎。何が心配させるなだ。脳震盪後の人間の頭を殴るとか正気とは思えん」

 

 それを目撃した母親が激怒して親父の小遣いは今月分全額カットになった。ざまあみろだ。

 

「へ、へえ。そうなんだ」

 

 でも良かった。と由比ヶ浜が安堵の溜め息を吐く。なんだ、そこまで心配してもらうとちょっと面映ゆくなってしまう。ていうか、こいつ俺に気が有ったりするんじゃねとか馬鹿な事を考えてしまいそうになる。

 

「そんでもって、それ以上に頭が痛えのがこれだ」

 

 まあ、そんな訳もないのでここは目を逸らしておくことにしよう。直視してるとまた益体もない事を考えてしまいそうだ。

 

 話題を変えるためにも俺はバッグの中から茶色の封筒を取り出した。

 

 高さ約1センチのその封筒はそれを持つ俺の手に、実際の重み以上の重みを伝えている。

 

「なにこれ?」

 

 由比ヶ浜が首を傾げる。まあそりゃそうだ。この段階でこの中身に勘付いたりするような能力を持っていたら嫌すぎる。

 

 俺は封筒を机の上に置いて由比ヶ浜に開けて確認するように示した。

 

「母さん……」

 

 興味津々で封筒に飛びついた由比ヶ浜、一方雪ノ下はやはり肉親だけあって心当たりが有るらしい。

 

「な、なにこれ!? い、いちまんえんさつがいっぱいだ!」

 

 見た事のない金額に驚いたのだろうか。由比ヶ浜が封筒を取り落とす。机の上に落ちた封筒の口からこの国最高金額の紙幣が顔を出している。

 

「数えてみたが100万有った」

 

「ひゃ、ひゃくまんえん」

 

 由比ヶ浜の相好が崩れる。現代社会に生きる人間たるもの資本の重要性は重々承知しているだろう。この反応も無理からぬ事だろう。俺だってちょっとニヤけてしまう。

 

 これ以上視界に札束が存在すると人様にお見せできない顔をしてしまいそうなので、俺は封筒をさっとバッグの中に戻す。こら由比ヶ浜残念そうな顔で封筒を追うんじゃない。

 

 金の恐ろしさを噛み締める俺。が、苦み走った雪ノ下の表情で正気に戻った。いかんいかん。

 

「ごほん。お前が帰った後、っても随分後。夜になってからだけど、家の親とお前んとこの母ちゃんが病室に来てな。置いてった」

 

 訪れた着物姿の女性はなるほど、間違いなく雪ノ下姉妹の母親だと納得するそっくりさんだった。雰囲気こそ姉妹のどちらとも違うが、攻撃性みたいな所は隠しても隠し切れない辺りそっくりだった。

 

 その高い気品を感じさせる所作で、完璧な作法に則った謝罪は俺のみならず社会人として働く両親に取っても度肝を抜かれるものだったようで、当初雪ノ下の母親を迎撃するつもりだった両親は一瞬にして気圧されていた。

 

 てか、そういう場が設けられるのなら前もって俺に言っておいて欲しかった。いきなり修羅場が演じられそうになった時は別の意味で驚いたぜ。

 

 丁寧な口上に始まって、両親が口火を切ろうとした所で差し出される独特の威圧感を持った封筒。そして現れる現金という最強の誠意の形。

 

 明らかに尋常ではない相手の攻勢に一家揃って生唾を飲み込んだ段階で、既に全てが雪ノ下母の掌の上だった。

 

 怒気という種火は、あっという間に吹き消され俺達が納得するだけの謝罪と、俺の治療に関する保証をすると俺と俺の両親の3人をきちんと納得させた上で颯爽と病室を去って行かれた。

 

 残された3人と札束が沈黙の中で様々な思惑を生み、親父と母親の多少のやり取りの末現在この封筒は俺の手の中に収まっているのだった。

 

 人間慣れない大金を持つものではないらしい。家に置いておくことも出来ず、帰り際にでも銀行によって入金しようと思っていたのだが、1日中これのお陰で落ち着くことが出来なかった。

