その為のガールズラブタグ
そんな内容なので、注意です。
雪音クリスは思考する。一糸纏わぬ姿となって、バスタブに張られたお湯の中、膝を抱えて小さく縮こまりながらも、背中に感じる柔らかな感触に絶対に意識を向けぬよう、火照った頭で考え続ける。
フィーネの屋敷はスケールが大きい。それは屋敷の外観からも見て取れるように、屋敷というよりかは小さな城と言った方が正確なのではないかとすら思える。そして、その内側もまた同じ。至る所に謎の機械が有るものの、それを含めても、フィーネと蛍、大人一人と子供一人が暮らすには、寧ろ広すぎる程だ。そこに雪音クリスという少女が一人加わった所で、何か変わるわけでもなく、数十人規模での生活を想定して建てられたであろうこの屋敷には、充分な余力がある筈だ。実際に、この屋敷に来てから訪れた場所はエントラス、廊下、食堂、個人の私室に至るまで、その何処もが屋敷に見合った大きさを誇っていた。
だというのに、何故、お風呂だけが、狙いすましたかのように小さいのだ。
「お湯加減どうですか?」
背中合わせの少女から、声が発せられる。言うまでもなく、それはクリスをこの場に無理矢理に連れてきた蛍のものだ。掛けられた声に反応し、背中越しに感じた彼女の肌の感触を、理性を持って頭の中から追い出した。要らぬ事に考えが及ばぬよう、どうでもいいことを考えていた思考を再開する。
西洋では、シャワーやサウナが一般的で、湯船にお湯を張って身体を温めるという風習はないらしい。ずっと昔、彼方の出身であった母が、初めて日本を訪れた際、日本のお風呂事情に酷く驚いたと楽しそうに語っていた事を思い出す。
この屋敷を建てた人物は、そう言った西洋の文化に憧れを持つ西洋かぶれだったのかも知れない。後付けしましたと言わんばかりのこんな小さなバスタブ一つで満足する人間が、生粋の日本人であるものか。大きなお風呂、素晴らしいではないか。どうして、日本人としての心を、文化を、大事にできなかったのだろうか。そんな所まで、西洋に憧れなくても良いではないか。
彼、若しくは彼女が、日本人としての心意気を重んじ、屋敷の規模に見合った大きな浴槽さえ作っていれば、こんなことにはならなかった筈なのだ。恨むのは筋違いだと分かっていても、クリスは会ったこともないこの屋敷を建てたという金持ちへの恨み辛みを脳内で垂れ流すことを止められない。
返事がないことを不審に思ったのか、後ろから「クリス?」と此方を窺う蛍の声が聞こえた。その声に「な、なんでもねえよッ!」と反射的に声を返すも、「さっきもそう言って、何でもあったじゃないですか」と此方を振り向こうとする蛍の気配を感じ、何とかかんとか言い包めてその動きを制する。
「いいか? 絶対にこっちを振り向くなよ? 絶対だぞ? 絶対だからな?」
「振りですか?」
「ちっげえよッ!」
出逢ったばかりの少女と2人、明らかに一人用のバスタブの中で背中合わせ。クリスは思考する。どうしてこうなった、と。
◇◇◇
時は少し、巻き戻る。
「落ち着きましたか?」
「……ぐすっ、みっともないとこ見せちまったな」
どれ程そうしていただろう。時計のないこの部屋では正確な時間を計ることなど出来はしないが、それは瞬くように過ぎながらも、長く心に残るそんな不思議な刻だった。
身動ぎし漸く面を上げたクリスは、自分では見えないものの酷い顔をしていた。涙で瞳を真っ赤に腫らし、年頃の少女に或るまじき鼻水まで垂らした散々な顔をしていた。そんなクリスの様子に気が付いた蛍によって肩を掴まれ、無理矢理に身体を彼女の方へと向けさせられると、蛍はポケットからハンカチを取り出して、丁寧にクリスの顔を拭い始めた。「ちょ、お前、やめっ、自分で、自分でやるから!」と再び蛍の手を払おうとするクリスに、「動かないでください、手元が狂います」と無慈悲な言葉を返した蛍はごしごしとクリスの顔を拭うその手を決して止めない。その顔は相変わらずの無表情で、何を考えてるのかさっぱり分からない。「大丈夫、大丈夫」と慈愛に満ちた声でクリスを落ち着かせてくれてた蛍は、何処へ行ってしまったのだろうか。
