頭にソフトボールが直撃して私は記憶を失った。
病院で目を覚ました私が自分のカバンを漁っていると、出てきたのは宛先不明の自分が書いたと思しきラブレター。
私がラブレターを渡そうとしていた相手は誰?
お見舞いに現れた幼馴染の少年、空野彼方。
彼は私が記憶喪失になる以前に私に告白して振られていた。
私がラブレターを渡そうとしていた相手は彼ではない。
それなのに、私は彼に恋をしてしまった。

※小説家になろうにも掲載しています。

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ソフトボールが頭に直撃して記憶を失ったけど、カバンの中からラブレターが出てきた

 頭に強い痛みと衝撃を受けて私の視界は光で染まった。

 よく漫画などで頭にゴツンと硬いものが当たると火花が散る描写があるけれど、あれって本当なんだなとぼんやりした頭で考えながら私はその場に倒れ込んだ。

 太陽の熱で温められたアスファルトが熱い。遠くではセミが鳴いている。

 

「おい! 大丈夫か? しっかりしろ!」

 

 私の近くで制服を着た少年が大声を上げて慌てている。

 誰だっけ……

 よく知ってる誰かのような気がしたけれど、思い出せなかった。

 

 倒れているため地面が近い。

 私の視線の先をソフトボールがコロコロと転がっていく。

 そうか、頭に当たったのはソフトボールだったのか。

 どうりで痛いはずだ。

 

「誰か! 保健室まで行って先生を呼んで来てくれ! 救急車も!」

 

 少年が必死な形相で助けを呼んだ。

 救急車?

 ソフトボールが当たったくらいで大げさな……

 目立つのは恥ずかしいから呼ばないでほしい。

 すぐに立ち上がって見せれば安心するだろう。

 そう思って立ち上がろうとしたのだけど……

 

「あれ?」

 

 私の身体は痺れて動けず、意識は暗闇へと沈んでいった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 目を覚ますと私はベッドの上に寝かされていた。

 最初に目に映ったのは三十代後半くらいの見知らぬ女性と男性。

 

「良かった! 目を覚ましたのね!?」

「丸一日寝たきりだったんだぞ!?」

 

 見知らぬ女性と男性は私の顔を見て安堵の表情を浮かべている。

 心配してくれるのはありがたいのだけど、この二人は誰だ?

 それにここは?

 

「ここはどこですか?」

「ここは病院よ。救急車で運ばれたの」

 

 私の質問に女性が答えた。

 あー……私は気を失って救急車で病院に搬送されたのか……

 

「あの、ご心配おかけしましてすいません。ところでお二人はどちら様でしょうか?」

 

 私が疑問を口にすると二人はきょとんとした表情で顔を見合わせた。

 

「寝ぼけてるの? お母さんよ」

「俺はお父さんだ。分かるか?」

 

 二人は私の両親なのだと説明した。

 しかし、私は二人のことを全く思い出せない。

 それどころか……私は自分の名前すら思い出せず愕然とした。

 

「ごめんなさい。私……思い出せないんです。二人のことも自分のことも……」

 

 私が気を失う前……ソフトボールが頭に当たったことはうっすらと覚えている。

 しかし、それ以前のことは全く思い出すことが出来なかった。

 どうして思い出せないのだろう。

 

「うっ……」

 

 無理やり思い出そうとすると、頭がズキリと痛んだ。

 頭に手を当てると包帯が巻かれていた。

 

「聖……お前ひょっとして記憶が……」

 

 私の父親を名乗る男性が名前を呼んで私の名前が判明した。

 宗方聖……それが私の名前だった。

 呼ばれてもやはり自分の名前だという実感は湧かない。

 

 精密検査が行われた結果、私は記憶喪失だと判明した。

 主治医の先生の話によれば脳震盪のやや重い状態で「記憶喪失は一過性のものでそのうち思い出すでしょう」とのことである。

 ずいぶん楽天的な診断だと思ったのだけど、意外とよくあることだそうだ。

 下校中、歩きスマホをしながら歩いていた私の頭に、飛んで来たソフトボールが直撃して脳が揺さぶられ記憶障害を引き起こしたらしい。

 なんとも間抜けな話である。歩きスマホは危険なのでこれからはやらないようにしようと心に誓った。

 

 先生の話を聞き終わった後、念のために数日入院することとなった。

 私の意識が戻ったことを学校に伝えたようで、担任の先生とソフトボール部の顧問の先生が病院に駆けつけ、記臆喪失を心配されたり、謝られたりしたのだけど自分のことのようには感じられず「ええ」「まあ」「はい」「大丈夫です」と適当に返事をしておいた。

 先生が帰り、父と母も一旦家に帰り、病院に一人残される私。

 

 私は担任の先生と両親から聞いた話から自分についての情報を整理した。

 名前は宗方聖、高校二年生。兄弟姉妹はおらず一人っ子。

 学校での成績は学年全体の真ん中くらい。

 運動神経は普通で部活には所属していない。

 性格は明るく、友達は多い。

 あれだ、特に特徴のないごく普通の女子高生ってやつだ。

 自分のことなのに、何とも面白みがないなと他人事のように思ってしまう。

 そんなごく普通の記憶を失う以前の私であったが、何故か生徒会で書記をしているらしい。

 生徒会には自分から立候補しないとなれないそうなのだけど、記憶を失う前の私は何を考えてそんな面倒そうな所に所属してしまったのか……

 謎な行動である。

 

 病院の消灯時間は早い。

 私は寝る前に記憶を思い出す手がかりがないかと思い、担任の先生が持って来てくれた学校に置きっぱなしになっていた自分のカバンを開けた。

 教科書、ノート、筆箱、それにライトノベルとスマホか……

 スマホは液晶画面が割れており、電源も入らない。

 ソフトボールが頭に当たった時に地面に落としてしまい、完全に壊れてしまったそうだ。

 メールやLINEの会話内容を見れば何か思い出すと思ったのだけどこれでは無理である。

 カバンの中の物を一つ一つ確認していたその時だ。

 本の間に挟まっていた何かが床に落ちた。

 

 それは手紙だった。

 ピンク色の可愛らしい封筒で女の子のものだと人目で分かる。

 いったい誰が書いた手紙だろうか?

 私? それとも?

 中身を確認すると、封筒の中には便箋が一枚入っており短い文章がしたためられていた。

 

「こ、これは……」

 

 内容は以下の通りである。

 

 突然のお手紙ごめんなさい。

 直接会って話したいことがあるので、もしよかったら今日の放課後、校舎裏の桜の木の下に来てもらえないでしょうか?

 待ってます。

 

 宗方聖

 

 驚いたことにそれはラブレターであった。

 騙まし討ちの呼び出し、果たし状でないとすれば紛れもないラブレターであった。

 差出人は私。

 記憶を失う前の私は誰かに恋をしていてラブレターを出そうとしていたようだ。

 しかし、封筒と便箋を隅から隅まで見ても相手の名前は書かれていなかった。

 いったい私は誰に渡そうとしていたのだろう?

