本物のぼっち   作:orphan

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第12話

 さて、大魔王雪ノ下さんの来襲によって部室の空気がスゴイ事になった翌週の日曜日。俺達奉仕部プラス戸塚プラス由比ヶ浜の4人が総武高校テニスコート前に集合していた。そう、何を隠そうレンタルコートの類は借りていない。だって高いんだもの。1時間うん千円とかね、そんなん出すくらいだったらとどうにか学校のそれを借りれないか相談してみた結果。それがどうにか通ったらしい。通ってしまったらしい。前もって平塚先生に話を通しておいて良かった。そもそも土曜日の練習が無いという段階でこのテニス部のやる気の無さがよく理解出来るというものだが、案の定テニス部顧問が土曜のコート使用許可を出すのを渋った。テニス部の練習という名目でも首を縦に振らず、雪ノ下さんの名前も出すには出したが今度は効き目が薄かった。顧問の覚えは良かったものの如何せん部外者を土曜日にコートに招き入れて、挙句使用する人間の大半がテニス部員ではないというのが不味かったらしい。

 

 部活動の活発でない我が校では土日の練習なしの部活など珍しくはないが、そこに部外者を招き入れて少数で使用しているのはいかにも遊んでいる風に見えてしまう。ただでさえ開放されていないテニスコートである、他の学生への体面も有るという理由で担任は頑として頷かず、あわや財布の緊急出動かとも思ったが、この辺の反応も前もって予想済みだった平塚先生は、ならばとその日のテニスコートの使用許可をテニス部としてではなく、奉仕部として取るのならどうでしょうと提案したのだった。当日の監督も平塚先生自身が行い、道具の遺失等に関しても責任を持つと言うと顧問は渋い顔をしながらも了承し、どうにかテニスコート使用のめどが立った。本当平塚先生さまさまである。当日は泡の出る麦茶でも差し入れようかと思ったがよくよく考えてみると平塚先生は車通勤だったので、お礼の方は今度別のものを考えるとして、先生には俺が購買でゲットしたデザート系のパンを献上しておいた。

 

 この際聞こえた「これで実家に帰らずに済む口実が出来た。くっ、最近はプレッシャーが。……私だって」という言葉は聞こえていなかった事にしてやるのが武士の情けという物だろう。何だか込み入った事情が有りそうだが、実家に居辛いというのはさぞ辛いだろうからな。

 

 幸いな事にその日は俺のバイトも休みが取れた。週に2回しかない貴重な出勤日だったので、これが削れると俺の給料に大打撃が加わってしまうのだが、欠席する訳にもいくまい。万が一雪ノ下さんが高笑いしながら戸塚をこてんぱんにして自信喪失させる様な事になったら迅速に止めに入らなければならないからな。そうなった時、雪ノ下や由比ヶ浜では少々不安が残るし、平塚先生にそこまでの手間を掛けてしまっては申し訳ない。雪ノ下さんが相手なら戸塚が試合中にイップスになっても不思議ではないとさえ俺は思っている位だ。

 

 雪ノ下は雪ノ下であれからずっと顔色が優れず、部活においてもいつもの精彩を欠いていた。いつもなら何か罵詈雑言が飛んできてもおかしくない状況でも雪ノ下が黙っているものだから、奉仕部はいつもに輪をかけて静寂を深め、静かにしているのが苦手な由比ヶ浜ですら言葉を発するのを遠慮するようになってしまった。それでも欠かさず奉仕部に顔を出す辺り、由比ヶ浜と雪ノ下の間の友情は俺の知らぬ間にしっかりと厚くなっているようだった。

 

 そうして迎えた決戦の土曜日。またしても総武校側の面子の中で最後に到着した俺は、しかし集まった皆の格好を見た途端猛烈に帰りたくなってしまった。なんで皆テニスのユニフォームを来てんだよ!!

