東方ギャザリング   作:roisin

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36 病室にて

 

 

 

 

 

 

 戦ぐ風の心地良きかな、春麗かな木漏れ日よ……なんて。

 ……どんな意味なんだろ。思い付きでポエムなんぞ考えてみたものの、全く意味は無いです、はい。

 

 病室で高御産巣日にレイセンの名を告げられてからの俺は、堪らず頭を抱えてしまっていた。

 ここまで来て有名人物が登場するとは思っておらず、この分では、出身地が地上の筈の、白くてちっこい兎詐欺様も出てくるのではないかと考えを巡らせる。

 

(ここでレイセンって事は……よりにもよってあのレイセンか?)

 

 こちらを怪訝な顔で見ていた高御産巣日に顔を向け、そのレイセンなる者の資料を見せてくれないかと尋ねてみる。

 思い違いであったのなら対応は半殺し……かどうかはさておくとしても、それなり以上に酷い目にはあってもらう。

 

「少し、待ちたまえ」

 

 空中に現れた光るパネルを操作して、数十秒。

 思ったよりも早く、それは見つかった。

 

「これだ」

 

 滑らかにスライドさせながら俺の前へとパネルが移動して来た。

 思っていたよりも大きなA3サイズのそれは、左に顔写真。右に詳細データが記載れており、誰がどういう人物であるのかが一目瞭然であった。

 

(薄紫の長髪に……真紅の瞳……。ウサミミは付けてないけど……どう見ても二号の方じゃねぇな。……超本人くせぇですよこれ)

 

 鈴仙・優曇華院・イナバ

 月生まれの玉兎であり、綿月姉妹に飼われていたペット的な存在。

《幻想月面戦争騒動》にて地上の勢力に恐怖を覚え、しばらくの後、アポロ計画浮上の際に心折れて、地上へ逃亡。

 紆余曲折を経て永遠亭にてご厄介となる身であり、地上に来る際に擬装用の名としてレイセンが鈴仙になり、永琳が優曇華院を付属し、輝夜がイナバをドッキングさせた―――んだったか……逆か? ―――という不憫な名称を持っている印象を受ける。お前は何処のイッパイアッテナだ。

 

(そういやあの作品って、主人公のルドルフがゴミ捨て場の筆記用具を使って執筆してて、作者はそれを出版社に持って行ってるだけって話だったなぁ)

 

 懐かしいなぁ……、ってそうじゃない。

 どうするよ俺。

 完全な赤の他人だったら当初の予定通り酷い目にあわせるつもりだったが、これまた東方キャラの中でも中々の知名度を持つお方と面識を持つ事態になりそうだ。

 現在の俺から見た親愛度は、永琳さんがぶっちぎりで、大分開いて依姫。後は軒並み同一な感じだが、ここでレイセンが出張ってくるとは思わなかった。

 二次創作でしか知らないが、経歴故に争いごとには臆病で、永琳や輝夜、てゐ達の間に挟まれ気苦労が多く、地上人との間に壁を作り、それでもおっかなびっくり生きようとしている苦労人。

 完全にお咎め無しという訳にはいかないが(気持ち的に)、手心を加える場所は過分に残っている。

 

(どう区切りを付けたもんかなぁ)

 

 他人が自分の飯を横から掻っ攫っていったのなら鉄拳私刑バッチコイだが、友人なら『何すんだてめぇ』程度の罵倒で済ます程度のような。

 もしくは不法侵入して来た相手が見ず知らずの者なら通報、知り合いなら『何してんの』という言葉だけで済ます感覚のような。そんな感じ。

 自分の中で黒く滾っていた怨恨が一気に冷めるのが分かる。

 高御産巣日が言っていた、出鼻に一発かませば云々、という言葉はものの見事に俺の心情を捕らえていたようで、しっかりと憤怒の炎が鎮火気味になっている。

 神奈子さん相手にしていた時は諏訪子さんを殺めてしまったと思っていたので、今こうして思い返してみても、神奈子さん当人は勿論の事。例え相手がスキマ妖怪だろうが紅白巫女だろうが殺めるくらいの気概はあった。

 けれど今回は被害者は俺であり、頭部に一発受けたという事実は残っているものの、俺自身手遅れになっているあれやこれは一切無い。

 

(……当人を前にしたら何か思いつくかなぁ)

 

 意図せずにして手元に転がり込んで来た、他人の命を左右する命令権。

 自分で勝ち取った代物で、尚且つそれを望んでいたのなら諸手を挙げて喜んでいるところだが、正直これは嬉しくない。

 あざとい話だが、能力持ちとはいえ、ただの玉兎である彼女に何を期待すれば良いというのか。

 権力でも資産でも、こちらの罪名の軽減を図れる可能性は薄そうで、能力か戦闘面位でしか今のところは期待出来そうに無い。

 それに。

 

(女の子への絶対命令権って……俺は何処のヘンタイ貴族だよ……)

 

 自己判断だが、大分この世界に慣れてきたとはいえ、それでも生前の倫理を基準としているところは、まだある。

 そりゃあ俺も男だし、色々と溜まっているものがあるにはるが……。だからといって……なぁ?

 

「どうした?」

「……いや、何でもない」

 

 高御産巣日が不思議そうな顔をして尋ねてきた。

 そうも顔に出ていたのかと思うと同時、とりあえずは会うだけ会ってみるかと考える事にした。

 

「永琳さんと、豊姫さんには賠償を。お前は内々で判決が出て、依姫が俺の要望に可能な限り応える事になって、レイセンって奴が俺の……その……何だ。……奴隷って事で良いのか?」

「そこに抵抗を覚えてくれるのなら、依姫や、そのレイセンという者にはまだ救いはありそうだ。―――然様。白々しく聞こえるかもしれないが、彼女は私の失敗を加速させた責がある。私はあくまで君を捕縛する為に動いたのであって、殺害する意図は無かったのだ。結果としてそうなってしまったのなら仕方ない、とは思っていたがね」

「……やっぱりお前ムカツクわ」

「君も、譲れないものが出来たら分かるかもしれんな」

「そこは分かるさ。共感出来る。―――俺に害が無い限りは、な」

 

 我ながらいい睨みを効かせていたんだろう。

 今までの飄々とした老人の表情が一転して歪み、真剣なものへと変貌していた。

 

「……これ以上は藪を突かぬ方が良さそうだ」

「そうしてくれ。あんたとのお喋りは心臓に悪い……」

 

 下手な事になろうものなら、一気に感情が沸騰してしまいそうで。

 その時は自制出来るかどうか怪しいものだ。

 もうやだ、と思いながら、柔らかなベッドへと再び体を沈めた。

 永琳さんの家の物とは一味違う寝心地に心地良さを感じながら、とりあえずそのレイセンという人を呼び出してもらう事にした。

 横たわったまま、俺は顔だけ隣へと向けて、話し掛ける。

 