 

 本当金って怖い。

 

「てかこれを自分の物にするのも怖いんでお前からお前の母ちゃんに返して貰えるのが最高のパターンなんだが」

 

 俺がまだ子供なせいか金のやり取りを他人とするのには抵抗が有る。というか、金を貰うのはお年玉の時だけで十分である。それも赤の他人から金を受け取るなんて負けた気になるからな。

 

 だが、雪ノ下は首を横に振った。

 

「無理よ。家の母がそれを受け取るとは到底思えないわ。それに例え受け取るとしても賢いやり方とは思えないわね」

 

 一般的な視点からすればこれは慰謝料、あるいは和解金という事になるだろう。それを突っ返されるということはつまり宣戦布告とも取られかねないからな。

 

 金を受け取ってこんなに嫌な気分になるとは昨日という日まで思いもしなかった。出来るならもう二度と味わいたくない気分だ。

 

「ごめんなさい」

 

 皮肉的なを込めたつもりは無かったが加害者としてはそう受け取らざるを得ないのだろう。雪ノ下の顔に影が射す。

 

「あー、別に報告以上の意味合いは無かったんでそう申し訳無さそうな顔をされるとこっちとしても困る。悪い」

 

 デリカシーが無いと開き直るのもこの場合は雪ノ下に悪いだろう。考え至らなかった俺も悪いと頭を下げる。

 

「貴方以外から言われたらとても信じられないけれど、貴方がそう言うのならきっと、そういう事なのね」

 

 どういう事なのよ。

 

 雪ノ下がそう呟いたのが聞こえるが、俺にはその意味が理解できなかった。取り敢えず許しを貰えたものと判断して顔を上げると雪ノ下と視線を交わした。

 

 完全に雪ノ下の罪悪感を払拭したい所だが、口を開くには気を逸していた。俺と雪ノ下の間には既に口を開きにくくなるような沈黙が。

 

「あ、あのさヒッキー。その、メルアド交換しない?」

 

 由比ヶ浜が唐突な話題転換を図る。流石トップカーストに所属する人間。気不味くなった場を素早く察して空気を変えようとするなんて俺にはとても出来ない芸当だ。

 

 その助け舟にすかさず乗っかる。

 

「ああ、良いけど。突然どうしたんだよ」

 

 こいつが奉仕部に来るようになってから、もうそれなりに時間が経つが今の今までそんな雰囲気など全く無かった。それどころか、教室内でも話しかけるでもなし俺と由比ヶ浜の関係性は、この奉仕部室内で完結していた。

 

 雪ノ下とはメールのやり取りをしているようだったが。

 

「だって、一昨日ヒッキーが病院に運び込まれてからずっと心配してたのに連絡取れないんだもん。昨日もゆきのんのお母さんとヒッキーの両親の話し合いが有るからってゆきのんに止められちゃったからお見舞いにも行けなかったし」

 

 俺の事を心配していたというのに、俺からアドレスを聞き出そうとするのはそんなに恥ずかしいのだろうか。由比ヶ浜が腹の前で手を組みながらもじもじと身悶える。

 

 そうだな。あの場に居た人間の1人として由比ヶ浜にも無事を伝えるべきだった。面倒くさいので次が有ったとしても間違いなくそんな事を思いつかないだろうが、それはその通りだ。

 

 こうして一時的なもの以上の縁を築いてしまった以上、その手段は最低限持っているべきなのだろう。

 

 目の毒すぎる光景から逃れようと由比ヶ浜の顔を見上げると、由比ヶ浜の顔の手前に2つの丘陵が立ちはだかった。いや、前言撤回だ。これは丘陵などではなくれっきとした山だ。有り体に言うとデカい。

 

 糞、この位置関係が最悪過ぎる。反射的に視線に込めた意味を悟られる前に椅子を引いて正常な視界を取り戻す。

 

 危ない、後1秒遅かったら社会的に死んでるところだった。

 

