本物のぼっち   作:orphan

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第11話

 かように面妖な接触があったからと言って世界が終わってくれる訳ではない。どれだけ気が重くとも、物語の主人公たりえない俺の都合で時間が止まったりしないのと同じ理屈である。であるからして、やはり2連休は終わり、またスクールライフが始まるのである。

 

 いつも通りの通学路、いつも通りの通学風景、いつも通りの通学。人によってはSAN値が目減りしそうな退屈な日常。間違っても数日前の報復に三浦とか葉山とか戸部が待ち伏せを掛けているという事もない。5月の訪れを早々に予感させるような仄かに暖かい風が吹くいい天気の中を、たった1人自転車で疾走する。スピードメーターなどという便利なものはないので憶測混じりになるがざっと時速25キロオーバー、全力疾走だ。これで自宅から学校までおよそ20分足らずを走り切れば遅刻とは無縁でいられる。もっと早くに出ろとかいう向きもあるだろうが、遅刻ギリギリを攻めるのが俺のスタイルだ。もっと言えば1秒でも長く布団と愛し合っていたいのである。

 

 幾つかの坂を登ったり下ったりしていると、ちらほらと総武校生の姿を目にし始めた。俺と同じ様に遅刻が、って違った。そう言えば俺は今朝練に向かっているところだった。という事は俺の前を走っている彼も俺と同じ様に朝練にでも向かっているのだろう。でなきゃ朝勉という奴か。いずれにしろほんの数秒でそれも抜き去り、次の背中を目指す。校門までに同様に5人を抜いて到着。駐輪場に自転車を止めると早速待ち合わせ場所に向かった。

 

 そこは昇降口近くの足場の上。縁側の様にせり出した、コンクリートで出来ている場所だ。ここも当然野ざらしなのだが、不思議な話で地面と隔たっているというだけで、何故か清潔なものだと錯覚を覚えて使っている。まあ地面やリノリウム、あるいは教室の床でやるより精神的に楽だという程度の理由で選んだ場所だ。幸いな事に昇降口からは死角に有るので登校する生徒にジロジロと見られる心配もない。そこに俺と戸塚が並んで、もしくは一緒になってトレーニングをしている。

 

 今日も戸塚は俺より早く到着いていて、いつもと変わらない笑顔で俺を出迎えてくれる。本当これがあの雪ノ下さんと同じ人類から発生する笑顔とは思えない位に、爽やかさが有って親しみが湧いてくる表情だ。しかし、特段俺が遅刻魔という事もない筈だが、俺が待ち合わせをすると大抵相手が先に来て待っているな。これが雪ノ下辺なら容赦のない罵倒が飛んでくるので、勝手にプラマイゼロにさせてもらう所だが、戸塚がどう思っているのかは正直気になるな。一応俺が協力しているという体だが、こう2週間近くも続いてくるとそういう感覚も薄れてくる。ちっ、こいつおっせーな。とか思われてたら嫌だ。

 

「おはよう比企谷君」

 

 実際の所どう思っているかは不明だが、今日も戸塚の眩い笑顔に癒される。

 

「おっす戸塚。悪いないつも遅くて」

 

「ううん、付き合ってもらってるのは僕だし」

 

 担いで来たバッグを置いて早速準備をする。とはいっても家からジャージで来ているので、寝っ転がる位しかする事はないが。戸塚も既にジャージとハーフパンツの格好になっていて準備万端だ。全く関係ないが、戸塚の脛は高校生男子のそれとは思えない程綺麗だった。臑毛なんか一本も見当たらないし、白くてスラッとしていてその上引き締まっている。所謂スポーツ男子のそれとは全く違う魅力を秘めた、男の俺から見ても酷く扇情的な脚だ。俺は常々公衆の面前で脛を出している男子の廃絶を唱えているが、戸塚だけは例外に加えてもいいね。

 

「んな事言うなって、もう半月も一緒にやってんだし、俺も嫌な訳じゃないからさ。元々運動不足だったし、丁度良かったんだ」

 

