クラシックな楽器達が、盛大で荘厳な音楽を奏でている。この手のものは、地上と月の双方に、あまり差は無いようだ。
美術や芸能方面にはとんと疎いのだが、それでも今流れているこの曲が、とても洗練されている事だけは分かった。
こちらに来て何度も目にした月の大地。何処までも続く砂の絨毯。
本来なら何人たりとも生物の存在を許さぬ、日の届かぬ内は極寒の、日の届く内は灼熱の入り混じる世界。
けれど今は、ともすれば千にも届くであろう人々の影が浮かび上がっていた。
ウサミミの付いたヘルメット。落ち着いた色の防弾ベスト。そして、やはり構えられているライフルやら何やら達。
残念な事に、知っている顔で見送りに来てくれているのは、依姫だけだ。
何でも、他の人は溜まりに溜まったあれやこれの雑務を処理し始めているのだとか。
豊姫さんの力を使って戻されるのかとも思ったのだが、どうやらそうでは無いらしい。
地平線に映える青き星を背に、俺は見送りに来てくれた……のか警戒されて配備されたのか悩む大勢の軍隊に見られながら、直立している。
思い返せば、あっという間。
ここに来て、色々な人々と付き合って、怒涛の如く過ごしたかと思えば、今こうして、元の場所へと旅立とうとしている。
永琳さんから選別にと受け取った、白い大理石のような細い腕輪に目をやった。
何でも、疲労が一定以上になると、自動でこちらの体力を回復させる機能を持っているのだそうだ。折角なので、八意の腕輪とか名付けてみようか。
【タップ】【アンタップ】に頼る事無く、図らずも【ファッティ】召喚の制限が薄れた事に歓喜した。
……ただ、そんな彼女も色々と忙しいらしく、この式典? には出席出来ないらしい。残念である。
けどまぁ、いつかは地上に降りて来る……かもしれない方々であるのだ。
場合によってはこちらから自力で会いにも来れるのだし、そこまで気落ちする程でも無いだろう。
「九十九……」
「依姫」
俺の目の前には月の軍神。
ただしそんな彼女は、さして明るくないこの月面であっても分かるくらいに、頬が少し赤い。
それに心当たりのある俺は、釣られて自分の顔に熱が集まっていくのを感じる。
「お、お前赤くなるなよ。こっちまで恥ずかしくなって……」
「えぇい思い出させるな! 第一あれはお前にも原因があるだろう!?」
思い出させたのはそっちだろうが。
彼女が恥ずかしがっている理由とは、昨夜、世話焼き女房の如く変貌した事ではない。
泥酔した翌朝。
明るくなった外の光に起こされて、鈍い意識を無理矢理覚醒させかと思えば、俺はパンツ一丁になっていた。
そこまでは良い。
……いや、良くはないのだが、まだその段階でなら、色々と被害は抑えられたのだ。一応、最後の砦(パンツ)は残っていた事を、寧ろ褒めるべきだろう。
あの時ほど鍛えていた自分の体を誇らしいと思った事は無い。
適度に引き締まった体は、自己判断ではあるものの、誰に見せても恥じる要素の無いものだと自負出来たからだ。転生前の、二の腕ぷるぷる&二段腹状態でない事に安堵した。
―――問題は、俺の左右。
着崩れた衣類を辛うじて体に引っ掛けて、その柔らかな肢体をこちらの腕へと絡ませている依姫と、衣服こそきちんと着こなしているものの、こちらの胸を枕代わりに、すやすやと寝息を立てている豊姫であった。
……訂正しよう。
ここだ。ここまでは良かったのだ。
既にマスタースパークやらマリさん砲やらが飛んできても可笑しくない状態ではあったものの、ここまではまだ、弁解の余地が残っていたのだ。
だが普段、色恋沙汰など微塵も無かった俺であったから、それを夢だと思い込んでしまった。
具体的にどう思ったのかは記憶に無いが、とてもハッピーな脳内であった事は間違いない。
そうして導き出された行動が、この状態をもっと味わおう。的なものとなり。
両手に花束。
左右で寝ていた彼女達を、自分の胸元へと引き寄せた。
ふにゃん、とした表情の依姫は、『暖かい……』と呟きながら、更に体を密着させて。
えへへ、と声の聞こえてきそうな優しい顔で、こちらの体を愛おしげに撫でてくる豊姫に、夢の事だと思いながら、いつ死んでも良い、とすら思った程だ。
―――ぬぼっと。【カルドラチャンピオン】が、俺の頭上から覗き込む。そろそろ時間だ、という事らしかった。
そこで俺は漸く意識が覚醒し……同時、左右で寝ていた彼女達も覚醒した。
……後は、ひたすら無言。
騒がない。慌てない。目線すら合わせない。
俺と依姫と豊姫は、もうそこには自分以外の誰も居ないと言わんばかりの完全な無表情を貫いた。
何事も無かったかのように互いから離れたかと思えば、いそいそと服を着込み、全部着終えたところで、俺は、同じく寝入っていた永琳さんと、レイセン、輝夜と、スロバッドを起こす。
永琳さんと輝夜は、壁にもたれ掛かりながら、二人で支えあいつつ夢の世界へと旅立っており、その永琳さんの膝に、レイセンも頭を置いて静かに寝息を立てていた。
これであと一人。
小さな白き者が混ざっていれば完璧であったか、と。ふと思った。
そうして。
写真の一枚でも撮りたい光景であったと悔やみながら、自分の状況を逃避するように思考を逸らしつつ、こうして月の人達―――主に軍隊―――に見送られながら、式典っぽい現状にまで漕ぎ着けるに至った訳である。
「しかし、お前は永琳様を起こす事に躊躇無かったな」
暗に自分には出来ないとのニュアンスを含ませる。
「短い付き合いとはいえ、何回か起こしてるからな。コツは、揺するなりして体に刺激を与える事だ。声だけだと、ちょっと厳しい感じ」
「なるほど。機会があれば試してみよう」
そして、両者は今までの流れを思い出す。
「と、とりあえず、次からは飲酒には気をつけましょうって事で……」
「う、うむ。肝に銘じよう」
既にスロバッドは還してある。
ジェイスともいずれ、このような場を設けたいと思いながら、目の前に広がる光景に、ただ息を呑む時が続く。
音楽隊の演奏が終わり、こうして依姫が何かの挨拶をするだろうと思っていたのが思わぬ方向に逸れてしまったけれど、何とか方向修正は出来たようだ。
「―――行くのか」
思い出したように、依姫の口から言葉が漏れた。
「……そりゃあ、な」
「そうか……」
ちょっと気まずい。
周りにかなり人が居る事と、会話のメインが例の件でない事が、唯一の救いだろう。
「―――くっ」
依姫の顔色がころころと変わる。
それに合わせて頭を抱えたり、眉間に皺を寄せたり、両手で顔を覆ったり、何やら凄まじい勢いで考え事をしているのは察する事が出来た。
「九十九っ!」
「はいっ!」
とうとう気持ちに整理が付いたのか、吹っ切れたように、俺の名を叫ぶ。
「未だに私は、お前に対する気持ちが良く分からん」
「……は、はぁ」
ドリフよろしく、俺の衣類がズルっと着崩れた。
散々悩んだ末の答えがそれですか。お前らしいとはいえ、ちょっと体の力が抜けましたよ。
「ただ、お前が好意を寄せる相手が居る事に、酷く感情が沸き立つんだ。永琳様の時とは似て非なるものだ。皆はこれを、愛だの恋だのと呼んでいるらしい」
……今、何と言った?