 既に社会的にはリビングデッド扱いを受けている事はこの際小さい事だろう。

 

「ほい。俺の携帯赤外線ついてねえから番号教えてくれよ」

 

 ポケットから取り出したる俺の電子書籍リーダー兼携帯電話に半年ぶりに本分を果たす機会が訪れた。家族とも連絡を取らないせいで一個前の着信履歴が半年前とかになってるんだけど、手放さなくて良かったぜ。

 

「えっとね」

 

 デコトラみたいなキラキラピカピカした携帯電話を取り出した由比ヶ浜が言うままに、番号を打ち込み発信する。間もなく目の前の携帯電話が震えだした。

 

 ふう、良かった。この状況で嘘の電話番号とか教えられてたら多分死んでた。

 

 って、何で電話切らずに出てんだよ。

 

「もしもしヒッキー?」

 

 目の前で紡がれた言葉が、俺の手元からも響いてくる。なんだ、なんだ。なんなんだ。俺にどうしろと言うんだ。

 

 戸惑う俺に由比ヶ浜がチラチラとこちらを見て追い打ちを掛けてくる。

 

 体のあちこちがむず痒くなってくる。

 

 矢も盾もたまらず俺は携帯電話を耳に押し当てた。

 

「も、もしもし由比ヶ浜か。……かーっ駄目だ、耐えられねえ」

 

 携帯電話を通じて由比ヶ浜の息遣いが耳元で聞こえた瞬間、反射的に通話を終了してしまう。

 

 なんだこれは。恐ろしい異空間に飲み込まれてしまったような感覚だ。具体的に言うと惚れそうになる。

 

 世の中のリア充ってのはきっとこんな事を四六時中してるからあんなに頭がおかしいのだろう。こんな事を繰り返していては俺とていずれは危うい。いや、その前に由比ヶ浜に告った所で俺の精神が崩壊する程手酷く振られるか。

 

「あーん、ヒッキーってば何で切っちゃうの?」

 

 マジトーンで怒ってる由比ヶ浜には申し訳ないが、脇目を振らずにメールアドレスを電話番号宛にCメールで送信する。

 

 もしかしたら由比ヶ浜は俺の命を狙うアサシンなのかもしれない。この心臓の高鳴りがお分かり頂けるだろうか。こんな事を繰り返していては早晩心臓が破裂して死にかねない。

 

 頬が紅潮しているのが鏡を見ずとも分かるほど顔を火照らせながら、雪ノ下に駆け寄った。

 

「雪ノ下のも教えてくれ」

 

 朱色の夕日で俺の顔色が誤魔化されてくれる事を祈る。俺が顔を赤らめてるとか本当キモいから。

 

「嫌よ」

 

 スパっと、達人が日本刀で巻藁をぶった切るみたいに断られた。が、これは予想された流れだ。だが俺はこいつに言う事を聞かせるネタを握っていることを忘れているようだ。

 

「よく考えるとお前にはお前の姉ちゃんの事で相談する機会が有りそうなんだが」

 

「……ちっ、そういえばそうだったわ。仕方ないわね」

 

 こいつの態度、考えてみるとよくよく昨日のあれと同一人物とは思えないほど酷いな。照れ隠しとかそういう疑念も斬り殺されてくレベル。そんなに気に食わなかったのだろうか。

 

「なんだよ。まだ怒ってんのか。何勘違いしてたんだか知らないけど」

 

「黙りなさい」

 

 バッグから無垢な携帯を取り出した雪ノ下が視線と言葉で威圧してくる。恥辱を受けた屈辱か。こいつもマジトーンで怒っている。

 

 言われた通り黙ると、雪ノ下は携帯に視線を落として操作をし始めた。合間合間に舌打ちを挟みながら。

 

「携帯電話を寄越しなさい」

 

「ほい」

 

 差し出される白魚のような雪ノ下の手に俺の携帯を乗せると、雪ノ下はそちらも躊躇なく操作を始めた。何度も指が動いている辺りアドレス帳に直打ちしているのだろう。

 