 好い加減真剣に減量を検討しないといけない頃合いでもあったし、これからも美味しいお菓子ライフを送るなら健康の為にもある程度の体重をキープしておきたかったのだ。渡りに船とまではいかないが、一石二鳥ではあるだろう。それに戸塚を応援してやりたいという気持ちがないではないのだ。

 

「どうした?」

 

 ところが、戸塚の面持ちは晴れやかとはいかなかった。日が陰るようにすっと戸塚の表情が曇る。

 

「比企谷君がテニス部に居てくれたら良かったなって」

 

「お、なんだ。そうやっていってくれるのは嬉しいけど」

 

 その言葉には現テニス部員達に対する非難にも聞こえる。戸塚自身そういう自覚も有ったのだろう。嫌な事聞かせてごめんねと前置きをしてから、胸の内を語ってくれた。

 

「こうやって比企谷君が手伝ってくれて朝練をしてる事、他の子にも話したんだけど、やっぱり参加は出来ないって断られちゃって。部活中は僕も一生懸命やってるから触発されて、頑張ってくれてるんだけど」

 

 こうして戸塚が率先して練習に励んでも、続く部員がいないか。まあそんな事はこうして俺と戸塚だけの朝練が2週に渡って続いた段階で知れている事だ。というか、そんな奴がいればそもそも俺は必要ない訳で。そういや戸塚だけテニスに熱心なようだが、何か理由はあるのだろうか?

 

「理由? えっとね、僕……」

 

 そんなに言い難いことを聞いてしまっただろうか、戸塚が急にもじもじとし始めた。何がそんなに気になるのか視線も俺の顔と明後日の方向を行ったり来たりしている。

 

 はっ!? これはもしかして、告白か!!

 

 そうか、そうに違いない。そもそも戸塚が奉仕部に来た時も最初に確認したのは、俺の所在だった。それも今回の依頼が俺に近づくための手段だったとしたら合点が行く。それでさっきも、俺もテニス部に誘うような事を。

 

 全く戸塚の照れ屋さんめ。だったらもっと早くそうと言えばいいものを。そうすれば俺も、……俺も?

 

 とまあ、妄想は一瞬で行き詰まりを見せたが、戸塚が口を開いたのも同時だった。

 

「僕夏になったら部長になるんだって」

 

「うん、それが?」

 

 何故そんな恥ずかしそうに告白する必要がある。

 

 そう聞くと戸塚は一層身を縮こまらせ、俺を上目遣いに見た。おいおいこの男、トレーニングのせいでほっぺたが紅くなっていたり、呼吸が荒かったりして半端ないエロスを漂わせ始めやがった。男子テニス部の連中が衆道に落ちてはいまいかと心配になりそうだ。え? こんな事考えるの俺だけだって? そんなまさか?

 

「僕がこの事言うと、皆信じてくれなかったり、信じてくれてもよく頑張ったねって頭撫でたりするから」

 

 当ててみせよう。前者は男子で、後者は女子だ。多分頭を撫でられた事でも思い出していたんだろう。

 

「パパとママなんてお祝いしようって言い始めちゃって困ったよ。僕ってそんなに頼りなさそう?」

 

 その傾げた首が黄金比なんじゃねえかってくらい、可愛いのが原因だと俺は思うぞ。戸塚両親のそれは、選ばれたのが弱小テニス部の部長だという事をかんがえると、多少行き過ぎな気がするが、こんな可愛い息子が人に認められたとなったら、その位してやりたい気持ちになるのが人の親というものなのかもな。

 

 それは兎も角。

 

「お前は十分頼れる男だ」

 

 ただ、お前が女だったらこの国が滅びたかもしれないとは思うが。いや、そうなったら戸塚がこんな性格になることも無かったかもしれない。そう考えるとこいつはこのままがベストだな。しかし、性格の悪い戸塚か。想像してみたが、それはそれで有りだな。雪ノ下みたいなのは駄目だが、もっと普通に「何調子乗っちゃってんの?」とか罵られたら……。これ以上は止めておこう。鼻血が出そうだ。

 

