本物のぼっち   作:orphan

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第15話

 去年少なくない日数を病院で過ごして分かったことだが、案外病室で迎える目覚めというのは悪くない。それは俺が重篤な病気に掛かっていないからこそ出来る楽観的な考えに違いなかったが、世の中の少なくない人間に同意して貰える意見だと俺は考えている。何せここに寝転がっている限り、俺の惰眠と怠惰を妨げる物が何も無いからだ。学校も塾もここにいる限りは遥か彼方の世界の出来事でしかない。小生意気な妹に朝食の用意をねだられることも、両親にゴミ出しを頼まれることもない。思う様惰眠を貪り、重力の虜になっている事が出来るのだ。ああ、これで出席日数などというものさえ無かったらもっと心穏やかにベッドの柔らかさを堪能できるのだが。

 

 覚醒した俺の意識を真っ白の光が焼いて、今が夜中でない事を知る。反射的に強く目を瞑りながら目の痛みが取れるのを待ってゆっくりを瞼を持ち上げた。天井もカーテンも掛け布団までもが白に統一された懐かしささえ感じる風景に出会って、俺は朧気な直前までの記憶を元にして現状を推測していく。病院特有の何処か時間の流れが遅くなったかのような雰囲気に流されるまま、俺は体を起こすでもなく考えを巡らせていった。

 

 どうやら狙い通りの結果が得られたらしいが、どっちかといえば上手く行き過ぎたのかも知れない。それは気絶する直前に俺を直撃しただろうボールの感覚が無い事からも察せられる。あの時、俺はゲームを強制的に終了させる手段として雪ノ下さんの打ったボールにぶつかって気絶する方法を選んだ。それはその時、もっとも大きな衝撃を持って雪ノ下の中に鬱積した感情をリセットする方法として最も適したやり方だと考えたからだ。おまけに、俺が気絶したとなれば直後雪ノ下さんが雪ノ下にちょっかいをかけるチャンスも潰せる。一挙両得の妙案だと思ったのだが、俺が考えていた以上に俺の体は重症だったらしい。ボールの射線上に飛び出した俺は、しかしボールに当たるまでもなく意識を失ったのだろう。病院に運び込まれた患者がどういうプロセスを通じてベッドに寝かされるのかは分からないが、静けさと日の明るさから言って今がまだ日曜日という事もあるまい。学校に行けなかった事自体はとても残念だが、なに折角平日他の連中が学校に言っている中太平楽にボーッとしていられるのだからそう悲観する事でもない。そう考えた俺は今一度の眠りに就く前に一目くらい空の様子を見ておこうと考えベッドの脇に目をやった。

 

 寝ぼけ眼を陽の光が焼いたように、外は燦々と日光が降り注ぐ快晴だった。雲も少なく、見える範囲では1つ大きな雲海が遠くの方の空を動力のない船が水面を行くような速度で横切って行くのが見えるきりだ。太陽は中天を過ぎ、傾き始めたそれが高層ビルに大きな影を落とさせているのが見える。だが、やがては西の空に消える太陽もあと数時間は陰りを見せないだろう。正にこれ以上ない穏やかな日常という奴だ。思わず病院のベッドの上で人生のピークを迎えているんじゃないかと錯覚させるその風景を一通り楽しんだ俺は、そのまま視線を横に移動させて丁度俺の正面まで動かした。窓の端でまとめられたカーテン、白い壁、花瓶に活けられた名前も知らない花、そして雪ノ下さん。

 

 うん、実に標準的な病室の風景だ。これ以上はこの機会を俺に与えてくれた神様にも失礼だろう。誰に憚るでもなくこんな時間からベッドに横になれる時間を有効活用すべく、俺は起こしていた状態を再びベッドに横たえて深く毛布を被った。

 

「やっはろー、比企谷君」

 

 何処かで聞いたような挨拶をしてくる雪ノ下さん。参ったな、話しかけられた以上このまま二度寝する事が出来なくなってしまった。

 

 俺は小さな幸せを放棄して上体を起こし、俺の正面で椅子に腰掛けた雪ノ下さんに視線を向けた。

 

「こんにちは雪ノ下さん」

 

 ついでに身の回り品がその辺に無いかと探ったが、財布もケータイもベッドの近くには置いていないようだ。しかし、何でこの人が俺の病室に居るんだ? パッとこういう時に見舞いに来る人間をリストアップしてみたが、そもそもこの人は候補にすら上がってこない。まあ、リストっても二桁に満たないような数なので誰も居ない可能性の方が余程高いのだが。

 

「どうして雪ノ下さんがそこにいらっしゃるんですか。今日平日ですよね?」

 