 由比ヶ浜のそれとは違い雪ノ下の携帯電話はスマートフォンだ。俺のとは機種こそ違うが基本的な操作が似通っているからだろう。手慣れたものだ。

 

 それにしても今時バーコードリーダーアプリなりで簡単に連絡先を交換できるだろうに、アドレス帳に手打ちしている所から察するにこいつはそういう機能には全く通じていないらしい。

 

「どうぞ」

 

 素っ気なく返されたものを確認すると俺のアドレス帳に2件人名が増えている。

 

「貴方のアドレスに私の名前が入っているなんて。屈辱だわ」

 

「たった2人しかいない異性のアドレスだしな。っていたあっ!」

 

 向う脛に鋭い痛みが走る。見ると雪ノ下の上履きの爪先が突き刺さっていた。

 

「そもそもあの時鼻の下を伸ばしていた貴方に姉を撥ね付ける気が有るか疑問ね」

 

 いやらしい。雪ノ下が呟く。その心底軽蔑の篭った声には背筋が冷えたが、火照った頬を冷やすには丁度いい。

 

「バッカお前、思春期の男が年頃の女性とくっつけば鼻の下が伸びるのは当然だ。物理法則みてえなもんなんだ」

 

 そうだ俺は悪くない。悪いのは雪ノ下さんの方である。

 

「不潔ね」

 

 短いが、それ故に雪ノ下の内心を端的に表すその一言は何故か俺の心を深く傷つける。

 

 だが、反論のしようもない。

 

 目的だった雪ノ下のアドレスも手に入れたことだし退却しようと踵を返した時、由比ヶ浜が溜め息を漏らした。

 

 いつも脳天気に、あるいは無理矢理にでも笑っている印象の有る由比ヶ浜にしては珍しい。

 

 これは聞いても良いものなんだろうか? それとも踏み込まないほうが懸命か。え? なに? ヒッキーに関係なくないとか言われたら立ち直れないよ。という訳で近寄らんとこ。

 

 しかし、臆病な俺とは違いこの部には積極的な女がもう一人居たようだ。

 

「どうかしたの? 由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下は怒りで視野が狭くなるという事が無いらしい。何こいつ水の心とか使える感じですか。どっちかっつうと氷の心、ってか液体窒素の心って感じだけどな。

 

「えっと、その、……。なんかうわって感じのメール来て」

 

「そう。通報しておくわね比企谷君」

 

 問答無用で犯罪者扱いかよ。俺が何をした何を。

 

「貴方が生まれた事自体が罪なのよ。分かるでしょう?」

 

 そこで俺に同意を求められても。

 

「だから貴方は比企谷君と呼ばれるのよ」

 

 乗るにせよ乗らぬにせよ罵倒はされるらしい。てかそれ俺の苗字だから。別に悪口とかじゃないからね。

 

 触らぬ神に祟り無し。触らぬ雪ノ下に罵倒無し。俺が無抵抗を貫くと最後に舌打ちをしてから雪ノ下は由比ヶ浜に先を促した。

 

「でもヒッキーが犯人じゃないよ」

 

「証拠は有るのかしら?」

 

 俺を擁護しようとする由比ヶ浜を問い詰める雪ノ下。そこまでして俺を罵りたいのか。

 

 まだ口実を探そうとするだけ良いのかもしれないが、こう剣呑な雰囲気を引きずられても困る。落ち着いたら和解をしよう。

 

 そんな雪ノ下に多少引きながら由比ヶ浜が考えを述べた。

 

「だってうちのクラスの事が書いてあるんだもん。それも名指しで」

 

「それでは比企谷君には犯行は無理ね」

 

「ああ、確かに。俺がフルネーム分かるの葉山とお前だけだし」

 

 動かぬ証拠という奴だ。流石に雪ノ下といえどこれを前にしては俺を犯人扱いする訳にもいかず、彼女の関心はあっさりと読書に戻った。潔いまでの関心の無さ。どうやら何かにかこつけて俺の事を罵倒したかっただけらしい。

 

「葉山くんと私だけ、か」

 