 

「あ、はちまーん。こっちこっちー」

 

 と、太陽にも負けない眩しい笑顔の戸塚は男子テニス部のユニフォームを着ているし。

 

「…………」

 

「ヒッキー遅いよー。早く早く」

 

 と雪ノ下と由比ヶ浜は何処から引っ張り出してきたのかピンク地に肩の部分が赤くなったシャツと白いスカートを身に着けている。

 

「比企谷か。陽乃の奴が遅いな。悪いが一服してくる、すぐ戻ってくるが陽乃が来たら先に始めてくれて構わない」

 

 例外的に平塚先生だけは黒のジャージを来ていたが、それだって平塚先生のスタイルの良さを際立たせるようなタイトさや程よく入った白のラインが決して平塚先生の格好良さの足を引っ張っていない。

 

 こんな美少年美少女美女の集まりで、雪ノ下曰くパッとしない俺だけが衝撃的にダサい学校指定ジャージを着ているのである。これで帰りたくならない奴が居るだろうか。見物人がいないだけマシだとせめて自分を慰めないと、踵を返そうとする足を前に動かすことも出来なかった。サッカー部が練習しているグラウンドを横目に脇目も振らずにコートにひた走った。

 

「雪ノ下さんはまだ来てないのか」

 

「……」

 

 血縁である雪ノ下と雪ノ下さんはてっきり一緒に来るものかと思ったが、集まっているのは雪ノ下だけ。態々別々に出てきたのだろうか。去年の春俺を跳ねたハイヤーなりで一緒に来れば良かったのに。そう思ったのだが、雪ノ下は俺の言葉に俯向いた顔を上げる事もなく、無視を貫いた。ここまで雪ノ下さんの事を警戒されると俺までビビってしまう。どうせ過去のトラウマを掘り返されているのだろうが、どれだけ凄惨な光景を目にしてしまうのかと。そんな雪ノ下に寄り添うようにして立っている由比ヶ浜も困惑と緊張を隠せない表情をしていて、そうなってくると今回の練習試合の主役戸塚も浮かない顔で珍しく2人から少し遠巻きに立っていた。いつもなら女子と戸塚の距離は肩が触れ合うほど近いのに、男子としては普通の光景だが、こと戸塚に限ってはちょっとした異常事態である。

 

 その戸塚が俺に近づいてきて顔を寄せてくる。

 

「あの、僕何か悪いことしちゃったかな?」

 

 やはり雪ノ下の様子が気に掛かるのか、耳打ちされた内容もいつになく元気の無い雪ノ下に関する内容だ。事情を知らないなりに色々察してくれているのだろう。だが、依頼者であっても戸塚の練習試合自体は俺発案だし、それに雪ノ下さんが乗っかってきたのも彼女の思惑である。戸塚に責任などない。

 

「心配すんなって。まあちょっと姉妹仲が悪いんだ」

 

 戸塚には練習試合の相手が雪ノ下の姉である事は説明してある。雪ノ下のテニスの腕を見て以来すっかり感銘を受けた様子だった戸塚に、雪ノ下より上手いかもしれんと説明した時には恐縮しながらも喜んでいたのだが、今じゃすっかり意気消沈してしまっていた。参ったな、練習試合の相手が雪ノ下さんという意味じゃ最初からぶち壊しにされるリスクも有るが、始まる前からこう暗雲が立ち込めているようじゃ、今日の提案も意味を無くしてしまいそうだ。

 

 そう思って俺なりに精一杯戸塚に声を掛けてみても、そんな物はなにの役にも立たなかった。

 

 俺の気も重くなって溜め息を吐きながら校門の方を見やる。こうなったら先生か雪ノ下さんが来るまで黙っていよう。下手に口を開いても地雷を踏みかねないからな。

 

 そうして雪ノ下さんが現れたのは待ち合わせ時間ぴったり、俺が集合場所に着いてから5分後の事だった。

 

 

「お、皆揃ってるなー」

 

 こんな呑気な事を言いながら雪ノ下さんはやってきた。久しぶりの母校に何処か自信無さそうな顔をしながら校門に入り、コート前に集合する俺達を認めるなり手を振りながら近づいてくる。恐ろしくも無駄な演技力だ。

 

 そんな雪ノ下さんに平塚先生がちくりとお小言を。

 

「皆揃ってるなー、じゃない。集合時刻ぴったりに来る奴が有るか。お前もいい加減大学生になったんだ、それなりに自分の立場に自覚を持ってだな」

 

「わはっ、静かちゃん久しぶりー。そのお説教も」

 

「静ちゃんとか呼ぶな」

 

