「あれ……ヴェラ、さん?」
「はい。御贔屓にさせていただいております、ヴェラで御座います。これはこれは、何とも珍しい鉄馬にお乗りで。見目麗しい獣人のご令嬢もとは、肖りたいものですな。……数日ぶり、で御座いますかな。九十九様」
興味深そうに【メムナイト】を眺め、あの時の商人は、そう言葉を発した。
変わっているが、変わっていない。
態度や言葉遣いはあの時のままなのに、今、対峙する存在は、それらとは別格なのだと肌で感じられる。
何やら神々しい武具で身を包み、片手に拳二つ分程度の高さの宝塔を持ちながら、チャリオットから降車。砂漠の光が眩しいせいか、後光すら射している気がする。
「何の用だ!」
「これはご無体なお言葉ですな、リン様。これでも、あなた方のご助力を。と思い行動した次第。それ自体に他意はありませんとも」
それ以外には他意ありまくりなんですね。分かります。
正直なのか、隠す気がないのか。多分両方だろうと当りを付けつつ、その“行動した”という成果―――無理矢理軌道をずらされた平天大聖へと目を向けた。
≪……あ……がっ……!≫
ネズミ達に群がられていた時の再来か。
ただしそこに見えるのは、無数の小さな生物ではなく、幾人、幾体もの、神聖をまとった有象無象。先の光景が地面に落ちた蝉だとすれば、こちらは虫ピンで止められた標本のよう。各々が手にした武器を白牛の体に突き刺して、その動きを完封していた。
「いやはや、並々ならぬお方だとは思っておりましたが、よもやここまででありましたとは。東の地とは、大聖すら下す豪傑達の住まうところでありましたか」
対象が巨大な白牛である刺繍作業を横目で見ながら、褐色の商人がこちらへと近づいてくる。空を翔ける戦車に乗り、天軍を率いている。そんな人物を、もはやただの人間であるなど思える筈がない。
「……あんた、何者?」
一言目の問いかけとしては何とも失礼な物言いであったけれど、攻撃力を伴った警戒心を表に出さないだけ、良しとしてもらうしかない。
「ふむ……やはりこの名は、そんなにも印象に薄いものでしたか……」
返答ではなく、熟考という形で反応を示すヴェラに、状況が全く飲み込めず、沈黙に徹する流れになった。リンも苛立ちと憎々しい瞳を向けるものの、何も言わずに押し黙る。ひとまずは、状況を理解しようと感情を抑止しているようだ。
「―――宝物神、クベーラ。主に地下に眠る資源を管轄しております」
唐突に、その正体を告げられた。
(クベーラ……クベラ……ヴェラ……あぁなるほど。そういう事か……面倒臭せぇ)
偽名であったところのそれは、アナグラムどころか、殆ど直球の名前であったようで。
ただ、生憎と俺にはその凄さがこれっぽちも分からない。何それ美味しいの? 状態だ。
しかし、傍らに佇むネズミの少女は別であったらしい。耳をピンとし、目を真ん丸に見開くリンが印象的であったが、次の瞬間にはへたへたと、全身の力が抜ける様にこちらにしな垂れ掛かってきた。
「は……はは……なんてことだ……お母様は……僕達は……とっくに……」
絶望一歩手前だと理解するのは早かった。
元々小柄であった体を包み込む様に抱き締める。やや強く……ともすれば痛みすら伴う力加減であったのだが、それに応えたのは、縋るような手。溺れるものが掴むのは、今回だけは蜘蛛の糸でも、藁でもなく、俺の衣類、ミシャクジの外套であった。
一方で、リンの反応に思うところがあったのか、墨目の眼力が強まり、熱く暗い感情が流れてくる。睚眦を背後へと移動させ、次の瞬間には、挟撃し、首から上の部分を鉈刀の刃の上に載せる算段であるようだ。
手を伸ばし、それを阻止。『何故止める』との、墨目の感情の矛先がこちらに向かうが、今しばらく待って欲しい。
「……良い趣味じゃねぇな。いや、良い趣味してるのか? 絶望を振り撒くのが、この地のカミサマって名乗ってる妖怪の流儀なのか?」
こちらの感情を読み取ったようで、ヴェラ……クベーラは肩を竦め、言葉を返す。
「心外ですな。このまま何もせずに居た場合、ウィリク様の国は愚か、その周辺……あるいは大陸全土に及ぶまで、妖の者達の手中に納まっていた事でしょう。我らを信仰していただける方々の危機。そこに手を伸ばさすして、何が神でありましょう。ただそれも、簡単ではなかった。こうして策を取り、何とか……というところでしたので。……まさか、こうした形で平天大聖を下す事が出来るとは、夢にも思っておりませんでしたのでな」
言っている事は最もだとは思うのだが、そこには幾つもの言葉が抜けている気がしてならない。
……とはいえ、過程は兎も角、結果的には目前の敵を排除してくれたのだ。
リンに……ウィリク様に対して行って来た事には苦虫を噛み潰す想いだが、ここは沈黙が得策か。
尤も、これが全て仕組まれていた事態であるとなれば……。
「……ま、いいや。……で? そんな人間思いのカミサマは、こんな場所にまで何の御用でしょうか。生憎とこっちは色々と忙しいんだ。助けてもらったのは感謝しているが、そろそろいっぱいいっぱいになって来る身としては、一刻も早い撤退をしたいんですがねぇ?」
「その懸念はご尤も。しからば、その後始末は我らで受け持ちましょう」
引き受ける……端から成果を横取りする気ではあったようだ。
……あぁ、何となく、道筋が見えて来た。
元々、クベーラは、妖怪達に戦争吹っ掛ける気であったのだ。どちらが先かは分からないけれど、その過程にたまたま俺という不穏分子が混入し、それが思いもよらぬ要素となったものだから、僅かでも相手を翻弄してくれるなら良しとし、今の今まで様子見に徹していたのだろう。
