俺が使うカードの種類には、【エンチャント】と呼ばれるカードタイプのものがある。
全体に効果を及ぼすものや、個別に効果を発揮するもの。加護や聖域、結界や呪縛を作り出す。対象の強化や弱体化、ルールの追加が主な効果のカード達。
過去に使ったのはダメージを無効化する【不可侵】と、【被覆】を持たせる【鏡のローブ】位だったか。もう、随分と使用していなかったのだなと思い返す。
―――今使ったのは、そういった【エンチャント】の中でも、MTG界では上位に入る知名度を持つもの。
自分の首に剣を当てて、今にも頭を跳ね飛ばさんと力を込めていた状態で、白髪の者は停止していた。
閉じられた目は未だ開かれる事はなく、それと連動でもしているかのように、俺やジェイス、【マリット・レイジ】以外の誰もが動く気配が無い。
……と、軍のトップと名乗った老人は剣を無造作に地面へと落とし、脱力を体言するかの如く崩れた表情には、安堵以外の言葉が見当たらないほどに安らぎに満ちていた。
幼子がクレヨンで絵に描いたような、この世に暗きものなど存在しないと示す平穏な表情は、俺の能力が嘗て無いほどにしっかりと効果を発揮してくれたのだと実感出来た。
【エンチャント】呪文だというのに洗脳やら精神掌握を連想させ、そしてそれが強ち間違いではなく、これが2マナならば青きPWが使う力は一体何なのだと、ジェイスの凄さを俺の中でさらに上のランクへと押し上げる。
あいつの自殺―――だと思われる行為を止める必要など、それこそ皆無。
だというのに能力を使ってまで静止したのは、これ以上の事態の混乱で面倒を起こさない為か、それとも、良心的な何かがまだ残っていたせいか。
止まった時が動き出す。
一人、また一人と。各々がそれぞれの行動を起こし、気絶した老人へと駆け寄る月の兵隊達。その誰よりも早く、依姫は老人の元へと駆け出していた。
痛む体を引き摺ってその者のところへと向かった依姫と、“動”で示した彼女は対照的に、“静”の態度でその光景を眼光鋭く観察する輝夜。
正反対の動きを示した二人に、ゲームキャラとしての設定ではなく、人間性の一端を見た気がする。
過去に使った【お粗末】よりも捕縛系のスペルとしては向いているのでは、と思い改めたこの呪文(カード)こそ、MTGで幅広いプレイヤーから親しまれている、白の対クリーチャー呪文の決定版候補、【平和な心】である。
『平和な心』
2マナで白の【エンチャント】
これを付与されたクリーチャーは、攻撃にもブロックにも参加出来ない。白に多く見られる、破壊によらないクリーチャー対策の内の一つ。あの【マリット・レイジ】ですらも、これの前では無力と化す。
これを貼り付けられたクリーチャーは、その場に居るだけの木偶の坊と化す厄介な呪文の一つだが、能力の使用は封じていないので、【システムクリーチャー】と称される、攻撃やブロックを期待されている訳ではない、その場に居るだけで価値のあるクリーチャー相手には無力である。が、逆にクリーチャーの維持にデメリットが発生するタイプに対しては、通常の除去カードよりも断然厄介なものである。
対クリーチャー呪文としては悪くない水準で性能が纏まっており、初心者からベテランまで幅広いプレイヤーが一度は目にし、使用したであろうカード。俗称として『平和なべ』という呼び方もある(英語版から日本語版へとカードが印刷される際に、平和な“心”が平仮名の“べ”に見える者が続出した為にこの呼び名が広まった)。
あの状況を止められそうなカードなんて、他に幾らでもあった。それこそ、もっと軽く、もっと確実なものが、ごろごろと。
けれど人間、反射に近い速度で行動しなければならない場合には、長年の経験がモノを言う。それが俺の場合はこの【平和な心】だったというだけの事。初めてMTGで遊び始めた時に、幾度となくお世話になり、あるいは相手に使われ苦渋を舐めさせられた代物だ。忘れたくても、誰が忘れられようか。