「今だって率先して部活を盛り上げようと努力してるし、そうじゃなくてもお前は1人で奉仕部の扉を叩いて、助けを乞いに来た人間だ。責任感も有るし、目標のために努力する行動力も有る。それにお前は今も、テニス部の連中が付いて来なくても、1人で努力してる」

 

 弱小テニス部の部長に任命されるのも、それが決まったからと言って部活をもり立てるのも、誰も追従しないのに自分1人努力するのも、俺だったら金を積まれても御免だ。俺は群衆に紛れる一般人で居たいし、何より怠惰な生活を良しとしているし、頑張るのも嫌だ。

 

「個人的な見解になるが、俺は努力ってのは天才にしか出来ない事だと思ってる。お前がやるどんな努力も間違いなく俺には再現不可能だ。だから俺はお前の事を尊敬してる。もっと胸を張ってもいいんじゃないか? 少なくとも俺相手にだったら迷うことないな」

 

「そんな、こんな事位誰にだって出来るよ。天才っていうのは雪ノ下さんみたいな」

 

 俺の発言に戸塚が恥ずかしそうに首を振って応える。確かに、戸塚の言うとおり雪ノ下は天才だ。先日披露された雪ノ下のテニスの腕は、毎日部活でやっている戸塚のそれを遥かに凌駕していた。サーブを打てば、超高速のドライブサーブがセンターライン上に着地して、戸塚や俺は為す術もなくそれを見ているだけだったし、ストロークやロブ、ボレーの技の冴えも素人目に見ても大したものだと分かった。戸塚にボレーを仕込む際に見せたサイドパッシング(後衛が正面にいる相手前衛の、相手後衛とは逆側の脇を抜く技)などと来たら、完全に戸塚の裏をかいていた。それらの技術を彼女はたったの3日で習得したという。だが、それが戸塚の事を天才ではないと否定する材料には成り得ない。

 

「あのな、天才が極少数しかいないなんて誰が決めた? もしも根拠なくそう思ってるんだったら考え直した方がいいな」

 

 唐突な俺の語りに、戸塚は呆然して俺を見つめた。褒め殺しの次はいきなり演説を打ち始めるってんだから分からなくもない。が、この際だ。言いたいことを言わせてもらおう。

 

「この世の中には想像以上に碌でも無い奴が居るんだ」

 

 俺とか俺とか俺とか。その他全世界1人の俺とかである。

 

「そんな中で世の中の平均以上で有ることなんてのはな、お前らみたいな天才だからこそ難しくないってだけの話で、そういう連中にはどう頑張っても不可能なんだ」

 

 ぶっちゃけて言わせて貰えば生きてることが苦しい。別に保証なき明日にも、保障のある明日にも興味はない。そもそも明日など来るだけ迷惑なものなのだ。何処ぞのラノベ主人公は植物になりたいと言っていた。恐らくパスカルの言葉を受けてのものだろう(自明の事とも思うが念の為、パスカルは人間を考える葦だと表現した)と思うが、俺なら空気になりたい。別に空気のように普段意識しないだけで、それが無ければ生きていけない重要な物だとか言いたい訳じゃない。というか、それなら注釈して窒素になりたいとでも付け加えよう。窒素はあれはあれで中々使い途が有るようだが、って延々と繰り返すのも煩わしいな。兎も角、誰にも干渉せず、誰にも利用されず、誰にも意識されないまま、出来るなら消えてしまいたいとさえ思っている。気体ならば意識もなさそうだし。

 

 そんな風にイマイチ人生というものを謳歌しきれない俺のような人間からすれば、己の為、一意部活に励む戸塚などは羨望の対象と言えるだろう。

 

「こう言うと特別ってな意味合いは薄れるかもしれないが、でもな、そうじゃない奴からすればお前だって特別だ。お前だって凄い奴なんだ。だからお前より凄い奴が居たくらいの事で一々怯むな。世間様よりお前の事を知ってる俺が保証してやる。お前は天才だってな」

 