「今からこのレイセンって奴、ここに呼び出す事は出来るか?」

 

 宙に浮いていたパネルを見ながら、高御産巣日へと尋ねた。

 

「可能だ。……もうこの者の扱いが決まったのか? 言い淀んでいた割には早いものだな」

 

 そう言いながら、新たに手元にパネルを出現させて、何やらピコピコ指を動かしている。永琳さんの時に見た奴はブラインドタッチすらしていなかったのだが、人によってその辺りは違うものを使っているんだろうか。

 そんな彼が行っている行為とはつまり、もうこちらの言った事を実行に移しているのだろう。早いものだ。

 

「違う。会ってから決めようと思っただけだ」

「そうか。だが、君はまだ安静にしていた方が良い。今はこのベッドの上だから良いようなものの、降りれば疲労が一気に吹き出る事だろう」

「……このベッドって何か特殊なもんなのか?」

「ここに運び込まれた時、君は極度の疲労が蓄積されていた。通常ならば一日や二日でどうこうなるものではないが、ここは病院。幸いにも疲労回復や細胞の活性化を促す装置は充実している。その一つが、このベッドだ。呼吸一つ取っても楽とは感じないかね?」

 

 君がただの地上人であれば、と切り結んで、元司令官は言葉を止めた。

 言われてみれば……そうなのだろうか。

 ピンと来ない、というのが正直な感覚だが、まぁ月の人がそう言うのなら実際にそういう効果があるのだろう。

 

「何にしてもしばらくは安静にしている事をお勧めするよ。君が我が国の法を遵守する限りは、自由と安全を保障しよう」

「嘘くせぇ。たった一人相手に軍隊一つ差し向けて来た奴の台詞としちゃあ、二枚舌もいいところじゃねぇか」

 

 それもそうだ、と。

 自分で全く気づいていなかったのか、高御産巣日は声低く、けれどとても愉快であるとくつくつと笑う。

 

「―――そうか」

 

 不意に、悟りを得た者のみが言える口調で、初老の者が呟いた。

 

「どうしてこんな単純な事に気づかなかった……。何も、君を完全な敵役として仕立て上げなくとも、君と口裏を合わせるだけで良かったのだ」

「……何が?」

 

 彼と俺との直線距離は二メートル前後。

 話し声がしなければ、聞こえるのは風の音のみという室内だ。

 独り言の類ですら、嫌でも耳に入ってくる。

 何やら勝手に納得して自分の中で話題を進めているようだが、こちらにも関係のありそうな内容に、完全無視するのも気味が悪い。

 

「いやなに。ありえたかもしれない未来を思って、自身の浅はかさを嘲笑しただけだよ」

 

 そのまま、否応無しに彼の話を聞く流れになってしまった。

 月の現状を悔いている事。

 意識改革の為に俺を生贄にした事。

 そうしてそれに失敗し、今こうしている事。

 ……今更俺にそれを言ったところで、焼け石に水どころか、火に油なのだと気づいているのだろうか。

 

「そうだな……。君へ事前に、私や依姫が軍事訓練に付き合って欲しいと頼んでいたら、受けるにしろ断るにしろ、少なくとも悩んではくれていただろう? 勿論、使用武装の制限などで極力君に害の無いよう調整を計り、事後の保障の一切を、こちらで責任を取る事が前提だが」

 

 何だか突拍子な会話の方向性に思考が追いつかなくなったものの、彼の言いたい事は、“事前に悪役として振舞う事を了解していたら”というニュアンスの会話なのだと思う。

 つまりは出来レース。

 主催者と囮か敵かの役を担った俺だけが知っている、当事者から見れば本物の、命を掛けているかに見える軍事演習。全てが終わればネタバレよろしく打ち明けて、何だそうだったのかと笑い合う大団円コース。

 当然、俺に害が無いのが前提であるが、そこは【ダークスティール】化やら【プロテクション】。という事らしい。

 

「無理だな。第一、お前や依姫に急にそんな事を言われても頷く理由が無い」

「しかし、それが八意君ならばどうかね」

 

 ……それは……まぁ……考えなくもない……が……。

 

「それこそ無理だ。あの状況じゃあ、その永琳さんが頼み込むっていう前提が不可能じゃねぇか。……その……俺がやらかしてた訳だし」

 

 意図せずにブーメラン発言をしてしまった事で、口調が弱腰になる。

 

「仮に八意君の頼みでなくとも、君の帰還を最優先にする事を条件として付け加えたり、金銭や物品などの提供も交渉材料にはあった。―――九十九君」

「お、おう」

 

 急に体を乗り出して、ずいとこちらに迫ってくる。

 

 

 

 

 

「君―――夜の営みに不安は無いかね?」

 

 

 

 

 

 開いた口が塞がらないとはこの事か。

 ……あれ、おかしいな。

 今の空気は、取り戻せないあれやこれの後悔を胸に秘めつつ、哀愁漂わせながら会話する雰囲気ではなかったか。

 

「ん? まさかその手の行為を知らん訳ではあるまい?」

「い、いや。とてもよく理解している……とは思う……が……」

 

 ドーテー デスガ ネ。

 

「かつて地上に居た頃には、我らは様々な悩みを抱えていた。生え際の後退、体臭の悪化、生殖機能の減退、等々。どれもが決して避けられぬ問題であり、けれど出来うる限り回避したい変化であった」

 

 うっ。

 どれとは具体的に言いたくないが、心当たりのある項目がチラチラと……。

 そんな俺の内心を見抜いたのか、高御産巣日は手に力を込めて拳を作り、熱く語り出す。

 

「しかし! ここ月に来て我らは研究した。そして、克服したのだ!」

 

 ―――なん……だと……!?

 

「っ、まじか!?」

「そうとも! 君が女性ならば月に一度訪れる日の不調の無効化や、肌や髪の艶を保つ方法などを提案したが……」

 

 さらに顔を寄せ、とうとう彼の顔はこちらの耳元にまで寄っていた。

 

「……君、婚約はしているかね?」

「……相手すらいません」

 

 どうやら立場まで逆転してしまったようだ。

 喋る口調が反転してしまっているというのに、それを戻そうという気にならない。

 それだけ、こいつ……この人が話す事は、俺にとって無視出来ない内容なのだから。

 

「ふむ……。なら、意中の相手はいるかね?」

「……一応」

 

 今のところは……諏訪子、さん……になるのだろうか。

『責任を取る』とは言ったが、それがお付き合いとイコールで結ばれるのかと捉えていいのか踏ん切りがつかないでいた。

 一緒に居続けるという意味合いの“責任”なのか、一生を添い遂げるとしての意味なのか。

 あれから何度も考えてみたけれど、かなりの確率で添い遂げる方面の意味だとは思っている。

 