 失礼とも取られかねない素朴な質問だったが、この人相手に今更気を使うというのも変な話だ。散々俺の学生生活を引っ掻き回してくれてる訳だし、もう少し無遠慮に接していきたい。そう思い思ったままの事を聞いてみた訳だが、雪ノ下さんの解答は予想だにしていなかいものだった。

 

「いやー、今回の件で両親に絞られちゃって」

 

 あんたを叱るような人が居るとはな。平塚先生すら平気な顔して跳ね除けてみせた、俺からすれば怪物級のメンタルの持ち主である雪ノ下さん。それを黙らせる雪ノ下の両親ってのは、やっぱり雪ノ下さん以上の化物なんだろうか。

 

 俺の中で雪ノ下家の勝手なイメージが出来上がっていく。そういえば雪ノ下の家庭事情など全く知らないが、雪ノ下さんより更に恐ろしい大人が就くような職業と言ったら士業か政治家辺りしか思い浮かばない。

 

 そんでこの人が順当に親の背中を見て育った場合にゃ、絶対君主制でも復活しかねない勢いである。

 

「静ちゃんも居たとはいえ、学生の中では年長さんだったしね。それで暫く自宅謹慎を命じられちゃったから、しおらしい顔してお見舞いに行きますって言って抜け出して来ちゃった」

 

 いやいや、この人今俺を目の前にしてしれっとしおらしい顔してとか言ってくれてますけど。てへぺろっとやってみせる雪ノ下さんの顔には悪びれた様子など欠片も見られない。俺自身雪ノ下さんに何かされたとは思っていないのだが、それはそれで納得の行かないものが有る。

 

「両親も真っ青な顔してここに駆け込んできてさ。そりゃ娘2人揃って同じ男子学生を連続で失神させたなんて事聞いたら慌てるかー」

 

「字面だけ追ってくととんでもなくバイオレンスな感じですね。実際は雪ノ下さん殆ど関係ない訳ですが」

 

「えー、どうしてどうして? 私の打ったボールで気絶したわけじゃないの?」

 

 ずっと寝ていた俺には分からないが、雪ノ下さんの両親は大した醜態を演じたらしい。それが可笑しいと言いたげに雪ノ下さんは口角を持ち上げる。ぞっとするような冷気が唇の間から漏れるような、そんな笑みだ。雪ノ下と雪ノ下さんの事ですら頭が痛いというのに、この人は自分の両親にさえ何か思う所が有るらしい。是非他所でやって欲しい。そしたら5000円払って見物に行くから。

 

「ゲーム始まった段階でもだいぶグロッキーでしたからね。咄嗟に動いたらさーっと血の気が引いてボール食らう前に意識なんか大分なくなってましたよ」

 

 痛い思いも少なくて幸いというか何というか。これも俺の日頃の行いという奴だろうな。見ている人は見ていると。

 

「ふーん、そうなんだ」

 

 いつだかも聞いた気の無い返事。だが、あの時と違って面と向かって話しているせいか行動に伴う印象が違う。単に興味が無いというよりもこっちを観察しているような、目をこちらに向けていないのに凝視されているような感覚とでも言おうか、そういう印象を受ける。

 

「まあ、雪ノ下の事も特に恨みに思ってるとかじゃないんで。どっちかっていうと気がかりなのはこれから起こる色々ですかね」

 

「あははは、そこまで考えが至らないとは君もまだまだだねー。静ちゃんに普通に病院に連れて行ってもらえば良かったのに、あんな風になるまで我慢するんだもん」

 

 今回の1件で平塚先生と雪ノ下の両親には迷惑と心配をかけてしまう結果になった。両者純粋に俺の心配をしてる訳でもないだろうが、平塚先生にはお世話にもなっているというのに大変な不義理を働いた。登校したら頭を下げに行かなければ。

 

「でも残念。比企谷君ってば私の期待よりもずっとしょうもない人だったんだね」

 

「……ええ、期待して貰ってたとこ悪いですけど俺の自慢出来る所なんか小町が可愛い位ですからね。それ以外はてんで駄目、並以下の男です」

 

 見舞いに来たという割には毒気たっぷりの雪ノ下さんにいきなり罵られる。どう反応するか迷った結果雪ノ下にしてる様に謙って同意してみせると、雪ノ下相手にした時とは反対にその効果は芳しくなかった。雪ノ下さんがムッとした表情を作る。

 

「面白くないなー。そこは何か一つ位自慢できる所を挙げようよ。徹底的に否定してあげるのに」

 

「いや、それが本当にひとっつも無いんですよ。誰相手にしたって自慢できる所なんか。だってそうでしょ?」

 