 私のカバンに入っていたことを考えると、渡せなかったのだろうか?

 その日の夜、私は気になってしまいなかなか寝付けなかった。

 

 次の日になったけれど、記憶が戻る気配は全くない。

 もちろんラブレターの相手も不明だ。

 私は記臆喪失という以外いたって健康なので、病院内での行動の自由を許可されている。

 とはいえ、病院の建物の中にあるのはコンビニくらいだ。

 自分の病室とコンビニを往復するのも飽きてしまい、入院生活二日目にして私はやることがなくなってしまった。

 今の時間は午後三時ちょっと前。今日は平日で面会時間は午後三時から午後八時までだ。

 母が面会に来ることになっているけれど、まだ少し時間がある。

 私はテレビを見て時間を潰すことにした。

 病室は六人部屋でベッドには各一台のテレビが設置されており、視聴するためにはテレビカードを購入する必要がある。

 私は自動販売機でテレビカードを、コンビニでイヤホンを購入した。

 

「あ、宗方さん、お友達がお見舞いに来ましたよ」

「友達……」

 

 買い物が終わり、病室に戻ろうと廊下を歩いていると看護師さんが声をかけてきた。

 お友達と言われても記憶喪失なので、ピンとこない。

 友達は病室に向かったはいいが私の姿が見当たらなかったので、そのまま戻ってくるのを待っているそうだ。

 入れ違いになってしまったらしい。

 待たせるのも悪いので、私は早歩きで自分の病室に向かった。

 病室の前に制服を着た少年一人と少女一人が立っている。

 少年の方は私よりも身長が高く、ツンツンした短い髪の毛をしている。

 三白眼で目つきが悪く、怖そうな印象を受けた。

 少女の方は私と同じくらいの身長で、髪型はツーサイドアップ。

 猫のようにまん丸な目をしており、可愛らしい。

 あれが私の友達だろうか?

 でも話しかけて間違っていたら恥ずかしいななんて思っていると、私に気づいた少女が手を広げて近寄って来た。

 どうやら、友達で間違いないらしい。

 

「ひっじりーん! 心配したんだよー!?」

「ふぁ!?」

 

 少女はそう言って私に抱きつき、強い力で拘束した。

 突然のことに驚き、私は硬直してしまう。

 

「おい、月森ここは病院だぞ。少し静かにしろよ」

 

 少年が抱きついている少女を私からグイ~と引き剥がす。

 少女からしたら私は友達なのだろうけれど、記憶喪失中の私は知らない人にいきなり抱きつかれたに等しい。

 私はどうすればいいのか分からず、対応に困っていたので少年が引き離してくれて正直助かった。

 

「何よー? 私とひじりんの邪魔をしないでよ。空野もハグしたかったとか?」

「は? うっせ。そんな訳ねーだろ」

 

 少年は半眼で呆れたように言った。

 この少年、どこかで見たような……

 あ、そうか。頭にソフトボールが当たって倒れている時に、私に声をかけていた少年だ。

 私は今更ながら気づくのであった。

 

「男の嫉妬ほど見苦しいものはないわー」

「俺は聖が迷惑そうにしてたから引き離しただけだ」

「迷惑な訳ないじゃない。私とひじりんは親友なんだから」

「親友だと思ってるのはお前だけかもな」

 

 二人のやり取りを呆然と眺めながら、さっき抱きつかれた時どのように行動すれば正解だったのか考えていた。

 記憶を失っていなければ……

 本当の私ならどうしていただろうか……

 

「むっかー!ひじりんに聞いてハッキリさせよう。ひじりん、私達親友だよね?抱きつかれても迷惑じゃないよね?」

「えっ?」

 

 突然、話を振られてどう答えたらいいのか分からず、言葉に窮してしまう。

 記臆喪失中の私に聞かれても困る。

 

「ごめん、記臆喪失で二人が誰なのか分からない。嫌ではないけど、抱きつかれてちょっとびっくりした」

 

 私が記臆喪失なのだと説明すると二人とも驚いていた。

 

「おばさんから聖が記臆喪失って聞いてたけど、記憶はまだ戻ってなかったか……」

「空野はひじりんが記臆喪失って知ってたんだ? どうして私に教えないのよ!」

「脳震盪による一過性の記臆喪失って聞いてたから一晩経ったら記憶が戻ってるかもと思ったんだよ」

「報告、連絡、相談は常識でしょ!」

「どこの社会人だよっていう」

「ムキーッ!」

 

 ツーサイドアップの少女が少年の腹をポスポスと殴るのだけど、少年の方はというと少女の細い腕で殴られた程度ではビクともしないのか平然としている。

 一見、少年は怖そうに見えるので怒りだしたりしないだろうかと思ってヒヤヒヤしてしまう。

 

「ん? ああ、こいつはいつもこんなんだから気にするな」

「そうなんだ」

 

 私の視線に気づいた少年が言った。

 二人は親しい関係でじゃれているだけのようだ。

 

「聖、頭のその包帯……大丈夫か?」

「うん、たんこぶが出来ただけみたい」

 

 私がそう言うと少年は安堵の表情を浮かべた。

 

「自己紹介しないとな。俺達は聖の小学校の時からの幼馴染で、俺の名前は空野彼方。それでこっちは――」

「私は月森都。ひじりんの親友だよ!」

「は、初めまして、宗方聖です」

 

 条件反射で私も自己紹介すると二人は「知ってる」と言って笑った。

 

「空野君、月森さん、二人ともせっかくお見舞いに来てくれたのにごめんね。早く記憶が戻ると良いんだけど」

「ひじりん、月森さんなんて他人行儀な言い方はよしてよー」

 

 月森さんは不満そうに頬を膨らませている。

 

「えと、私は月森さんのことを何て呼んでたのかな?」

「ミャコちゃんって呼んでたよ」

「ミ、ミャコちゃん……」

「うん。よろしい」

 

 月森さんは満足そうにうんうんと頷いている。

 ミャコちゃんか……口にしてみるとすんなりと馴染んだ。

 脳が覚えていなくても口の筋肉が動かし方を覚えているせいかもしれない。

 これが友達というものか……すこし気恥ずかしい。

 

「空野君の方も呼び方違ったのかな?」

「聖は俺のことを彼方って呼んでたな」

 

 記憶を失う前、私は空野君の名前を呼び捨てにしていたのか。

 男子の名前を呼び捨てにするほど仲が良かったのか、それとも幼馴染なら普通なのだろうか。

 一瞬、宛先不明のラブレターのことが頭をよぎった。

 もしかして、空野君が?