「由比ヶ浜?」

 

「え、な、何でもない! 兎に角、時々こういう事あるし気にしない気にしない」

 

 前時代的パカパカケータイにも利点は有る。こういう時パカっと携帯を閉じると心の方も切り替えが効く所だ。ボタン一つでフィーチャーフォンよりも大きく鮮明な画面にその何かを浮かび上がらせる今のスマホは下手するといつまでも同じ通知が残り続けたりして鬱陶しいことこの上ない。

 

 由比ヶ浜はそれきり、普段なら肌身離さず持ち歩く携帯を机の上に放置して手持ち無沙汰な様子で椅子に座ったまま仰け反って背伸びをしたり、髪をいじったり、アクセサリーを弄ったり。

 

 そんな由比ヶ浜を尻目に読書をしていると、学校のチャイムとは違う種類のチャイムが鳴り始めた。いわゆる夕焼け小焼けとか5時のチャイムと呼ばれる奴である。

 

 4月なんかはこのチャイムが聞こえる時間には既に日が沈み始めてたりして茜色の空をボヤッと眺めていたものだが、ゴールデンウィークも過ぎると随分明るい。

 

 奉仕部の終了時間は雪ノ下のさじ加減一つだが、この1ヶ月の経験則から言うと大体6時だ。その辺で雪ノ下の読んでいた本が終わったり、キリが良かったりするとお開きになる。

 

 そんな有るんだか無いんだか分からんような定時までざっと1時間。集中して読書に取り掛かろうとする俺だったが、意外な事に雪ノ下がこんな事を言い始めた。

 

「今日はこれで部活は終了よ。悪いけれどこの後用事が有るの」

 

「えっ!? なになに? どっか遊びに行くの?」

 

 放課後用事と言えば遊びという発想が由比ヶ浜らしい。そりゃ確かにリア充連中ならば十中八九その通りなのだが、相手は雪ノ下だ。それだけは有り得ない。

 

 かと言って他に思いつくような塾やアルバイトというのもピンと来ない。全教科全科目においてそこそこの進学校である総武高校でトップという化け物じみた成績を誇る雪ノ下に、今更塾もないだろう。こいつなら塾講師に難題吹っかけてその無知を嘲笑う位の事はしそうだ。てかやる。間違いなく。それにこいつは金には困っていないだろう。親は地方議員だというし、こいつ自身それほど物に執着するタイプにも見えない。おまけに化粧っけもないときてる。

 

 それにこれからも定期的に組み込まれる予定であれば前もってそう告げる事位はするだろう。そうなると今日の用事は特別な用事という事になるが。

 

「母が来るのよ」

 

「えっ? ゆきのん一人暮らししてるの? お母さんが来るって、あっ……」

 

 その理由に思い当たった由比ヶ浜が言葉を失う。

 

 つまり雪ノ下の用事というのは事後処理の一貫という事だ。

 

「悪いな。俺のせいだ」

 

 完全に失念して要素がまだ有ったとは。黙らせる必要があったのは俺の両親だけではなかったのだ。

 

 どちらかと言えば雪ノ下の親の方が重要ですら有る。

 

「根本的に私が手を出したのが悪いのだから貴方が気に病むことないわ」

 

 そうは言うが雪ノ下は今日一番の暗い表情を見せる。

 

 雪ノ下さん曰くあの母ちゃんは雪ノ下さんより恐い人だという。それが嘘偽りでない事は昨日俺が確認済みだ。あの母ちゃんはマジで恐い。極道の妻とか言われたら全然信じちゃいそう。

 

 それにお説教されるというのだから、営業職の人間が上司に激詰めされるのと似たような心境にもなる。雪ノ下の今日の刺々しさの一因はそこにも有るのかもしれない。

 

「それじゃあ私は鍵を職員室に返してくるから。2人は先に帰って頂戴」

 