 ……ただ、そうだ。と、断定出来ないのが女性経験の浅さと直結している問題ではあるのだが、そこはもう腹を括って直接本人に尋ねる事に決めた。

 我ながらウジウジしていると分かってはいる。分かってはいるのだが、それを全て無視出来る程に、俺が諏訪子さんを思う意思は強くなっている。

 それを、下手すれば失うかもしれないのだ。

 臆病者と笑わば笑え。

 あの思いを。あの絆を。絶対に無くしてなるものか。……カッコ悪いなぁ俺orz

 

 ふむふむ、と頻りに何かに納得しながら、高御産巣日は頷いた。

 相手は月のお偉いさんだというのに、どうも親戚のおじさんやおばさんを相手にしている気分にさせるのは、一体どういう事なのか。

 

「ならば、そんな相手により良い自分をアピールしたいだろう。最高の自分を、最良の自分を。そして男なら、最強の自分を。いつまでも! それを叶える……とまではいかないかもしれないが、かなりの面で手助け出来るあれやこれといった方法がこちらには整っている」

 

 白髪の老人は目を細める。

 その瞳の奥に見える光は、何かの確信に満ちていた。

 

「―――どうかね九十九君。まずはこちらの話を聞いてみて、嫌ならば当然断ってくれて構わない。仮に何か望みのものがあったのなら、それらを全て提供しよう」

 

 会話の方向性が変わってきているというのはひしひしと感じるが、今の俺にはそれを止める気は無い。

 むしろもっとその手の話をしたくてしょうがなくない気分だ。

 

「し、仕方ないな。そこまで言うなら話くらいは聞かない事も無い……ぞ?」

「あぁ、是非そうしてくれ。何、先程も言ったように、条件が嫌ならばすぐ拒否してもらって結構だ」

 

 ベッドの元の位置へと戻り、後ろに後光でも見えている気分にさせながら、高御産巣日は悪魔の如く問い掛けた。

 

「―――さぁ、九十九君。何が聞きたい? 何が欲しい? 人として……何より男しての悩みの悉くを、叶え、取り除いてあげようではないか」

 

 悪魔との契約、などというものでは断じてない。

 比喩でも誇張でもなく、今、俺の目の前には神が居る。

 気分は水戸のご老公―――の敵役。

 横になっていた体を起こし、膝を折り、手を伸ばし、彼に向かって頭を下げる。

 この世界に来て何度目かの土下座は、全く予期せぬ場面で行う事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かが床に打ち付けられる音で気がついた。

 重量のあるものだと分かったと同時、皆がその方向を見てみれば、あの地上人が意識を失っていた。

 腰まで崩れた九十九を、ジェイスが抱き抱える様に両腕で支えている。

 完全に力が抜けているのだろう。彼の四肢は芯の抜けた人形のように、床へと向けられていた。

 

「九十九さん!」

 

 永琳が叫ぶ。

 皆の視線が一斉にそこで集中し、依姫と永琳が急いで駆けつけていた。

 だが、

 

「―――っ、ジェイス……殿……」

 

 依姫が、噛み締めるように難色を示す。

 駆け寄った両名は、けれど目的を達成する事が出来ない。

 恐らくこの月で最も長身であるその青き者が、九十九を床へと寝かせ、それを守護するように立ち塞がったのだ。

 その意図を、今更考える必要もない。故に分かる。

 ジェイスが、こちらをまるで信用していないのだという事が。

 凍った時の中に居るように、誰もが動けず、誰もが言葉を発しない。

 

「―――ふざけんじゃないわよ」

 

 しかし、それも長くは続かない。膠着を崩す者がいた。

 傍観に徹していた者の一人、蓬莱山輝夜が口を開く。

 席から立って、彼を睨みながら近づいていった。

 殺気すら伴いそうなその眼光にも怯む様子を見えないジェイスだったが、彼女は構わず言葉を続けた。

 

「確かに私達はこいつに害を為した。それは変わらないし、誤魔化す気もないわ」

 

 目を閉じ、呼吸と整える。

 再び開いた瞼を吊り上げ、今度こそ怒気の篭った言葉をぶつけた。

 

「―――だからってそのままで良いなんて思う訳ないでしょうが! 謝らせなさいよ! 償わせなさいよ! ごめんなさいって。すまなかったって。あんた、私達にこいつと一生敵対してろとでも言うつもり!?」

 

 とうとうジェイスの真正面へと、月の姫は辿り着く。

 見下げる者と、見上げる者。

 視線と視線が交わり、何かの軋む音が聞こえてくる。

 それでも彼女はその眼力を緩めない。

 

「そりゃこっちだって打算は幾つもあるわ。気持ちの整理を付けたいだとか、こいつが月に牙を向かないようにだとか。……あなた、心を操る存在だったわよね。九十九から聞いたわ。なら、こっちの考えてる事なんてお見通しでしょ。―――だったら察しなさいよ! こっちはあいつを助けたいと思ってるの! 利用云々は後よ後! まずは救わせなさい!」

 

 息を吐く。

 完全に肺の中が空になった時、輝夜は静謐のままに、胸へと息吹を取り入れた。

 

 ―――空気が変わる。

 熱気を帯びていたそれは一転。優雅な大河を思わせる静寂へと。

 そこには、月を従える者として君臨する存在が一人、その片鱗を覗かせる。

 

「―――退け、青き神よ。その者を守りたいと思うのならば。我は蓬莱山。この月を統べる者が一人。汝が何者であろうと、我が意思を、九十九への助力を阻もうというのなら。―――久遠の果て。自身の眼で確かめる事になろうぞ」

 

 硝子玉の眼球に、漆黒の瞳を以って、障害物を見据える。

 感情の色は無い。

 そこに居るのは―――否。そこに在るのは、幾千万年の時を経て、尚も成長し続ける、力の具現化。

 PW達ですら安易に手を出せるものではない“時”という絶対軸を、意図も容易く支配下に置く超越者。

 幾ら心を読めるジェイスとて、油断すればすぐにでも悠久の彼方へと追いやられてしまう存在である。

 見誤ってはいけない。

 青き者と月の姫は、互いが互いの、死、足り得るのだ。 

 月の姫君に習うように、依姫と永琳が後ろで闘気を高め、いつ事が起こってもいいように構えている。

 輝夜はそれを従えて、雄大な態度を崩さず、深く静かに見つめ続けた。

 

 沈黙が支配する世界。

 均衡を崩したのはジェイスであった。

 剣山の如き視線は薄れ、その姿が徐々に光となって消えて行く。

 彼の口元には薄い笑み。

 それを知るのは、誰よりも彼の近くにいた蓬莱山ただ一人である。

 唖然とする一同を他所に、とうとうその者は、輝く粒子となって幻のように霞み、消えていった。

 事態を把握するのに幾許かの時間を要したが、我に返った月の者達は、淀みなく己がすべき事を行う。

 