(……まじかよ)
テモ期到来だぜ! ヒャッハー!
これで俺も……。
なんて。
―――そんな感情は、一切沸かなかった
馬鹿だと思った。酷く、馬鹿だと思った。悲しみにも似た感情の方が先に湧き上がっていた。
何で、よりにもよって俺なのだと。
他に良い異性など山ほど居る筈だ。
顔が良かったり、性格が良かったり、家柄が良かったり。
それに比べて俺なんて、唯一、能力だけが取り得の……それこそ神か悪魔か。な程のものがあるとはいえ……。
「―――落ち着け」
彼女の言葉を遮る。
東方プロジェクトにおいて、最強の存在を討論した際には必ず候補に挙がるであろう者、綿月依姫。
高潔にして無垢。
瀟洒にして可憐。
この世界で、一騎当千の名がここまで似合う奴もそうそう居ないだろう。
諏訪子さんの時のように、時の流れと共に互いを理解しあった訳でも、彼女の為に死力を尽くして何かをした訳でも無い。
……それが、ただの力を貰った存在に対して感情を揺さぶられている、とも思える行為が、とても心を掻き立てる。
―――話し、理解していく内に、俺は依姫に、一種の憧れを抱いていた。
竹を割ったような裏表の無い性格は、付き合っていけばいくほどに、その愚直さに、その素直さに敬意を感じ、失態にも全身全霊を以って応えて謝罪するあの姿勢は、いつも逃げ道を確保して、時に空回りをし、被害を抑えようと足掻く俺には無いものであった。
鬼とは違う。
あいつらは、物事はそういうものだから。と割り切った上での言動である。
けれどこいつは、思い、悩み、失敗し、挫折し、それでも次こそは、と。何度後悔の海に溺れようが、その足掻きを止めようとしない者。
馬鹿だろうと思った。阿呆だろうとも思った。そして―――羨ましいとも思った。
そんな行いをし続ければ、自分が傷つくだけだというのに、それを決してやめようとしない。
それを是とする者など、俺の周りには居なかった。
だから思う。
お前にはもっと相応しい、運命とも言えるだけの相手が居る筈なのだと。
諏訪子さんに気持ちの傾いている俺などではない、もっと自分を……依姫だけを見続けてくれる存在が。
原作ではまだ出現していなかったが、こんな魅力的な女性が、いつまでも放って置かれる筈が無い。
……俺は、綿月依姫に対して、好意を持っている。ただそれは、愛とかそういうものかと問われれば、素直に頷くものではなかった。
一言で纏めるのなら、気に入ったのだ。
だから、そんな者が……信頼した相手が不幸になりそうな行いを、ただ黙って見過ごせるものか。
「お前は一時の感情に流されてるだけだ。誰も目にした事の無い力を前にして。……この力が欲しいってんなら、あげる事は出来ねぇが、幾らでも貸してやる。だから、もっと自分を大切にしろよ。こんな訳分かんねぇ優柔不断な男じゃなくて、もっとお前だけを見てくれて、お前に対して命を賭けてくれるような相手が絶対居る。惑わされんなよ月の軍神様。お前はもっと―――」
言葉の続きは何と言うつもりだったのか。
頬に受けた鈍い痛み。
顔が横へと強制的に向かされて、口の中に不快な赤い味が広がっていく。
依姫の振り抜かれた拳が、俺が何をされたのかを雄弁に物語っていた。
月の者達が身構える。
何があったのかと。何が起こったのかと。
和やかに見送る筈が、一転して目の前の二人から、緊の一文字が浮き上がっているのだから。
そして何も出来ずに……ただ、こちらを見続ける。
「……何すんだ」
「落ち着け、九十九」
そっくりそのまま、台詞を返された。
「何を気持ちが高ぶっているのかは知らんが、過度な評価は不愉快だ。止めるがいい」
「なっ、過度ってお前「……あのなぁ」―――」
呆れた、と。
溜め息をする彼女の顔には、その一言がありありと浮かんでいた。
「お前、私が何年生きてきたと思っている」
「……めっちゃ長い、位には」
「そうだ。そして、私の姓は何と言う?」
「綿月」
「……ここまで言っても分からんか」
逆に、それで何を分かれと言うんだ。
「お前、こちらの事情に詳しいようで無知なのだな。……我が綿月家は、ここ月において五本の指に入る程の名家だといっても過言ではない。縁談など、それこそ笑みを浮かべた頬が石になってしまうのではないかと思える位には行ってきたさ」
「破談しまくってるって言いたいのか? そりゃお前、結婚の条件が厳しかっただけだろう。……俺には申し込んで来た事を思い返すに、だ。最低でも、月の軍隊丸々手玉に取れるだけの戦力やら【宝石鉱山】やら【森】やら出さなきゃいけないんだからな。理想高過ぎだぞ」
「そういう理由があるのは否定せん。だがな、《月面騒動》の判決が出た直後、我ら綿月家に対して取り入ろうとした家々の、何と多かった事か。思い返すだけでも癪に障るので要約するが、『復権したければ我が家に入れ』との連絡が引っ切り無しであった。……私は勿論。姉上にすらもな」
「……そりゃまた、何とも胸糞悪くなる話だな」
「だろう? しかし、まさかお前との関係が良好なものである、とは予想出来なかったのだろう。我ら綿月家を利用しようとした者達は、その恨みが我らを返してお前へと伝わるのではないか。と思ったらしくてな。……まぁ、それが権力者というものだ。打算無くて家は栄えん。それをせずして過ごすは、ただの無能者だ。理解はしているさ」
そう纏める依姫に今ひとつ釈然としないものを感じるが、特権階級の人々の気持ちは理解の及ばぬところがあるので、黙って聞く事にする。
「それで、だ」