「折角の可愛い顔が台無しですよ」
「お、おまっ、なん、か、かわ、可愛いとか言うなッ!」
「事実です。ここ数年は世俗と関係を絶って流行り廃りには疎い私ですが、それでも断言できます。クリスの容姿は街中を歩けば世の男性の視線を釘付けにすること請け負いです」
「は、はぁッ!?」
「ああ、でも、クリスは顔だけじゃなく体型もいいですから。男性だけではなく、女性から羨望の眼差しを受けるかもしれませんね」
「ば、馬鹿かお前ッ!? 急に何トチ狂ったことを言いやがるッ!?」
羞恥から顔を真っ赤にして顔を俯かせようとするクリスの顔を、蛍は「まだ駄目です」と両手で掴み、無理矢理に上を向かせる。クリスは必死に首の筋肉に力を込めて抵抗するも、悲しいかな、まだシンフォギアを手に入れたばかりで基礎訓練すら積んでいないクリスの体力では、ここ丸々2年を訓練に当ててきた蛍の力には敵わない。この小さな身体でどんな力してやがると慄くクリスを他所に、蛍はクリスの顔を拭く作業を再開する。蛍はぷにぷにと餅のように柔らかいクリスの頬の弾力をハンカチ越しに感じながら、頬を拭った後は、目元を、そして最後には鼻下を、クリスの顔に張り付いた涙のかけらを拭っていく。
いい加減に我慢の限界だった。クリスの顔が羞恥から怒りに染まり始める。が、蛍はその変化を敏感に感じ取ったのか、怒らせては元も子もないと先程よりも随分と血行の良くなったクリスの顔から両手を離した。
「こんのスクリューボールがッ! 言いたい放題の好き放題、あたしを馬鹿にしてるのかッ!」
「そんなまさか。場を和ませようという私なりの小粋なジョークじゃないですか」
クリスがどれだけ言葉にしようと、まるで暖簾に腕押し。ひらりひらりとクリスの言葉を躱し続ける蛍に苛立ちが募るも、蛍にその苛立ちがぶつけようにも、その度に気概を殺がれる。
「うーん、やっぱり一度洗い流したほうが良さそうですね」
そう呟くと、蛍は未だ羞恥で顔を染めたクリスの手を取り立ち上がる。そのまま小さな身体に見合わぬ力強さに引き摺られ、クリスはあっという間に部屋の外へと連れ出されてしまった。
大小様々な機械と、植物の根のように床を這うケーブルに満ちた廊下を、蛍はクリスの手を引き、慣れた足取りでずんずん進む。
「お、おい、今度は何だってんだ!?」
「クリス、お風呂に入りましょう」
「風呂だぁ!? なんで今そんな流れになる!?」
「訓練の後で既に一度汗を流しましたが、フィーネのせいで身体が冷えました。一緒に入りましょう」
「一緒に!? 待てッ!? どうしてそうなる!?」
お風呂とは、1人でゆっくりと入るべきものだとクリスは思う。誰の目も気にせず、生まれたままの姿となって温かい湯に身体を浸らせる。ご機嫌な日には、鼻歌なんて口にしながら、その日の疲れを癒す心の洗濯。それが、お風呂というものだ。
温泉であるならいざ知らず、家庭にあるようなお風呂に、自分以外の誰かと入るなんてことは、少なくともクリスの常識の内にはない。幼い頃こそ、両親と共に入った記憶はあるが、クリスももう15歳になり人並みの羞恥心というものを覚えてしまっている。
先程から何度となくクリスの頬を染め上げていることからも分かるように、クリスは恥を知らぬという訳でもなければ、今日出逢ったばかりの少女といきなり裸の付き合いをする程、社交性に富んでいるという訳でもない。認め難い事実ではあるが、雪音クリスという少女は、寧ろ、恥ずかしがり屋の部類に入るのだ。
「ほら、何時までそうしているつもりですか。服を脱がないと、お風呂には入れませんよ」
「んなこたぁ百も承知だよッ! 入りたくないから脱いでねえに決まってんだろ!」
「むぅ、クリス、そう言う我儘は良くないです」
「どの口が言うかッ!」
辿り着いた脱衣所で、早々に服を脱ぎ始めた蛍の若干天然めいた発言に、クリスは慌てて両手で目を隠しながら声を荒げて反論する。指の隙間から見えた、小首を傾げて心底不思議そうな顔をする蛍に、「こいつ実は天然ちゃんかよ……」と内心でため息を漏らした。