「……永琳」

「はい」

 

 倒れた九十九の元へと駆け寄る。

 脈を取り、呼吸を確認し、瞳孔をチラと見た彼女は安堵した様子を皆に見せた。

 

「大丈夫。極度の疲労状態になっているだけのようだわ。……あ、いえ、これも危険といえば危険な状態なのだけれど」

 

 それでも、彼女が思い描いていた最悪と比べれば、大丈夫と断言出来る部類である。

 玉兎に連絡を取り、病室の手配と、移動の手段を確保する。

 

「―――えぇ、そう。自然治癒機能の向上と、疲労回復を図ります。それ用の医療ベッドがあったでしょう。それを使うわ」

 

 受諾された事を確認し、永琳は傍へと佇む豊姫に声を掛ける。

 

「まだ余裕はあるけれど、早いに越した事はないわね。豊姫、悪いけど」

「畏まりました」

 

 目を閉じ、彼女は自身の力の循環を確認する。

 数秒も無い。

 九十九の体が揺らいだかと思えば、忽然と姿を消した。

 驚く者は誰も居ない。

 それがこの者、綿月豊姫の力なのだから。

 

「確認しました。無事収容されたそうです」

 

 依姫が手元の光学パネルを見ながら答える。

 

「……色々と言いたいけど……いいわ。全部終わってからにする」

 

 整った顔を歪めながら、輝夜は元居た席へと戻ってゆく。

 先程の面影はまるで無く、今はただただ『面倒臭い』の文字の浮き出てきそうな態度をするのみであった。

 それに習い、それぞれが元の場所へ着席したのを見届けて、永琳は一つ。深い溜め息をついた。

 

「困ったわ。一番重要な人が居なくなってしまうなんて……」

「あの様子では、意識を取り戻すのに今しばらく時間が掛かるかと思われます。それまでは休廷になされますか?」

 

 悩む永琳に、これではどうか。と、依姫が案を持ちかける。

 

「……いえ、このまま始めてしまいましょう。但し、これは仮のもの。下された判決に九十九さんが不服に思うのならば、再び開廷します」

 

 ここ月でも最上位に入る者達を拘束し続けるのは、唯でさえ平常時ですら難しいというのに、これだけの事を仕出かした後では、死活問題に繋がってくる場面もある。

 ここで一度道筋を整理しておけば、仮にもう一度裁判を行う場合にも、判決がスムーズになるだろう、との判断からであった。

 けれど最大の理由は、永琳自身が己の気持ちに整理をつけたい。と思っている節があり、それは心の決して少なくない部位を占めているのだが、当人にその自覚は無い。

 一番冷静で居るように見えて―――事実冷静なのだが―――、唯一彼女だけが自身の心を把握出来ていないでいた。

 

 方針を決めた永琳に対して、輝夜の意識はもはやそこには無い。

 席に着いた彼女は、静かに息を吐き出した。

 肺の中が全て空になった時点で停止。思い出したように、静かに空気を中へと取り入れる。

 

(『頼む』……ねぇ)

 

 ジェイスが消える直前に、輝夜の頭に届いた意思。周りの者達の様子から察するに、自分にのみ届いたのだと判断すべきか。

 何一つこちらとの接触を断って来た青き者が最後に示した感情は、一体どのような思いから告げられたのだろうか。

 

(頼まれなくったって、やってやるわよ)

 

 そもそもがおかしかった。

 心の機微に熟知しているであろう者が、己が主の変化を見抜けぬ筈が無い。

 仕組まれたのだ。

 こちらの心情を察し、それを公言させる為に。

 所詮思考など、口に出さなければ存在しないも同じ。

 それを誰よりも理解しているからか。こちら側の選択―――意思を、明確なものへと、確固たるものへとする事で、決して無碍に出来ぬ存在へと、自身の主の安全を確保した。

 

(心が読める癖に、嫌になる位にこっちを信用しないんだから。いい根性してるわ)

 

 人の心など、些細な事一つで容易く変わる。

 心が読めるが故に、それを誰よりも身に染みている者らしい行動であったのかもしれない。

 既に消え去っているからか、我ながら何とも好意的な解釈だと、輝夜は声無く自虐的に笑った。 

 

 永琳の粛々とした声が聞こえる。どうやら始まったようだ。

 姿勢を正し、表情を引き締める。

 さて、我が師はどのような判決を下すのか。

 何が楽しいのか、自分の気持ちが高揚している。

 それを決して表に出さず、意思の力で押し留めた。

 時間の関係もあるが、何より月の頭脳が裁判長なのだ。

 かつて無いほどの事件だというのに、かつて無いほどに時間の掛からぬ裁判になるだろう。

 そんな思いと共に、輝夜は自分が示すべき答えを、脳内で組み立て始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も昇らぬ内から始まった裁判は、事件の規模とは反対に、正午には終わりを告げた。

 永琳達と別れ、寝所へと戻った輝夜の中は、『面倒』『詰まんない』等のネガティブな言葉で埋め尽くされている。

 

 ―――筈だった。

 

 胸の鼓動が止まらない。

 あれから幾らか時間も経っているというのに一向に衰えないそれは、未だに消えぬ感情の揺らめきを訴えかけてきているかのようだった。

 

「九十九……か」

 

 握る拳から、骨の軋む音が聞こえる。

 今思い返しても心が沸き立つ。

 この地に生まれて、もう数えるのも馬鹿らしい程に過ごして来た。

 頂点に立つ者としての教育。

 初めこそその習得に寝る間も惜しんで取り組んだものの、修めてしまってからは世界は一片。色鮮やかな景色はモノクロへと変貌した。

 何をするにしても自分よりも劣っていたあれやこれに落胆していた頃と比べれば、永琳や綿月姉妹と出会ってからは、少なくとも退屈はしなかった。

 

(ちょっと前までは……ね)

 

 ベッドの上で寝返りをうつ。

 顔に掛かった髪を梳かすように退けて、真っ白な天井をただ見つめた。

 着崩れて肌も露になっている事など気にもしない。

 そも自分の部屋なのだ。あの口煩い永琳ですら、そこまでは口を挟まないだろう。

 永琳の博識さに舌を巻いたのも、依姫の能力の多様性に心躍らせたのも、今は昔。

 今ではそのどれもが日常になってしまい、私の心はかつての倦怠の海へと沈んでしまっていた。

 

「はぁ……」

 

 また転がる。

 枕に顔を埋めて、誰にも吐息が聞こえぬように。

 漏らした熱は、さて、どういう感情が篭っていたのだろうか。

 自信はあった。

 未だに永琳には敵わないものの、ここ月で三本の指に入る個人戦力を誇る依姫相手の戦績は、五分。

 勝てると思った。

 軍を相手にし、依姫を相手にした後の相手など、幾らそれらを打ち負かしたとはいえ、疲弊や困憊をしているだろうという……何の根拠も無い、楽観的な憶測で。そう……思ってしまったのだ。