 これで伝わっただろうか。これで励まされてくれただろうか。これで自信を持ってくれただろうか。そんな俺の心配を吹き飛ばすように戸塚がにっこりと笑う。まさに花が綻ぶような笑顔という表現の似合う、柔らかさと力強さを持ち合わせる面持ちだ。

 

「ありがとう、比企谷君。僕もっと頑張れるよ」

 

 戸塚の言葉はそれだけだった。

 

 俺だってその気になれば空気を読める。だから今は言わないでおこう。程々にな、なんて決意に水を差すような言葉は。

 

 そういや努力といえば戸塚と正反対のスタンスの男が奉仕部に依頼に来ていた。

 

 名を材木座義輝というその男は、体育の時間よく所在なさ気にしている所を目にしている太った男で、校内で黒のコートを羽織って徘徊する変人でも有る。

 

 雪ノ下とは別の次元にコミュニケーション障害をこじらせたようなその男とは、そんな体育の時間、孤立した彼に声を掛けたことから始まった縁で話しかけられるようになった。聞く所によればネットの世界に世界を変革しようという同志達の集いを持っているらしい(是非雪ノ下を招待してやってほしい所だ)彼は、校内には友人と呼べるような存在がいないらしい。幾度かその奇抜な格好と話し方とその内容を修正するようアドバイスしたが、それは嫌なのだと聞いてからはその手の話題は避けることにしている。馬の耳に念仏というが、実際問題人間に同じ対応をされた場合に抱くのは徒労感ではなく殺意なのだから。俺とてこの若い身空で材木座を殺して収監されるような羽目にはなりたくない。

 

 さて、そんな彼がつい先日、俺が奉仕部などという無償奉仕を謳うキチガイ集団に所属していることを何処かから嗅ぎ付けて依頼に来た。内容は書いた小説を読んで感想を聞かせて欲しいというものだ。その段になって明らかになった、材木座の女性に対する覚束ない通り越して不審なまでの女性への接し方等は置いておくとして、その小説というのが厄介だった。パソコン全盛のこの時代に万年筆を使って原稿用紙に書くという古式ゆかしいスタイル。衝動のままに書きなぐられた文章の誤字脱字、そしてそもそも汚すぎる文字の乱流の解読。文章表現という言葉へ喧嘩を売っているとしか思えないマナーを無視した書き方に、不適格な接続詞の使用、感嘆詞の連続。おまけに何処かからパクってきた(本人はインスパイアだと頑なに主張したが)設定、あらすじ、キャラクター、台詞、文章。挙句にこれが数万字続いていく中で渾然一体となって、あからさまに主人公に投影された材木座を礼賛し始めた時は材木座の腕を折ってやろうかと思った。

 

 そんな彼であっても、どんな駄文で有っても、その作業がどれだけ写経に近い作業であったとしても、己の手を動かし、頭の中の妄想をこの世に具現せしめたばかりか、それを自慢気に俺以下奉仕部の人間+1に晒したのだから大したものである。

 

 あれで実は超繊細な性格をしていて影で泣いていたりしても、全く魅力を感じないが、戸塚も彼の10分の1位は自分に自信を持って欲しい。

 

 その為に今行っているトレーニング以外に何かしてやれる事はないものだろうか。

 

 

 

「いいよー、練習試合を企画してあげる」

 

 奉仕部に朗々と響き渡る声。これで発言者が平塚先生か雪ノ下ならば喜んでお願いする所だが、残念至極。発言者はそのどちらでもなく、それ以外の中でも割りと最悪の部類に入る方だった。

 

「どうしてこんな所にいるのかしら、姉さん」

 

 雪ノ下が刺々しい声でその声の主に問いただしても、それが質問を装った早く出て行けというメッセージだとしても何処吹く風。雪ノ下さんは肩を竦めて。

 

「いやー、それが突然講義が休講になっちゃってさ、母校でも見に行くついでに雪乃ちゃんの顔でも見ていこうかなってね」

 

 と雪ノ下の十八番、睨みつけるも無視してずかずかと部室内に侵入を許してしまった。

 