 いや、でもまさかね……

 

「か、彼方……ごめん、男子を呼び捨てにするのはまだちょっと抵抗が……空野君のままでいいかな?」

「何か調子狂うな」

 

 空野君は苦笑して肩をすくめ、空野君と呼ぶのを了承してくれた。

 私たちが自己紹介を終えると、しばらくして母が面会にやって来た。

 

「あらー、二人とも聖のお見舞いに来てくれたのね。ありがとう。ところで二人とも学校は?」

「サボった」

「学校よりもひじりんのほうが大事だよ!」

 

 二人は学校をサボったというのに全く悪びれた様子がない。

 私の母も「あらあら、悪い子達ねぇ」なんて言って笑っている。

 もしかしたら、普段からよくサボっているのかもしれない。

 

「その様子じゃ、まだ記憶は戻ってないみたいね。家からアルバムを持ってきたわよ」

 

 母はそう言って私にアルバムを渡した。

 主治医の先生から自分の過去のアルバムを見ることで脳を刺激して記憶を思い出す手助けになると言われて持ってきてくれたのだ。

 

「じゃあ、私は仕事に行ってくるから」

「え? 来たばかりなのにもう行くの?」

「急な仕事が入っちゃったのよ。ごめんね。二人とも聖をよろしく」

 

 面会に来て早々に母は仕事場に向かってしまった。

 両親のことはまだよく知らないが、何だか忙しいようである。

 病室に残される私達。

 私の幼少期の写真が貼られたアルバムを囲んで騒々しく雑談していたら看護師さんに「他の患者さんに迷惑がかかるので静かにお願いします」と注意されてしまった。

 

 病室に入院している他の患者さんに「ごめんなさい」と謝った後、私達は迷惑にならないように病院内のコンビニ前にあるイートインスペースに移動することにした。

 テーブル席に荷物を置いて場所を確保した後、飲み物やお菓子を買うためにコンビニに入った。

 

 さて、私は何を買おうか……

 たくさんの種類のソフトドリンクを前にして悩んでいると空野君が声をかけてきた。

 

「何を悩んでるんだ?」

「これだけたくさんの種類があるとどれを選択すればいいのか迷う。例えば、ミルクティーにしても何故かこのコンビニは紅茶物語と午後のお茶会の二種類があって私の好みはどっちなのか分からない」

「そういうことか。記憶喪失って面倒だな。聖の好きなミルクティーは紅茶物語だぞ」

 

 そう言って空野君は紅茶物語のペットボトルを手にとって私に渡した。

「あ、ありがとう。じゃあ、きのこ王国とたけのこ王国だったら私はどっち派なのかな?」

「聖はたけのこ派だな。ちなみに俺はきのこ派だ」

 

 そう言って空野君はたけのこ王国の箱を私に渡し、自分はきのこ王国の箱を手に取った。

 

 ちなみにきのこ王国、たけのこ王国とはチョコレートがコーティングされたビスケット菓子で、クラッカーをベースにした「きのこ王国」、クッキーをベースにした「たけのこ王国」のことである。

 好みによってきのこ派とたけのこ派に派閥が分かれ、派閥間で戦争が起こっているとか起こっていないとか。

 どうでもいい情報は覚えているのに、自分の好みを覚えていない記憶領域にうんざりする。

 

「聖の味の好みなら大体分かるから分からないことがあったら遠慮せずに聞いてくれ」

「ありがとう。それにしても自分よりも自分のことに詳しい人がいるって変な感じ」

「まあ、幼馴染だからな。そういやもう一人の幼馴染はどこに行ったかな?」

 

 店内を見渡すともう一人の幼馴染こと月森都さんはすぐに見つかり、お菓子を手に持ってやって来た。

 

「ひじりーん、パッキー納豆味だって! おいしそう!」

 

 月森さんは新商品のパッキー納豆味をチョイスしたようだ。

 ちなみにパッキーとはスティック状のクラッカーのお菓子のことである。

 

「あいつの好みは俺にもよく分からん」

「ははは……」

 

 人の好みはそれぞれなので、私達は月森さんに何も言わずにおいた。

 レジで飲料とお菓子を購入した後、私達はイートインスペースのテーブル席に戻り、再びアルバムを広げて雑談を始めた。

 アルバムには私の生まれてからの写真が貼られており、ページをめくるごとにだんだんと成長していった。

 赤ん坊の私、母に抱かれる私、家族の集合写真、幼稚園の入学式、旅行、運動会に遠足。

 どの写真を見ても私の記憶が復元されることはなかった。

 

「あ、これ私だ。空野もいる」

「どれだ?」

 

 月森さんが小学校に入学したばかりの頃の私の写真を指差した。

 写真には三人の子どもが写っている。

 私と月森さんと空野君だ。

 ぼーっとした表情の私の両側に二人がいて、月森さんは元気いっぱいといった感じの笑顔で、空野君はカメラから目をそらしている。

 幼馴染だっていう話は本当なんだなと写真を見てあらためて思った。

 この二人といると全然緊張しないし、話していて楽しい。

 

「私達って昔から一緒なんだね。空野君、両手に花じゃん。私達のどっちかと付き合ってたりしないの?」

 

 私は冗談で言ってみたのだけど……

 いや、宛先不明のラブレターの件が気になり、その場の勢いで口にしてしまったのだ。

 

「「…………」」

 

 さっきまで和気藹々と話していたのに二人は神妙な顔になり、突然黙りこんでしまった。

 

「え? 二人ともどうしたの?」

 

 いきなり気まずい雰囲気になってしまい、自分が地雷を踏んでしまったことに気づいた。

 

「ひじりん、あのね――」

「月森、どうせそのうち分かることだから俺から言うよ」

 

 月森さんの言葉を空野君が手を上げて制止する。

 空野君は悲しそうな、そしてばつが悪いといった表情でゆっくりと静かに言葉を続けた。

 

「俺は……聖に告白して振られたんだよ」

「えっ?」

 

 空野君が告げた衝撃の事実に私は動揺を隠せなかった。

 

「私が空野君を振った……?」

「ああ、見事に玉砕、撃沈、大破したよ」

「た、大破!?」

 

 空野君は自嘲気味に言ってから溜息をついた。

 身に覚えがないけれど、私が振ったのは事実らしい。

 私は空野君に何と声を掛ければ良いか分からず嫌な汗がダラダラと流れた。

 

「いやー、記憶喪失になる前のこととはいえごめんね?」

「謝ることじゃない。俺は聖にとって恋愛対象じゃなかった。ただそれだけの話だ」

 

 遠い目をしながら空野君は言った。

 それだけの話……

 そんな簡単に割り切れる話ではないと思うのだけど……

 身に覚えがないとはいえ、空野君には申し訳ないことをした。

 

「やーい、振られおとこー!」

 

 気まずい空気に耐え切れなくなった月森さんが空野君をからかい、空野君は「うるせー」と言ってからペットボトルに入ったコーラをあおるように飲んだ。

 

「この話はいったん終わり! ひじりんも気にしなくていいよ」

「そう言われても気になるよ!?」

「半年前の話だし、俺はもう何とも思ってない」

 

 この話は私達の中で過去として処理されており、既に冗談のネタになってしまっているようだ。

 二人からしたら半年前のことで気持ちの整理がついているのだろうけど、記憶喪失の私からしたら今初めて知ったことなので気にしなくて良いと言われても難しい。

 

「でも……ごめん……」

「ああ、もうっ! これで許してやるからもう謝るな」

 

 私が申し訳なく思っていると、空野君は私の購入したお菓子の箱にヒョイと手を伸ばしてたけのこの形をしたチョコレート二つを手に取った。

 チョコ二つで許してくれるらしい。

 しかしそれでは振ったことに対する等価のお詫びにならないのではないだろうか?