「何が?」

 

「自慢てのは他人の事を知って、その上で自分が他人よりも上だと吹聴するための行為でしょ? でも、俺他人が何が出来て何が出来ないのか全然分かんないですし」

 

 流石に大抵の人間が歩く走る考える話す位の事が出来るのは知っているが、それ以外はあんまり。そもそも自慢したい相手もいないしな。

 

「何それ? 普通自慢する時そんな事考えないよ」

 

 雪ノ下さんはそこで一呼吸おいた。視線が俺から外れて明後日の方向を向いたまま雪ノ下さんは話を続けた。

 

「そっか、でも他人の事が分からないから自慢出来ないっていうのは少し面白いかも」

 

「何処がです?」

 

「その無関心ぷりがさ。だって多少一緒に居れば相手の大体の事なんか分かりそうだし、分かろうとするでしょ? なのに君ってば家族に対しても同じ事言いそう」

 

「自慢じゃないですが、家族の誕生日なんて1人も分からない薄情者ですよ俺は」

 

「お、比企谷君にも自慢出来ることが有った」

 

「良いじゃないですか、家族なんて単なる血の繋がった赤の他人でしょ?」

 

 息を呑む音が聞こえた。が、その発生源は俺じゃない。いつの間にか雪ノ下さんの瞳が俺を捉えていた。真っ直ぐ一直線に俺を見つめている雪ノ下さんの目はいつものような光にあふれたキラキラした目でも、薄暗い闇がこぼれる目でもない。一切の揺らぎを失い、意識の全てを奪われたかのように一心に俺を見る。

 

「何か変な事言いましたか?」

 

「そりゃ変だよ。なーに? 血の繋がった赤の他人て。そんなの聞いたこと無いよ」

 

 抑揚を失った平坦な声で雪ノ下さんが喋り始める。そんな調子の癖にその声自体は今まで聞いたことが無いほどに『重い』。未体験の普通に話していて正面から圧されるような感覚。

 

「そりゃそんだけ俺が薄情者で、そんな事を四六時中考えてるってだけの話です」

 

「そんな事言って、どうせ家族の事が大好きな癖にー。ツンデレかな?」

 

「馬鹿な事言わないで下さいって。まあ好きか嫌いかなら好きだとは思いますけど、だからって俺に他所様みたいに家族が大事に出来るかって言うと首を振らざるを得ないですね。両親共に俺よりも小町の方を可愛がるのが好きみたいですし、そういう意味じゃお互い様と言えるかもしれませんが」

 

 そればかりは自分にとっては幸いだ。ウチの親が小町にしているような事を俺にされた日には鬱陶しくて仕方がない。今のように猫を放し飼いにするようなスタンスを今後も貫いてくれることを祈ろう。かと言って両親の世話になっていない筈がないので、やっぱりこれは俺が厚顔無恥なせいなのだろう。

 

 しかし、先程から雪ノ下さんとの会話は多分殆ど見ず知らずの顔見知りとの話題にしては地味で詰まらないネタばかりだ。雪ノ下さんと俺はこんなだらだらとした会話を楽しむ友人の様な関係ではなかったと思ったが。

 

 俺が首を傾げてみせると。

 

「何か変な事が有った?」

 

 と尋ねて来た。普段なら人の心など難なく読んでみせる雪ノ下さんがこんな事を聞いてくるなんてな。本当に余裕を失っているか、それともまたこれも演技なのか。そんな事を病院のベッドに居ながら考えるのは馬鹿のやることだ。俺はもう雪ノ下さんのなすがまま、会話に臨む。

 

「俺と貴方がこんな世間話をしてる事が奇妙だと思いまして」

 

「世間話って、いっつもこんな話してたら友達いなくなっちゃうでしょ」

 

「あれ? 知らなかったんですか? 俺って友達居ないんですけど。少なくとも雪ノ下はそのつもりで俺に友達を作ってくれるらしいですよ」

 

 友達の作り方を教えてくれるんだっけか? まあどっちにせよ些細な違いだ。俺はそれ以前だからな。しかし、これは朗報か? あの日雪ノ下が部活で俺の家に来ていたことを突き止めていた雪ノ下さんが俺に関心を持っていたら、今頃俺の個人情報は丸裸にされている。俺がぼっちだという事を今初めて知ったのが本当だとしたら、この人は俺に興味が無いと言えるんじゃないだろうか。

 

 唯でさえ臆病な質の俺である。分かりきっている事でも安心できる材料は1つでも多い方が良い。

 

 現に雪ノ下さんの意識はここには居ない妹に注がれているようで、そこから飛び出す毒々しい言葉に似つかわしくないたおやかな唇で。

 