 先生がまるで先生のようである。と新鮮な驚きを感じる一場面だ。俺や雪ノ下相手には教師という枠を超えた個人としての干渉を強く感じるが、陽乃さん相手では教師的な顔も見せる。それはそれで親しみの現れのようにも感じられるのだから不思議なものだ。現に雪ノ下さんも先生のことを静ちゃんと読んでいるし、向ける表情も俺達の誰に向けるそれとも違っている。ただ、どうあれ先生は雪ノ下さんについては手を焼いていそうだった。

 

 まるで反省した素振りもなくごめんねと謝りながら手を立てる雪ノ下さんに初顔の戸塚を紹介する。

 

「雪ノ下さん、今日は来てくれてありがとうございます。こいつが今日の練習相手の戸塚彩加です」

 

「戸塚彩加です。よろしくお願いします」

 

 待っている間雪ノ下達に見せていた顔とは違う。緊張しながらも喜びを伝える表情で挨拶する戸塚。本当にこいつは出来た人間だ。切り替えが速い。勿論心中では雪ノ下や由比ヶ浜の事を心配しているだろうし、2人にあんな表情をさせている雪ノ下さんについて、何かしら思う所は有るだろう。だが、戸塚の態度はそれを全く感じさせないものだった。

 

 それに比べて雪ノ下と由比ヶ浜は、全く話にならなかった。雪ノ下は絶対に顔を上げないと言わんばかりに俯いているし、由比ヶ浜は怯えの色を隠そうとしない。だが、それも当然といえば当然か。雪ノ下の方は長い付き合いだし、由比ヶ浜は初ファーストインプレッションからして最悪なのに、先日も雪ノ下の異常な態度を目の当たりにしたばかりだ。しかし、こう雪ノ下さんて人はまともな人間関係築けているのかちょっと心配になる人だな。俺とだって多分まともな関係とは言えないだろし。

 

「君が戸塚君? うわー、女の子みたい。かわいいー」

 

 普通の女の子みたいな言動してる所みるといっそ吐き気がするんじゃないかという程、俺の中では歪んだ人物として評価されている位だ。

 

「OK、着替えてくるからちょーっち待っててね」

 

 戸塚に飛びかかるんじゃないかと思ったが、ちょっかいを掛けるのも束の間、そう言ってかけ出した雪ノ下さんに平塚先生が着替えの場所を指示していた。その傍らでテニスコートの扉を開けて、中に荷物を運び込む。ほんの少しでは有るが、先にウォーミングアップを始めてしまおうと言うのだ。小さく胸を撫で下ろしている戸塚にも声を掛けてコートの左右に分かれて立った。

 

 パコン、パコンと乾いた音を立てて俺と戸塚の間を黄色いボールが行き交う。最初は緩やかに、徐々にスピードを上げて。硬式のテニスボールというものは思った以上に硬い。それが高速でラケットにぶつかれば、当然それを持っている手は痺れる。授業で素人と打っているくらいでは感じられない感覚だが、俺は戸塚と練習をするようになってから何度もそれを感じている。ちっちゃい体だというのにそれを上手く使って俺なんかよりも速い打球を打ったりするのである。見上げたものだ。

 

 そうやって暫くラリーのスピードを上げていき、ある程度体が暖まってきたら少しずつボールの軌道や回転に変化を付ける。クロスだったコースがストレートに、ドライブの中にスライスを加えたりして体も移動させる。

 

「ねえ比企谷君。今日は練習試合だって言ってたけど、陽乃さんってやっぱり」

 

 ボールの行き来の合間に戸塚が話しかけてくる。やはりそこが気になるか。

 

「ああ、俺も詳しくは知らないがご心配の通りだと思う」

 

 戸塚を驚嘆させた雪ノ下、その指導を受けている戸塚の試合相手を買って出るくらいだ。本気を出されたら、否、遊び半分でも嬲り殺しにされる危険がある。とはいえ、雪ノ下さんも今回の練習試合の趣旨については了解した上で参加している。戸塚の腕に合わせて振る舞ってくれる事だろう。最初のうちは。

 

 化けの皮が剥がれた雪ノ下さん相手に戸塚がどうなるかは、火を見るより明らか。テニスは最も番狂わせが起きにくいスポーツの一つなのだ。

 

「骨は拾ってやるぜ。安心して散ってこい」

 

「えええぇ。僕死んじゃうの?」

 

「比企谷くーん、聞こえてるぞー?」

 