 私が空野君の手の中にあるチョコを見ながら考えていたら――

 

「あっー! 二つも取った!」

 

 私の表情を見て何やら勘違いした月森さんが不満の声を上げた。

 

「ミ、ミャコちゃん、二つでいいから。チョコで許してもらえるならいくらでも食べていいし」

「よくないよ! 空野なんてチョコ一つで十分だよ!」

「流石にチョコ一つはあんまりだと思うよ」

「つまり、何だ? 俺の失恋のショックはチョコ一つ分だと?」

「そういうことよ。チョコを一つ箱に戻しなさい」

「やなこった」

 

 空野君は手の中のチョコを自分の口に放り込んだ。

 

「あ、返せー!」

「返せといわれても、もう食っちまったよ」

 

 プンプンと怒りながら返却を要求する月森さんに対して、空野君は口を大きく開けてチョコがなくなったことをアピールする。

 

「最低。可哀相なひじりんには代わりに私のパッキーをあげよう」

 

 そう言って月森さんは私に納豆味のパッキーを一本渡した。

 

「あ、ありがとう。私もたけのこ王国を一つあげる」

「ひじりん、サンキュー」

「じゃあ、俺も聖にきのこ王国を一つやるよ」

「ありがとう」

「あ、私にもきのこ王国ちょうだい。パッキー一本あげるからさぁ」

「いらねぇよ」

「遠慮しなくていいから」

「遠慮してねぇよ!」

 

 空野君は納豆味のパッキーを半ば無理やり押し付けられる形でチョコと交換することになった。

 

「結局の所、皆でお菓子を交換しただけっていう」

 

 まあいいか。

 空野君からもらったきのこ王国のチョコを食べて分かったのだけど、たけのこ王国の方がおいしいと感じた。

 やはり私はたけのこ派で間違いないらしい。

 記憶を失う以前と味覚の変化はなさそうだ。

 納豆味のパッキーはというと……やはりというか不味かった。

 

 空気は元に戻り、私たちは再びアルバムを見ながら雑談を始めた。

 世の中は自分が気づいていないだけで告白して付き合ったり、告白して振られたりしている男女で溢れているのだろう。

 そして何事もなかったかのように日常は過ぎてゆくのだ。

 変化を気づかせない世の中の人々は凄いと思う。

 記憶を失う前の私は告白された相手を振り、そのまま元の幼馴染の関係に戻れたのだろうか。

 少なくとも今の私だったら好きな相手に振られたら一緒にいるのは辛い。

 私は空野君のように割り切れない。

 きっと前と同じ友人関係ではいられないと思う。

 

 空野君の横顔を見ながら思う。

 今でも私のことが好きなのだろうか?

 それとも、今はもう別の人を好きになってしまったのだろうか?

 空野君の目つきはやや悪いが見た目は格好悪くない。

 もしかしたら、記憶喪失になる前の私は少し惜しいことをしたのではないかと思う。

 

「何か思い出したか?」

「えっ?」

 

 ふいに空野君が私の方を向いて目と目が合いドキッとしてしまう。

 よそ事を考えているうちにアルバムを見終わってしまったらしい。

 

「うーん、何も思い出さない。他人のアルバムを見てるような……写真に写ってる自分と今ここにいる自分が一致しない感じ」

 

 写真を見ても私の記憶が戻ることはなく、二人は「そうかー」と眉を八の字にして口をそろえて言った。

 

「どうすれば記憶が戻るのかな?」

「もう一度同じショックを与えるとか? 漫画やアニメでは事故で記憶を失った場合、もう一度事故にあって記憶が蘇ったりするのは定番だよね」

 

 私は頭にもう一度衝撃を与える提案をした。

 作品名や内容は思い出せないのにテンプレートな設定だけ覚えていることを不思議に思う。

 

「よし、試してみるか。月森、聖をしっかり押さえといてくれ」

「ラジャー!」

 

 月森さんは額に手をかざして敬礼したかと思うと私の背後に素早く移動し、椅子に据わった私を羽交い絞めにして動けなくする。

 

「え? え?」 

 

 私の眼前で空野君が片手を振り上げてチョップをする構えをしている。

 自分で提案したはいいが、やはり痛いのは嫌だ。

 

「いくぞ?」

「うそ!? やっぱ無理!?」

 

 ジタバタと暴れるが、月森さんが後ろからがっしりとホールドしているせいで拘束から抜け出せない。

 チョップが私の頭に振り下ろされる。

 私は痛みに備えて目をつぶった。

 

「…………ん!?」

 

 しかし、痛みはいくら待ってもやって来ない。

 私が恐る恐る目を開けると声を押し殺して笑っている空野君がそこにいた。

 

「冗談だよ。怪我人の頭を叩く訳ないだろ。これでさらに記憶が飛んでパッパラパーになったらどうするんだ?」

「やっぱり、ひじりんをからかうのは面白いなー」

 

 私を拘束から解放した月森さんが楽しそうに言った。

 

「びっくりした。冗談か」

 

 二人とも私をオモチャにして遊んでいただけのようだ。

 もしかして、私はいじられキャラだったのだろうか。

 私は本当に頭にチョップされるかと思ってびっくりしたので二人を恨みがましく睨んでやった。

 

「すまん、すまん。つい、いつものノリでやってしまった」

 

 私がムッとしていると空野君が包帯の巻かれた私の頭の上にポンと手をのせた。

 すると何だろう。突然、全身の筋肉が弛緩して幸せな気分がホワホワと込み上げてくる。

 

「あ、頭撫でりゃれたっ!?」

「すまん、痛かったか?」

 

 私が痛みを感じたと思った空野君が頭から手を引っ込めて謝る。

 いや、そうではなくて男の子に頭を触れられたことに対して驚いただけなのだけど。

 それにこの不思議な感覚は何だ?

 胸がドキドキして顔に血が昇って熱い。

 

「ひじりん、顔真っ赤。どったのー?」

「ほんとだ、顔がリンゴみたいになってるぞ」

「ええー? うそ? ここ暑いねー!?」

「冷房めっちゃ効いてるけどな?」

 

 私は早く鎮まれと思って顔を手で覆い隠す。

 男の子に頭を触られただけで顔が真っ赤になるとか私はウブ過ぎではないだろうか。

 もしかしてこれがナデポ?