 そう言って1人廊下を歩く雪ノ下を見送る。俺が原因とはいえ、雪ノ下の家まで付き添って弁明をする訳にもいくまい。それに完全に雪ノ下母の説教の鉾を収める事が出来れば御の字だが、それが出来なかった時雪ノ下は怒られている場面を俺に目撃される事になる。男女の違いがあれど、やはり良い気はしないものだと思う。

 

 こうして自分の考え足らずが原因で人に迷惑が掛かる時程落ち込むことはない。

 

「ヒッキー、帰ろ?」

 

 立ち尽くしていた俺の袖を由比ヶ浜が引いていた。

 

「おう、そうすっか」

 

 だが俺が落ち込んでいた所で後の祭りだ。意味のない感傷に浸っていれば雪ノ下の怒りも買ってしまうだろうし。

 

 声を掛けてくれた由比ヶ浜を置き去りにして帰る訳にもいかず、俺は由比ヶ浜のゆっくりとした歩調に合わせながら家路についた。

 

 まだ喧騒と人の気配が残る校舎を後にするというのは、つい1ヶ月前までの日常だった筈だが、その割に随分と久しぶりな感覚だった。

 

 やはり人との触れ合いというのは意識せずとも人を変えてしまうらしい。このコミュ障の俺ですらここまで変わってしまうとは。

 

 俺はもう1ヶ月前までの俺ではない。こうして歩いた廊下も、昇降口から見えるグラウンドの風景も、そして隣でローファーを履いている由比ヶ浜もそれ以前のそれとはっきりと別物に見える。

 

 何が変わったと特別に言えることもない。けれど何かが確かに変わってしまっているのだ。

 

「どったの? 早く行こ?」

 

 同時に変わらない物も有る。

 

 昇降口から校門までの道はグラウンドと隣接しているせいで砂埃がよく舞っている。

 

 元々海が近いこの学校で、グラウンドと校舎をこういう位置関係にした設計者は頭が悪いと断言できる。なにせ砂埃を遮るものが何もない。おかげで風の強い晴れの日なんかは目が潰れるんじゃないかと思うことさえある。

 

 今日は比較的風の弱い一日だったと言える。

 

「きゃっ」

 

 が、時々突風が吹くことも有る。

 

 慣れたもので反射的に目を瞑って眼球への異物の混入を防いだ。

 

 肌に砂粒がぶつかる感覚がなくなるのを待ってから恐る恐る目を開くと、由比ヶ浜が制服のあちこちを叩いていた。

 

「もう最悪ー。口の中入っちゃった」

 

 そりゃあんな風に声を上げてれば当然だ。こういう時は目も口も閉じてじっとしているに限る。そうすりゃ鼻の穴以外からの侵入は防げるんだから。

 

 だが問題は、更に時々しつこい砂嵐に巻かれそうになる時だ。

 

 10秒程度なら目を瞑ってやり過ごせばいいが、それ以上なら多少の痛みを覚悟して目を細めて前に進む必要が有る。

 

 でなきゃ、目を開けずに出鱈目に前に進むか、そのまま佇んでいるか。

 

「あれー? 比企谷くんだ。おーい」

 

「え? あ、陽乃さんだ」

 

 校門の向こう側に黒塗りのハイヤーが止まっていて、その窓から雪ノ下さんが手を振っていた。その奥にちらりともう1人女性の姿が見える。間違いない、雪ノ下の母親だ。

 

 雪ノ下の逃亡防止に迎えに来たのだろう。

 

 この場に雪ノ下が来て無駄に居心地の悪い思いをさせるのを避けるためにも、出来るならさっさと通り過ぎたい所だが呼び止められてしまった。素通りすれば雪ノ下さんにも雪ノ下母にも悪印象を与える事になるが、後者は特に俺への影響が強く、前者にしたって先日雪ノ下さんから受けたお願いにも影響を出しかねない。

 

 まるで熱々のコーヒーを一気飲みした直後のような胸焼けを感じながらハイヤーに歩み寄る。

 

「こんにちは雪ノ下さん。雪ノ下のお迎えですか?」

 

「そうそう。って言いたい所だけど、私もどっちかっていうとお迎えされた口で」

 