 だというのに結果だけを見れば、攻撃は効かず、こちらの精神は奪われ、見事に傀儡と化していた。

 しばらく後に意識が戻った私が見た光景は、慌てながらもこちらを心配する依姫と、何食わぬ顔でこちらに目を向ける異能の自称・地上人。そして、無言で佇むジェイスという名の青き神であった。

 混乱する私に、事のあらましを依姫が説明した。

 永琳や豊姫を回復させるのであれば。と、すぐにでも消し飛ばしてしまいたい者達を前に―――本気で事に及ぼうとする度に、ジェイスの視線によって牽制され、不発に終わっていただけなのだが―――自身を諌めながら、事の成り行きを見守っていた。

 

(まぁ。我ながら我慢の利かない性格よね)

 

 何の変化も無いのは、私にとって忌み嫌う事。

 故に例え相手が憎き者であっても、倦怠の海へ沈んでしまうよりは幾分かマシかと思い、話し掛ける事にした。

 

 ―――世界は変わる。

 

 まずは相手を知ろうと思い、名前を聞くところから始めた。

 出生から地上への話題が移っていく最中、自身の気分が高揚していくのが分かる。

 そこには何があるのか。何をしているのか。どんな場所なのか。

 報告書や画像データでは決して分からない様々な情報を、あいつは持っていた。

 全く知らない光景を想像し、胸躍らせながら、しかし表面上は何食わぬ顔を取り繕う。

 政治家相手にはこのスキルは重宝していたけれど、それがこんな場面で役に立つとは。永琳の言う事をよく聞いておいて良かったと思えた瞬間でもあった。 

 モノクロがカラーになるなんてものじゃない。姿形の全く違う、目前に広がった新しい世界。

 そして目の前に居る、異常とも言える力を持った名の知れぬ神を呼び出す、正体不明のヒトガタ生物。

 私の行動を奪い、私の意思を奪い、私の未来を奪い。

 それでも、そのどれも要らない。と言わんばかりに、全て返された私の気持ちを考えた事があるだろうか。

 

(……あるわきゃ無いわよね)

 

 これでも月の至宝と呼ばれる容姿であった筈だというのに、それをあいつは拒否したのだ。

 男色の気がある訳でも無く、美的感覚が違うのかとも思ったが、こちらが体を摺り寄せてやれば頬を赤くし、幼子のようにムキになって意地を張っていた。少なくとも異性としてこちらを意識していたのは間違いない。

 あいつに抓られた頬に手を当てる。

 ぐにぐにと自由に弄んでくれたこの場所は、今まで誰にもそのような行為を―――両親や永琳、綿月達ですら―――許した事など無かったのに。

 

(あいつめ)

 

 自分でそこを引っ張ってみる。

 我ながら面白いように伸び縮みを繰り返すそこは、少しだけ誇らしい気分にさせてくれた。

 

(『魔性の体』……ねぇ)

 

 艶がかった吐息。

 自分の体にそんな感想を、それも、面と向かって言い放つ奴など居なかった。

 改めて自分で自分を観察してみるが……うん。永琳や綿月姉妹と比べても謙遜の無い出来栄えであるのではないかと思う。一部を除いて。

 

「こればっかりは……ちょっとねぇ」

 

 溜め息に似た独り言が宙に溶けた。

 両の手で自らの膨らみを掴む。

 程よく手に収まり、少し握ってやれば、それは指の間から零れるくらいはあった。

 下半身の箇所も同様で、自分としてはここはすっきりと纏まっていて好ましいと思うのだが、やはり異性からしてみれば、ここもふくよかな方が魅力的なのだろうか。

 上も下も同世代よりは出ていると思うけれど、それでも完成系(綿月姉妹)や究極体(永琳)と比較してしまえば、やはり悔しい気持ちが込み上がって来る。

 後何万年過ごせば、あれらに追いつけるのだろうか。というか、追いつけるのだろうか。怪しいものだ。

 月の技術を使えば、身体の操作など如何様にもなるけれど、私は自然体でありたい。

 仮初の自分など、何が悲しくて、自分も他人も偽らなければならないというのか。

 他人に対してならば、相手にも色々と思うところもあるであろうから、そんな事など口にはしないが、他ならぬ自分の事だ。気の済むまで己を通すと決めている。

 

「……」

 

 思考が止まる。

 頭が完全に考える事を放棄して、整理の為の時間を欲していた。

 それから幾ばくかの間。

 何秒か何分かは分からない程に時計の針が動いたのを確認した後、

 

「―――むかつく」

 

 心からの一言は、とても単純で。

 そう呟いた瞬間に、私は行動に移っていた。

 

「あぁ、私。高速艇まだあったわよね。用意して頂戴。……え? 謹慎中? 知ってるわよそんなの」

 

 部屋に備え付けられている通信端末を通して指示を出すものの、こちらの要望を聞き入れる気は無いようだ。

 融通の利かない家政婦達だ。

 私がこうと決めたら、それを如何に確実に素早く実行出来るかを模索するのが仕事だろうに。

 ……まぁ、私が名実共に月の姫となったら、そこをよく遵守させよう。

 そのまましばしの押し問答が続いた。

 

 ―――出しなさい。

 ダメです―――

 

 ―――出しなさいってば。

 ダメです―――

 

 ―――出せっつってんのよ。

 ダメですってば姫様本当勘弁して下さい―――

 

 ―――ぷちっ

 

「良いわよ……そっちがその気なら……」

 

 彼らの顔を立ててわざわざ言葉にしてあげたのに、そうまでしてこちらの意思を無視するというのなら―――

 

(対象はここから高速艇に至るまでの直線上。――― 一切合財、悠久の時の中で塵芥と化すが良いわ)

 

 どうせ今回の騒動で人手は殆ど出払っている。巻き込む可能性はまず無いだろう。

 

「―――そこまで」

 

 けれど、それを決めた直後には、部屋の扉の前に、私の師である永琳が呆れ顔で目を伏せていた。

 

「何よ、邪魔する気?」

「邪魔も何も、あなたはしばらくの間、自宅謹慎だと判決の後に告げておいたでしょう」

「じゃあ、あれよ。あの中央病院。あそこが今から私の自宅」

 

 何よ大きな溜め息なんてついて。

 我ながら良い案だと思ったんだけれど。

 

「あなたの事だからいずれはこうなるんじゃないかと思ってたけど、思ったよりもずっと早かったわね。……『輝夜様が限界です』って切羽詰った声で連絡が来たからこうして飛んできてみれば……能力まで使って彼に会いに行きたい訳?」

「良いじゃない。減るもんじゃないでしょ?」

「順序という言葉を知り、そしてそれを遵守しなさい。月の代表になる者がそのルールに従わないでどうするのよ」

「だって今、まだ代表じゃないし」

 