……リンの胸が貫かれた時ですらも。
(……いや、それは怒りを覚えるところじゃない……責任転嫁もいいとこだ)
自分の不甲斐無さを棚に上げての怒り。理屈では分かっているというのに、それでも怒りが込み上がる自分に、また怒りが湧き起こる。
しかし、それに身を焦がすのは、今ではない。無様な感情を、目の前の危機をチラつかせる事で切って捨てた。熱が引き、飲み込める様になるその時が来るまでは、意識から外す。
「そりゃありがたい。精々ウィリク様の国にまで影響が及ばないよう、気張ってくれや」
「……おや。本当に構わないので?」
やや目尻を下げて、疑問の表情をクベーラは作った。構わないか、との疑問は……あぁ。成果の横取り的な意味合いか。この地方の妖怪の王様っぽいのを倒したのに、本当に手柄は要らないの? とでも尋ねているんだろう。
「……いらねぇ」
全てコイツの手の平であったような経緯になってしまったのはかなり癪に障るが、凄さは知らないけど、神様とその軍隊。迫って来ている筈の妖怪達を任せるには相応しいと思える。これからの事……面倒事を引き受けてくれるというのだから、それを利用しない手はない。
それに、折角あの馬鹿でかい白牛を拘束してくれているのだ。墨目の行う蘇生術は魂の固着だが、【鬼の下僕、墨目】による【リアニメイト】は完全な復活。ただしそれを行うには、一度、攻撃を加えなければならない。
「何千回斬られるんだか」
意図せず漏れた呟きを十全に理解するのは、俺と墨目のみ。他……リンもクベーラも、小首を傾げるだけであった。
「ところで、九十九様」
ふと、何かを尋ねたい素振りのクベーラが。
関わりになりたくない思考がありありと浮かんだ顔をしていたと思うのだが、それに全く反応せずに、胡散臭い神様は言葉を続けた。
「この辺り一帯に、何か術式なりを施しておりませんかな?」
「……あぁ、あれか」
思い至るまでに少し時間は掛かったが、答えは間違いでは無い筈だ。
さすが無差別。【弱者の石】の効果は、神であっても例外ではなかったようだ。
「ああ。徐々に……根こそぎ体力を奪うものが」
詳細は異なるが、もたらす成果は間違いではない。
困惑から一転。その表情を真剣なものへと変えた神様に、小さな優越感と、大きな緊張感を抱く。
これから重要だ。そう、漠然とした直感が働いた。
「……それは、解いていただけるものなのですかな?」
「俺達やウィリク様の安全が確保されれば、な」
クベーラの温和な表情が、少し崩れた。僅かだが眉間に皺を寄せ、対処に困ると、その顔が物語る。
いい気味だ。実にいい気味である。
いい気味、で、あるのだが……。
(……うっし、セーフ)
ここで『では私達はこれで』など言われると、それはそれで残りのマナやらカード枚数やらを用いなければならず面倒なのだが、どうやらやる気は満々であったようだ。
まぁ難関の一つであっただろう平天大聖が既に無力化されている状態を、元々無かったものだ。忘れよう。と容易に切って捨てるのは難しかったようだ。少なくとも、今のところは。
段々と周囲に天の軍団っぽい連中が集り始め、俺やリンを始めとし、墨目や【メムナイト】へと、警戒の視線を向けてくる。
特にそれが顕著なのが、睚眦であろう。空虚な眼のまま、無差別の闘気を垂れ流し状態で、クベーラの背後に佇んでいる。
この地の妖怪だからか、認知度が高いせいか。天軍らの顔からは『えっ、何でお前が』という風な感情が読み取れた。
「……何を、お望みで?」
宝物神のこの言葉を切欠に、ただならぬ緊張感が辺りを支配する。もはや周囲を全て囲むように展開していた天の軍団は、事が起これば、即座に行動に移せるだろう。
弓で、槍で、剣で、棍棒で。後は何か、雷なり炎なり発光体なりを繰り出そうと構える、人やら獣やら。平天大聖を対処した存在として危険視しているのか、たかが人間と舐めているのか。
いずれにしても不快な状況に変わりはない。周りの熱とは裏腹に、こちらの内心は段々と冷えていく。
だが。
「―――返せ」
クベーラの問いに答えたのは、俺ではなかった。
震える足に力を込めて、意識の飛びそうな状況にも、拳を握り込み、そこから赤い液体を垂らしながら。少し前まで絶望に打ちひしがれていた名残を引き摺りながら、それでも歩みを止めない、精神力。
「お母様が過ごす筈だった平穏を。慎ましくも心豊かだった国―――お母様の環境を」
段々と。声高く。俯き加減であった姿勢は正され、胸を張る。と言えるほどに、背筋を伸ばす。
「あの人が得る筈だった、お前達が奪ったものを! それ以外は求めない! ただそれだけで良いんだ! 神だろうお前は! 散々奪ってきたものの、たった一つくらい返してくれても良いじゃないか! それだけで良いんだ! たったそてだけで! ……それ、だけ……で……っ」
けれどその声も、次の瞬間には失速し、最後は消え入るようなものとなってしまった。
しかし、姿勢は崩さない。流す涙はそのままに、何も恥じ入る事はないと凛と佇む姿は、ネズミ妖怪が。などと嘲笑されるそれではない。一国を統べる立場に居るような堂々たるものだった。
言いたい事は言い終えた。段々と嗚咽の混じり始めたリンの呼吸音に反応し、墨目の殺気が、いよいよ零れんばかりに滾って来ている。
揺れる瞳の、赤い鬼火。脱力する両腕の獲物が速く殺せと急くように、ぶらりぶらりと、一定のリズムで揺れ始めていた。
沈黙、沈黙、沈黙。
本当にここには多くの生命が集っているのだろうかと疑いたくなる、静寂。
呼吸の音も、衣類の擦れる音も、武具が軋む音も、風すらも。耳がもげるような無音は、一体どれくらい続いたのか。