首から下げた神獣鏡さえ脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ姿となった蛍は、タオルで身体の前をこそ隠しているものの、その小さな布面積では全てを覆うことなど出来る筈もなく、彼女の陶器のように白い肌が指の隙間から覗くクリスの視界をチラついた。
フィーネの言に拠れば、どうやら同い年であるらしい蛍の身体は、随分と貧相――否、慎ましやかであった。大量のリボンやフリルが付けられたまるで人形が着ている洋服、それを脱ぎ捨て現れた彼女の肉体は小さく、細い。触れたら砕けてしまう、まるで氷細工のような繊細さがそこにはあった。
フィーネが去り際にダンボール一杯に詰まった食料を置いていったことから、少なくとも、フィーネの元に身を寄せてからの蛍の食料事情は然程悪くなかった筈である。だというのに、5年間、一日一食の固いパンと冷たいスープで毎日の飢えを凌いでいたクリスよりも、その肉体が明らかに貧相――否、慎ましやかなのは一体どういうことだろう。
体質、遺伝と言う言葉が浮かぶ。思えば、クリスの母――ソネット・M・ユキネは、体型的に非常に恵まれていた。欧州出身である彼女は、声楽家でありながらも、どこぞの有名ブランドのファッションショーでランウェイを歩いたことすらあるというその恵まれた容姿から別の意味でファンが多かった。クリスは、その母から髪の色や顔立ちなど色々なものを遺伝子として受け継いでいる。両親が存命だった頃は「クリスは母さんに似てきっと美人に育つ」と口癖のように聞かされて育った。実際、幼い頃はあまり気には止めていなかったものの脱衣所の鏡に写る自分の姿は記憶の中にある母の面影を想起させる。
蛍のその容姿が、彼女、或いは彼女の環境に問題がないのだとすれば、それはやはり、彼女の体質によるものなのだろう。幾ら羨ましそうな目線を向けられた所で、神ならぬ身のクリスにはどうこう出来る問題ではない。
閑話休題。現実逃避に無駄な思考を費やしている場合ではない。兎にも角にも、蛍と一緒に入浴することだけは何としてでも阻止しなければならない。蛍と出逢ってからというもの、彼女のペースに乗せられっぱなしである。ここらで、挽回しなければ、雪音クリスの沽券にかかわる。
こうなったら、既に服を脱いでしまった蛍に先にお風呂に入ってもらい、自分は後から入るとでも言って彼女を何とか説得するしかあるまい。一緒には入らないが、後でちゃんと入る。これがクリスに出来る最大限の譲歩だ。
蛍の目を見て真摯に訴えようと、目を覆っていた両手を外し言葉を紡ごうとしたクリスだったが、指の隙間から部分的にしか見えていなかった蛍の全身を視界に収め、瞠目し、語るべき言葉を失ってしまった。
その、至る所に、無数の傷跡がある。
全身を這うまるで鞭で叩かれたかのようなミミズ腫れの跡、首筋には何度となく打たれたのであろう注射の跡。少女の白い肌には似つかわしくないその傷跡は、紛れもなく、目の前の少女が歩んできたこれまでの軌跡。クリスと同じく、日陰の中に生きてきたという証左。
「お前……その傷……」
クリスの視線に気付いたのか、蛍は無表情に努めながら、声にのみ苦笑の色を含ませて「フィーネの
「平気、なのか?」
「……問題ありません。傷ができて直ぐの頃は、かなり痛みましたが今はもう痛みませんから」
「そっちじゃ、ねえよ」
「えっ」
身体の痛みは、何れ癒える。時が経って、かさぶたが剥がれれば、自然と痛みは薄れていく。だが、心の痛みはどうだろう? 心という目には見えない場所に刻まれた痛みは、傷は、決して簡単に癒えることはない。目に見えないというのは、怖い。自分ではもう治ったと、克服したと思っていても、それは大抵の場合は勘違いで、喉の奥に引っかかる小骨のように、心の何処かに痼となって残り続ける。
そして、それは、時間が経って、もう大丈夫と安心した時に、膿となって溢れ出すのだ。先程のクリスのように。
クリスには、蛍がどの様な半生を過ごしてきたかは分からない。けれど、その道筋は、決して楽なものではなかった筈だ。綺麗に舗装された道ではなく、細く険しい獣道を身体に無数の傷を作りながら歩んできた蛍は、身体だけではなくその心にも同じく傷を負ってきた筈だ。