「ごめんなさいね、比企谷君。遅くなってしまったけど雪乃にはよく言って聞かせておきますから」

 

 流石地方議員御用達のハイヤーと言っておこうか。高級感漂わせる黒革のシートと同じく黒のマットが広い後部座席に3列。運転席の有る前部座席は見えないが、我が家の車とは段違いの快適そうな空間から降りて来た雪ノ下さんと話していると、反対側のドアが開いて雪ノ下の母親が降りてくるなりそういった。

 

 昨日と同じ和装と結い上げた髪の毛。現代的な服装の雪ノ下さんと並んでいるとそっくりなのにややちぐはぐな雰囲気だ。これで雪ノ下まで加わったら、この不思議な不調和は更なる違和感を産むことだろう。

 

 幾分か病院で見たよりも柔らかい表情をしているが、雪ノ下への叱責の念が滲み出ているのか迫力は増している。こういう攻撃的な人間ばっかりの家庭ってのがどんなだかってのは正直想像もしたくないね。

 

 だが、こうして言葉を交わすチャンスが手に入れられた幸運を逃す手もまたない。

 

「昨日も言いましたけど、雪ノ下は挑発されたから怒ったんであって、責任は自分にも有りますからそこまて怒らないであげて欲しいんですが」

 

「比企谷君は優しいのね。でも雪乃を甘やかすつもりはないわ。どちらにしろ手を出したのは雪乃なんですから」

 

 聞く耳持たない雪ノ下母。それも当然か。彼女の言う事は至極当然の事だ。これが馬鹿親相手なら5秒で態度を変えそうなもんだが、極妻相手に翻意を誘うのは流石に無理だ。材料も動機も無さすぎる。

 

 微かに表情を緩めて嬉しそうな顔を作る雪ノ下母。こうして話すと雪ノ下母は雰囲気は雪ノ下に、所作は雪ノ下さんに似ている。

 

 だが、その両者とも似ていないものが有る。それは大人の余裕だ。

 

「雪乃はこんな事をする子じゃないと思っていたのに」

 

 俺達と彼女を決して超えることの出来ない壁で隔て、その向こう側から俺達を観察する上位者の態度。

 

 それがある限りは、俺の意見などこの人にとっては視界を彷徨う蝿や蚊の様なものだ。煩わせる事は出来ても行動を変えさせる事は出来ないし、その気になれば一瞬で捻り潰せる。そう思われている。

 

 頬に手を当てて目を伏せる雪ノ下母からは怒りが感じられなかった。有るのは無念と悲嘆だ。失望と言っても良いかもしれない。

 

 雪ノ下と雪ノ下さんのやり取りから推測すると、雪ノ下と雪ノ下母の関係もまあ似たようなもんだろう。雪ノ下さんから雪ノ下への憎悪が無いだけ気持ち良好といった所か。

 

 とはいえ、雪ノ下母は雪ノ下さん以上に恐ろしいとも。今だってこれが狙ってのものかは判然としないが、雪ノ下を最も萎縮させる行動を取っている。

 

 天然の鬼畜か普通の鬼畜か。どっちかしか選択肢がないようだ。

 

「あの子を信じていたから自由にさせてきたけど、まだ早かったのかしら。……いいえ、これも私の責任、私の失敗ね」

 

 世の中には時としてこういう事を言い出す人がいる。経験的にはそれは2つのパターンに分別出来る。

 

 1つは自分を悲劇のヒーロー、ヒロインだと思っている馬鹿。

 

 そういう自罰、自戒は心の中でやっておけと突っ込みたくなるような行動で周囲の同情や憐憫を買おうとする奴だ。

 

 この手の奴は望んでいない言葉を耳にすると、180度態度を変えて激怒するのが常だ。結局のところ自分が悪いなどとは微塵も思っていないのだ。

 

 もう1つのパターンはこうして自虐的な言動を取ることで、自分ではなく周囲を非難する奴。

 

 先制して自虐することで、相手からの非難を躱すとともにそれ以外の言論を封殺しようとする。そうする事で内心に後ろめたい物を抱えた人間を密かに攻撃しているのだ。

 