「―――解りました」
運命を言葉にしたようなクベーラの回答に、大きく大きく、息を吐き出す。
元々体力がいっぱいいっぱいであった俺としては、精神面での消耗も加われば、眩暈の一つも覚えるというもの。
(……きっつ)
こんな力押しの交渉モドキなどとっとと終えて、ぱっぱとウィリク様のところに戻り、さっさとハッピーエンドの土台作りを行いたいものだ。
忌々しげに獲物を降ろす墨目に俺が安堵していると、鳥っぽい何かがクベーラに近寄り、耳打ちをする。
こちらで言うところの八咫烏の一種だろうか。色々と宝飾で着飾っているから神様よりの何かなんだろうが、一体何の聖獣なんだかサッパリだ。
「……ほう?」
声色からして、良くない事なのは間違いないようで。
それを……俺の顔色を察したのか、クベーラがこちらへと顔を上げ、今知り得たであろう情報を口にする。
「千を超える妖魔が押寄せてきているようですな。中には、他の大聖も混じっているとか。……先の雷撃を見たのでしょう。独断行動は危険と……群が、軍となりつつある模様でして」
大聖が混ざるのは予想外ではありましたが。そう締め括る宝物神の表情には、予定調和と記されている。
元より、牛魔王と同格と称される者達の相手はするつもりだったのだろう。というか、牛魔王自体を相手にする算段では、かなりの確立で考えていた事だろう。
まぁそこに、平天大聖以外の大聖……『悪属性と闘おうとしたら火属性でした』的な差異はあるだろうが、何にしても高レベル帯の敵に挑む心積もりは、間違いなくあった筈だ。
……んじゃ、まぁ。
「クベーラ。お前のさっきの言葉、偽りは無いな? 約束したのは私だけですとか、あの言葉はそういう意味ではありませんとか。……さっきの了解、それの揚げ足を取るような真似でもしてみろ。―――解るな?」
釘を刺すのなら、それなりの態度で行うべきだ。特にそれが、胡散臭い相手であれば、尚の事。
「……我が主神の名に掛けて」
「結構」
主神が誰かなぞ知らないが、重々しく口にした言葉であるのだから、それ相応の相手なのだろう。
しかし、我が事ながら、なんて偉そうな態度であったか。
客観的に自分を見れば、似合わないを通り越し、ウザったい事この上ない。せめてそれに見合う人格者でもあればとは思うが、今のところ、その域に到達する予定は、未定である。
≪くっくっくっ……≫
断続的な強風が、周りを翔け抜け、泥津波から辛うじて免れた砂地部分の土埃を巻き上げる。炎天下であっても生暖かいその風は、【沼】にその身を浸し、串刺し一歩手前にまで陥っていた平天大聖であった。
「……すっげ」
あれでまだ生きていたのか。
破壊、再生不可、【お粗末】と【弱者の石】による弱体化。それに加えて、無数の聖属性武器による串刺し状況。それでもまだ笑みを浮かべられるという態度に、きっとあれは、死んでも直らない類の性格だと理解した。
≪存外早まりましたが、それでもこちらには地の利がある。苦戦は免れぬでしょうが、それでも神々相手にならば……。それもまた、快楽になるでしょうねぇ≫
本当に瀕死なのかと疑いたくなる、流れるように紡がれた平天大聖の言葉に、妖怪の妖怪たる所以の一端を垣間見た気がした。
快楽を求め、拘束を嫌い、惰性を拒絶し、強者を好み、命削る戦いに喜びを感じる。何ともはた迷惑な思考回路に、思わず目を覆ってしまうが、
(俺も、そんなもんだよな……)
全て、とはまでは言わないが、幾つか当てはまるものがある。先と同様、自分を棚に上げての一方的な拒絶は、もう少し冷静さを欠いている時にしか出来なさそうだ。
「おや、お早う御座います。平天大聖。このような形での相対となり恐縮ではありますが、何卒、ご容赦の程を」
≪クベーラ、と言いましたか。北の地を守護するものが、わざわざこのような辺境に訪れるとは。相当な粗相を仕出かした、と考えても?≫
「浅はかなお答え、とても興味深い。これは単に、私こそがこの任に最適だとの考え故。他意はありませんとも」
≪これは失敬。いやなに。全ての幸福が自らに起因するものとする神々に相応しい態度でありましたものですから。……漁夫の利、という言葉。ご存知で?≫
「これは何とも。お恥ずかしい。まさかこんな形で大聖を統べる者が墜ちるとは思ってもみませんでしたので。予想外の事態には、対処も難しくあるもので御座いまして」
……言葉遣いは丁寧なんだが、『横取り乙www』の後に『お前弱すぎたからなプゲラwww』的なののやり取りを見た気がした。妖怪達が向かって来ているのを分かっている筈なのだが、余裕なのか本当に忘れているのか、二人……一神と一体は、今しなくても良いだろう、という会話をしばし続ける。
(あぁ、上空から降ってきたのって、妖術使ったからなのね)
会話の所々に不明瞭であった経歴が混入し、寝耳に水、な感じで情報を得る。
睚眦が襲来したのに合わせ、自身の外側だけの分身を作り、一度人型となり、宙に浮く。で、一定の高度に達した段階で実体化。後は持ち前の超重量に任せたストンピングを慣行した、という感じであったようで。
(妖術パネェ……ってか万能過ぎ)
子供騙しの術が妖術ではなかったのですか。色の名を冠した、二尾の猫又様。
まだ誕生しているかも怪しい相手に愚痴を零しつつ、けれどこうして味わってみれば、その威力や効力は疑う要素が微塵もないほどに強力無比なチート級。
……というか、そもそもMTGというルールを従える俺がその手の事は言えないと思い直した。ここはスルーしておきましょう。