その無表情の奥にどれだけの傷を抱えているのか、クリスには想像もつかない。
彼女は自分のことを「我侭」だと言った。自分勝手で、欲深くて、自分の為にしか歌えない最低の人間だと自身のことを蔑んだ。
果たして、本当にそうなのだろうか。只の我侭な人間が、何を犠牲にしてでも叶えたい願いなど抱くだろうか。自分本位な人間が、世界を変えるなんて強い想いを、願いを、意思を抱けるだろうか。そんな訳はない。きっと本当に我侭な人間というのは、他人の気持ちを知ろうともしないで、笑顔で心にもない嘘を平気で吐き、騙し、裏切る。この理不尽な世界で自分は強者だと夢想し、弱者の上にあぐらをかいた、驕り高ぶった人間。そんな屑こそが、真に我侭と呼べる人間なのだ。
だから、蛍のソレは只の我侭などでは決してない。我侭な人間は、誰かの為にと態々蜂蜜入りのホットミルクを用意したりしない。目の前でいきなり泣き始めた出逢ったばかりの少女を抱きしめ慰めたりしない。蛍の行動の至る所には、他者への思いやりがある。自分の為だけでは、ない。他人を想う心がある。
それが騙りだとは、到底クリスには思えない。無表情という不格好な仮面でしか己の感情を隠すことが出来ない不器用な人間が、そんな器用な真似を出来る筈もない。人の弱みに付け込むような人間は、そういう時は笑うのだ。
詞世蛍は優しい。それがクリスの答えだ。例え本人が否定しようとも、決して覆らないクリスの正真正銘、心の底からの本音だ。
そして、思う。そんな蛍が思い描く明日とは、一体どのようなものなのか。世界を変えたその先に、彼女は一体どんな夢を抱いているのだろうか。
あの時、言いかけた言葉の先に、その答えがあるのだろうか、と。
「人の裸体をじっと見つめて、何を真顔になっているのですか」
「ひゃん!」
いつ間にか接近し、服の中に滑り込まされた蛍の小さな手の冷たさに、クリスの思考は断ち切られた。クリスは、自分の口から発せられたらしくもない甲高い声に驚き、誤魔化すように声を荒げた。
「人が真面目に考え事をしている時にいきなり何をしやがるッ!」
「油断大敵です。敵を目の前にして考え事とは、感心しません。そんなことでは、何れ来る戦場で、敵の首級を上げるなど出来はしませんよ」
「お前は尤もらしいこと言う前に、鏡で自分の格好を見返しやがれッ!」
「裸の人間に説教されるのは、気に入りませんか? では、一つ尋ねますが、そう言うクリスは人の裸体を前にして、真面目に、何を、考えていたのですか?」
「ぐっ、いや、それは、だな……」
クリスは、言葉に詰まった。まるで、他人に肌を晒すなど慣れているとでも言わんばかりに蛍が堂々とした態度であっても、それをマジマジと見つめてしまったのは他ならぬクリスである。蛍の身体に刻まれた傷跡を見て、彼女の過去を、果ては彼女の為人にまでその考えを及ばせていたとは、流石に言い辛かった。
「言えないようなことを、考えていたのですか?」
「ち、違うッ! あー、その、なんだ、つまりだな、えーっと、あー、そ、そうだ! お、同い年だってのになんでお前はそんなにちみっこいのかを考えてた! ち、ちゃんと飯食ってるのかお前? まともな食事にありつけなかったあたしより貧相だなんて、本当にあたしと同い年か?」
やってしまった。そんな考えがクリスの、頭を真っ白にする。今、自分は何を口にした? 咄嗟の言葉とはいえ、あまりにも杜撰な物言いだった。
蛍の身体が小さい。そんな事を考えていたのは、確かである。だが、それを口に出す必要は全く無かった。幾ら苦し紛れとはいえ、人の身体的な特徴をまるで馬鹿にしたような物言いは、決して褒められるものではない。「お前は優しいよ」なんてこっ恥ずかしい台詞を、改めて蛍に面と向かって言う勇気がクリスになかったとしても、もっと他に誤魔化し方が有った筈なのに。どうしてクリスの口から発せられた答えは、考え得る限り最も口にしてはいけない言葉だったのだろうか。