「へえー、雪乃ちゃんがお友達作りのお手伝いをねえ」

 

 などと感慨深げに呟いていた。

 

 このままその注意を雪ノ下に逸らしてしまおうと俺は話を続ける。逃げ場のないこの病室でいつまで居座るつもりかも定かでない雪ノ下さんに見据えられているのはやはり具合が悪い。

 

 くわばらくわばらと胸の内で呪文を唱えてから口を開いた。しかし、この場合は雪ノ下を避雷針代わりに差し出そうとしているので人身御供の方が近いな。

 

「今のところ目に見えた成果は挙がっていないことは今言った通りですけど。あの時は雪ノ下の奴が黙っていても人が寄って来るとか言ってて」

 

 どんだけ自信過剰なんだよ。そう続けようとした俺の言葉よりも早く、雪ノ下さんが言葉を継いだ。

 

「その通りになっちゃうんだよね。雪乃ちゃんだけじゃなくて私もなんだけど」

 

 そりゃそうだ。あの雪ノ下の周りに人垣が出来るなら、当然雪ノ下さんにも同じような物が出来るに違いない。

 

「でも雪乃ちゃんの方がマシかな。あの子、あんまり愛想よくないからね。時代めいた言葉で石姫(いわひめ)ってアダ名を付けた人が居たくらいだし」

 

 少なくとも小学生中学生のセンスじゃない。多分学校の先生か、雪ノ下さんの親の知り合いの誰かなんだろうが、普通愛想が悪いってだけの子供にそこまで言うかね?

 

「それにさ、私は父の名代なんかも努めたりするから大人の人も結構居てさ」

 

「お父さん、そんなに偉い人なんですか?」

 

「あれ? 比企谷君もしかして気づいてない? うちの父県議会議員やってるんだけど。卒業式にも出てた筈なんだけどなあ」

 

「卒業式なら寝てました」

 

 練習、予行、本番とどれ一つとして寝落ちしていない物がない。幸いな事に親切な隣席の男子生徒が起立する直前に起こしてくれるので先生に咎められる事も無かったが、その彼は今年はクラスが別れてしまった。今年は多分葉山辺りが隣に座ることになると思うのだが、彼は果たして目覚まし時計役を担ってくれるだろうか。

 

 まあ、そんな他所事はおいておいて雪ノ下さんの親が県議会議員をやっていて、学校行事にまで顔を出してくるというなら周囲の人間もそれを意識せざるを得ないだろう。まさかお偉いさんの子供だからという理由で人と親しくなろうなどという奴が現実に存在するとは思わなかったが、きっとそれなりの数が居たのだろう。おまけに雪ノ下さんは学校外でまで、今度は大人に囲まれるような経験をしてきたと。

 

 想像するだけでげっそりするような話だ。

 

「うへえ」

 

 思わず声にまで出してしまう程だ。それを見た雪ノ下さんが微かに相好を崩す。

 

「比企谷君はやっぱり私の期待には答えてくれないなあ」

 

「そりゃ自分の為に生きてますから何でもかんでも他人のお眼鏡には敵いませんよ」

 

 雪ノ下ならば『まるで貴方に幾らかは他人の眼鏡に適う所が有ると言っている風に聞こえるけれど、そんな所有ったかしら?」とか言われそうな場面だが、雪ノ下さんの場合その目がそっと細められた。だからなんでさっきから反応がクリティカルなんですかね。もっと戸塚に対してやったみたいなほわほわっとした対応をされたいよ俺も。そもそもこのシチュエーションで貴方が俺に期待していたリアクションてどんなだよ。

 

「基本的には外面は良くしておけと思っている俺ですら想像しただけで辟易しますよ。いつもお勤めお疲れ様です」

 

「比企谷君のそれは外面を良くしてるんじゃなくて単なる素でしょ、殆ど。でも、ありがと」

 

 頭を下げてみせると雪ノ下さんはいつもの調子に戻って鷹揚にそれに応える。今のところ怒ってはないみたいだが、他人の、特に女性の逆鱗など何処に有るのか皆目検討がつかない。びくびくとしながらもそうは見えぬよう気を張って会話を続けた。

 

「でもあれですね、大人に囲まれてるっていうんなら年頃の女の子なら嬉しかったり……しないか」

 

 しかし話題のチョイスが最悪すぎた。いや、おかしいぜ、流石に。女子相手なら恋バナこそ鉄板、雪ノ下さん程の美人ならそれこそ浮き名を流していてもおかしくなさそうな雰囲気だけに俺はこれなら安牌かと思って切ったのだから結果として地雷を踏んだというのが正しいか。兎に角一瞬にして全身鳥肌が立ち、雪ノ下さんの放つオーラが様変わりした。ひええええ。なんで? 年頃の女の子って年上の男性が好きとか、同年代の男子はガキっぽくて駄目とか言っているイメージなんだが。