「あんな不完全な隠遁では、我々の誰の眼も誤魔化せませんとも」
≪こちらが空に上がるまで行動に移らなかった者の台詞とは思えませんねぇ≫
何だイントンって。意味分からん。
どんどん雰囲気が砕けて来ている錯覚に陥り始めた頃に、そこそこに緊張が感じられる、墨目からの念話が届く。
(……あぁ、それ、俺が原因だわ)
力が戻りません、と。気づかない内に敵の手中に嵌ってしまったと思っていた墨目に、リンが持つ【弱者の石】の効力を伝える。言葉にならない微妙な感情が返ってくるが、こればっかりは今のところ仕方がない。対処はするが、すぐに。となるかどうかは、クベーラ次第だ。
……しかしながら、そんな悠長な時間は、もう残っていなかったようである。
「ちょっ!?」
口を突いて出た言葉は、音。単語にすらなってはいない。
方向からして、妖怪の山……タッキリ山の方角か。土煙を上げながら疾走、あるいは飛翔する小粒な点は、大なり小なりの、異形。大聖達が統べる配下の妖怪達が進撃して来ていたのだから。
「早過ぎじゃねぇ!?」
クベーラと平天大聖。互いに熱くなっていた部分はあるが、それにしても冷静さを欠いていたとは思えぬクベーラであったので、脅威がやってくるのはまだまだ先だろうと思っていたのだが。
(あ……)
そんな両者から零れる笑み。見る者を安堵させるような笑いを湛えたクベーラの表情に、本来ならば安らぎを覚える筈の顔に、しっかりと『してやったり』の文字を読み取った気がした。
「これは参りましたな。今からでは間に合わないかも……いえ。私めならば、この一団から脱兎の如く逃げ去る者には、並々ならぬ関心を向けますな」
……ようは、俺が迂闊だったのである。
クベーラの意図は無条件で【弱者の石】を解除させる事であり、今までくっちゃべっていた平天大聖の言葉を加味すると、どうも他の大聖達に俺を確保させる気概があるようで。天の軍隊相手にも勝てる! と言っていたのを思い出し、ならば余力で。と考えるのも自然な流れか。
「お前ら敵同士だろ!?」
今までのふてぶてしい態度を忘れ去って出た指摘の言葉は。
「さて。何のことでありましょう」
≪まさにその通り。そのお言葉には微塵も偽りなどありませんねぇ≫
絶対確信犯だ。どうしようもない感情がふつふつと沸き立つのを感じながら、段々と迫り来る妖怪達を視界に捉えた。
既に、ある程度の輪郭も分かるほどに近い。
目測で、数キロだろうか。多少の高低差はあるけれど、地平線なのはありがたい。……のだが、比較対象が何も無いのは困ったものだ。何となく、でしか距離感が掴めない。
天と地を疾走する異形共に、ふと、場違いな懐かしさを覚える。
(この光景見た事あるわぁ。有明の海にある特徴的な建物の辺りで。足の速い奴から段々と見え始めて、後から後続が物量で押寄せるんだ。凄いぞー。迫力が)
……違う、そうじゃない。
現実逃避しそうになった思考を引き戻すように、慌てて首を振る。
「そろそろ宜しくありませんな……」
と、何を思ったのか、クベーラが懐から赤い物体を取り出した。
……どうにもそれは、記憶に引っかかるものがる。具体的には色と形が。
何せ。
「……何、それ」
それ―――赤い瓢箪をこちらに見せ付けるように掲げ。
「紅葫蘆(べにひさご)。呼び掛けを行い、それに答えたのならば、忽ちの内に内部へと取り込む宝具で御座います。そして、取り込んだ者の形を崩し、液状と化すもの。痛みはありませんが……まぁ、あの平天大聖であれば、形を保つのでていいっぱいとなりましょう。脱出など、とてもとても。事が終わるまでは、大人しくしていただける筈に御座います」
紅葫蘆、牛の妖怪、大聖。んで、この地方。
バラけたパズルのピーズが、今、全て繋がった気がした。
「―――牛魔王かよ!?」
体力の低下も何のその。ビシッ! と擬音でも伴いそうな……残った体力を掻き集め、水平チョップをキメるが如く、全力で右手を横に薙ぐ。ジャパニーズ合いの手、ツッコミというやつだ。
この仕草にはさしものクベーラや平天大聖も意味が分からないようで、両者それぞれ、若干の困惑が浮かぶ。周囲の天軍も同様に。
関西の人間が見れば激怒必須であろう、コテコテの突っ込みモドキの再現は、ものの見事に空振りとなったのであった。
―――牛魔王。
中国三大奇書の内の一つ、『西遊記』に登場する妖怪。斉天大聖……後の孫悟空と対峙する、大妖怪中の大妖怪。
その実力は定かではないが、真の姿は全長三キロをも超えるとか、超えないとか。先に見た平天大聖……牛魔王の姿は、少なくとも三キロには及んでいない。精々が、五百オーバーかな? といった程度だと思う。
手加減した、という素振りは見受けられなかった。
なので。
(……あぁ、だから呪いが云々……とか言ってたのか)
どうやら呪い……平天大聖曰く『中々に堪えるものがある』という【お粗末】の効果は、過去の神奈子さん同様、しっかりと現れていたようだ。
≪あると分かってい、どうしてそれに応えると思うのでしょうかねぇ。どうやら神々は私が思っている以上に堕落したようだ≫
「それこそおかしなお言葉だ。何故、そうも単純な事に我々が気づけないとお思いなのか。泥のような思考をするお方は泥に浸かるのがご趣味のようだ。ははっ、理解に苦しみますなぁ」
つまりは、知らせる事に意味があったのか、知っていても尚、不可避な方法があると言っているようなものか。
あれもこれも、彼らの思考……手の平から逃れられない錯覚に眩暈を覚え。
―――それ以上に、こちらを弄ぶとしか思えない言動に、胸の底から沸き立つものを感じ取る。
(……全部全部、予定調和ですってか?)