 春の陽気と西日によって、眠たくなるような温かさだった部室が、スーッと冷え込み始める。陽乃の妖気かもしれない。……サムいな。

 

「それなら目的は達したでしょう。今は部活中だし、申し訳ないけど部外者は」

 

「うん、だから今は比企谷君とお話中。どう? 比企谷君。よく分かんないけど校外で試合の相手を探してたんでしょ?」

 

 バッサリと雪ノ下を切って捨てると同時に俺にだけ話の矛先を向けることで、あたかも雪ノ下には関係ない話をしていますよという空気を醸し出し、雪ノ下の干渉をシャットアウトする雪ノ下さん。魂胆は読めないが、この人の至上目的は雪ノ下を甚振ることだというのなら、これもその目的に適う行為なのだろう。

 

「本当ですか? でも一応奉仕部としての活動ですから、部全体で意見を一致させてからですね」

 

「でも、練習の成果を実感するのに試合以上のものって有るかな?」

 

「無いと思いますけど」

 

「だったら」

 

「俺のような腰抜け事勿れ主義者には、そのような決断出来ようはずもございません。という訳で奉仕部の長、雪ノ下の裁可を受けたいと思います」

 

 本当面倒臭い人だ。俺を使って雪ノ下を甚振るとか、間に挟まれた俺が可哀想だから止めて欲しいのに。そういう訳で雪ノ下に水を向けてやる。と、この場はやり過ごせたのは良いが、雪ノ下さんが「ふーん」とか言いながら俺を見ている。いやいやいや、これ俺悪くないだろ。雪ノ下の味方云々抜きにしても、針の筵に座らされるのを許容した覚えはない。だからそこの雪ノ下も俺を見るの止めてくれませんかね。

 

「本来ならその程度の事、個人の裁量で判断してもらわないといけないのだけど、しょうがないわね」

 

「……」

 

 以上に恩着せがましい雪ノ下と、今日も何故か部室に来ている由比ヶ浜が居住まいを正して話し合いの格好を作った。雪ノ下さんも依頼者用の椅子に座っていて、今ここに雪ノ下さんを頂点とした二等辺三角形が出来上がる。もしもこの三角形が立体で、かつ重力がパワーバランスを表すならぺったんこになっているところだ。雪ノ下の胸みたいな。雪ノ下の胸がぺったんこで、雪ノ下が本来成長すべき分を吸い上げたかのように普通より少し発育している雪ノ下さんの胸と奇妙な一致が見られるな。

 

「比企谷君、何か邪悪な思念を感じるのだけど」

 

 こいつは胸の事にかけては超能力者としか思えない直感をしてるな。

 

「本当だよねえ。触りたいなら言ってくれればいいのに」

 

 訂正、この人達は胸の事にかけては超能力者としか思えない直感をしてるな。濡れ衣だけど。

 

「ヒッキーのバカ」

 

 お前は最近そればっかだな。てかお前の胸に関しては考えの中でさえノータッチだ。胸を隠すんじゃねえよ。

 

 これだから女というやつは。例えお互いの中が悪くとも他人を貶める時だけは奇跡的なコンビネーションを見せやがる。まあ、雪ノ下さんは歪んでるなりに雪ノ下の事を愛してるそうなので、嫌悪の感情は雪ノ下から雪ノ下さんへの一方通行なのだが。

 

 一瞬で出来上がった対比企谷八幡包囲網・女性同盟に離反作戦を実行するとしよう。

 

「それで戸塚の特訓の成果の確認の件ですけど」

 

 俺は部外者である雪ノ下さんにも話の筋が掴めるように事のあらましを話して聞かせた。排除を諦めた今、今は雌伏の時とでも思っているのか雪ノ下は何も口を挟まなかったし、雪ノ下さんも雪ノ下を挑発することもしなかった。だが、部室内の空気がこうゴリゴリっと音を立てているような気はする。

 

「それでですね。もう特訓開始から2週間は経過してますし、そろそろ戸塚にも成長を自覚させてやった方がモチベーションも上がるだろうという事で試合を」

 

「ふーん。なるほどね」

 