 

「そういうのが無い訳じゃないけど、両親の知り合いなんて皆おじさんおばさんばっかりだから。たまに、子供を私に紹介する人もいるけど私の母がそういうの許さないからね。まだ、それこそ眼鏡に適う人が現れていないってだけだと思うけど」

 

「へえー、雪ノ下さんでもお母さんの言う事には逆らえないんですね。結構好き勝手やってそうに見えますけど」

 

「母は怖い人だからね。って、比企谷君ひどーい。私ってそんなに自分勝手に見える?」

 

 まるでそこら辺で交わされている会話のようだが、雪ノ下さんの声と表情の乖離が水と油のようである。試したことはないが、それをそのまま口に含んだら吐くほど不味いだろう。

 

 声だけ聞けば、雪ノ下さんは笑っているように聞こえるだろう。だが、顔の方は全く能面のように平坦で全く内心が読めない。そもそも雪ノ下さんの内面など覗き込んだこともないが、それにしたってこれは。

 

「好き勝手と自分勝手じゃ随分イメージ違いますよ。雪ノ下さんは……まあ、そうですね。周りに迷惑は掛けずにだけど自分の意見を押し通してるというか、自分の都合のいいように展開させてそうというか」

 

「いやいや、母の方が私よりずっと怖いからね」

 

 親子、あるいは親子ほど歳が離れていれば、この人の怖さもまた感じないという事か。それとも雪ノ下さんの言うように雪ノ下母が本当に怖い人なのか。今時自由恋愛も許されないなんて時代錯誤と思うが、偉い人達にとっては時代なんてものは無いのかもしれない。そもそも支配者層である彼らにとって時流というのは認識として常に自分の下にあるものであるからして。

 

「だから、雪乃ちゃんが一人暮らしを始めるって言った時も父を味方にしたとはいえ、結果としてそれを許された時もちょっと意外だったんだよね。まあ何より意外だったのは雪乃ちゃんがそこまで強硬な姿勢を取った事なんだけど」

 

 それはまた。雪ノ下さんですら逆らえない雪ノ下母に、雪ノ下さんにすら勝てない雪ノ下がそれを要求するのは大変な覚悟が要ることだろう。それとも案外雪ノ下さんのいない所では雪ノ下母は雪ノ下に甘いとか?

 

 しかし、雪ノ下家の人間関係に思いを馳せる前に気にかかった事を確認しておこう。

 

「あの、もしかして俺に愚痴ってません? さっきからさりげなく私可哀想とか、雪乃ちゃんずるいみたいなそんな風に聞こえるんですけど」

 

「あー、やっと分かってくれた?」

 

 今日初めての笑顔を浮かべる雪ノ下さん。それも俺が初めて見るような邪気のない笑顔だ。それが何故だかとても恐ろしい物の様に感じられるのは何も俺の錯覚ではないだろう。非常に失礼な物言いとなるのであくまで心の中に留めるが、この人が普通の人っぽいことしてると薄ら寒いというか、不気味というか。まあ雪ノ下さんも只の人間には違いないのでそういった面が有ることは想像はついていたが、それを受け止められる度量は俺にはない。

 

 困った俺は曖昧な笑顔を浮かべてご機嫌の雪ノ下さんと向き合った。

 

「やっと気付いてくれたね。露骨にそう仕向けてたのに反応が悪いからどうしようかと思ったよ」

 

 どうしよう、がどうしてくれように聞こえるような錯覚を覚えても、やはり雪ノ下さんは笑顔のまま。お。怒ってないんだよな?

 

 ベッドの上の俺はこれ以上雪ノ下さんとの間に距離を取ることも出来ず、かと言って大の男が布団に隠れるというのも恥ずかしく凶悪な(気がする)雪ノ下さんの視線に身を晒し続ける。緊張で体が震えたりしてるけど、ダイエットになったりしないかしら。

 

 目線を雪ノ下さんから逸らして狼狽えていると、雪ノ下さんが組んでいた足を下ろして上体をこちらに倒した。ベッドの正面の椅子からなのでさして距離が縮まった様な感覚はないが、シャツの胸元から除く鎖骨が強調される。

 

「で、どう思う?」

 

「どう思うとは?」

 