 ナデポというのは女子が男子に頭を撫でられただけで顔をポッと赤らめて惚れてしまうことである。

 いやいや、私がそんな安い女のはずがない。何かの間違いだ。

 

 私達の雑談は続き、二人は帰り際に明日もまた来ると言って帰っていった。

 自分の病室に戻り、消灯時間前にカバンからラブレターを取り出して眺める。

 空野君から好意を寄せられていたことは分かったけれど、振ったということは私の恋愛対象ではなかったということだ……

 ラブレターの相手は誰なのか分からぬまま。

 だけど……私は空野君のことが気になり始めていた。

 

 その晩、私は夢を見た。

 夢の中の登場人物は私と空野君と月森さんで小学校低学年の頃の姿をしている。

 見知らぬ公園で走り回って遊ぶ私達。

 日が沈み始め公園が茜色に染まった頃、遊び疲れてそろそろ帰ろうかというところで私は転んでしまい膝を擦りむいてしまった。

 怪我したところから血が流れ、痛くて涙が出てくる。

 うずくまって泣いている私に二人が心配そうな顔で近寄り「大丈夫?」と声をかけた。

 しかし私は泣き止まず、困った空野君は「膝を少し擦りむいただけ。傷はそんなに深くないから大丈夫だ」と頭を撫でながら私を落ち着かせようとした。

 空野君の穏やかな表情を見ていると不思議なことに痛みが引いていき涙が止まった。

 公園の水道の蛇口をひねって水で傷口を洗い流し、ハンカチで拭いた後、月森さんは持っていた絆創膏を傷口に貼って「これでオッケー」と満足そうに言った。

 空野君に「歩けるか?」と聞かれ、「歩けない」と答えると空野君は「しょうがねえな」とぶっきらぼうに言って私をおんぶする。

 家までの道のりの間、私は空野君の背中の体温を感じながら心が温かいもので満ちていくのであった。

 

 朝になり私は目を覚ました。

 今の夢は本当にあったこと?

 それとも?

 あとで二人に聞いてみることにしよう。

 今日は午前中に簡単な検査を受けた。

 頭に巻いた包帯は外れたけれど記憶は戻らないまま。

 

 午後になり二人がお見舞いにやって来た。

 二人の話によると学校の友達も心配しているとのことだ。

 しかし話し合いの結果、大勢で押しかけるのは記憶喪失の私に精神的ストレスを与えることになるだろうということで、空野君と月森さんの二人が代表してお見舞いに訪れるという話になったらしい。

 

「頭の包帯取れたんだな」

「腫れがほとんど引いたから取っていいって。ここにたんこぶがあったんだけどもう全然分からないくらい」

「どれどれ?」

 

 空野君はそう言って私の頭に触れた。

 

「こ、これは……大変だ!」

「ええっ? どこかおかしいかな?」

「すごい撫でやすい頭の形をしている!」

「あはは、何それ。もう、驚かせないでよ」

「うん。おかしなところはないから安心しろ」

 

 たんこぶが引っ込まないままだったらどうしようと心配していたのだけど、空野君から頭の形が元に戻っているというお墨付きをもらって私は安堵した。

 空野君の眼つきは鋭くて怖い印象を受けるのだけど、私の頭を撫でている時の表情はとても穏やかで優しい表情だ。

 その表情で見つめられると私は胸がドキドキしてしまう。

 

「あれー? イチャイチャしちゃってー。私もいるんだけどお邪魔だったかしらー?」

 

 月森さんがニヤニヤ笑ってはやし立て、私はハッと我に帰る。

 

「そ、そんなことないよ。頭の形をチェックしてもらってただけだし」

「ふーん、どれどれ。私もひじりんの品質管理に協力させてもらおうか」

「品質管理って私は商品か!」

 

 ふざけながら月森さんは私の頭を撫でた。

 

「しゅごい! 撫でやすい頭の形をしている!」

「ミャコちゃん、お前もか!」

 

 二人は記憶が戻る手助けになればと私の好きなお菓子を買ってきてくれて一緒に食べた。

 お菓子を食べながら二人は私の子供の頃の思い出を話して聞かせてくれた。

 記憶は思い出せなかったけれど、思い出を話す二人の表情は終始笑顔で私のことを大好きなのがよく分かった。

 

「そういえば」

「ん?」

 

 今朝見た夢の話をすると、二人は確かにそんなこともあったと答えて、記憶が戻ってきたんじゃないかと喜んだ。

 アルバムを見た効果があったのではないかということになり、今度自分の家にあるアルバムを持ってきてくれることになった。

 

 それから二人は毎日お見舞いにきてくれて、約束どおりアルバムを持ってきて見せてくれた。

 私の好きな漫画を持ってきてくれたり、スマホにダウンロードした曲を聴かせてくれたりした。

 二人が色々と手を尽くしてくれたのだけど記憶は戻らず、数日の入院生活を経て私は退院した。

 

 病院を退院した私は明日から高校に登校することになった。

 困ったことが発生したら二人の幼馴染がフォローしてくれる手筈になっている。

 何とも心強い幼馴染に私は感謝した。

 そういえば入院中、空野君がいない時を見計らって月森さんにカバンの中から見つかった宛先不明のラブレターについてこっそり聞いてみた。

 月森さんなら私が好きな人を知っていると思ったのだ。

 しかし月森さんは「知ってるけど教えてあげない」と教えてくれなかった。

 私は「意地悪しないで教えてよ。ケチ」と言ったのだけど、月森さん曰く「学校に行けば分かる。行ってのお楽しみ」とのことだった。

 

 学校……そこに私の好きな人がいることは分かった。

 同級生なのか、それとも上級生もしくは下級生なのか……

 私は自分の好きな人について早く知りたかった。

 何故なら……空野君のことを好きになり始めていたからだ。

 おかしなことではないと思う。

 自分に好意を持っていると知っていて意識せずにいられるほど私は鈍感ではない。

 毎日、入院している私のお見舞いに来てくれて、自分の知らない思い出を楽しそうに話す男の子のことが気になって仕方がなかった。

 しかし、この感情は間違いである。

 

 記憶を失う以前の本当の私が好きな人を好きにならないといけないのに、私の心はどうしても空野君に惹かれてしまう。

 本格的に好きになってしまう前に、私は本当に好きな人に会ってこの感情が間違いなのだと確信しなければならない。

 そう思った。

 

 登校初日――

 

「それじゃあ、二人とも聖をよろしくね」

 

 自宅の玄関にて、母は迎えに来た空野君と月森さんに学校での私の世話をお願いした。

 

「黒船に乗ったつもりで任せて!」

「ミャコちゃん、それを言うなら大船だよ」

 

 私は月森さんのボケにツッコミを入れた。

 ボケにツッコミを入れるのももう慣れたものだ。

 

「おお、そうとも言う」

「そうとも言わねーし。黒船で学校に何を伝来させるつもりだよ」

 

 さらにボケる月森さんに今度は空野君がツッコミを入れた。

 

「ミャコちゃんが黒船なら、私は黒船に乗って来日した大型外国人グラビアアイドルってところか!」

「ひじりんはどう見ても純日本人じゃん」

「グラビアアイドルはないわー」

 

 私のボケに二人が笑う。

 ツッコミだけでなくボケることも覚えた。

 今日はツッコミもボケも絶好調だ。初登校でドキドキだけど、これならきっと同級生とも仲良くなれる気がする。

 