とはいえ、クリスの口をついて出たそれが、苦し紛れの答えであることを、蛍とて理解している、と思う。きっと。多分。
ならば、クリスが心の底から優しいと見定めた彼女のことだ。きっと許して――。
「………………」
無表情だった。無言だった。蛍の顔には今までと変わらぬ無表情が貼り付けられ、口は一文字に結ばれている。だが、そのこめかみの辺りには薄っすらと青筋が浮かび、唇の端は何かに耐えるようにひくついているのは決してクリスの見間違いではないだろう。
沈黙が、痛い。
「クリス」
「お、おう!」
「一緒にお風呂入ってくれますよね?」
有無を言わさぬ蛍の言葉に、クリスは遂に陥落した。
◇◇◇
自業自得、その一言に尽きた。どうしてこんなことになったと自問自答するクリスに叩きつけられたのは、自分の苦し紛れの言葉が蛍の機嫌を損ねてしまったいう擁護のしようがない現実であった。だとすれば、きっとこれは罰なのだ。体型という、女性を前にして口にするには、最大限の用心をして然るべき話題を不用意に語り、蛍の逆さ鱗を撫でてしまったクリスに天から与えられた罰。
「同性ですし、そこまで恥ずかしがることでもないでしょう?」
「おかしいだろッ! あたしが留守にしたこの5年で、日本の貞操観念はどうなっちまったんだ……」
蛍のこの自分の身体に対する羞恥心の薄さは、どういうことなのか。自分の身体の未発達ぶりを気にしているくせに、それを他人の目に晒すことには如何程の躊躇いも見せない蛍の矛盾を指摘し問い糾したかったが、自分から再び地雷原に突っ込む訳にもいかないと口を噤んだ。
「……クリスは、ずっと日本に居なかったのですか?」
「あ?」
「いえ、その、名前と容姿からハーフ若しくはクォーターだとは思っていたのですが、日本語がすごく堪能だったので、日本での暮らしが長いのだとばかり」
彼女の言葉を受けて、そういえばクリスと蛍はお互いに自分の事を全く話していないことに漸く気が付いた。蛍と出逢ってから、矢鱈と濃い時間を共に過ごしてきたため、つい忘れていた。お互いに口にはしなかったものの、似た者同士の気配を感じ取って、なんとなく分かったつもりになっていた。
クリスは、別段、己の事情を隠すつもりはない。これからこの屋敷で共に暮らすのだとすれば、遅かれ早かれ互いの事情を知ることになる。蛍相手にであれば、不幸自慢になることもあるまい。お風呂に入りながら背中合わせで語る話題としてそれはどうなのだという思考を頭の隅に追いやって、クリスはぽつぽつと己の軌跡を語り始めた。
「――と、まぁ、そんなこんなであたしはイチイバルに適合して、あの女に此処まで連れてこられたって訳だ」
「……クリスは」
「ん?」
「両親のことを、恨んでいますか?」
大嫌いだ、と言いかけた言葉を飲み込む。果たして本当にそうなのだろうか? どうしてだかは分からないが、この問いには、よく考えて答えを返さなければならないとクリスは思った。
もしも、蛍の問いが「戦争のことを、恨んでいますか?」であれば、クリスは間をおかずに首を縦に振ったであろう、クリスが、5年間もの長い期間を捕虜として過ごしていた原因は、この世界に満ちた理不尽――その最もたる戦争にある。人の命を、尊厳を、道端に捨てられた塵にまでその価値を貶める戦争をクリスは憎悪する。だからこそ、戦争を失くすというフィーネの言葉に頷き、この屋敷に来た。
とはいえ、本来であれば、クリスはその戦火とは程遠い場所で暮らしていた。テレビのニュースで語られるアナウンサーの言葉を、どこか遠い世界の事だと思っていた。そんなクリスが戦火に巻き込まれたのは、幼いクリスを連れてNGO活動を行っていたクリスの両親に問題がある。父と母が分不相応な夢など抱かなければ、クリスを連れてあの国に赴かなければ、こんな事にはならなかった筈だ。幼いクリスを弾丸飛び交うこの世の地獄に引き込んだのは、決して親として褒められる行為ではなかった。
しかし、クリスにはずっと心に隅に引っかかっている疑問があった。