依姫の眼が、再びこちらを捉えた。
「お前、私の力や家柄を欲した事はあるか?」
「……手に入るってんなら、すんごいメリットではあるな」
「そこだ」
ズビシッ。な効果音と共に、人差し指を向けられた。
「我ら綿月家と友好を結ぼうとする者は、まずそこから入ってくる。それを悪とする気はサラサラ無いが、決して何も思わない訳ではない」
「そりゃ、家柄やら立場やらのせいだろう。そういった要素を省いた……そうだな。一般の人達なんかだったら、素のお前自身を見てくれてるんじゃねぇのか? 一人で街中うろうろしてれば、何かの恋の予感でも始まるかもしれねぇぞ?」
「そうかもしれん。だが、私は綿月の姓を名乗っているのだぞ? 何の取柄も無い者との婚約など、御家の為には一利も無い。せいぜい私の気持ちが満足する程度の範囲だ。人々の上に立つ者として、それだけでは、な」
……ようやく分かった。
こいつは、自分の感情は二の次なのだ。
御家の為に、月の為に、自分が出来る最善を行う事を是としている。
好いた惚れたの感情は、あくまでそれらが成立した後に付随するものであり、それが成立しなければ、本人の意思は含むに値しない。
「だから、だ」
今までの様子とは一変し、何処か不安げな瞳をする。
「お前が言ったように、お前の力を取り込められたのなら、御家の為……ひいては月の為、という条件は難なくクリアしている。そこには誰も疑問の挟む余地は無い。……九十九よ。私は数え切れぬほどの縁談を受けて来たと言ったな」
「……あぁ」
「それはお前の言う通り、私が気に入らぬから云々で破談になったのではない。契りを結んだところで、大してメリットが発生しなかった事が最大の原因なのだ。家柄において我らと並ぶ存在は少なく、力においては、それこそ、姉上と輝夜様。そして、永琳様の三名しか、な。……選択肢の悉くが、自らの水準よりも下なのだ。婚期が迫っている訳でも無いので自然と、こうして浮いた話の一つもなく過ごして来てしまった訳だが……」
少し言葉を濁した後。
「……お前が初めてだったんだ」
俺にでも聞こえるかどうか怪しいくらいに、小さな声で。
「名も力も関係無く、私という個人を見て、何一つ飾るでもなく付き合ってくれる異性は。そして、そんな相手は過去最高の好条件であるのは疑いようも無い。打算もある。思惑もある。だが、そんなものは私の中では後付けでしかない。……なぁ、九十九」
「……おう」
「お前、私が困っていたら……どうする?」
「どうするって……」
逡巡。
「とりあえず、駆け付ける」
「その後は?」
「何が出来るか考える」
「命が危うかったら?」
「まず助ける」
「それが『神々の依り代』たる能力でも太刀打ち出来ない者であってもか?」
「悠久の時の中に思考が腐り果てるまで置いておくでも、何一つ感覚の無い絶対隔絶した空間へと飛ばすでも、無慈悲な一撃を以ってその土地ごと塵芥になってもらうでも、如何様にも。そんな相手が居たら、の話だけど」
「……お前、そんな事も出来たのか」
「冗談だ。そこは流せよ」
今はまだな、と。心の中で呟いた。
互いに苦笑。疲れたように声を漏らして、すぐ止まる。
テンポ良く会話が続いた事に、何処か可笑しさを感じながら。
僅かに笑みを向け合った後、息を整えて、再び問い掛けて来た。
「……それで、それは私が綿月家の者だからしてくれるのか? それとも、『神々の依り代』たる力を持っているからか?」
「綿月じゃ無くなろうが、能力失おうが、別に。―――お前が、お前だからだ」
何だか乗せられて会話している気もするが……まぁいいか。別に嘘を付いている訳ではないのだし。
その言葉に、彼女は満足そうに深く頷いた。
「初めて出会ったのだ。契りを結ぶ事に問題が無いどころか、むしろそうすべきである、と思わせる相手は……。お前は数百万年の私の人生の中で、初めて出現した優良物件という訳だな。同じだけの時を過ごしたとしても、このような条件の相手と出会う可能性は、不変が常である月の都市では困難……違うな。不可能だ」
「……そこは、“あなただけ”的な台詞で通せよ。他に同条件の物件があったらそっちに行く、みたいな台詞になってるぞ」
「そう言っているのだ。間違いではないぞ? ……お前とて、先に出会った者が永琳様や姉上、輝夜様だったのなら、今お前の心を占めている者に対して、同じ感情を抱き続けていられるか?」
好いた惚れたは先手必勝。
少し違う気もするが、誰だったか、そんな言葉を思い出す。
「……酷い言い方だ」
―――ただその時は、俺は“九十九”などという者ではなかっただろうけれど。
「ん? その通りであると思わんのか?」
「黙秘する」
「はっ、酷い台詞だ」
またも、言葉を返された。
「全ての条件がお前との契りを結ぶ事に可を下し、そこでようやく、私はそれら柵のフィルターを通さずに相手を見る機会を得た。初めての事で色々と困難ではあったが」
一息。
「……お前だからだ。九十九。意図も容易く何かに流される姿も、愚かとも思えるほどに浅はかなところも。そして、心を許した相手に対して愚直なまでに親身になってくれるところも」
「……後半のとこは理解出来るが、前半二つは、むしろ断固拒否するところじゃねぇか。むしろ逆だろ、逆。それの反対を好めよ」
「そんなものは私一人で充分だ。何が悲しくて自分と似たような相手と契りを結ばなければならないんだ。ならば元より私一人で構わんだろう。違うからこそ楽しいのではないか」
そういう考え方もある……の、か?