【インスタント】や【ソーサリー】と違い、【エンチャント】は場に残る―――効果を永続的に発揮し続けるタイプのものである。
本来ならそれだけの説明で終わるのだが、生憎と、残り続けるカードには俺の体力が使われており、殆ど使ったことが無かったので意識していなかったんだけれど、それはこの【エンチャント】とて例外ではないようで。
クリーチャーやPWに比べれば消費される体力が少ない感覚はあるものの、勇丸とジェイスの4マナを維持し、そこで先の【平和な心】の発動&維持という行為に及んだ事で、まだ交渉のテーブルにすら着席していないのに、まだまだ余裕はあるとはいえ、スタミナの限界点が見えてきてしまっていた。
意識を失った老人を、依姫先導で何処かへと運ぶのを見届けて、輝夜は俺へと話し掛けて来た。
「あんた、何したの」
「能力使って止めた……だけ……なんだが……。というか一体どんな状況だよこれ」
「さぁ。私も混乱しているところよ」
その割にはさらっと言い切った事に疑念が募るが、輝夜は俺の不満など何処吹く風、状態である。こちらを全く意識していなかった。
一応解答を求めジェイスへと顔を向けてみるものの、静かに首を横へと振りながら、『分からない』との意思を伝えて来た。
理解不能な出来事の最中だというのに、チラと見た月の兵達の表情に、先程は無かった、恐怖以外の色が滲んで来ていた。
怒り。
大切な者を傷付けられたと判断したのか、今し方まで【マリット・レイジ】の恐怖で敗走一歩手前であった軍隊は、ともすればこちらへと飛び掛らんばかりのものへと豹変していた。
それだけで、今の者がどれだけ周囲から慕われていたのかが分かる。
だが、
「なぁ、今のは俺関係無いぞ。むしろ助けた側だろう」
横で憮然としている輝夜へ、暗に『助けろ』との願いを込めて、言葉を掛けた。
「だってあんた、月の敵だもの。少なくとも味方じゃ無いわ、今のところは。一応弁明はしておいてあげるけど、私の言葉だからって何処まで聞く耳持ってくれるかどうか……」
声を窄めないで。お前の自信が今の俺の生命線に少なからず繋がってるのよ。
「がんばってくれよ。じゃないとこっちの目的も果たせなくなりそうだ」
しばし悩んだ後、『それもそうね』と、分かったのか分かってないのか微妙な受け答えをした後で、輝夜はこの場を収めるべく、ふわりと【マリット・レイジ】の頭上から飛び降りて、月の兵の方へと向かっていった。
しかし、一体何だったんだ。
いきなり自殺とか、マリさんを目の前にして死ぬ方が楽だとか思ったんだろうか。
……あるいは自殺に見せかけた攻撃手段だったんだろうか。こう、キリストの杯を奪い合う戦いに出て来た、鮮血神殿持ちの騎乗兵的な。もしくはアベさん。
「……おーい……誰か、俺はどうすれば良いのか教えてくれー……」
というか永琳さん達のとこへ案内して欲しいんですが。
こんな腑抜けた台詞など、とてもじゃないが怒り心頭な月の側には聞かせられない。
それでも口にしてしまったのは、俺の脳味噌の把握能力が匙を投げたからに他ならないだろう。
尻すぼみな言葉は、マリさんとジェイスにしか届かず、そして、それが届いた彼らは何も答えない。答える必要が無いのだから、当然といえば当然だ。俺の寂しさが増すばかりではあるけれど。
ある一面から捉えれば、ただただこちらのカードとマナと体力を消費させられてしまった現状は由々しきものだが……。
何から考え始めれば良いものか。
視界から老人が完全に消え去るのを見届けて、『もう止めても良いか』と、俺は【平和な心】の継続を解除した。
あれだけ周りに人が集まっていたのだ。もう、今のような行動に及ぶ事も、仮にしたとしても、周りの者が頑としてそれを止めるだろう。
これで何か事態の一つでも好転してくれれば良いのだが。