何故、両親があの地獄に幼いクリスを連れて足を踏み入れたのか。安全な日本に残すこともせず、危険を承知で、クリスを連れ立ったのは何故なのか。長年考え続けているその問いに、未だクリスは答えを見つけ出せないでいる。
その問いに答えを見つけられないまま、只両親を恨んでいるとは、クリスにはどうしても口にすることが出来なかった。
「……分かんねえ。馬鹿な人たち、だとは思う。叶う筈もない夢を追いかけて、結果自分たちが仏になっちまった。あたしがあの地獄に居たのは、パパとママに手を引かれたからだ。本来なら、恨んでも恨み足りねえ。憎まれたって仕方ねえことをパパとママはしてる。だけど、繋いだその手が、嫌じゃなかった。あったかかった。……それだけは覚えてる」
クリスの分からないけれど分からないなりに出した答えに、蛍が直ぐに言葉を返すことはなかった。返事がないことをクリスが訝しんでいると、ぽつりと呟いた蛍の掠れた声が浴室に響いた。
「私と……ぜん……う」
蛍の体が震えている。耳を澄ませるまでもなく啜り泣く彼女の声が、クリスの耳をついた。
クリスの答えの何が蛍の琴線に触れたのか分からなかったが、それでも、彼女が涙を流しているのは確かだった。あわあわと慌てるものの、それで事態が好転する訳でもない。人付き合いというものを、まともに経験していないクリスにはこういう時どうすればいいのか皆目見当がつかない。
だが、なんとかしたい。傷の舐め合いだとしても、目の前の少女が泣いていることを雪音クリスは、許容出来ない。泣き止んで、欲しい。
一つの考えが、浮かぶ。だが、それはクリスからしてみれば途轍もなく恥ずかしい。今後、蛍の顔をまともに見れなくなるかもしれない。だが、それで目の前の少女が泣き止んでくれるのであれば――。
羞恥心を押し殺し、クリスは行動を起こす。雪音クリスにやられっぱなしは似合わない。
「くり、す?」
「こ、これで貸し借りは無しだからな」
両手を回し背中から覆いかぶさる。蛍の手に、自分の手を重ねる。あの時感じた頼もしさは、もう無い。そこにあるのは、涙に頬を濡らした小さな少女の手だ。
衣服越しには感じられなかった蛍の柔らかな全身の肌の感触が伝わる。洗ったばかりのすべすべした肌からは、クリスと同じ石鹸の匂いが香る。その事に、どうしようもない恥ずかしさを覚えるクリスだったが、それでもこの身体を離す気にはなれなかった。
蛍がそうしてくれたように、彼女の背に自分の胸を押し付け、鼓動を聞かせる。早鐘のように落ち着きのないクリスの心臓の音で、蛍が落ち着いてくれるかは分からなかったが、それでも、クリスには他の方法が思いつかなかった。
なるべく彼女の裸を視界に収めないよう視線を逸らしたその先に、雫を滴らせて濡羽色に輝く蛍の髪が視界一杯に広がる。クリスのクセが多いふわふわとした白藤色の髪とはまるで違う、その絹のような髪を少し羨ましく思う。こんな時に何をとは思ったが、こんな時だからこそ、そんな事にでも思考を割かなければ、クリスは恥ずかしさで如何にかなってしまいそうだった。
埋めるように頭を押し付ければ、かかる息がくすぐったかったのか、蛍がピクンと反応する。それが、無性に、可愛らしい。無表情の仮面の下に隠れた小さな少女が、自分には姿を見せてくれているという謎の満足感が、クリスの心を満たしていく。
この少女は、こんなにも小さい。同い年だということすら忘れて、守ってやりたいと思う。
優しい彼女を、この理不尽な世界から守ってやりたい。
そう思うと、自然と、口から旋律が溢れた。
歌詞はない。主旋律だけが、溢れるようにクリスの口から漏れた。聞いたこともない音が、胸の内から湧き上がる。
その旋律を奏で始めると、蛍の身体の震えが止まった。強張っていた全身から、ゆっくりと力が抜けていく。
その様子を目には見えずとも、触れ合った肌から感じ取ったクリスは、即興に過ぎない拙いクリスの歌で、蛍の哀しみが少しでも薄れるのならばと更に喉を震わせた。
傷ついた誰かの為に歌う。歌で
公式で愛され系認定されたクリスに、ヒーロー属性とヒロイン属性が両方そなわり最強に見える。
多分、年内最後の更新になります。皆様、良いお年を。