「……あれか、お前、最高とか完璧とか無敵とか、そういった単語から真逆な相手が好みなのか」
「否だ。私は、私に無いものを持つ者が好ましいのだ。ただ、そういう者は最初の条件―――月の為に何かしらの利をもたらす―――から悉く外れてしまっているのでな。だから……うむ……」
自分の中で渦巻いていた言葉が纏まったのだろう。
少し唸った後で、ポンと手を打ち、こちらへしっかりと向き直り。
「お前が私の持ち得ないものを持つが故に、私はお前を好いているのだ。この心の温かさは、今でも胸に灯っている。―――この熱が、間違いである筈が無い」
先程の、恥ずかしげに悩んでいた素振りは何処へやら。
これでお前も分かっただろう、と。
何一つこちらの反応を確かめる事無く言い切るその表情が、雄弁に彼女の気持ちを語っている。
無色。
魂の有り方全てが手に取るように分かる感覚は、何一つとして偽りの色の付いていない、純粋な本心から発生したものだからだろう。
ここまで言われて、黙っていられる訳が無い。
……但し、その沈黙を破る行為が、決して良い方向に転ぶ訳ではない。
「……それでも、だ」
否定の言葉。
突き放す様に、俺は拒絶を口にする。
思考の纏まらない頭では、もはや彼女に対して口論で説得出来る気がしない。
だから、もう、最後の手段。
駄目なものは駄目なのだと。ただの情の赴くままに、子供の我が侭の如く、気持ちのみで押し通す。
好意を寄せてくれるのは嬉しい。それこそ、天にも昇る気持ちだ。
時と場合が合えば、諸手を挙げて、受け入れていた程に。
―――だからこそ、それを認めてはならないというのに。
「だろうな」
それは相手にとっては織り込み済みで。
今までの重々しいやり取りは消え失せて。
その態度に、訳が分からなくなる。
「困らせて悪かった。―――さて、では本来の目的を果たすとするか」
不意に、彼女の表情は優しげなものから一転し、真剣なものとなる。
「名前を貸して欲しい」
告げられた言葉は、言い方は悪いが、腐っても彼女は綿月家の者なのだと認識するには充分だった。
鈍い俺の頭でも分かる。
変な話、仮面夫婦になれ、と言っているようなものだろう。
「……力を貸すとは言ったが、名を貸す事態になるとは思わなかったぞ。……別に良いけどよ。こっちには何か影響は?」
暗に、面倒ごとは御免だ。とのニュアンスを含ませる。
協力するとは言ったが、全てに肯定している訳ではないのだから。
「特には、無いな。お前が契りを結ぼうとしている相手との間に誤解が生まれるかもしれない……くらいか。まぁ黙っていれば、月での事情など知る事もあるまい。仮にもし知ってしまったのなら、我ら綿月家がその者と直接話の場を設け、説得してみせる。無論、その他月での面倒ごとも、全てこちらで対処する。書面上は夫婦だが、綿月家、蓬莱山家、八意家の三家にとっては、その婚姻は名ばかりのものであると理解した上での、これだ」
自身の長い髪を手櫛で梳かしながら、彼女は、今度はメリットの方を話し出した。
「とはいえ、それでも夫である事には変わりない。お前が望むのなら、我が家を自由に使ってくれて良い。資産、人材、そして、私も。全てを、だ」
月に害の無い範囲で。と言葉を纏め、そう提示する。
「もしあれなら、九十九の思い人に、初めから説明しておこうではないか。『我が家を救って頂く為に名前をお借りしたいのです』といった風に。どうだ? これならお前も後ろめたい気持ちは起こるまい?」
「あ、えぇー……んん?」
俺が拒否している最大の理由は、依姫が不幸になりそうである事と、何よりも、諏訪子さんに対しての背徳心。
よって、依姫が幸せになり、諏訪子さんにも恥じる事の無い……筈の行いならば、むしろ協力してやるべきなのではないだろう……か……?