 戸塚への冗談を、いつの間にかコートに出現していた雪ノ下さんに聞き咎められてしまう。いやだなー、冗談じゃないですか。普通なら雪ノ下か由比ヶ浜に雪ノ下さんのアップの相手をして貰うのだが、今回はどちらにも頼めない。由比ヶ浜は下手くそだし、雪ノ下はあの調子だからだ。気掛かりになって2人を見ていると、打ち返されたボールに対する反応が遅れた。無駄な抵抗になると知りつつも聞こえないふりをしてボールを打ち返すと、それがふわりと浮き上がって空高く昇っていく。やってしまった。

 

 頃合いだった事もあって戸塚がその絶好球、浅めのログを容赦なくスマッシュする。勿論それは俺が到底触れないコースを通って行き、フェンスにぶつかって止まった。

 

 

「うーん、それじゃどうしよっか。戸塚君はもう体暖まってるみたいだけど、私のアップは誰が付き合ってくれるのかな。やっぱり、ゆ」

 

 死体蹴りも甚だしい雪ノ下さんの行動を止めようと手を挙げて立候補する。いつもの凛とした空気など欠片も感じさせず、らしくなく気怠そうに、既に抵抗を諦めた人間特有の絶望感を漂わせながら、ただそこに立っているだけの雪ノ下に雪ノ下さんの相手はさせたくない。

 

「はーい、俺がやります。どうせこの後試合も有りませんし」

 

 戸塚の手伝いが出来ない事を詫びると、戸塚は「気にしないで」と言われてしまった。

 

 本当にどうしたものだろうか。頭を抱えて幾ら考えた所でやれることなどそう多くはないし、雪ノ下の現状の分析など手付かずで、おまけに相手はあの雪ノ下さん。主役は戸塚だし、何事もなく終わってもらうのが奉仕部としては一番なんだろうが、このまま終わってもらっても俺が困る。とはいえ、やはり今は。

 

「お、比企谷君今日も元気いいね。よーし、それじゃ戸塚君の体が冷えちゃう前にパパっと済ませちゃおうか」

 

 雪ノ下さんがコートの一方に近い場所に立っていたので、反対側に向かって走る。そう俺は運動しながら考え事が出来るほどよく出来ていない。

 

 そこから数分間、のっけから俺が返せるか返せないかというギリギリのラインの速球を繰り出してきた雪ノ下さんは、俺に息もつかせぬ攻勢を見せた。尽くが俺が反応できるギリギリのラインまでギリギリの速度で振り回し、どうにかそれを返球しても体勢を立て直す前に次の打球がやってくる。雪ノ下さんは俺にとっちゃかなり苦しいレベルのラリーを鼻歌交じりにこなしながら、俺の残り体力まで読み取り、最後の一滴までスタミナを使い切った俺をバッサリと切って捨てた。

 

「よっし、準備運動終わり。それじゃー、戸塚君? 試合始めよっか」

 

「は、はいっ!」

 

 俺と雪ノ下さんのラリーで何かを感じたらしい戸塚の声は、折角のウォーミングアップの甲斐なくガチガチに緊張している。無理もない。俺の貧弱な想像力も問題だろうが、俺程度の人間が想像できる天才というレベルすら軽く振り切ってしまっている雪ノ下さん。あれとこれから試合をするのだ。

 

 ああ、しかしそうか。遂に戸塚と雪ノ下さんの試合が始まってしまうのか。

 

 雪ノ下さんに近づいていきコートとサービスをどちらから始めるか等の手続きを始める戸塚を横目に、コートから出た俺は置いてあった荷物の中からタオルを出して吹き出した汗を拭っていた。まさか高校入学以来1年間をぼっちで貫いた俺がこうやって休日他人と爽やかな汗を流すことも無いと思っていたが、やってみるとこの爽快感に少しハマってしまいそうにも思えてしまう。やはり一月に満たない期間では運動不足など解消しようもないのか体力は底を突いてしまったが、悪くない。

 

 そんな清々しい気分の俺の隣で鬱屈とした空気を垂れ流す雪ノ下。こう普段気の強い奴が項垂れていると追い打ちを掛けたくなるのは男の子の性なのだろうか。手と言わず足と言わず口と言わず、そっちの方を向きたくて仕方がない。こうなってくるともう良心と悪心の鬩ぎ合いなのだが、俺には極端に良心が少ない。よくアニメ等で見られるような天使と悪魔をオマージュしたようなキャラクター同士による掛け合いなど起こるまでもなく、行動は決定されてしまうのである。

 

 詰まる所悪心の言いなりだ。

 

 いやいや、大抵この悪心というのは男の助平心の言い換えだが、今回は正真正銘紛れも無く悪心。これに従ってしまって良いのかと思う方も多いだろう。俺も多分平素ならばそう考える。だが有言不実行が世の習わしであるように、例えいつかそのように言っていたとしても、いざという時そう振る舞える訳ではないのだ。

 

 だから、だから、もうゴールしても良いよね?