「はいはい、三人とも遊んでないで早く学校に行ってらっしゃい」

「はーい、行って来ます」

 

 母に見送られて私達は家を出発した。

 私の通う高校は徒歩で通える距離にあるそうだ。

 二人の先導のおかげで見知らぬ通学路を迷うことなく進み、あっという間に学校前まで到着した。

 歴史を感じさせるやや汚れの目立つ三階建ての白い校舎を見上げながら思う。

 

 ここが私の通う高校……

 そして私の好きな人がいる場所……

 

 学生服を着た生徒達がたくさん歩いており、この中に私の想い人がいるのかと思うと落ち着かない。

 周りの人から私は挙動不審に見えたことだろう。

 キョロキョロしていると空野君が声をかけてきた。

 

「聖、もしかして初登校で緊張してるのか?」

「あ、うん。聞いてはいたけど生徒が多くて驚いた」

 

 こんなに生徒がいるのに想い人を見つけられるだろうか……

 不安になりかけたその時だ。私の頭に空野君がポンと手をのせた。

 

「安心しろよ、クラスの奴らはみんないい奴だし、何か困ったことがあったら俺がフォローしてやる」

「ありがとう。頼りにしてる」

 

 空野君の手は温かく、頭にのせられると安心してしまう。

 でも、違うんだ。私は空野君に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 私は記憶を失う前にラブレターを渡そうとしていた相手を探せるか不安になっていたのであって、学園生活が不安だった訳ではない。

 記憶を失う前の私は空野君を振ったというのに、空野君は私に対してとても優しい。

 これ以上優しくされると私は……

 

「ひじりん、邪魔して悪いけど、私もフォローするからねー」

「べ、別に邪魔なんて思ってないし。ミャコちゃんも私のフォローよろしくね」

 

 危ない危ない。すっかり考えごとに没頭していて月森さんの存在を忘れていた。

 月森さんは私が空野君のことを好きになりかけていることに気づいている。

 でも、そのことに対して何か言おうとはしてこない。

 月森さんが何を考えているのか不明だ。

 

「おはよう、宗方さん。無事退院したんだね」

 

 校門をくぐったところでイケメンに声をかけられた。

 

「お、おはようございます」

 

 反射的に挨拶をしたはいいけど誰だ?

 この高校の制服を着ているので生徒なのは分かるけれど、私の知り合いなのか?

 イケメンは爽やかな笑顔を浮かべてこちらを見ている。

 

「ひじりん、この人は生徒会長の日向誠先輩だよ」

 

 月森さんが私の耳元で囁き、目の前の人物が誰なのか教えてくれた。

 そういえば生徒会に所属してるなんて伏線もあったな……

 

「聞いてはいたけど記憶喪失っていうのは本当のようだね。俺は三年の日向誠。この学校の生徒会長をやってる。宗方さんも生徒会に所属してるっていう話は聞いてるかな?」

「は、はい書記をしていると聞いてます」

「うん、生徒会の皆も心配してるよ。学校に慣れたら生徒会の方にも顔を出してよ」

「日向先輩、ご心配ご迷惑おかけしてすいません。なるべく早いうちに生徒会に復帰したいと思います」

 

 少しだけ雑談した後、日向先輩は「それじゃ、また」と言って爽やかな笑顔を振りまきながら去っていった。

 私は感心してため息をついた。

 

「いやー、うちの高校の生徒会長ってイケメンなんだねぇ」

「でしょう。サッカー部キャプテンでテストの成績も常に上位で女子の憧れの的だよ」

「へぇー」

「生徒会選挙の時、日向先輩目当ての人が結構いて合計七人も書記に立候補したくらい」

 

 ん、ということはその七人の中に私も含まれるのか。

 月森さんの言葉で私が生徒会の書記なんて面倒そうな役に立候補した理由と私の好きな人が判明してしまった。

 私の想い人は日向先輩なのか……

 しかし確かに格好いいとは思ったけれど、それ以外に何も感じなかった。

 そう、何も感じなかったのだ。

 本当に好きな人に会えば胸が高鳴ったりするかと思ったのだけど何もなかった。

 私は日向先輩を好きにならないといけないのに……

 

「生徒会選挙の時は俺たちも聖の選挙活動の手伝いをしたんだぜ。ポスター作ったり、校門のところで一緒に挨拶活動したり。あれはあれで楽しかったな」

「そうだったんだ。書記になれたのは二人のおかげだね」

 

 空野君は私が日向先輩に近づきたいがために書記に立候補したというのに選挙活動を手伝ってくれたのか。

 恋仇に塩を送る行為だというのに空野君は全然気にしている様子はない。

 記憶を失う前の私は空野君の気持ちを知りながら利用したというのに……

 私は自分の最低な行いに気持ちが沈んだ。

 

「まあ、聖の熱意が皆に伝わって立候補者七人の中から書記として選ばれたんだから自信を持っていいと思うぞ。実力だよ。実力」

 

 きっと暗い顔をしていたのだろう。

 そんな私を空野君は励ましてくれた。

 空野君は優しい。いつも私のことを気にかけてくれて、力になってくれる。

 空野君を振った記憶喪失になる前の私は馬鹿だ。

 私は記憶喪失前の自分のことが嫌いになっていた。

 そして日向先輩に会ったことで私は逆に空野君への感情がはっきりしたものに変わった。

 記憶喪失前の私には悪いが、今の私は――

 

 空野君のことが好きだ。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 私が学校に復帰して恐るべき事実が発覚した。

 それは私の学力低下である。

 記憶喪失前の学力は高い順に、空野君>私>月森さんであったが今は空野君>月森さん>私である。

 アホそうな月森さんよりも学力が低いとはショックだ。

 今は一学期後半で期末テストを控えているのだけど、このままでは赤点だらけで留年することになってしまう。

 記憶が戻れば学力も元に戻るのだろうけど、戻るかどうか分からないものに頼ってはいられない。

 私は猛勉強を開始した。

 

 放課後は幼馴染二人が私につきっきりでお勉強だ。

 結果、期末テストで数学はさすがに赤点であったが、その他は赤点を免れた。

 

「終わったああ!」

 

 数学の期末テストの補習が終わり、後は夏休みが始まるのを待つのみだ。

 

「お疲れさん、コンビニでアイス買って帰ろうぜ」

「ひじりん。今日は新商品のアイスが発売される日だよ」

「いいねー。ゴリゴリ君の新しい味がネットで話題だよ」

 

 学校の生活に慣れて友達が増えた。生徒会の仕事も復帰した。

 放課後は空野君と月森さんと寄り道してコンビニでアイスを食べたり、ファミレスでだべったり、コンビニでアイスを食べたりした。

 楽しく日々を過ごし、あっという間に夏休みがやって来た。

 

「暑いからプールに行こうぜ」

「帰りにアイス食べよう」

「明日近所の公園で祭りやるんだってさ」

「屋台でカキ氷食べよう」

「花火大会見に行こうぜ」

「アイス食べながら見よう」

「夏といえば海だろ、海」

「スイカ割りしよう。あとアイス」

 