そう、考えていると……。
「―――我が侭なのは分かっている。ずるい女だ。相手の事を思うでなく、自分の感情を優先するのだから。……故にこれは、愛でも恋でもない。単なる独り善がりの自慰のようなものだ。……まぁだからこそ、この気持ちに何と名付けたら良いものか分からんのだが……」
―――毅然とした態度は見る影も無い。
俯く顔は、一体どんな表情をしているのか。
一歩こちらに近づいて、もう一歩踏み込めば、体が密着する距離まで縮まった。
微かに体は震え、声は上擦り、十拳剣の握られた手は、強く握り込まれている。
「……頭では理解している。それでも、感情が現実を受け入れてくれない。お前が地上へと戻れば、私はそちらに行く事は出来ない。それは……とても……嫌だ……」
顔を上げてこちらを見る目は濡れていた。
理性と感情の鬩ぎ合いの中で、それでも自分の感情を優先させた事実を悔いているような。
「―――名前を―――くれないか―――。お前との関係を諦める為に。自分の心に区切りを付ける為に。かつてお前は私と同じ名の下に居たのだという事実を。―――頼む」
形としてだとか、思い出としてだとか。
けれど、彼女はそのどれでもない―――名前という、ある意味で、存在そのものを指すものを欲した。
そこには一体、どのような思いが込められているのか。
“貸して”から“欲しい”に変わっている事には、もはや口を挟むつもりは無い。
「依姫」
「……何だ?」
顔を背けず、今にも涙が零れそうな瞳であるというのに、真っ直ぐこちらを見つめている。
本当に……嫌になるほど良い女だことで。
「ごめん……な」
受け入れる為にではなく、これで終わりとの意味を込めた抱擁。
包み込む暖かさは、こちらの背にも手を回す。
強くもなく、弱くもなく。
男は僅かに腰を落とし、女は僅かに爪先を立てる。
互いの頬が触れ合い―――。
今生の別れにも似たそれは、どちらともなく終わりを告げて。
再び二人の間には、少しの―――それでいて、決定的な距離が空いた。
「―――酷い男だ。これから別れるというのに」
「……一度、言われてみたかった、かな」
「阿呆。そんな台詞は、もっと格好を付けられるようになってから言うがいい。冗談にしては……いや、本気であれば尚の事に、質が悪過ぎだ」
不適に笑う彼女の顔は、一点の曇りも無いもので。
「さて―――そろそろ時間か」
俺と彼女の距離が空く。
一歩二歩と開いたそれは、五歩目を数えたところで止まる。
「名前。好きに―――あぁいや」
口を噤んで、言い直す。
「俺の名前、お前に貸す。生憎と大切な人から貰ったもんなんでな。あげるのは無理だが、それくらいなら……お前だったら、構わない」
「……そうか。有り難く受け取らせてもらおう。―――九十九!」
「ん?」
依姫から何かが放られる。
黒くて長いそれを、片手で掴んだ。
「これって……」
彼女の武器である、『十拳の剣』であった。
「お前は何かと抜けているからな。剣術が使えずとも問題は無い。腰から提げておくだけでも、自動で危害を加えてくるものを駆逐してくれるだろう」
何という光剣フラガラック。
思い入れどころか、それが行き過ぎて九十九神まで宿ってしまっている大切なものを、俺に託す。
……一瞬、付き返そうかとも思ったけれど、ここは素直に受け取る事にした。
「―――ありがとう」
感謝の言葉と共に、受け取ったそれを、高く掲げてみせる。
それを満足そうに見つめた依姫は、片手を上げて、後ろに控えていた月の軍隊―――の誰かに、転送装置の起動を合図した。
光に包まれる、との表現が似合う現象に晒されながら、手にした刀を腰へと挿す。
「それでは、な。お前に、月の光の加護のあらん事を」
足元が光へと溶ける。
今度の転送は、きちんと生命体を送るものだと聞いたので、【死への抵抗】によって自身を強化せずとも安心出来るものだと聞いた。
心残りなら、それこそ山のように。
いつかは自力でこの月と往復出来るようになれればと思いながら。
「あぁ。そっちこそ、【マリット・レイジ】や【カルドラチャンピオン】と仲良くな」
ここで学んだ事を、どれだけ生かせるだろうか。
出力マナの上限開放、ストックマナとカード使用枚数の容量増加。
帰ったら、しばらくはそれらに加えて何か獲得したスキルはないものか、確かめて過ごそうと。
「―――じゃあな、よっちゃん」
「―――あぁ、さらばだ。九十九」
何気に、そう渾名を呼んだのは初めてであった。
変な呼び方だ、と表情が物語っているものの、律儀にこちらに返答してくれているのだから、やはり真面目なんだなと思うのだった。
―――その言葉が、そこで終わっていたのなら。
「―――あぁ、さらばだ。九十九。―――正室に宜しくな。側室の管理は、私に任せるが良い」
……え、何? 聞こえない。
「……よっちゃん、わんもあぷりーず」
「? 正室に宜しく頼む。側室の管理は、私が行おう」
聞き間違い……じゃ、ねぇ……!?
「ちょい待った! どういう事だそりゃ!?」
「どうも何も、言葉通りだぞ?」
言葉通りって……こいつが言うから、事実、言葉通りなんだろうな。
「百と、飛んで八」
「……何の数?」
既に確信はあるものの、尋ねずには居られない。
「お前への求婚相手だ。これでも大分減らしたのだぞ。十分の一以下に」
……側室って、やっぱりそういうところから来たのか。
というかそもそも、俺の了解無しに何でそんな存在が……。ん? その為の俺の名前なのか?
……そして、さらっと煩悩の数だけ居るのは、マジで何かの当て付けなんだろうか。
「八意家、並びに蓬莱山家がそれらを全て止めていてな。お前が知らぬのも無理は無い。百八も漏れてしまったのは、ある意味で八意家と蓬莱山家にとって、何かしらの恩か、重要な役割を果たしている御家だな。―――その二家が止めなければ、今頃お前は十二人同時に寝る間を惜しみ、それを果たしても、数十日間は終わらぬ見合いを行っていた事だろう。……今更何だが、お前はそれを望むか?」
「それ何て聖徳太子……。……モテ期到来なのは確かに嬉しいんだが、明らかに政略結婚以外の文字が見えないお付き合いってのは避けたいところです。……そんなのする位なら、とっとと帰りたいしな」
東方キャラ以外の奴らなんて全く知らねーですよ。高御産巣日とか。
どんなに可愛かったり綺麗だったりしても、素性の把握出来ない奴らは出来るだけ相手にしたくないのが本音です。
何せ、知らない相手は、存在しないも同じなのだから。
「そう言って貰えて助かる。繰り返す様だが、永琳様と輝夜様の名を以ってしても、百八もの家々の申し込みを取り消せなかったのは、お前の政治的利用価値の高さが良く分かる、一種の物差しだな。……まぁ正直、我ら御三家でお前を独占しないが為であるのだが」
言わなくても分かっているというのに。律儀過ぎるのも……まぁ、だからこその依姫であるのだけれど。
そう言いながら、何かを思い出すような動作をして、こてんと小首を傾げる。
「我らほど、とは言わんが、中々の名家が揃っていたぞ。まさに選り取り見取りだ。もし全員娶ったのなら、この国の王となる事も可能やもしれん。内、何人かは男だが」
生物学上の同性ですかぁ!?