 屁理屈だな。と我が事ならが思うけれど、それでもこの感情は収まらない。

 止まらぬ感情は行動を後押しし、ほぼ全てにおいて私を上回る永琳相手にすら後退の二文字を示さない。

 

「……そうまでして彼に会いたいの?」

「そうね。会いたい、という言葉は正確じゃないけど」

「……会った後でどうしたいの?」

 

 問題は、そこ。

 

「……さぁ。それこそ、会ってみるまで分からないわ」

「―――殺す気?」

 

 彼女の気配が変わる。

 師である者とはまた別の、絶対者としての彼女がそこには居た。

 

「まさか。あんな面白いもの、そう簡単に失ってたまるもんですか」

 

 そうだ。

 あんなに私の心を揺さぶった相手を、容易く逃がす訳が無い。

 何に手を出したのか、その身、心に、魂に。

 しっかりと教え込まねば気が済まない。

 

「……それに、永琳だって本当は、今すぐにでも彼の元へ行きたいんでしょ?」

「……」

 

 いつもなら間髪入れずに何かしらの返答があるというのに、無言でいる彼女を見るのは久しく無かった。

 滅多にない機会故か。それがこちらのいじめ心を刺激する。

 

「そうよね。あなたとの実験で……彼、全然本気じゃなかったんだもの。こちらの技術をものともせず、こちらの戦力を歯牙にも掛けない者達を呼び出した。心を操る神に、破壊神たる者。それを“ただ疲れるだけ”で呼び出せるというこの異常さを、あなたは誰よりも理解し、危惧し、興味を掻き立てられている」

 

 扉の前に立つだけとなった永琳の横まで行き、止まる。

 彼女は前を向いたまま、こちらに目線を合わせない。

 

「既存の何よりも、残存のどれよりも理解の及ばぬ存在。地上人―――いえ、もう九十九で良いわね。その九十九は、誰も目にした事も耳にした事も、ましてや考えた事すら、思った事すらない力を―――能力を持っている。あなたが生まれて、もう億は経っているわよね。それでも未だに知らぬ何かがある、というは、何にも増して魅力的なのではなくて?」

 

 自然に垂らされた手を握る。

 一瞬ビクリとした永琳を他所に、私は言葉を続けた。

 

「かつてあなたが言ったのよ。こういう時の為に、常日頃から仕事を真面目にこなして来ているのでしょう? だったら、その成果を貰わないと。今しなければならない事は何? 事後整理? 情報統制? 違うでしょう、八意永琳」

 

 気分が乗って来た。

 普段なら口ですら彼女に勝ることは無いというのに、現状では手に取るように彼女の心が分かる。

 それが何より楽しく、今の願いが叶ったのなら、それはさらに愉快な事になる。

 

「今しなければならないのは、建国以来最大の脅威となった者に対する策を練る事。現状では【マリット・レイジ】も【ジェイス・ベレレン】も居ないとはいえ、彼はいつでもその者達を呼び出せる。―――いえ、あれだけの存在をいとも簡単に招くのだから、もっと上位の……私達の手に終えない存在だって居る筈だわ」

 

 だから……ね?

 

「一緒に行きましょう。私もあなたも、時は無限に等しいかもしれないけれど……」

 

 焦らす様に。もったいぶる様に。

 今ここで逃しては、次の機会は無いと匂わせながら。

 

「彼の時は有限よ。こちらが瞬きする間に、九十九の生は終わる。―――流石のあなたも、失った時や命までは取り戻せないでしょう?」

 

 尤も、彼が見た目の通りの寿命かどうかは怪しいけれど。

 

 ―――これで、詰み。

 結局、誰も彼もが利己的であっただけ。

 味方になった月の頭脳ほど、頼もしい存在はいない。

 法も権力も何もかもを捻じ曲げながら、永琳は私と共に、九十九の元へと辿り着いた。

 積み重ねた力というのはこうも強いものなのかと、地上にある海を割るかの如く人が避けていく光景を見ながら、これなら永琳のように権力を己がものとするのも悪くない、と思えて来る。

 目の前には、扉。

 最上階に近いこの病室は、心や体の疲労を除去する事を目的として作られた部屋なのだという。

 

「ここね。この先に九十九さんと高御様は居るわ」

「そういえば、何であの方は九十九と同じ病室に居るの? 一応禁固刑になったわよね?」

「あの方なりに思うところがあったのよ。……高御様が今回の騒動の一端を担った理由、聞いた?」

「今の月の現状に不満があるんだっけ? 因果な話よね。あなたに並ぶか、あなた以上にこの国を愛しているが故に行動を起こし、結果として、過去最大の……事件扱いよね? ……を招いてしまった。嫌だわホント。子離れ出来ない親って」

「そういう意識は無いんだけれど……そういうものなのかしら……」

 

 元司令へと向けられた私の言葉が、永琳の胸へ刺さったようだ。

 その事に、ちょっとだけ愉快な気持ちになる。

 

「そうよ。結末には出張ってきても良いと思うけれど、途中で手を出しちゃダメ。手助けするのも責任を取るのも親の勤めだけれど、何にしても一定期間が過ぎたら距離を置くべきだわ」

 

 目を閉じこちらの言葉を思案する永琳だったが、ふと瞼を持ち上げたかと思えば、私を見て目を細め、じっとりとした視線を向けて来た。

 

「……言っている事には共感する面はあるわ。でも、私にはあなたが、あなたの教育に手心を加えろってニュアンスが含まれているように聞こえるのだけれど」

「―――気のせいよ」

 

 やはり、そういう方向への思考の誘導は無理か。

 前々からこちらに構い過ぎな気はしていたので、これを機に。とも思ったのだけれど、それをするには今しばらく時間が掛かりそうだ。

 

「で、何だっけ? 結局おじ様はどうしてあいつと同室しているのかは分からないの?」

「またそうやって話を逸らすんだから。はぁ……まぁ良いけど……。あの方の持論を実践する為と、責任を取る為だそうよ」

「責任を取る、というのもあれだけど……何? 持論って」

「九十九さんの性格を把握したから、今後の為にこちらをアピールしておいて、譲歩させる余裕を作っておくんだそうよ。こちらの内情を伝えれば伝える程に、彼はこちらに理解を示し、我が事のように思ってくれる。それを試すから、と」

「思いっきり泣き落としじゃない。あいつがその程度の事……あ~……ジェイスが居たなら無理だったかもしれないけれど、あいつ単体なら可能かもしれないわね」

「病室には既に感情の起伏を図るセンサーも備え付けてあるから、彼が不快に思ったのならすぐに高御様は把握なさるわ。最悪の事態には……ならない筈よ」

「だと良いけど。でもあの方って腹芸苦手じゃない? 大丈夫なの?」

「何でも秘訣は、誠心誠意話し合う事、だそうよ。自分を偽らず、言葉を偽らず、真実を偽らず。……まぁ聞かれなかったから答えない、程度はするでしょうけれど」

「誠心誠意……ねぇ」

 