 

「お」

 

「さいちゃーん、頑張ってー」

 

 くそっ、意気地なしが意気地なしなりに勇気を振り絞ったというのに、由比ヶ浜に機先を制される。見ればコート決めが終わって、戸塚のサービスが始まろうと言う場面。知らぬ間に平塚先生が審判台の上に登って審判役に収まっていたようだ。来てもらった手前戸塚にしか声援が飛ばないというのも申し訳ないので、申し訳程度の声援を送ったら由比ヶ浜から若干睨まれたが、これは致し方ない。

 

 それよりも、平塚先生の問題があった。そうだ、全く失念というか話が持ち上がらなかったので考えが及ばなかったが、テニスには審判が必要だ。てっきり練習試合だしいらんだろとか思っていたのは、全くの部外者ならではの舐めすぎた考えだったらしい。この点と、その審判を誰が言い出すでもなく先生が引き受けてしまっているのは俺の反省点だ。これは雪ノ下を弄っている場合ではない。急いで校舎に向かう。

 

 一番近い場所に有った昇降口は閉鎖されていた。体育館との連絡通路も駄目だった。仕方なく校舎正面の一番大きな正式な昇降口に向かう。どのみちここに向かう羽目になるとはいえ舌打ちは止められない。締め切りになっていた扉に手を掛けると、やった、ここは開いていた。俺は直ぐ様自分の下駄箱近くの傘立てから自分の傘を取り出すと、ついで自販機に向かう。校内に設置された自販機というのはこういう時にありがたい。500ミリペットポドルに入ったスポーツドリンクを購入して、テニスコートに取って返す。

 

 試合はまだまだ序盤。雪ノ下さんとしても全力を出して戸塚を潰すという魂胆でもないらしく、試合は実にまったりとした出だしだ。戸塚と雪ノ下さんのラリーが暫く続き、戸塚の浅いクロスを雪ノ下さんが深いストレートに打ち返した事で点が決まった。俺はその機を逃さず平塚先生に話しかける。

 

「先生、日傘と飲み物です。申し訳ないんですが、黒いのしか無いんで暑くなってきたら閉じって貰った方がいいかも知れません。それと飲み物は熱中症対策に」

 

「おお、ありがとう。しかし、馬鹿に丁寧だな。もしかして」

 

「こうして日曜日に監督を買って出てくださるんですから、これくらいの事はさせてください。それにすいません。審判代わらせて下さい」

 

「いいさ、こうしてもう代金を頂いてしまったからな。それに教師として立ち会っているというのに何もしない訳には行くまい。君達は試合を観戦していればいい。それか、雪ノ下の事を見てやってくれ」

 

 早速日傘を刺した先生はペットボトルを振ってから雪ノ下の方を顎でしゃくってみせた。そういうのこそ先生の領分ではないかと思うのだが、昨今教師の仕事というのは増加傾向に有るらしいという事を思い出す。事務仕事や本来教師に任せるべきとも思えない生徒の極個人的な用事にかかずらっているせいで、中々仕事が捗らないとか。そう考えると確かに雪ノ下のあれは極個人的な用事と言えなくもない。尚更俺の為すべき事でもないとも思ったが、ちょっかい自体は出そうと思っていたのだ。これで失敗したとしても免罪符が出来ると思えば、後ろめたさも幾らか減じる。

 

 俺は玉虫色の返事をしてから、雪ノ下達の方に戻った。とはいえ、先生に指示されたとしても、やはり今の雪ノ下に話しかけるのは躊躇われた俺は、暫く普通に戸塚と雪ノ下さんの試合を観戦した。

 