 質問の意図が上手く飲み込めない。どう思うとは何をどう思う事を指しているのか。単なる疑問なのか、それとも何かのテストなのか。この人との会話をしていると常に会話の裏に意識を取られすぎてこんな間抜けな事を考えだしてしまう。そんな事どっちだっていいのだから簡単に答えてしまえばいいものを。

 

「雪乃ちゃんを虐める私が雪乃ちゃんを羨んでいるという事。雪乃ちゃんの事を大好きだと語った私が雪乃ちゃんに嫉妬しているという事について」

 

「そんな事ですか。それに対して何を思えっていうんです? 勝手だとかふざけるなとか、雪ノ下可哀想とかです? いやー」

 

 肩を竦めて否定のポーズを取る。何か理由が有るにせよ確かに雪ノ下さんの雪ノ下への仕打ちは理不尽と言わざるをえないものだろう。だが、それは雪ノ下さんの境遇や心境にもっと通じた人間が判断出来ることで、俺じゃ彼女が何故そうするのか想像する程度しか出来ない。

 

「なるほど。まあ単純な愛憎による行為だとしたら相当ヤバイ人なので、それに比べたら万倍マシって所ですかね」

 

 近年問題視されていることだが、日本の政治家は世襲が多い。雪ノ下両親もそれに外れず娘にそれを引き継がせようとするなら雪ノ下さんは正に格好の標的という訳だ。親の名代でパーティなどに顔を出すなら顔繋ぎが目的と言えるだろうし、これに関しちゃそう的はずれな推測でもないだろう。

 

 政治家ってのは3つのバンが必要と言われている。地盤・看板・カバンだ。最後のカバンは金の意味だが要するに現地との結び付きと強固な血縁と資金力。これらは全て親から受け継ぐことが出来るものだし、最近じゃ4つ目のバンとして評判が加えられたらしいが、雪ノ下さん家はこの4つを兼ね備えた後継者を手に入れているわけだ。これだけ美人ならマスコミってもんが騒がない訳が無いからな。

 

 雪ノ下の家に生まれた事で、生まれながらに自由を奪われることが決まっている雪ノ下さん。支配的な母親。最終的に雪ノ下さんが政治家になる道を志す可能性も有るにせよ、束縛を嫌うような性質の人には耐えられないような事だ。だが、そんな彼女とて母親には逆らえない。とくれば身近にいる自分に憧憬を抱く自由な妹、これを標的に鬱憤を晴らすというのも考えられなくはないだろう。

 

 陳腐で詰まらないありきたり以上の感想を持てない状況だが、渦中に有る人物にとっては悲劇でしか無いだろう。雪ノ下さん然り、雪ノ下然り。

 

 しかし、本当に雪ノ下の家が権力に貪欲だというなら雪ノ下の将来も似たようなものだろう。これだけの美貌、将来性を秘めた雪ノ下さんはまだ結婚という道具を使う場面にない筈だ。それこそ下手に政治家として頭角を現す前に、別の政治家とくっついてしまえば家ごと飲み込まれる結果すら有るからだ。しかし、雪ノ下は、雪ノ下ならばそういった事を気にする必要がない。何せ政治家としての座は姉が継ぐのだ。妹である雪ノ下は他家との強力なコネクションとして十分に機能するだろう。

 

 雪ノ下さんがその事に気がついてないとは思えないが、そうなってくると雪ノ下への態度、その原因はまた単純な嫉妬とも言えなくなってくる。そもそも目的が別で、妹と自分の立場をそっくりそのまま入れ替えるのが目的か。いや、だとしても根本的な解決にはならないだろう。何せどちらにしろ家からの束縛からは逃れられない。

 

 あるいは、あるいはそもそも両親の目的が雪ノ下さんの躍進ではなく、雪ノ下さんを自分達の為の道具として扱うならば雪ノ下さんの結婚というのもあながち否定出来ない可能性を帯びてくる。

 

 子は親の心を実演する名優である。子は親の鏡という言葉が示す通りだとすれば雪ノ下姉妹の関係と歪みから両親の人間性も透けて見える。

 

 雪ノ下両親の年齢を大体50代だと推定すれば政治家としては油が乗り始めた時期と言えるだろう。何にしろ愉快な未来が見えない材料が揃いすぎていると言っても過言ではないだろう。

 

「それで、俺に可哀想って思ってもらって雪ノ下さんは何がしたかったんです? 言っときますけどその辺のボンクラ以下の私には何も出来るとは思えないですけど」

 

 謙ってみせる事で興味を逸らそうとするというよりは冷静な自己評価を述べたつもりだったのだが、雪ノ下さんは却って目を輝かせた。

 

「何かしてくれようと思うことが重要なんだよ。流石に私もただの冷血人間とは組めないからね」

 

「組むってなんですか組むって」

 