何もかもが見透かされているような。折角集めてきた食材を、目の前で他人が食い散らかしているような。そんな錯覚を覚えた。
「九十九。みんなは殆ど撤退出来た。後数分あれば、全員離脱出来るよ」
「……はへ?」
何の話? と疑問に思いながら、リンの方を見てみれば、彼女の足元から去っていくネズミが一匹。体の大きさの割りに素早いものだ。小型犬並みのダッシュ力で遠ざかっていくチュウチュウさんが視界に入った。
「―――やるんだろう?」
その言葉に、数秒の沈黙。
リンの言う、やる、のそれは。
「―――あぁ、勿論」
怪獣大決戦。云十万の仲間達を撤退させた理由など、それ以外の何が考えられようか。
これに対して、クベーラや平天大聖は、その表情に疑問の色を貼り付けた。探るような視線に内心込み上がる笑みを噛み殺し、さて。どんなものが良いかと、逡巡。
「……あぁ……でも、その前にやっぱ、聞いておかないとな」
リンからクベーラへと顔を向け直し。
「―――クベーラ。お前は、俺の敵か?」
ただの人間とは思われてはいないだろうが、何処の馬の骨とも知れない相手から舐めた口を効かれた方の心中は、穏やかとは言い難い筈だ。
クベーラ本人は兎も角、それを耳にした天軍が殺気立つ。それを片手で制する宝物神に、多少は憤慨してくれたのなら気分は良かったのだが、それが肩透かしで終わった事実に、内心溜め息を付く。
「―――いいえ。こうして九十九様とのご関係を結べたのです。あなた様が我らに牙を向かぬ限り、それはあり得ません」
真剣な表情で言い切る褐色の顔は、一片の嘘など含んでいないと断言している。
もしこれが嘘であるのなら、もはやお手上げだ。素直に騙され―――その後、即座に報復に移るとしよう。
「そっか……」
首を動かし、逆剣山となった平天大聖へと。
「平天大聖。お前は、俺の敵か?」
ただでさえ巨大な眼球が、より一層見開かれ、黒水晶の如き瞳に俺達の姿を映し出す。ここまで来て、何を今更。そんな感情が見て取れる。
しばしの間から、低い唸り声。それは苦しみや怒りといったものではなく、大地を揺らす、嘲笑。重低音のくつくつとした声はしばし続き、それがピタリと止まった直後。
≪然り。我ら妖怪は九十九の敵。もし平穏を手にしたくば、タッキリ山全ての妖の者を打ち据えるがいい≫
一切の淀みなく、そう言い切った。
【お粗末】で。【弱者の石】で。【命取り】で。そして天軍に全身を串刺しにされ尚、そうもキッパリ言い切られた事に、一種の清々しさすら覚えてしまう。気持ちいいとすら思える啖呵を返されたせいか、普段の言葉遣いは為りを潜め、変わりに出てきたのは、先にクベーラと相対した時の、それ。
「その心意気や良し!」
気分はどっかのお偉いさん。具体的には、文若先生の口調の一つ。高揚と怒りの混ざった感情に後押しされて、口を突いて出た言葉は、そのまま自らの行動の後押しとなった。
リンの手を引いたまま、踵を返し、その場に背を向ける。
「……何をするおつもりで?」
警戒を強めるクベーラに、どう答えた方が良い……楽しいものかと考えて、目前に迫り来る危機であったので、それすら面倒臭くなり。
「破壊」
返答すらどうかと思っていたけれど、一応は答えてやったのだ。実に分かり易い言葉であった筈なのだが、訝しむクベーラに説明不足の文字を読み取った。
が、それを懇切丁寧に説明してやる義理はないし、したくもない。だからこその、説明不足、なのである。
終わりの見え始めた道に、心なしか気持ちが軽くなる。成功すれば、クベーラに苦い思いをさせ、平天大聖に一泡吹かせる事が出来そうだから。
さて、ではどうやってこの場から移動しようかと考えを巡らせる。
【恭しきマントラ】や【弱者の石】を使った成果を鑑みれば、あれを使えば十中八九、俺も巻き込まれる。というか、この一帯まるっと全て。
何せ、発動中心地点は俺なのだ。より効果的に行うのならば、なるべく数を巻き込む場所にまで移動しなければならない。
(足が居るな)
条件的に、速い奴。地形に左右されず、高速に移動が可能な……飛べる奴が好ましい。MTGのカードでならば、ここは【羽ばたき飛行機械】辺りが適切か。
ただ、そういった条件を満たしたいだけなのであれば、別に自分の力のみで解決せずとも良さそうなのが、この状況。節約出来るところは節約しておきたいものである。
「なぁ」
「……何で御座いましょう」
丁寧さは崩さない、か。本当に神様なのかと疑ってかかりたくなる低姿勢だ。神奈子さんに爪の垢でも飲ませてみたい。やった瞬間にオンバシラ確定だろうが。
「飛べる奴貸して。速いの」
出来れば強い方がいい。
そう付け加えての、初めてのご入用を告げた。
「一応商人、だろ? んで、お前は味方と来た。ありゃ出会った直後だったか。『勉強させていただく』って言っていたじゃないか。対価は払うぞ? 商品くれよ」
「そ、それは……しかし……」
それならば、今この場からも逃げられる。
自らの失言に対して、焦燥感に駆られているのがありありと分かる。協力すると言った手前、断固拒否の姿勢は取り難いのだろう。どうやって断ろうか。そう、クベーラの顔に書いてある。