 夏休み中、空野君と月森さんにいろんな所に連れまわされて遊んで過ごした。

 

「カブトムシ捕まえに行こうぜ」

 

 空野君の親戚の田舎までカブトムシを捕まえに行ったりもした。

 数日お泊りのちょっとしたキャンプ気分だ。

 小学生の頃は夏休みになったらよく遊びに行っていたらしい。

 山でカブトムシを捕まえたり、川原でバーベキューをしたり、花火をしたり、魚釣りをしたり、川で泳いだり。

 もちろんアイスもたくさん食べた。

 幼馴染二人との夏休みは楽しく、充実した日々を送った。

 

 そして二学期――

 

 やはり私の記憶が戻る気配はない。しかし、記憶が戻らなくてもいいと私は思い始めていた。

 家族や友人との関係は良好。

 何よりも私は空野君が好きだ。

 でも、記憶が戻ってしまえば今の私の空野君への感情は消えてしまうかもしれない。

 そして私は日向先輩のことを再び好きになってしまうのだろう。

 だから記憶は戻らなくていい。

 空野君と月森さんは私の記憶が戻るように未だにいろいろとしてくれているが、もう諦めるように言おう。

 そう思った。

 

「聖、ブルームパフェ食いに行こうぜ」

 

 ある日の放課後の教室で空野君から記憶喪失前によく行っていた喫茶店「ブルーム」に行こうと誘われた。

 好きだったパフェを食べれば何か思い出すかもしれないという考えである。

 話によるとものすごいボリュームがあるらしく食べに行くのが楽しみだ。

 教室を出ようとしたその時、携帯が振動した。

 携帯の画面を開くと日向先輩からのメールであった。

 

「ごめん、日向先輩から生徒会室に呼び出しが。用件を聞いてくるからそれまで待ってて」

「分かった。それじゃあ教室で待ってるわ」

 

 すぐに終わるような内容なら良いのだけど。

 生徒会室に行くと部屋には日向先輩だけで他のメンバーはいなかった。

 私は部屋の中央で爽やかな笑みを浮かべながら佇む日向先輩に話しかけた。

 

「日向先輩、他の人達は? 用事って何ですか?」

「ごめん、ここに他のメンバーは来ないよ。生徒会の用事っていうのは嘘だ」

「嘘?」

「あと少しで俺の生徒会での任期が終わる。その前にどうしても宗方さんに伝えたいことがあってね」

「伝えたいこと?」

 

 これはまさか……

 日向先輩は真剣な表情をして口を開いた。

 

「宗方さん、好きだ。俺と付き合ってほしい」

「ええええっ!?」

 

 日向先輩が私を呼び出した理由。それは私に告白するためだった。

 急な告白に私は動揺した。

 私は空野君が好きで、でも記憶喪失前の私は日向先輩が好きで……

 思考がグルグルと回り、答えが出ない。

 記憶喪失前の私の願いは日向先輩と相思相愛になることだったのだから、もしも日向先輩の告白を断った後に記憶が戻れば後悔することになるに違いない。

 部屋の中は静まり返り、目の前の日向先輩は熱い視線を私に向けて今か今かと私の返事を待っている。

 

 返事を……返事をしなければならない……

 ううう……

 誰か助けてくれ……

 

 私が返事を出来ずにいると廊下から足音がして生徒会室に誰かが近づいてくるのが分かった。

 足音は生徒会室の扉の前でピタリと止まり、扉の上部についている窓ガラスから知ってる顔が覗いた。

 空野君と月森さんだ。

 ノックの後、ガラガラとスライド式の扉が開かれる。

 

「失礼しまーす。日向先輩ちわっす」

「ひじりーん、生徒会の用事ってなんだった? まだ結構かかりそう?」 

「教室で待ってようかと思ったんだけど、俺たちも手伝えることなら手伝ったほうが早いと思って様子を見に来た」

「えっと……」

 

 どう説明したらいいのだろうか?

 生徒会の用事はなくて日向先輩に告られていたなんて言えない。

 それに日向先輩への返事もまだしてない。

 

「ああ、用事はもう終わったよ。宗方さん、さっきの話の続きはまた今度」

 

 告白に邪魔が入り、日向先輩は肩をすくめ「それじゃ、また」と言って生徒会室を出て行った。

 足音が聞こえなくなり、戻って来ないのを確認してから私は安堵のため息をついた。

 

「ひじりん……なんか邪魔したかな?」

「ううん、むしろ助かった」

「よく分かんねーけど、用事が終わったなら早くブルームに行こうぜ」

 

 私は空野君が好きだ。でもブルームに行ったことで記憶が戻れば今の私の気持ちは消えてしまう。

 

「……行かない」

「は? 何言ってんだよ? さっきまで行くの楽しみにしてたじゃねーか」

 

 私の悩みなんて知らないで空野君は私の記憶を戻そうとしている。

 それはきっと空野君が好きなのは今の私ではなくて記憶喪失前の私だからだ。

 

「ブルームのパフェを食べれば記憶が戻るかもしれないんでしょ? 私は記憶なんて戻らなくていいっ!」

「聖、何怒ってんだよ。記憶が戻らなくていいってどういうことだ?」

「ひじりん、ちょっと落ち着きなよ」

 

 ああ、これは八つ当たりだ。

 記憶喪失前の自分への嫉妬と怒り。

 

「二人ともそんなに私の記憶が戻って欲しいんだ? そんなに記憶喪失前の私が好き? 今の私じゃ駄目なの? もう私に構わないで! 二人とも大嫌いっ!」

「聖……」

「ひじりん……」

 

 ああ……言ってしまった。

 二人は怒るでもなくただ悲しそうな顔をしている。

 怒りに任せて心にもないことを言って二人を傷つけてしまった。

 私のためを思って記憶を戻そうとしてくれていたのに……

 私は最低だ……

 

「私は……私は……」

 

 言ってしまった言葉は過去に戻ることはない。

 時は無情に未来へと流れて行く。

 覆水盆に返らず。

 それでも今言った言葉をなかったことにしたくて。

 私が取った行動は。

 

「聖っ! 待て!」

「ひじりんっ!」

 

 呼び止める声を背に感じながら私は全力で走って逃げた。

 どこをどう走って逃げたのかよく覚えていないけれど気づくと私は校舎裏に来ていた。

 私がラブレターの呼び出し場所に指定した場所でもある。

 記憶喪失前に私がラブレターで呼び出しなんて時代錯誤の手段を使った理由を調べて分かったのだけど、この校舎裏の桜の木にはいわゆる伝説というか迷信のようなものがあった。

 手紙で想い人をこの桜の木の下に呼び出して告白すれば永遠に結ばれるというものだ。

 どうやら私もこの迷信を信じていたらしい。

 

 どうして記憶喪失前と後で好きな人が違うのだろう。

 私は校舎の壁を背にしてうずくまって泣いた。

 どのくらいそうしていただろう。

 泣き終わり、気持ちが落ち着いたところで帰ろうと思った。

 しかし荷物を全て生徒会室に置いてきてしまったことに気づいた。

 二人はもう帰っただろうか?