 何を言っても、否定してもすかさず自分のせいと言う事でその度他人を傷付けるトラップ。非常に狡猾で、ある種の人間にとっては何よりも効果的な手段だ。

 

 共通して言えるのは、どっちも自分が悪いとは思っていない点だ。

 

「そんな事ないですよ」

 

 雪ノ下母は確実に後者だ。あの姉妹の母親で馬鹿って事も考えにくいし故意犯だろう。割りとそれだけで殺意が湧くってもんだが、性格の悪さじゃ俺も人の事を言えた義理じゃない。

 

 色々と感情は押し殺したが、せめて言葉くらいは吐き出しておこう。

 

「もう女子高生。それも入学ほやほやの新入生って訳でもない2年生で、周りが馬鹿ばかりとか見下してる癖してミスをした、間違いを犯したって言うならそれはもうアイツの責任でしょう」

 

 位置関係上間違いなく見えないと確信している雪ノ下さんが口角を上げて笑顔を作る。それは俺の蛮勇を嗤うものに他ならないだろうが、同時に期待に答えていると考えてもいいのだろう。

 

「それに親が無条件に子供を信頼することにどんな瑕疵が存在するっていうんです。アイツもアイツで別に問題を起こそうと思って起こした訳でもない。俺みたいな無神経な馬鹿がいる可能性を考慮する方が寧ろ馬鹿ってなもんで、今回のアイツは単に不運だっただけですよ」

 

 親の躾、家庭の事情といった他所様に口出しのしにくい領域の話を、おまけで干渉を許さない雰囲気で話された所で俺には関係の無い話だ。

 

 今回に限って言えば俺こそが被害者であり、俺だけが真に加害者である雪ノ下を責める事が出来るからだ。そして俺のみを発端とする事件だったからだ。

 

 引っ込んでいるべきなのはむしろアンタの方だと言外に匂わした俺だったが、これでもまだ雪ノ下母を挑発するには足りなかったらしい。

 

「そう。雪乃の事庇ってくれるの。良かったらこれからも仲良くしてあげて頂戴ね」

 

 それだけ言って話を打ち切られてしまう。こう出られると俺としてはすっかり手詰まりになってしまう。自分の中で答えを決めた人間が黙りこんでしまったら、もうどうあってもその考えを改めさせることなど出来ないからだ。

 

 俺の方からこれ以上詰め寄った所で何の発展も得られないとなると、雪ノ下が来てしまう前に帰るのが得策だろう。職員室に鍵を返す程度の時間はとっくに使ってしまっていた。

 

 後ろを振り返ると由比ヶ浜もまだそこに居た。雪ノ下さんを前にして萎縮していた所に雪ノ下母の怒涛のラッシュをかまされたら口も挟めないか。

 

 ぽっかーんと口を半開きにしたまま固まっている由比ヶ浜に目で合図をしつつ2人に別れの挨拶をした。

 

「それじゃ俺はこれで失礼します。……行くぞ」

 

「ばいばい比企谷君、由比ヶ浜ちゃん」

 

 ハイヤーの脇をすり抜けて行く。艶やかなその色合いは俺を引いた車と瓜二つだ。もしやと思い横目で探ってみても当然へこみの類は見つからなかったのが残念だ。自分が轢かれた痕跡ってのがどんなもんなのかちょっとだけ興味が有ったので。

 

 それっきりとぼとぼと後ろを付いてくる由比ヶ浜を一言も話さず駅まで送って別れた。

 

 このまま雪ノ下さんとの付き合いが続いていけばあの極妻と少なからずやり合わなければならないというのか。

 

 命の取り合いにだけは発展しないよう祈りつつ辿る家路は、これからの未来を暗示するように不運まみれなものになった。




 ネギまのSSの続きがどうにも思い浮かびません。放置していた期間が長すぎたのでしょうか。それとも設定が駄目駄目なのか。

 逃げるように書いてたらこっちは1日で書き上がってしまった。

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