「私と一緒に私の未来を勝ち取るために戦って」

 

 何処かのファンタジー小説並の台詞が雪ノ下さんの口から語られた。しかもその口調が間違っても懇願や哀訴の響きを持つものではなく、命令や要求の類だとは。何処までも自分勝手なお姉さんである。

 

 そして事ここに至って、雪ノ下さんは真面目以外の何者でもなかった。居住まいを正すでも、頭を下げるでもなく、しかしいつもの調子とも僅かに違い馴れ馴れしさを感じさせるような事もない。

 

 雪ノ下さんと俺の位置や姿勢は全く変わっていないのに、ぐっとこちらに乗り出してきたような距離感が近くなった錯覚を覚える。

 

 が、誰に頼まれようと、どんな事情があろうとも俺が雪ノ下さんの為に何かをする理由にはならないだろう。とっとと、とっととお帰り願おうと俺は雪ノ下さんを突き放すことにした。

 

「……」

 

 そう心で決めたというのに、俺はどんな言葉を口にすべきか決めかねていた。嫌です、とそう一言言えば済みそうな話なのだが、どうにも俺にはそれが出来そうにない。そんな言葉を発声しようとする発想すら生まれてこないのだ。

 

 あるいは口を動かせば自然と言葉が出て来ることを期待してみたが、なんてことはない阿呆みたいに口を開閉しただけに終止してしまう。

 

 この怪現象は一体? 雪ノ下さんが妖術を体得していたとでも言うのだろうかと現実から目を逸らすのも止める。

 

 認めよう。俺は最初からそんなつもりなどないのだと。

 

「うんうん、比企谷君が優しい男の子でお姉さん嬉しいよ」

 

 満足気に頷いてみせる雪ノ下さんにはこうなることはとっくにお見通しだったという訳だ。それにしたってもう少し殊勝な態度を取ってみせて欲しい物だが、雪ノ下さんを屈服させて遊ぶなんて、腹を空かしたライオンの檻に生肉をぶらさげた腕を差しこむような遊びに講じる勇気は俺にはない。素直に諦めておこう。

 

「でも、優しいだけの男の子だから今までぼっちだったんだろうね」

 

「他人の口から俺の分析なんて聞かされるのはゴメンですって。俺が単なるコウモリ野郎だってのは割りと自覚も有りますし」

 

 そしてこの人が折角協力関係を築いた相手を握手しながら虐げる性癖だという事にも目を瞑ろう。本当俺、こんな人とこれからも上手くやっていけるのだろうか。

 

 普通の笑顔を浮かべ続ける雪ノ下さんにふと疑問を思いつく。

 

「そんな風に俺を頼ってもらえるのは嬉しいんですが今までにも助けてくれそうな人なら幾らでも居たでしょう? なんでその人達に頼らなかったんです?」

 

「ああ、それ?」

 

 そんな事? とまるでごく簡単な問題の解法を問われた時のような顔をする雪ノ下さん。ちらっと悪魔のような舌先が悪戯そうに顔を見せる。

 

 ちなみに俺は常々後悔先に立たずって言葉の意味を噛み締めてる。間が悪いんだか、俺の頭が悪いんだか、兎に角日に1度は必ずああ、あんな事しなければ良かったと思うようなことをやってしまうからなのだが。この日最高の後悔先に立たずは間違いなくこの一言だったと断言できる。ああ、俺って本当に馬鹿。

 

 雪ノ下さんは太陽の光を反射してるんじゃないかって程素敵に目を輝かせながらこういった。

 

「そんなの居るわけないじゃない。だって、私や雪乃ちゃんを見て眼の色を変えない、可哀想な雪乃ちゃんに同情しなかったり私の雪乃ちゃんへの態度を知って怒らない、私の母相手にしてまともに口を聞けそうな抜けてる所が有って、尚且つ私に協力してくれそうな馬鹿にお人好しな人なんてそうそう見つかりっこないよ」

 

 えー、順に男としてどうかしてる。冷酷非情、礼儀知らず、馬鹿と翻訳すればよろしいんでしょうか? そう尋ねるのだけは踏み留まった俺グッジョブ。いや、もう既に散々地雷を踏み荒らした後ではあるが。

 

 まあ、どれだけ俺が貶されていようと雪ノ下さんが嬉しそうなのだし別にいいだろ。そう納得しようとする俺のベッドに、雪ノ下さんが近づいてきて腰掛ける。

 

 ウブなねんねじゃあるまいしその程度の事で驚く俺でもなかったが、雪ノ下さんが態々近づいてきた事には首を傾げた。

 