 試合は非常に淡々と進んでいく。例えばあるゲームは戸塚のサービスから始まったが、雪ノ下さんはレシーブをお手本通りにダウンザラインを決めて戸塚を走らせたり、センターにボールを集めた後、鋭く左右にボールを振って反応しきれない戸塚に運任せの2択を迫ったし、またあるゲームでは強く深いボールで戸塚をベースラインに釘付けにしながら、ドロップショットで点を決めた。それらをどれも決して戸塚を圧倒するのではなく、あるいは戸塚の機転によって回避できるようなギリギリの領域で行っていく。時折ラッキーで点を貰いながらも淡々と戸塚は失点を重ねていった。

 

 それを時に由比ヶ浜が声を上げ、時に俺が賞賛、鼓舞しながらラストゲームへ突入した。

 

 それは非常に奇異なゲームだった、ほぼストレートゲームの進行で、かつ戸塚は疲弊している。それ事態は1セットマッチが主流のアマチュアテニスにおいては珍しい事ではない。元々大会上位決定戦のそれのように長丁場を想定していないので、こうしたセットの終わり際にはまま見られる光景なのだ。おかしいのはここにきてゲームの進行が遅く、いや拮抗し始めた事である。2者の間をボールが行き交い、雪ノ下さんが得点したかと思えば次には戸塚が得点を決めている。そんな事が続いた。そして、そのゲーム初めてのデュースが宣言されても暫くは、そんな状況が続いた。俺も由比ヶ浜も、そしてプレイしている戸塚自身もその奇妙な感覚を感じながらも、ただ何も出来ずゲームは続き、やがて当然のように雪ノ下さんの勝利によって締めくくられた。

 

 試合を終えた2人がコート脇に戻ってくるのを俺と由比ヶ浜が出迎える。雪ノ下は座り込んだまま、ゲーム中と同じように斜め前のアスファルトを見つめ続けていた。

 

「お疲れ様ー。さいちゃん凄かったよー。とっても上手じゃん」

 

「うん、でも雪ノ下さんのお姉さんの方が上手かったよ。ありがとうございます」

 

 由比ヶ浜が戸塚を賞賛する。俺も彼女と全く同じ感想だ。以前の戸塚がどうだったかは知らないが、ミスも少なく門外漢の俺から見ても弱いとは思えないプレイだった。そんな言葉を受けた戸塚は、それを軽く受け止めながら同じ言葉を試合相手に向けた。それも確かに心からの言葉だったのだろう。それを向けられた雪ノ下さんは謙遜するように手を振りながら戸塚の健闘を称えたのだった。

 

「戸塚君も良かったよー。もう基本はバッチリかな。後は試合の定石なんかを勉強していくと良いんじゃないかな」

 

 そう言って雪ノ下さんは試合中の戸塚のプレイの良かった点や悪かった点を幾つも上げていく。一見試合に見えてはいても、彼女にとっては真実『練習試合』だったのだろう。その歴然とした力の差以上に、試合をしながらもそこまで細かく相手を分析していたという事実に驚く。それこそ戸塚の心の中まで読んでいたんじゃないかと思ってしまうほどに正確に、試合中の挙動の意図を読み取りその上で試合をしていたのだ。俺なんかボケーっと見ていただけだというのに。

 

 雪ノ下さんに若干の敵愾心を抱いていた由比ヶ浜も、ポカンとして雪ノ下さんの指導を受ける戸塚を見ている。

 

「大した奴だろう? 本当に優秀な奴だよ、陽乃は」

 

 審判台から降りてきていた先生に話しかけられる。そう、全くその通りだ。一度だけ目にした雪ノ下のプレイと比較しても、雪ノ下さんの今回のプレイは良くはなかった。

 

「最終ゲームの戸塚君の最初の得点を決めた時はどういう風に動いてたか思い出せる? あの時はその一打前の戸塚君の打球がサイドラインギリギリに決まってたから、大抵ああいう苦し紛れの返球になると思うの。そしたらあの時みたいに逆サイドに軽く押し込んであげるだけで……」

 

 しかし、身振りを交えながら戸塚に向かって話す雪ノ下さんの発言には、最終ゲーム戸塚に気持ちよくプレイさせたというニュアンスが感じ取れる。実際戸塚がどう感じていたか分からないが、もしかしたら戸塚自身にも雪ノ下さんに動かされていた自覚が有ったかもしれない。戸塚の練習となるように。プレイ中にそこまでの配慮をしていたというのなら、どちらが凄いのかというのは最早俺には判断できない問題だ。