「どういう理屈だ!」
「勿論、お前が男色の気がある可能性を探っての事だろう。自慢ではないが、私の容姿はそれなりに人気があるようでな。そんな私との婚約をバッサリと断ったお前に、皆が懐疑の眼を向けたのだ。好みが合わなかったのでは、というところから始まり、まだ年端も行かぬ子から、妙齢の者まで。そしてその可能性の中の同性、という事だな。私から見ても、中々悪くない者であったぞ?」
「だからって、生えてる奴相手に何しろってんだよ!」
「生え……生殖器の事か? 知らん。私は女であるからな。お前の好きにすると良い。ただ、男女共にだが、幼子にはあまり無茶をしてやるなよ。先にも言った通り、中には変声期も終えていないような者もいるようだしな」
「だから、そういう気は皆無だっつーの!」
「お前が普通ではないのは重々承知している。愛の形は星の数ほど、だ。節度の範囲内であれば、ガンガンいって構わんぞ。私は理解のある女だからな」
「そんな理解捨てちまえてんだコンチクショウ!」
こいつやっぱり人の話を聞いて無い―――って、あ、もう腰まで消えてやがる!
「地上での側室をこさえた場合には、後からで構わん。いずれこちらに話を通せ。うまく纏めておく」
「何でお前が仕切ってんのさ! さっき諦めたとか心の区切りだとか言ってたじゃん!」
とりあえず突っ込みを入れながら疑問の解決を図るものの、それでも限度というものがある。
それでも何とか弁解の言葉を並び立ててみていると、
「正室を諦めたのだ。―――本当なら……お前の一番でありたかったのだがな」
……小さな声で、依姫の零した本音だと思われる台詞まで聞こえてしまったのは、男冥利に尽きると思え、男として最低だとも思えた。
あぁ、諦めるって、そういう意味だったのか。
……不覚にも、ちょっと心が動いてしまった。
「何も、大事なものは一つであらねばならない訳ではないだろう」
そう言って、依姫はその心中を話し出す。
「……そうだな。お前は最も大切なもの意外は、全て無用だと切り捨てるのか? 違うであろう。親が一人だけでは無い様に、友が一人だけでは無い様に。大切な者が複数居る事に、何の問題がある。突き放すでなく、こちらに謝るくらいならば、全て守ってやる、くらいの気概を見せろ。でなければ、謝罪の言葉など口にするでない」
しっかりと。揺るがぬ意思を以って。
「勝手に人の幸せを判断するな。愛想が尽きたのなら、勝手にこちらから離れていくだけだ。……それくらい、好きにさせろ」
不適に口元を歪めて、こちらにニヤリと笑みを向けた。
「さらばだ。いずれ、正室には挨拶に向かおう」
―――なっ!?
「さらっと爆弾投下するんじゃねぇー!」
というかあの表情からして確信犯か!?
さっきから叫びっぱなしで喉が限界迎えそうだってんですよ。
―――意識が暗転する。
最後に見た彼女の表情は、実に楽しそうなものであり。
「―――楽しかったぞ、九十九。出会いこそ最悪であったが……。お前との思い出は、どれもが決して忘れる事の無いものであった」
―――こうまで言われては、去るものは追わず、であり続けるなど居られようか。
潔い結果は、もう求めない。
足掻いてやる。
徹底的に足掻きに足掻いて、こちらから切るのではなく、あちらが俺に愛想を尽かす、その時まで。
そして。
―――決して、そうはならないように。この下らないプライドを、信念の域にまで高めてやろうではないか。
ただ……とりあえずは。
(諏訪子さんに何て言おう……)
そこを考えてからでも、遅くはないだろう。
振り返って見た星は青く。
無事に辿り着ければ良いな、と思いながら。
俺は月に、別れを告げた。
緊急アラートが鳴る。
とうとう来たかと思う。そして、間に合ったか、とも。
同時、玉兎達の何人かが宙を舞った。
わーきゃー悲鳴を上げながら次々と打ち上がり、それでも何一つ傷つかない彼女達を見るに、これが九十九の言う“こめでぃぱーと”なるものなのか、と、依姫は興味深そうにそれを見つめた。
自分の通信端末が音を立てる。
操作して、通信可能にしたと同時、
「―――……依姫様! もう限界ですー!」
用件を伝え終えた直後に、何かの爆発に巻き込まれる様に砂嵐の音が混じる。
そうしてそのまま、通信は途絶えてしまった。
(……レイセンよ。次からはもう少し早く言うが良い)
せめて玉兎達が、宙を舞う前に。
けれど一応は、役目は果たしたようだ。役に立ったかどうかは別問題であるが。
「皆、重荷となるものは全て破棄して構わん。撤収だ。即座にこの場から離脱しろ」
よく通ると評判の声で、皆へと指示を出す。
一瞬、近場に居た同僚の顔を見合わせた玉兎達は、まさに脱兎の如く、爆音鳴り響く地点から撤退を開始した。
良い逃げっぷりだ。いずれはこれを何かに生かせないものか。
そう、人知れず思案する依姫であった。
依姫の視界に映るのは、人。
全部で三人。
一人は我が姉、綿月豊姫。
もう一人は、月の頭脳たる八意永琳。
最後の一人が、この月をいずれ統べる、蓬莱山輝夜その人であった。
しかし、その蓬莱山の手には、何かが握られていた。
「……む、まさか」
木の枝。……そう、木の枝だ。
ただしその枝には幾つかの大小異なった玉が取り付けられており。
それは金の枝と銀の根を持つ―――
「『蓬莱の玉の枝』まで持ち出したというのか!?」
蓬莱山輝夜の結構やば気な状況に、依姫の鼓動が一速上がる。
これは不味いと、不動を決め込んでいた彼女は、即座に駆け出した。
―――やっと手に入れた一時の静寂は、いっそ不気味な程であった。
輝夜を押し留める様に対峙する豊姫と永琳の二人は、一寸の油断も無く本来仕えるべきの筈の相手を見据えていた。
そこに馳せ参じた依姫を見た二人は、溜まりに溜まった安堵の溜め息を漏らした。
「―――依姫」
しかし、それに反して怒気が高まるのは輝夜である。
「はっ」
「九十九は―――?」
レイセンや玉兎達であるのなら、それだけで気絶してしまいそうな視線であったが、それを平然と受け流し、