 生徒会室に戻って二人がまだいたら気まずいことになる。

 

「見つけた」

 

 声の主は私が今一番会いたくない相手――空野君だった。

 私を探していたらしい。

 私は逃げようとしたが、腕を空野君にガシっと掴まれて阻止されてしまった。

 

「逃げんなよ。また探すのが面倒だろ」

「……離して」

「逃げないならな」

「逃げない」

 

 空野君が私の腕を離すと掴まれていた部分が少しだけ赤くなっていた。

 

「よくここだって分かったね」

「下駄箱を見たら靴はまだあったからな。校内のどこかにいることは分かってた。ちなみに月森は下駄箱を見張ってくれてる」

「なるほど」

 

 見事な推理と連携プレイだ。

 私は昔からかくれんぼが下手だったとは聞いていたけど二人には敵わないな。

 

「聖、その悪かったな。俺達は良かれと思って記憶を思い出さそうとしてたんだが、逆に追い詰めてたなんて気づかなかった」

「ううん、私こそごめん。さっき言ったことは全部嘘。二人には感謝してる。それに子供の頃の話をしてる時の二人は本当に楽しそうで、私も話を聞くのが好き」

「じゃあ、なんで怒ったんだ?」

「……えとね、さっき日向先輩に告白されたんだ」

「そ、そうか。それで……返事はしたのか?」

「ううん。まだしてない。でも記憶喪失前の私は日向先輩が好きだったみたい。だけど、今の私は……」

 

 今の私は――

 

「私は空野君のことが好き」

 

 言ってしまった。

 言った後から恥ずかしくなって顔から火が出そうなくらい熱い。

 私の告白に空野君は驚いていた。無理もない。一度振った相手に告白されたら驚くと思う。

 でもすぐに落ち着いた表情に戻って返事を返した。

 

「ありがとな。嬉しいよ。俺も聖のことが好きだ。記憶喪失前とか後とか関係ない。聖は聖だ。たけのこ王国が好きで、アイスが好きで、ボーとしているようで色々考えていて友達思いの聖が好きだ」

「ありがとう」

「俺は半年前に振られた。でも、だからといって聖に記憶喪失のままでいて欲しいとは思わない」

「でも記憶が戻ったら私は……」

「うん。分かってる」

 

 私の言葉の続きを空野君が遮った。

 

「記憶が戻って俺のことを好きじゃなくなったとしても、楽しかった思い出を覚えていて欲しいって思うんだ。俺って……変かな?」

「変……ていうか空野君は馬鹿だよ」

 

 私達の中で子どもの頃の思い出は宝物なのだ。

 だから、それがたとえ自分が振られるという結果になったとしても覚えていて欲しいのだろう。

 

「それにまだ勝負は終わってないぜ。記憶喪失前より俺はイケメンになってるはずだしな」

「うん。私も記憶喪失前の私が日向先輩を好きだった気持ちよりも、私は空野君を好きになってみせる」

 

 私は記憶喪失前の私に負けない決意をした。

 一人ならくじけそうだけど二人でなら乗り越えられる。

 そう思った。

 

「それじゃ、そろそろブルームに行こうぜ。下駄箱で腹空かして待ってる奴がいるはずだ」

「ミャコちゃんにも謝らないと」

 

 私達が下駄箱に向かって歩き出したその時だ。

 

 ドカッ

 

 頭に衝撃を受けて私の意識は闇に沈んだ。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 私は保健室のベッドの上で目を覚ました。

 

「聖、大丈夫か?」

「ひじりーん、私のこと分かる?」

 

 彼方にミャコちゃん。うん、覚えている。

 記憶喪失にはなっていない。

 それどころか私は全て思い出していた。

 そうか、そういうことだったのか。

 

「彼方、ミャコちゃん、私、記憶が戻ったみたい」

「まじか」

「ひじりん、よかったねー」

 

 今までオフになっていた電源がオンになったかのように全てがクリアだ。

 保健室には私、彼方、ミャコちゃん、保険医の先生、そしてなぜか部屋の隅で泣いている下級生が一人。

 何故に泣いているのか聞いてみると、どうやらこの下級生が四階からゴミ袋を落とし、それが私の脳天に直撃したらしい。

 放課後の教室掃除当番は通常、班での掃除だというのに一人だけで真面目に掃除をしていたそうだ。

 ゴミ袋が重く、一階まで運ぶのが億劫だったのと、自分だけに掃除を押し付けて帰ってしまった他の班員への怒りからゴミ袋を四階から地面に向けて落としたそうだ。

 運の悪いことにちょうど真下に私がいたわけだ。

 うーむ。ゴミを窓から捨てるのは良くないが情状酌量の余地があるな。

 私は泣いてる下級生に怪我をしていないし、それどころかおかげで記憶が戻ったと泣き止ませた。

 今度、生徒会で放課後の掃除をサボった生徒へのペナルティーについて話をしようと思う。

 

「彼方、ミャコちゃん、私の記憶喪失回復祝いにブルームに行こう!」

「その前に病院だろ!」

「えー!?」

 

 私は過保護な幼馴染に引きずられるように病院に連れて行かれ、パフェを食べることが出来なかった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 記憶が戻ってから数日後――

 

 私は記憶喪失前にラブレターを渡そうとしていた相手を校舎裏の桜の木の下に呼び出した。

 

「それで、これは一体どういうことなんだ?」

 

 私が呼び出した相手は空野彼方、その人であった。

 日向先輩のことが好きだというのは私の勘違いであった。

 私は元々彼方のことが好きだった。しかし私は幼馴染三人の関係を壊したくなくて、半年前に彼方を振ってしまった。

 いつか別れることになったとしたら私達は幼馴染なので顔を合わさない訳にはいかない。

 それならばいっそ今のままがいいと思ってしまったのだ。

 付き合う前から別れることを考えるなんて本当に自分でも馬鹿だと思う。

 それからしばらくして私は校舎裏の桜の木の下で告白すれば永遠に結ばれるという伝説を知った。

 永遠――それならば私達の関係が壊れることがない。

 そう思ってラブレターを渡そうと考えたのだけどその前に記憶喪失になってしまったのである。

 

「なんていうか、私、最初から彼方をラブレターで呼び出すつもりだったみたい」

「日向先輩のことが好きだったんじゃないのか?」

「いや、私、記憶喪失前から別に日向先輩のこと好きじゃなかったみたい」

「なんだよ。それ」

 

 いったい今までの私の苦悩は何だったのか。

 私は苦笑いしてごまかした。

 

「まぁ、いいじゃん。それより、この伝説は順番が重要なんだから私の言うとおりにやって」

「はいはい」

 

 ミャコちゃんは学校に行けば好きな人が分かると言っていた。

 時間がかかってしまったけれど、たしかに私が好きだと確信した相手は間違っていなかった。

 

 私は校舎裏の桜の木の下で彼方に告白した。



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