と。
「うぉっ」
視界を埋める砂塵。局所的な風圧。
これに対応して【メムナイト】がその姿勢を沈ませた。次の瞬間には、即座にこの場から離れる前運動だろう。手で遮り、目を閉じるか開けるかの間、ギリギリで見開かれた目から見えたのは、不恰好なキメラ様。
「……英招?」
ただしそこには、煌き、二つ。英招に纏わり付く黒い影と、そこから伸びる、銀色の厚板。【鬼の下僕、墨目】が、英招に馬乗りになる形で背後を取り、二振りの刃を突きつけている状況であった。
英招を見ても攻撃を加えない【メムナイト】を見るに、今の状況は、俺にとっては安全なものであるらしい。
「墨目さん。ステンバーイ、ステンバーイ……」
両の手の平を彼女の前に。ここに台詞を付け加えるのなら、『ストップ!!』あるいは『それ以上いけない』である。
すると墨目は、残念そうに羽と首に一本ずつ添えていた刃を下ろし、元の立ち位置へと戻る。
途端、彼女の黒いマスクで覆われた口の奥から、舌を鳴らす音が聞こえてきた。冷や汗が止まらないんですが、こちら以上に脂汗を流している……ように見える英招に何故か同情し、静止せずには居られなかった。
「え、英招……様……」
≪ほう。睚眦が傀儡と化した事で、守護する地の安全が確約されたとお思いのようだ。……しかし、こうして私の前に姿を見せた事は、端的に言って、愚策。でありましょうねぇ≫
クベーラと平天大聖の双方が口々に言葉をもらすが、これ以上、外野に構っていられるものか。彼らの言葉を遮るように睨みを飛ばす墨目とリンだったが、前者は兎も角、後者は可愛いの域を出ないレベルである。現に、天軍の何名かが生暖かい目を向けている。この地の神様系の者は、妖怪に対しては嫌悪するのが普通だと思っていたので、その反応はちょっと意外です。
「ツクモ。英招、様、は、君に感謝しているそうだ。足になってくれるそうだよ」
神を嫌っている節の強かったリンが、取り繕うように、様付け。たどたどしい印象が目立つ。
「一翔けで、国を四つ……五つだっけか……兎も角、すっごく速いんでしたよね」
コクリ頷く中華風キメラに、言葉短く感謝を述べて、
「……すいません、屈んでいただけますか?」
その席の高さに、自力の到達は諦めた。大体、四メートルくらいか。毛や羽を引っ掴んでならば登れそうだが、それやったら痛いんだろうな。と、妙な心遣いが過ぎった為である。
【ターパン】と初めて出会った頃を思い出す。足を折って、半分以下になった高さの背に、リンと接触―――手を繋いだまま、跨った。
父親の気持ちってこんなんだろうか。と馬鹿な考えは、とてもじゃないが誰かの親になんぞ為れる経験値は積んじゃいないので、鼻で笑って吹き飛ばした。何か言いたげなクベーラと平天大聖であったが、これ以上言葉を重ねても俺達を静止する手段を思いつかないのだろう。沈黙し続けている。見守りに徹している天軍達を知り目に、睚眦と【メムナイト】に待機命令を。墨目にはいざという時の護衛も兼ねて、同乗を指示し。
「期待させてもらいます」
睚眦という重量級な者を乗せても、妖怪達の中で誰よりも速くここへと来れたのだ。その速さは折り紙とお墨のダブルが付いているに違いない。
応えるように、一瞬にして高々と飛翔する英招に、何処か【ジャンプ】を連想しつつ、その翔けるべき方向へと指を向けた。
―――ウィリクが収める国ではなく、妖怪達が押寄せる方角へと。
英招に乗る者以外の誰もが言葉を失った。
逃げるのではなかったのか。その一点のみが思考を生める中、英招は大地を蹴り、上昇。二度目に足を振り上げ降ろした時には、クベーラや平天大聖達から視認出来るか出来ないかの距離にまで離れ去っていた。
ドップラー効果によって響き渡る男と少女の悲鳴らしき音もすぐに消え、一陣の風が吹くばかり。
「……こうなるとは予想外ではありましたが……あなた様が何か術を掛けたので?」
平天大聖へと尋ねるクベーラに、全身を串刺しにされながらも、そんなもの何処吹く風かと言わんばかりに、牛魔王は何食わぬ口調で答える。
≪さて、どうでしょうか。そう願いはしましたが……。とうとう私の妖術も、願うだけで叶うという域にまで達したのでしょうかねぇ≫
子供騙しの域であった妖術を、大妖怪や神々であっても通用する域にまで押し上げ、行使するのが平天大聖―――この、牛魔王という存在である。そしてそれは、彼が持つ能力とは、別。《妖術を操る程度の能力》とも呼べる力は持つが、筆頭ではない。術をかけてはいないが、素直に答えるのも癪である。既に今の平天大聖ではここから離脱する手段がない為、軽口を叩くくらいしか、今の平天には出来る事がないのであった。
「そうですか。まぁ、どちらでも宜しい。今からあなたには、これに納まってもらいますのでな」
実に温和な笑みと共に、取り込んだあらゆるものを溶解させる赤い瓢箪を掲げてみせる。
≪おや。こんな事に時間を取られていては、あれがどうにかなってしまいますよ?≫
空を翔けて行ったアレの方へと、平天大聖は目を向ける。