 軍隊一つを丸々個人へとぶち当てた者の言う言葉では無いと思うが。

 

「それに……ね」

 

 永琳の声のトーンが落ちる。

 

「高御様は……最悪、九十九さんの手に掛かっている可能性があるのよ」

「……何、責任を取るってそういう事? 贖罪は裁判で禁固刑と罰金の両方を科されて終了したんじゃなかった?」

「確かに、月の法ではそうなった。でも九十九さんはこの国の者じゃない。少なくとも、自分の意思で訪れた訳ではないわ。それを一方的に納得させるような真似は、彼の感情を逆撫でする。それを可能な限り抑えようとしているのが、今の高御様、という流れなのかしら」

「ふーん。……おじ様に関しては、あなたは何も思うところは無いの?」

「……あるにはあるけれど、あなたや綿月達と比べれば然したるものではないのは確かね。地上に居た頃からの付き合いではあるけれど……どうも、ね」

「……永琳って年下が趣味なの?」

「どうしてそうなるのよ。……でも確かにそう考えるとまた新しい一面が見えてくるわね。参考にさせてもらうわ」

「はいはい、お役に立てて嬉しく思うわ。……さて、と」

 

 改めて扉へと向き直る。

 急遽補強された完全防音&フェムトファイバー製の合金であるこの一角は、例え戦車の砲撃を受けても無音&無傷を保てる性能を誇る。

 

「……扉を開けたら一面の赤い世界、というのは勘弁して欲しいんだけど。私、それなりにおじ様の事気に入っているのよ?」

「それがあの方の望んだ事だもの。―――このような事態を作り出した一端を担った者が、目の前に居るんだから。仮に私が九十九さんの立場だったら、殺める事は無くとも、内臓の何箇所かは抜き取ってるわ」

「……そこで腕の一本や二本、って言わないのが、あなたらしいわ」

 

 それから数秒。

 互いに無言になりながら、ぼそりと呟き合う。

 

「……無事で居てくれると嬉しいんだけどね」

「……ええ。私だって、好き好んで誰かが居なくなるのは望まない。……覚悟しておいてね、輝夜。最悪、九十九さんは殺害を行った影響によって、感情が高ぶっていたり、精神が不安定になっていて、臨戦態勢になっている事態が考えられるわ」

「その時は全てを止めて、どうにかするわ。―――もしそうなっていたら、あなたはどうするの?」

「……出来る限り捕縛を試みます。……しかし、それが叶わず、万が一にもあなたに危害が及ぶようなら……」

 

 目を瞑り、一息吐く。

 

「―――殺します」

「……ほんと、私は良い師を持ったものだわ」

 

 首を軽く左右に振りながら、意を決して扉を開けた。

 音も無くスライドして、この視界が捉えたものは……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ白な病室であった筈の場所は、床一面が色鮮やかな模様に彩られていた。

 どれもこれも見覚えの無いものばかりだけれど、何かの可愛いキャラクターが描かれた小袋や、無色の一升瓶が何本か。

 真っ白な大皿には粘度の高そうな茶色い液体が付着していて、何かのソースかタレであった事が伺える。

 

「……酒臭」

 

 輝夜が呟く。

 

 ―――宴会の真っ最中。

 それ以外の言葉が思い当たらなかった。

 

「幾らでも飲み給え! 君の酒だがな! 二日酔いなどという過去の症状など、我々は当の昔に克服しているのだから!」

「すげぇ! マジすげぇ月の技術! こりゃアル中になるのも時間の問題だぜ!」

「問題ない! それすらも解決済みだとも!」

「うひょー!」

 

 二つあったベッドの内、片側はもぬけの殻。―――いや、そこには永琳が最近よく見るものとなった、【ジャンドールの鞍袋】が無造作に置かれていた。

 そしてもう片側には人影が二人。

 それぞれに胡坐を掻き向かい合って、片手にカップを。もう片手には何かの食べ物と思わしき品を持って談笑し合っているのは、さて、一体誰であったか。

 

「……永琳。何これ」

「……さぁ」

 

 こちらに気づく素振りすら見せずに話し合う男二人を前に、私達は現状を飲み込む事が出来ずにいた。

 

「……これで輝夜様がもう少し姫としての自覚を持っていただけたのなら、私としても嬉しい限りなのだが……」

 

 ふと、そんな会話が聞こえてきた。

 どうも話題の中心は、身内の愚痴であったようだ。

 気落ちしながら、高御産巣日が内心を漏らす。

 それに頷き同意の意を示しながら、九十九は手に持った酒を煽る。

 

「……まだ厳しいんじゃねぇか? だってあいつ、完全に受身だろ。詰まんない、とか、退屈だ、なんて言っちゃいるが、自分から何かをしようとしてないだろ? ただただ与えられた事をこなして、それだけで判断してるんだ。―――楽なもんだよな。自分は何も生み出さず、気に入ったか気に入らないかの批判をすれば良いだけなんだから」

 

 唐突だった。

 あまりに脈絡無く告げられた私の悩みは、何よりも的確に不満の原因を貫いた。

 立場故に、と言えば許されるかもしれないが、自分から何かを作り出すなど微塵も考えたことが無かった。

 居るだけで全てが転がり込んでくる現状を当たり前のものとし、そこに疑問を挟むことも無い。

 これでは親離れ出来ていないのは誰なのか。

 数刻前。永琳へとしたり顔で話しをした過去の自分を笑い飛ばしたくなった。

 

「……ふむ。君はあの方と殆ど面識は無い筈だが、どうしてそこまで考えるに至ったのかね」

「んなもん転……黙秘させてもらうわ。こればっかりは今のところ誰にも話す気はねぇし」

 

 手に持った串に刺さる、焼いた肉片―――焼き鳥―――を頬張りながら、九十九はもしゃもしゃと口を動かした。

 疑問に思いながらも、高御産巣日はそれを追求しない。

 互いに思い思いの品を口に入れた後、全てをまとめる様に、九十九は言い切った。

 

「それに、あいつお子ちゃまだしな!」

 

 ―――ピクリと。

 何者がコメカミに筋を立てている。それに連動して部屋の温度が僅かに下がったのだが、それに気づく二人ではない。

 

「ほう! 仮にもいずれ月の頂点に立つお方を子供だとは、また大きく出たものだ! 神をも恐れぬ所業、恐れ入る!」

 

 どうやらツボに入ったようで、高御産巣日は声高らかに短く笑う。

 

「いやだってよ、どう見てもあれ駄々っ子だぜ?」

「一応、公の場では見事に振舞ってみせているのだがね―――ぬ」

 