 

「あれで優等生でさえあってくれたら言うことは無かったんだが」

 

 今も戸塚に対しては優等生的な顔を見せている雪ノ下さんを見つめながらの平塚先生の言葉には、思いの外痛切な響きが篭っている。予想に違わず彼女の在学中には苦労させられたという事だろう。怖いので声には出さないが、俺も同意しておこう。何故あんな性格になってしまったんだ。

 

 だが、内心はどうあれ雪ノ下さんと仲の良い平塚先生に賛同する形であれ、雪ノ下さんの前で頷くわけにもいかないだろう。そもそも今日のこれだって雪ノ下さんの善意(染みた悪意)による物なのだから。

 

「あはは、そんな事ないですよ。雪ノ下さんめっちゃ優しいじゃないですか」

 

「そんな優しい雪ノ下さんが、あんなに試合中手を振ってあげたのに全く振り返してくれなかった子が居るんだけど」

 

「何処の怖いもの知らずでしょうね?」

 

 気付けば戸塚へのアドバイスをしていた筈の雪ノ下が、俺の直ぐ側まで近づいてきていた。条件反射ですっとぼけたけど本当怖い。ちなみにその怖いもの知らず、俺じゃないよ? だって、だって……。兎に角俺じゃないんだよ。きっとそうだ。多分雪ノ下だな。俺の近くに座ってたし、俺に向かって手を振っていたのも勘違いだ。

 

「駄目だよ八幡。無視したら」

 

 可愛く怒る戸塚が言うのであれば、もうしない。というか、戸塚の中では俺がやったの決定なのか。まあ状況証拠的にも俺しかいないのだが、信じてくれるという選択肢は戸塚の中に有ったのか無かったのか。それが問題だ。

 

「ていうか皆雪ノ下さんとかお姉さんとか余所余所しくない? もっとフランクに陽乃でいいよ。比企谷君限定でお義姉ちゃんでも可。むしろ推奨?」

 

 そう言って俺の腕を取ろうとする雪ノ下さんから、パッと飛びのいて距離を取る。少し動いてとかではない、マジ逃げである。そのまま戸塚を間に挟んで、心の中で詫びながら生け贄に捧げるように突き出す。コンビニでの一件以来、この人は俺のATフィールドにバリバリ反応するので、何とか逃げ遂せた。但し本気になられたら絶対に捕まる。アブソリュート。

 

「折角お義姉ちゃんとくっつく機会なのに。冷たいぞー」

 

 とはいえ、一難去ってまた一難。獲物が逃げ回ると却ってやる気が出るタイプなのか雪ノ下さんの瞳がキラリと煌めく。てか、こんな話題なのに雪ノ下が一言も喋らない。いつもだったら即座に気持ち悪いだの、昆虫と交際なんて御免だとか言いそうなものだが、顔も上げない徹底ぶりだ。雪ノ下には是非復活して対雪ノ下さん最終防衛ラインになって欲しいのだが。

 

 俺はにじり寄り始めた雪ノ下さんから逃げようと、戸塚の肩を掴んだまま平塚先生の後ろに隠れる。もういつもの女性恐怖症とかではなく、単純な反射での逃避である。なんだか分からんが、至って真剣に怖い。

 

 この本能的な感覚が誤りではないと気付くのは、直後平塚先生と戸塚という2枚の壁を抜かれたばかりか、テニスコート上に引き倒され逆マウントポジションを取られて酸欠寸前まで擽り倒された時だった。

 

 

 俺が褥で枕を濡らす初夜の女性のような咽び泣きから復活した時には、戸塚と雪ノ下さんの第2試合が始まっていた。第1試合と同様に平塚先生が審判を務め、由比ヶ浜が応援をしていた。今度はそれなりに雪ノ下さんにも声援を向けていた。

 

 俺は陵辱の限りを尽くされた後という事もあって、応援には加わらずに雪ノ下の隣に腰を下ろした。

 

「お前の姉ちゃんてアレな。本当アレだよな」

 