 出来るなら特訓のパートナーを務める俺かコーチ役の雪ノ下が試合の相手になれば手っ取り早いのだが、ここの所の特訓でそれらしく動けるようになったとはいえ俺はまだズブの素人だし、雪ノ下相手では戸塚の意識上成長の実感が得にくいだろうと考えたのだ。だが、校内に友人の居ない俺と雪ノ下に校外の友人など居るわけがない。いや、俺に関して言えば友人自体はいるが、テニスが出来る友人はいなかった。最悪由比ヶ浜を頼ることになるが、それ以前に何かいい考えが無いかと話を持ちかけたのが雪ノ下さん登場直前の事だ。

 

「いいよー、私が練習試合を企画してあげよう。雪乃ちゃんのお仕事なら手伝ってあげたいしね」

 

 この期に及んで、俺達3人の前で良い姉アピールとか気が狂ってるとしか思えなかったが、雪ノ下も同感らしい。

 

「結構よ。姉さんの伝手に頼らなくても、私達で何とかしてみせるわ」

 

 雪ノ下さんの助成をすげなく断る。だが、条件反射としか思えない、論拠に弱い言い分が雪ノ下さんに通じる訳もない。

 

「友達の居ない雪乃ちゃんに紹介できる知り合いなんていないでしょ?」

 

 実の姉とは思えない遠慮会釈のない、それでいて俺や雪ノ下には反論できない一言。それに、と雪ノ下さんは言葉を付け加える。

 

「別に伝手なんて使わないよ。相手は私がしてあげる」

 

「姉さん、貴方!!」

 

 雪ノ下さんの言葉に掴みかからんばかりに雪ノ下が激情した。それに驚いた由比ヶ浜が立ち上がり、雪ノ下に駆け寄って雪ノ下さんに向かっていこうとしたのを押し留める。

 

「ちょっ、ゆきのん!? 落ち着いて! どうしちゃったの?」

 

 そんな雪ノ下を見ても尚表情を笑顔のまま変えない雪ノ下さん。雪ノ下が立ち上がっても、その目的に気が付いている筈なのに、そんな事を気にも留めない。いや、コンビニでの遭遇を経験した俺にははっきりと分かる。雪ノ下さんがそれを喜んでいるということが。

 

「それとも雪乃ちゃんが相手をしてあげるっていうんなら、私がやらなくてもいいと思うけど」

 

 あからさまな挑発。しかし、雪ノ下さんには雪ノ下がそう出来ないという確信があった筈だ。そして雪ノ下自身にその自覚が有るという事についても。だから雪ノ下は由比ヶ浜に肩を抱かれながら項垂れ、雪ノ下さんはそんな雪ノ下を見てせせら笑う。

 

 当たり前だが、雪ノ下雪乃という人間について俺が知っていることは少ない。それは雪ノ下相手に限ったことではないが、もしかすると俺が校内で最も会話した回数の多い相手が雪ノ下になった今も、俺が雪ノ下について知っていることは校内の誰よりも少ないだろう。例えば誕生日、例えば血液型、例えば趣味、例えば好きなもの、例えば住んでいる場所、そして過去も。俺は雪ノ下がどんな幼少時代を過ごしたか知らないし、どこの小学中学に通っていたかも知らない。かつてはどんな友人が居て、どんな風に過ごし、どんな風に笑っていたのかも知らない。

 

 だからこんな時、雪ノ下が何故何も言えず黙り込んでしまうのかも、そもそも何故雪ノ下さんとこうした一種の戦争状態に陥っているのかも分からない。一般的に言えばそれは隔絶であり、俺が彼女に対して覚えるべき感情は、彼女の現在の境遇に対する同情と、俺になんの相談もしない悲しみであるべきだ。

 

 だが、俺は雪ノ下に味方すると決めた今も、雪ノ下について何も知らない現状を否とは思わない。どうせこれからも放課後の一部を共有していくのだし、そうでなくとも矢張り俺は構わない。

 

 彼女と俺との距離はこんなもの。そんな事は最初から今まで一度として変わっていないからだ。

 