 ここで漸く、初老の者は輝夜達の存在に気がついた。

 しかし、それを目の前で酒を酌み交わす人物には伝える様子は無いようだ。

 しばし悩んだかと思えば、

 

「―――輝夜様の何処が子供のように見えるのか、君の意見を聞かせくれないか? 参考にさせてもらおう」

 

 ちらと輝夜達に顔を向け、一瞬だけ底意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 

「あぁ~? ……何処が、っつってもなぁ……さっき言った通りの内容なんだが……」

 

 う~む、と声を上げて九十九は悩む。

 それを永琳と輝夜、そして高御産巣日の三人は無言のままに見守っていると、

 

「―――だってあいつ、貧相な体だしな!」

 

 ―――着痩せするタイプだ。とは永琳の弁。

 尤も、彼がそれを知るには幾つもの難題をクリアしなければならないのだが。それを無くして理解しろ、とは困難な話である。

 

 その瞬間、元司令官は、自分の体が震えているのをしっかりと自覚した。今の今までアルコールによって体が火照っていたにも関わらず、だ。

 調子に乗った自分に後悔するが、それを悔やむ暇は訪れるのだろうか。

 特に近くにいた月の頭脳は表情が完全に固まっており、抜き身の刀を連想させる。

 忘れてはならない。彼女は、月の頭脳は。蓬莱山輝夜の師であり、従者であり―――彼女を親愛しているのだと。

 最愛の存在を貶された者がどういう感情を持つか。推して知るべし。

 

「雰囲気だけなら十点満点で十二点とか余裕なレベルなんだけどなぁ。……あ~、いまいち男心ってもんを分かっちゃいねぇ。あの我侭全開モードも人によっちゃあ甘えてくれると受け取って好感触に繋がるんだろうが……。限界があらぁな」

 

 贅沢な感想だよなぁ、と後に続けて呟いたものの、残念な事にそれは誰の耳にも届くことは無かった。

 

「九十九さん―――」

 

 そんな場に発せられた声は、輝夜のものではない。

 その隣。

 無の能面を貼り付けた表情のままに固まっていたと思われた八意永琳は、顔を変えることは無く九十九へと声を掛けた。

 死神が見えた。

 後に九十九は、永琳の姿を見た時の心境を、そう述べたと言う。

 

「ん? ―――あ……え……永琳……さ、ん……」

 

 気まずさや情けなさや嬉しさがミックスされた感情が表れるかと思えば、九十九が第一に感じ取った気持ちは、恐怖。

 彼の耳には自分の血が引く音が、しっかりと聞こえていたに違いない。

 

「元気そうで良かったわ―――心配していたのよ―――?」

「あ……あり、いや、あ、……ご、ごご、ご心配をお掛けしまして……」

「えぇえぇ。構わないわ。あたなが無事で居てくれたのなら、それに勝る喜びは無いもの。―――ねぇ、輝夜?」

 

 自称・地上人の体が一瞬痙攣した。

 そうして振り向いた彼の瞳には、月の姫君の姿がしっかりと写り込む。

 油を差していないブリキの玩具のように固定された首をギリギリと回しながら、その顔にはもはや喜びや楽しみといった暖かな感情は見て取れない。

 言葉もなく固まった彼の顔からは、誰から見ても、段々と血の気が引いているのがありありと分かってしまう程であった。

 

「そうね。私としてもこれほど喜ばしい事は無いわ。―――あなたには色々とご高説を聞かせて頂いたのだから、蓬莱山として、月の姫として、何より私自身として、あなたにお礼がしたいの」

 

 こんな貧相な体でもよければ、と。

 そう付け加える輝夜に全部聞かれていた事実を知らされ、とうとう九十九は気絶一歩手前の精神状態へと陥った。

 

「ぁ……ぁ……」

 

 辛うじて言葉を発するものの、それは意味を成さない単語にしかならず。

 

「あら永琳。九十九さんは目覚めて間もないせいで、未だに精神が不安定のようよ」

「そうそれは大変ね。なら体を動かして気分転換をしましょう。血流が巡れば意識もはっきりしてくるでしょう。―――幸いにも兵器実験場が空いているわ。そこなら、幾ら体を動かそうと影響は少ないわよ」

 

 体を動かすだけならば、そんな場所など不要。

 頭の片隅でそんな事を考えている九十九であったが、それを言葉にする……勇気が無い。

 

「九十九さんは体を動かさなきゃいけないんだもの。能力を使って何かを呼び出すなんてしたら、意味が無いものね」

 

 月の頭脳が天使の声色で囁いた。

 もはや王手。後はただただ、処理を待つだけの家畜が一匹。

 彼に許された選択肢は、焼肉か、燻製か、腸詰か。何をとっても絶望からの死しか待ち受けていない。

 美女と美少女二人に思い―――何の思いかは言わずもがな―――を寄せてもらえるとは何と幸運なのだろうと。

 襟首を掴まれ、ずるずると輝夜に連行されてゆく者を見ながら、高御産巣日は残った酒を一気に煽る。

 しかし決して自分はそうはなるまいと思う彼を、誰が責められようか。

 

 

 

 

 

 ―――これにて、元月の軍司令官の役目は終わり。

 後は彼女達が蟠りを残さず、打ち解け合ってくれるのを願うばかり。

 結局、彼からしてみれば、九十九も輝夜も子供なのだ。

 子供の仲裁方法など、古今東西たった一つ。

 そう思い、彼女達が入室した際にそれを仕組んだのだが、存外うまくいったようだ。……もう、二度とやりたくないが。

 これで月の最大戦力を比肩、ないし上回る人員が月の姫の味方になってくれたのなら御の字。最悪、敵にはならずに居てくれるだろう、と。

 そんな確信めいた思いが、彼の胸にはあった。

 

「―――こんな私にも、久しく忘れていた安らぎを与えてくれた事……。感謝する、地上から来た者よ。後は君の自由だ」

 

 自害を決意した時に訪れた、かつて無いほどの安らぎに、初老の者は思いを馳せて、えもいわれぬ安堵と平穏に満ちたあの時の心境を思い返す。

 どうにも自分は気張り過ぎていたようだ。

 そう思えるのは、あの時、冷静に自分を見つめる機会があってこそ。

 ……こんな老いぼれでも、また始められるだろうか。

 ゼロどころかマイナスからの再スタートになったというのに、何処か彼の心は晴れ晴れとしていた。

 

 

 

 

 

 ―――だが、忘れてはならない。

 彼の者は軍において長を務めていた存在。それは、決して伊達や酔狂、ましてはただの努力程度で到達出来る地位ではないのだ。

 地上人が帰還を果たした後。

 彼との繋がりを仄めかせ、とある妖怪の月の侵略計画を利用し、再び軍部のトップに返り咲いてしまったのだから。

 

 それを知る機会を得た九十九は、『ありえないんだぜ』と言いながら昏倒したという。

 

 

 


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