 普通交渉事なんかの時には相手と距離を開けずに座ったほうが親近感やプレッシャーを感じさせやすかったりで成功率が高いと言うが、もうその段階は終わっているというのに今更になって接近してくるのは。

 

 これもまた俺の悪い癖の1つだろう。危険が迫っている時や、逆にチャンスを物に出来そうな時怖気づいて考え込み始めてしまう癖。これもまた幾度と無く反省を促しているのだが俺の鈍さというのは筋金入りらしい。

 

「……っ!?」

 

 コンビニでの接近を遥かに上回るお互いのまつげが触れ合う程の距離感に雪ノ下さんの顔が。

 

 ばかばかしいと思うかも知れないが、その状態で俺は雪ノ下さんにこれほど近づかれているというのに俺自身全くドキドキしない事に驚いていた。そのせいで眼球よりももっと下、先程まで吐き出す事ばかりを考えていた器官からねっとりと生暖かく甘い匂いを発するが流れ込んでいる事に気が付くのが遅れてしまった。

 

 直ぐ様方を押し退ければまだ脱出の余地が有ったのかもしれない。が、時既に遅く、俺が呆然としているのをみるや逆に雪ノ下さんが俺の方を押しており、気づいた時には俺は病院のベッドに押し倒されたばかりか体の上に雪ノ下さんが乗っかっているという異常な事態に直面していた。

 

 慌てて首を捻って唇を逃がそうと試みるも、これもまたいつの間にか頭をガッチリと抑えこまれて身動ぎ1つ出来ない。

 

 そうして退路も進路も塞がれ、最早乙女のように抵抗することすら許されない俺は大人しく時が過ぎるのを待つことにしたのだった。

 

 そうして待つ間、下らない事だが雪ノ下さんについて分かった事が幾つか。

 

 まず、雪ノ下さんは恐ろしく軽いという事だ。身長自体がそもそも女子の平均よりもやや大きめの彼女は何処とは言わないが体の一部が平均を大きく逸脱していたり、あれだけの運動を支えるだけの筋肉を持っている筈なのだが俺の体が感じる圧迫感は人1人が乗っかっているとは到底考えられない程度だ。そもそも女子の重さなんて実感した事もデータとしても知りはしませんが。

 

 次に、雪ノ下さんは甘い匂いがするという事。鼻先まで近づかなくとも女性って生き物ははっきりと分かる程匂いを発しているものだ。シャンプーの匂いだったり、香水の匂いだったり。だが、今初めて知った事だが、女性そのものが持つ体臭というのはそれらよりもずっと、ずっと強く香る。それも雪ノ下さんの人間性を裏切る爽やかで温かみを持った匂いだ。男とは違う種類の人間臭さ。今まで嗅いだことの有るどんな匂いよりも鼻腔を刺激する芳香。安らぎと落ち着かない気持ちをブレンドしたような。

 

 後はそうだな。雪ノ下さんが思いの外頼りない体格をしている事。倒れ際何かに掴まろうと反射的に雪ノ下さんの背中に手を回したが、その感触が思ったよりもずっと頼りない。勿論雪ノ下さんが非常識な程に痩せすぎているという事もないだろうし、これが世間一般の女性の感触という物なのだろう。それがあまりにも予想とかけ離れていたがために、一瞬雪ノ下さんが非現実的な存在の様にすら感じられてしまう。俺はそのまま雪ノ下さんの体を抱き寄せようとする両腕を制止する為に神経の何割かを割かなければならなかった。

 

 いかんいかん、これは童貞こじらせ過ぎだろう。幾ら経験が無いからといって女性の体に触れただけで色々と想像し過ぎである。世の男性は女性に幻想を抱き過ぎと言われる事も有るだろうが、まさか俺は現実すらまともに受け止められないとはな。もう3次元を捨てて2次元に走るしか。ところでパンさんて性別はなんなんだろうか。あのロックな格好からして順当にオスなのか。それともクマ科らしく気性が荒そうな風貌からしてメスなのか。うーん、謎だ。

 

 そして唇同士を触れ合わせたまま数十秒、何の準備もなしに息を止めれば苦しくもなってくる。鼻で息をすればよいという向きも有るだろうが、考えてみて欲しい。目の前の美女の顔面に俺の鼻息など掛けられるだろうか。うん、無理だ。

 

 その状態は身動きも呼吸も出来ず、俺が意地のあまりそのまま昇天しかける寸前になるまで続いた。

 




書いてたらまたしても膨らみすぎる。
大体テニスの話が始まってからが長すぎである。

でも大丈夫。今日中に後半も上げるから。そしたら長すぎるけど形式上2話に分けただけになるから次こそラストは嘘にならない。

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