 その点優しいことで定評のある由比ヶ浜は多少なりとも雪ノ下さんに反感を覚えたらしい。声を挙げられない雪ノ下に変わって声を挙げようと言うのだ。

 

「あの、ゆきのんのお姉さん。え、ええっと、その、ゆきのんのお姉さんも色々大変だろうし、あ、あの、私の友達に声掛ければ」

 

「ああ、貴方あの時のクッキーの。何々浜ちゃんだっけ?」

 

 すっとぼけた顔をしているが、その裏にどれだけの悪意を隠していればこんな事が言えるのか。先日の俺の家に現れた時には、その結果どんな風に由比ヶ浜が傷付くかまで理解した上で、平然とその名を呼んだ女がである。そんな事が出来る神経への不理解が恐怖となって由比ヶ浜を遅い、その肩を、声を震わせる。

 

「ゆ、由比ヶ浜です」

 

「そうそう、由比ヶ浜ちゃん。ありがとう、でも心配しないで。理系の大学生って言っても、週に1日位は休みが有るし、私だって雪乃ちゃんの為なら頑張っちゃうんだから」

 

「で、でもでもっ。あの、そのっ!」

 

「大丈夫だって。お姉ちゃんここにありって所見せてあげるから」

 

 元々が俺の欲していた助けでも有るし、由比ヶ浜も雪ノ下の窮状をきちんと理解してはいないのだろう。お断りの為のカードなど早々に尽きた由比ヶ浜は、力こぶを作ってにっこりと笑った雪ノ下さんにそれ以上何も言えなくなった。

 

 直接その笑顔を向けられた訳じゃないが、俺の背筋にも怖気が走る。何故って雪ノ下さんの笑顔が本当に綺麗だったからだ。鼻梁の通った鼻筋の両脇に三日月の様な目、その眼窩が落ち窪んで光を吸い込む闇がそこに溜まっているのではないかと錯覚するような瞳が、直視すれば悲鳴を上げたくなるようなそれが顔の真ん中に収まっているのにも関わらず、その事に何の違和感も感じないからだ。

 

「比企谷君は何かある?」

 

 それはつまり何か異議が有るのかって事ですよね? 雪ノ下さんの頭がグリンと動いて今度は俺を見つめる。

 

「是非是非お願いしたいです」

 

 この時初めて俺は拳銃を突きつけられた人間の気持ちを理解できそうだと思った。それも、何度も引き金を引いてきた凶悪殺人鬼に突きつけられながら笑うことを強要された人間の気持ちがだ。頭の中身が、電子の動きまで止まったかのようなのに勝手に口が動くのである。人間の条件反射の偉大さを知った時間でも有る。

 

「うんうん、提案したお姉さんもそう言って貰えると嬉しいよ。それじゃ比企谷君、その戸塚君のスケジュールが確認できたら雪乃ちゃんを通じて私に伝えてね」

 

 その心は、唇を食いちぎらんばかりに雪ノ下を追い詰め、その上で自分に頼み事をさせる為ですね。分かります。

 

 太陽というのは水素の核融合反応によって熱と光を発する恒星らしいが、雪ノ下さんは光を発しているくせに以上に薄暗く、その上絶対零度の冷気を撒き散らす果てしなく迷惑な存在だ。一体何を燃料にしていたらそんな事が出来るのか疑問に思うほどに。

 

 それから雪ノ下さんは、しんと静まり返った戦場で己の戦果を確認するように俺達を見渡すと満足がいったのか、もう一つ花も恥じらう乙女にのみ許されたとびきりの笑顔を浮かべると、ひらひらっと手を閃かせながら別れを告げて部室を後にした。

 

 残された俺達3人は、それぞれがそれぞれの理由から口を開くことも出来ず、徒に時間を過ごし、結局ただの一言も口を聞かぬまま家路に着くのだった。




原作を読み返したりしたいですし、久しぶりに図書館で本を借りてきたりしたので更新は2週間後かもしれません。

しかしなんだこの最初から殺す気満々の魔王さまは。勝てる気がしない。

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