「今し方、帰りました」
輝夜にとって、最も聞きたくなかった言葉を口にした。
一瞬で空間が沸騰する。
誰から見ても、火口からマグマの噴出す寸前の火山において他ならないのだが、この場にいる輝夜以外の三人は、それを気にした風も無く。
「はぁーー…………」
盛大な溜め息と共に、輝夜はその場へとへたり込んだ。
「お疲れ様です永琳様。姉上。無事、目的を達成出来ました」
「それは何よりです。ありがとう、依姫。……そうえいば―――あの玉兎……レイセンだったかしら。彼女は? 輝夜の足止めの第一防衛ラインを担当していた筈だけれど」
「……ええ、最後に一報。こちらに届けてきました。……惜しい人材を亡くしました」
「よ、依姫ちゃん? あの子、まだ生きているからね?」
楽しげに語らう三人に、不満な目を向ける者が一人。
「何よー、別に良いじゃないの。減るもんじゃなし」
この場合の減るとは、先に星々の藻屑となった玉兎ではなく、今し方青き星へと旅立っていった人物の方である。
「あのねぇ輝夜。あなたの我が侭は大概だけれど、流石に今回のは限度ってものがあるわ」
「……それを、私の意識を一瞬で刈り取った者が言うかしらねぇ」
「本当だったら十日は目覚めない筈だったんだけれど、無事成長してくれているようで、師としても、いずれあなたに仕える者としても、頼もしく思うわ」
「……だから何の拘束もされずに寝室で寝かされていたのね」
「まさか一日も経たずに目覚めるとは思ってなかったんですもの。……それを言うなら、あなたの方よ。蓬莱の玉の枝まで持ち出して」
もうどうでもいい、と。
月の至宝である蓬莱の玉の枝を無造作に放り出して、輝夜は九十九が帰っていった、青き星を見つめた。
「あ~あ……間に合わなかったか……」
「気休めだけれど……。またいつか、会う時も来るでしょう。力ある者とは、それだけ動乱に巻き込まれるのだから」
「何それ。永琳の経験則?」
「ええ。これでも私、結構長生きなのよ?」
それは頼もしい、と。
疲れた笑いを零しながら、そう答えた輝夜は、依姫へと問い掛けた。
「それで、あなたの言っていた案というのは、成功したの?」
「はい。彼の名を使う許可を取りました」
「……あなたの役職が更に上がるのは決まったわね」
「そして、側室の管理はこちらに一任する許可も」
それぞれが大なり小なりの反応を示すものの、彼女の姉だけが、過剰とも言える反応を現した。
「―――なにそれ! 私、聞いてない!」
「姉上、落ち着いて下さい。語彙がおかしくなっております」
「それはどういう事なの依姫ちゃん! 側室って、あの側室!?」
「姉上、ですから―――」
「私の可愛い妹が……最愛で最強の妹が、自分を振った男の側室の管理……何て事……あの愚弟……」
もはや誰の姿も目に映ってなかった豊姫の首に、輝夜の手刀が綺麗に突き刺さる。
『あぅ』と小さく息を漏らして、彼女の意識は刈り取られた。
「愚弟って……」
「輝夜。突っ込みどころはそこなの?」
「……あの分では私が言っても聞く耳持たないでしょう……。あの、永琳様。恐縮なのですが……」
「構わないわ。流石にあれは、私も驚いたもの。目が覚めた時には、私から話をしておきます」
永琳が、依姫へと向き直る。
「―――決めたのね」
「はい。……お分かりになりますか」
「仮にも、あなたの師であるのだもの。でも、良いの? ともすれば、今度は一緒に居るだけで苦痛になる事もあるのよ?」
「後から育む愛というものもあると耳にします。まずは形から。後は……精一杯、やってみようかと」
そう、と。
成功すれば御の字であるし、失敗しても、人生の糧となってくれるだろう。
何せ、嫌になるほどに、人生は長いのだから。
瞳を閉じて、深く頷きながら、そう思う永琳に、
「永琳。九十九はあれの何処に降りたの?」
青い星を目で指しながら、輝夜は尋ねた。
「ええと……。ほら、あそこ。雲の切れ目の隙間に見える、あの小さな島国よ」
他と比べれば確かに小さいのだが、それでも比較対象が悪過ぎる解答である。直線横断距離が二千キロとも三千キロとも言われるものを小さい、などと。ここ月ならでは答えだろう。
そう答える永琳に、輝夜は一言合いの手を入れて、沈黙した。
(……この子、もしかして)
何やら嫌な予感がした永琳だったが、彼女の予感は全く別の方向で当たることとなる。
「……永琳様、今なんと?」
その声は、依姫であった。
「え?」
「九十九が降りた場所です。あの雲の切れ間の島国だと、そう仰りませんでしたか?」
「え、えぇ。間違い無いわよ」
それを聞くや否や、彼女は眉間に皺を寄せて、その表情に『拙い』の二文字を浮かび上がらせる。
「……依姫、まさか」
何となく察しの付いた永琳が、おそるおそる声を掛けた。
依姫はそれに反応する事なく、自問自答の様な呟きを洩らす。
「そうか……あの探索機器は故障していたのであったか……」
「何処か間違ったところにでも送ったの?」
永琳に続く形で、輝夜が依姫に問い掛けた。
「はい。帰還データは、あの擬態探索用の中から抽出した座標を元にしました。転送する前の場所へと送り届ければ良いものだと思っておりましたが……」
「……そのデータ、壊れているのよね」
「のようで……」
亀を模った探索機器は、九十九の発した【稲妻】によって、いつ壊れても不思議でない程のダメージを受けていた。
それは、地上に月の証拠を残さない為に、最重要機能として据えられた帰還用の転送装置すら発動するかどうか怪しいものであったのだから、それ以外の機能やデータが破壊していたとしても、格別不思議な事ではなかった。
彼の意思を尊重すべく、発信機や、彼の位置を確認する手段は講じていない。
転送した座標を逆算すれば居場所は特定出来るだろうが、月の転送装置は、生物の安全を考慮した場合の転移は膨大なエネルギーを消費する。
そして、その問題点をクリアした唯一の力を持つ綿月豊姫は、現在、意識を失っていた。