 雪ノ下さんの適当な表現が思い付かず、見切り発車で口を開いた結果がこれである。しかしながら、中々どうして俺の心情としては的を射ていると言えるだろう。美人だし、軒並み能力と呼べるような物は高そうだし、運転手付きのハイヤーで娘の送迎をしていたという事はお金持ちの家の娘である。そしてそう言った長所が全て台無しになる位性格が悪い。妹とそっくりである。妹の方が性格は可愛げが有るが、胸が無いという違いは有るが。無理を通せば道理が引っ込む的な感じだろうか。胸が出れば性格が裏返るとか。とはいえ、俺の気持ちなど雪ノ下に伝わる訳もない。

 

「……」

 

 黙りを決め込む雪ノ下を見てもそれは明らかである。もっと共感しやすい話題の方が良いのかと思案すると、1つうってつけの物が見つかった。

 

「そういえばさ、お前の姉ちゃん3つ位年上だと思うんだけど小学校って6年制だろ。被ってる時ってのはどうだったんだよ」

 

「……」

 

「あの性格じゃ放っておくって事は無いよな。でも、同時に他人に虐められてるお前を良しとするタイプでも無さそうだよな。そういう意味で言えば独占欲強そうなタイプだし。それともお前のいじめの首謀者が雪ノ下さんだったりするのか?」

 

 これまでの接触で嫌ってほど分かるが、、あの人は好きな物は虐め殺すタイプだ。真実相手を愛おしく思っているかは別として。その性癖がいつから開花したかは俺には預かり知らぬ所だが、高校生になった今がこれなら小学校の時にも何かされている可能性は大いにある。余談だが、年齢の推定方法はうちの高校に入学した当初にも雪ノ下『姉妹』の噂を耳にした事が無かった所と大学生という証言から。

 

「あの人があんな風になる前ってのが本当に有るかは一旦置いておいて、もしそうだとしても大変そうだよな。性格の良い雪ノ下さんって事だろ? そんなの最強じゃんか」

 

「……っ」

 

「どっちか知らんが、どっちにしてもさぞや人気が有ったんだろうな」

 

「……」

 

「関係ないんだけどさ、微妙にモテる奴が、格段にモテる奴の登場で日陰者に転落する展開ってリアリティ有ると思う?」

 

「っ!!」

 

 ふわっと雪ノ下の髪の毛が風に舞ったかと思えば、凄まじい衝撃と共に俺は地面に倒れていた。喧嘩した経験も無かったので初めて知ったのだが、こういう時っていうのは痛み云々よりも先に眩暈が来るもんらしく、頭が地面に何かにくっついているから辛うじてそれを地面だと認識しているだけで、実際それが天地のどちらかと聞かれてもはっきりと答えられないような状態になっていた。

 

「ヒッキー!?」

 

 由比ヶ浜の声がして、足音が近付いて来た。遠くの方で戸塚の声もしたような気がする。が、正直それどころの話ではない。乗ったことは無いがジェットコースターってのはきっとこんなもんだろうと納得するような、自分の体が大地ごとぐるぐると倒れかけた駒のように回転するような感覚と、視界の明滅。この歳にして人生初の失神というのを経験しようとしているらしい。これはこれで面白い感覚だが、立ち上がった方がもっと楽しそうだ。

 

 天地がどっちか分からなくとも、体が押し付けられている方向に垂直に力を入れれば案外立ち上がれるものだ。そのまま脳味噌がジャンプ台から滑走していきそうな錯覚と共に立ち上がる。真っ直ぐに立っていられたのは精々1秒といったところだろう。そこから

先は視界も足元の感覚も失って、ただ仮初の重力に従って自由落下するのみだ。

 

「大丈夫!? ヒッキー!」

 

 いえいえ、大丈夫じゃありません。でもご心配には及びません。こちとら、こちとら、あれ? 私は誰でしょう? まさに意識の自由落下といった所だろう。自分の名前が意識から剥がれ落ちて、何処か離れた場所に言ったまま戻ってこない。まあいい、そんなものは地面に落着してからゆっくり探せばいいのである。それよりは傾いでいく体の支え方の方が重要なんじゃありゃしませんか?

 

 そう考えてみた所で時既に遅し。思考は解体され、気流に揉まれる快楽に解され、バラバラバラバラバラバラ。

 




1巻相当最終話のつもりで書いていたら普通に1万字をオーバーして、下手すると2万文字とかになりそうだったので分割。
感想での事もそうですが、文章を1つ1つ取り上げてあーだこーだ言ってしまう性格だから何でしょうかね。

しかしおかしい。いつになったらヒロインの1人でもデレるのか全く予想がつかない。

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