「構いませんとも。元より、何の期待もしておりませんでしたのでな。それが使えれば良し。使えないものでありましたら、無かったものとして割り切れば、全て世はことも無し。で御座います。……それに、どうやら九十九様が行っていた呪いは、彼を中心として発動していましたようで。段々と負荷が取り除かされていくのが実感出来ます」
蓄積され続ける疲労に息苦しさを覚えていたが、それも、徐々に回復してきている。彼らにその詳細は分からないが、【弱者の石】が離れていった為であった。
「ですので、あなた様にはすぐに収まっていただきましょう。あまり時間を取られて、また珍妙な妖術で姿を隠されては溜まりませんので」
≪余裕がありませんねぇ≫
「あなた方に何度苦渋を舐め続けさせられた事か。インドラ様も心を痛めておいでだ。―――大人しく縛に付け。貴様は滅ぼす事は適わぬ故……その身心、輪廻永劫、冥府に繋ぎとめてくれる」
成す術もない平天大聖であったが、それでも浮かべる笑みは消え去らない。
油断なく周囲を見張る天軍と、クベーラ。それらを観察する睚眦に【メムナイト】。
泥を被る白牛にその足を向けた宝物神は、ふと、ネズミの少女の行動を思い返し、九十九が零した言葉を連想した。
ネズミ達を撤退させた事。破壊をすると言っていた事。そして、妖怪達の方へと飛び去っていた事。人間の国一つを安泰とするだけで、何の戦力も割かずに平天大聖の対処を行えた事に意識を奪われ過ぎて、瑣末ごとへはあまり考えが及ばなかった。
―――その、結果。
(……太陽?)
クベーラは、それを見る。澄み渡る青空は一変し、まるで日暮れの光景を一部に映し出していた。
広範囲の青を侵食する夕日。赤と黒が入り混じる、世界の終わりを連想させる荒廃。ドロドロに溶けてゆくような景色に、祈りや危機を鋭敏に感じ取る神という種族故か、否応なく視界に入ってしまうそれに、恐怖とも、悲しみとも、怒りとも取れる感情が込み上がる。
世界が壊れた。
紅葫蘆を平天大聖に向け、九十九が飛び去っていた方向を見続け硬直するクベーラに、何事かと疑問を持ち始めた者から順に、そちらへと視線をやり……クベーラ同様、体と思考を停止させる。
≪……は?≫
これには平天大聖も、素直に感情を顕わにした。世界が壊れてゆく現実を前に、いつの間にか幻術に掛かってしまったのではないかと思い直す。しかし、何度目を凝らしても、心を諌めても、自我を強く意識しても、それが変わることはない。
血肉沸き立つ世界は望む所ではあるが、この光景はそれには含まれない。
あれは、無。
何者も存在せず、何者も存在出来ない、虚無の世界。
生など許さない。死など許容しない。明るい感情も、暗い感情も、何もかもを飲み込む終焉であった。
『ハルマゲドン』
4マナで、白の【ソーサリー】
全ての【土地】を破壊する。
平等を謳い、不平等を強いる【白】のリセットカードの内の一つ。これがデッキに含まれているか否かで、戦い方を変えざるを得ないほどのカード。単純明快にして強力無比なその効果に、使われた方は大概悶絶する。場合によっては、使った方も悶絶する。
本来のハルマゲンは、事象や現象を指すものではなく、聖書にてただ一度のみ登場した、土地(あるいは場所)の名前である。
遥か遠方であるというのに、彼らは見た。広大な砂地……妖怪達が進撃する中間部分から、目を疑う程の広範囲が沈下していく様を。
底など見えぬ奈落に並々と湛えられた黄砂が消え去り、ついでとばかりに、その上を移動していた数々の命を飲み込んでいく。空を行く者。飛べる者達は幸いであたったが、それ以外は―――。
「やっぱ広範囲だなー。色々制限掛かってるから、“全て”って言う割には、文字通りじゃないだろうとは思ってたが……もう出番なさそうだな、これ」
誰もが息を呑む場に、感心の声色を伴った言葉が響く。クベーラや平天大聖を含む何名かがそこ――― 一瞬にして戻って来た、英招に跨った九十九や墨目、リンを見た。
興奮冷めやらぬ様子なのは九十九のみ。半ば魂が抜けかけている英招や、驚きに顔を歪める墨目と、呆れ、溜め息を付きな額に手を当てるリンであった。
「……てっきり【稲妻のドラゴン】のような、強大な式神を呼び出して蹂躙するものだと思ってたんだけどね……」
最も早く意識を回復させたのはリンであった。これまでの付き合いにある程度の耐性が付いていた為、今回の目を疑う光景を前にしても、取り分け時間も掛からず心を戻す事に成功したようだ。
「【ファッティ】系とかでの殲滅も大好きなんだけどな。でも、それ維持し続けるのに体力使うんですよ。その点、あれなら一瞬だから。一時的にガッツリ体力持って行かれるけど、それで終わり。継続消費は無し。呪文系の利点だな」
「もう何度目かも忘れたけれど、君の術は、幅が広すぎて特定すら出来ないね。一段落したら、それについては教えてくれるのかな?」
「あ~……その点については、まだ何とも。ウィリク様へのご奉仕上乗せって事でご勘弁を。お姫様」
「……そもそも君は、協力してくれているという立場なのを忘れていないかい?」
周囲の刺さる様な疑惑の視線も、何処吹く風。どんどん会話を推し進める一同に、とうとう耐え切れなくなったクベーラが、おずおずと声を掛けた。
「―――んで、だ」