―――完全な手詰まり。
この状況が示す事とは、そういう事。
三者三様の『参った』を体現した後、依姫はふと、視界の隅に見慣れたものを発見した。
その場所―――九十九の帰った転送位置には一本の―――。
空が青い。
そんな当たり前な―――暗い空ではない、完全な蒼穹の世界が俺の頭上に広がっていた。
頬を撫でる風は木々と大地の香りを運び、否応無く俺が地上へと戻って来た事を伝えて来る。
小高い丘は草原が広がって、照り付ける太陽が暴力的。どう見ても真夏です。本当にありがとうございました。
あっちへぶっ飛んでいった時には、確か季節は秋と冬の間くらいだった筈だが、南の方へと飛ばされたのかもしれない。
どうやら浦島さんが居た場所―――戸島村とは違うけれど、一体ここはどの辺りなんだろうか。
(久々の地上だ……。よっし、今度は【飛行】でも試してみるとしましょうかね)
空中を移動する手段として考えたものの内、他の動力に頼る【羽ばたき飛行機械】と、上下アクションを繰り返した【ジャンプ】とは違う、名前もそのまま【飛行】。
多分【ジャンプ】よりは使い勝手は良さそうだと思いながら、腰に刺した、依姫から受け取った十拳剣へと手を伸ばす。
新しくゲットしたニュー装備は、全部で四つ。
一つ目は機能性を重視した衣類一式(Gパンとシャツ)。
特殊な能力こそ無いものの、日の光さえあれば自動で破損を直し、汚れを取り除き、補修&洗濯要らずな絶品。諏訪子さんに貰った外套と合わせて装備していて、ちょっとこのままなんちゃらクエストな勇者の如く、モンスター退治に出かけていけそうな格好。
二つ目は、永琳さんから貰った、名称不明の腕輪。一応、八意の腕輪とか名付けてみようか。
何でも一定以上の疲労に達すると、体力を常に元に戻してくれるんだとか。【タップ】やら【アンタップ】の力を使わずに維持コストの解決が出来た事に、貰った時には頭を下げて感謝した。
三つ目は、同じく永琳さんから貰った、小さな青い宝石のついたネックレス。
バベルの塔が崩れる前の機能を云々、とか言っていたのだが、嬉しさに流されて詳細は覚えていない。とりあえず、これで全ての言語が分かるらしい。勿論、伝えるのも可能だとか。
(で、最後がこの……)
依姫より渡された、九十九神の宿る十拳の剣である。
伝説級の装備品とか、男たるもの、憧れない筈が無い。おまけにそれが上位の力を持っているとなれば、尚の事。
傍から見たら気持ち悪いであろう笑みを浮かべつつ、確かめるようにその感触を―――
―――すかっ
「……あん?」
その感触を―――
―――すかっ
「……んん~?」
……おかしいな、さっきまであった感触が無い。
疑問を解決すべく、そこへと視線を落とす。
「―――無い」
綺麗さっぱり。
そこには俺の腰以外、何も確認出来ない。
……え、何で? どうして? ソッコーで失くした? マジやばいぞこれ。
(本気で不味い……。あんな大切なもの無くすなんて……少し探してダメだったら、何かカードを使って……)
顔に縦線どころか、間違いなく今、俺の血の気は失せている。
転送時にどっかやったかと辺りを見回しながら、これがダメなら何のカードを使おうか悩んでいると。
―――青々と茂る草原に、一つ、真っ白な色が現れているのを捉えた。
メモ用紙くらいの大きさのそれは、俺の足元に落ちており、そこには何やら文字が書かれていた。
色々疑問に思いつつも、拾い上げて目を這わせる。
達筆過ぎて読み難かったものの、永琳さんから貰った言語翻訳機能付きのネックレスの効果で、何とか読み解けた。あぁ、これって文字系にも対応してるのね。
そこには、僅かに一言。
『オマエ キライ』
……もう大よそ察しは付いた。
何でメモ用紙があるのか、とか。どうして文字書けるのか、とか。その辺りは、うん。もういい。流す。
まだ書置き残してくれていっただけ、御の字というものだろう……か。
というか依姫様。このご様子では、九十九神様にはご説明されていなかったのですね。
足に、腰に、腹に、腕に。
全身に力を込めながら、大きく息を胸に入れる。
そういえば、あの時も全力を振り絞る様に発したんだったか。
「やってられないんだぜぇえええ――――――………………!!」
実はこの台詞、結構気に入っているんじゃないだろうか。
そう思いながら、一度も使う機会無く終わった最強候補な武器に、俺はさめざめと涙を流すのだった。
―――と。
何か―――柔らかい感触を、足の下に感じた。
「ん?」
ガムを踏んだ直後に足の裏を見るような、そんな感じで足元に目をやれば。
「―――きゅう」
小さな人型。
全体的な色は白よりのグレー。お尻から出ている尻尾が実にキュート。頭からは真ん丸の耳が二つ。通常はピンと伸ばされているのであろうが、意識を失っている事によって、へたりと垂れ下がっていた。僅かに漏れた声は実に愛らしく、何か歌でも歌わせれば、オリコン上位は確実だろう。
なーんか見たことあるなぁ。何だったかなぁ。何処だったかなぁ。
「ぎゅ」
あ、変なトコに足が入ったっぽい。おかしな声が出た。
……。
「……やべー!! 女の子マジ踏みとか鬼畜以外の何者でもねぇー!!」
慌ててその場から足を退かし、倒れている存在を腕に抱えた。
白のような灰色よりのワンピースは記憶の中のものと若干異なっているものの、全体的なイメージは似通っている。そして、倒れていた付近には、彼女の物であろう長めの木の枝が転がっていた。
瞑られた目はすっきりと一線が取れており、小さく結ばれた口はから、この者の感情が表れている気がする。
「……医者、医者だ! ……永琳さん! そうだ、あの人だよ! えーりん! 助けて! えーり~ん!!」
月で自重しまくっていた台詞がとうとう言えた事に、何処か満足しながらも。
腕の中でくるくると目を回している存在に、出会いが唐突過ぎると内心で愚痴を零しながら、俺はしばらく、ただ我武者羅に叫び続けるのだった。