―――否。声を掛けようと近寄った段階で、九十九の方から声を掛けられた。
「ッ! ……何か」
あれだけの光景を前にしては、さしものクベーラでも声色が硬くなる。手に持つ紅葫蘆をいつでも発動させられるよう構え、更には別の宝具を取り出す素振りすら見せながら声に応える様は、油断の文字は見て取れない。
「ほらほら、俺の味方様。平天大聖の部下が壊滅状態になったぞ。―――これで大分、楽になるよな?」
「……ッ」
九十九は敵の数を減らした事で、追撃される可能性を減らしただけの行い……問い掛けであったが、それはクベーラにとっては全く異なった意味合いに伝わった。
この程度なら、お前達でも全て対処出来るだろう? と。紛れもない上からの視線であったが、誰一人―――あの平天大聖ですらも、それに口を挟む事は出来なかった。
先程の一件。逃げ果せる気であった九十九達に対し、妖怪の群れを相手にしてクベーラは、取りこぼしが出て来てしまう可能性を告げた。
それへの回答が、妖怪達の殲滅―――脅威の排除という単純明快な形で返って来たのであった。
万全に万全を期して―――人間達に火の武器を与えてまでタッキリ山の攻略に望んだ……望まざるを得なかったというのに。
名立たる妖怪達相手に一方的な成果を上げた人間の反応は、通常ならば、喜びか、それに準ずるものであろう。
しかし、それにしては九十九の態度は平然とし過ぎていた。
おおよそ考えられる反応をせず、朝の散歩から帰って来ただけのような、いっそ朗らかとすら思える口調で言い切った姿勢に。
―――あぁ、これは児戯なのだ。
この時ようやく……平天大聖は二度目の確認を以って、思い知った。
全て偽り。全て嘘。あれが見せてきた間抜けな態度も、あれが取っていたふざけた仕草も、全ては遊びの範囲内であっただけ。あまりに強過ぎる力故に、自ら枷を負う事で、一時の怠惰を忘れようとしているだけなのだ。
でなければ、大地を消し去るという暴挙を、死を拒絶する行いにも……。文字通りの、神をも恐れぬ所業の数々。それをこうも易々と実行した行動が理解出来ない。
妖魔を従え、死者を呼び戻し、大地を創り、強弱の一切を無視し、命を奪う。それも、たった一瞬で。シヴァでも、カーリーでも、主神たるインドラであっても不可能だろう。
それら事実は―――平天大聖は、自らがただの井の中の蛙であったのだと悟ったのだった。
≪―――く……くっくっくっ……フッ……フフッ……あーっはっはっはっはっ!!≫
敵は―――強者は、天のみにあらず。
それを噛み締めた瞬間であった。
≪蛙、蛙か! 他の誰でもなく、他の何にでもなく。この私が、この平天大聖が! 何と矮小な存在であった事か! 愉快! 実に爽快だ! 腸が捻じ切れてしまいそうな程に猛るではりませんか!≫
狂ったか。そう思うクベーラや天軍達とは打って変わり、九十九の反応は、係わり合いになりたくない。との表情が浮かんでいる。口にこそ出してはいないが、その口の形から、うへぇ。と聞こえてきそうな程であった。
(何か悟っちゃったっぽいなぁ。何だよ蛙って。お前は牛だろうに。……この手のボスキャラの特徴かねぇ。メンドクセーですよこれ……。……二段変身される前に用件すませておかないと……)
逃げよ逃げよ。
そうボソボソと漏らしながら、九十九は英招から下馬することなく、呼び出したクリーチャー達へと指示を出す。天軍達に捕らえられている状態であれば、復讐や追撃フラグも無いだろうとの判断からでもあった。
「じゃ、墨目さん。【メムナイト】。後は任せた」
「お、おいっ、まだ何も……」
良いから良いからと。
九十九は強引にリンを言い包め、英招にウィリクの国を目指すよう声を掛ける。
言葉は、すぐさま行動に。抗議の声を上げる間もなく上空へと浮き上がった英招一行は、一陣の風と共に、この場からの離脱を成してしまった。
呆気に取られる天軍を他所に、墨目は己が与えられた指示―――これからの楽しみに胸を膨らませ、高鳴らせる。
向かうは白牛。泥沼と化したそこに縫い付けられた、平天大聖。リンを蘇らせた一連の流れは、クベーラも平天大聖も見ている。何をされるのかは、それぞれ自ずと予想出来ていた。
無骨な刃を研ぎ合わせ、鍔迫り合いの火花を散らす。そこにどんな意味が籠められているのかを察せられない者は、今この場に居なかった。
≪おやおや、因果応報という奴ですか。先は長そうだ≫
「……拘束隊を倍に。全力で当りなさい。残りは予定通り、妖魔達の撃滅に向かいます。―――私は、これが終わるまで離れられなくなりました」
もう、限界だ。
墨目は平天大聖に歩み寄る姿から一変し、駆け足となり、跳躍。
その手に光る二本の獲物は、死者を生者に引き戻す為の血肉を求めて唸っている風にも見えた。
≪本当に……先は長そうですねぇ……≫
潰した命は、さて。どれくらいであったか。
行った轢殺を思い浮かべながら、巨大な白牛の眼球に突き立てられる金属の刃を何処か他人事のように、平天大聖は眺め……視界が赤に染まった。
チュウ、と鳴き声一つ。
一度刃が振るわれる度に増えていく声を―――愉悦を浮かべ自らを切り刻む獣人を見つめるのだった。