光り輝く宝石を散りばめた夜空に、願いを託した。
この光景を次はいつ見られるようになるのだろうかと思いながら。
歩く通路は、ワゴン車一台が何とか通過出来るか否か程度の幅がある。
煌々と照らされる真っ白な通路を黙々と進む。一体何が光って明るいのか分からないが、ここ月で一々疑問を持っていたら、数年は新鮮さの絶えない生活が続く事だろう。
道行く船頭の舵を預かるのは、綿月依姫。
ボロボロであった衣服は既に着替えて、何かしらの治療によって回復したであろう体をずんずんと通路の奥へと進ませていた。
左手にはいつでも抜刀出来るようにと、既に腰から引き抜かれ鞘に収められた十拳剣を握っている。
相変わらず九十九神は目覚めていないようで、その存在は何処からどう見てもただの刀以外の何者でもない印象を受けた。
その後ろを、俺が行く。
こちらはこちらで、依姫と同じくボロボロであった衣服を月側が用意した新しいもの―――Gパンと白いシャツ―――へと着替えて、完全に手ぶら。今からコンビににでも出掛ける格好だ。
疲労感は中々に蓄積されて、このままでは後数時間ももたないだろうという予感が脳裏をチラつく。
……ただ、体の疲労とは別に、さっきからメンタル面での疲労が由々しき事態になっている。
というのも……
「なぁ」
「何よ」
俺の背後。
良く知った桃色の和服モドキよりも、若干の装飾品を取り除いた格好で、蓬莱山輝夜が追随していて、こちらの声に応えてくれた。
ちょっとだけ振り返って見てみれば、その表情……どころか行動全てに一切の油断が無い。
それは目の前を歩く依姫も同じで、むしろ何か一瞬でも変な行動を起こそうものなら、【ダークスティール】化など知ったことか、的に一太刀で俺の体は縦か横に二等分してくれる、という気概が見て取れた。
「あのさ……もう少し緊張解いて欲しいなー……なんて」
「あんた、それ本気で言ってる?」
「……すんませんでした」
先程までの上から目線など放り出して、こうも下手に出ているのは、輝夜に言われた事が、実にその通りであると思ってしまっているからだ。
輝夜の前。俺の後ろ。
丁度俺ら二人に挟まれる形で、これから行う事に欠かせない人物が、その長身を悠々と進ませている。
今更語るまでも無い存在となった青きPWジェイスは、だが、少し前まで苦楽を共にした彼とは何処か変わっていた。
衣類は所々に擦り切れ、フードから覗く眼光はより鋭さを増し、肉食獣の前に投げ出された餌。あるいは、狙撃手のスコープで見られているかのようだ。
まるでそのボロボロの衣装が彼の心を現しているのだと語っているかの如く、輝夜や依姫のみならず、俺の心ですらも、意識をしっかりと持たなければバラバラにされ兼ねない。
名をジェイス。けれどその者のカードとしての表記には、一言追加されていた。
精神を刻む者、と。
『精神を刻む者、ジェイス』
4マナで、青の【プレインズウォーカー】
カードゲームとしての面では、数あるPWのカードの中でも、トップクラスの汎用性を誇る。しばらく後に、あまりの採用率の高さと、かなりの確立でゲームを終わらせる力を発揮してしまう為、特定のルール下の大会での使用は禁止となった。当初このカードが大会で登場した時期には、刻みゲー、ジェイス無双、などの皮肉を込めて呼ばれていた事もある。
ストーリー面での正確な記述は確認できないが、とある大決戦を終えた後のジェイスがこのカードである、とも、他の命を散らすことに全く抵抗の無くなった自身の心に戦々恐々としている時のもの、とも説がある。
当初召喚した【ジェイス・ベレレン】ではない。
あれから彼の能力が使用不可能になっている現状を改善しようと試行錯誤を繰り返した結果、【精神を刻む者、ジェイス】を召喚するに至った。
彼が一歩足を進める度に、何かしらのものが軋みを上げて、自壊してしまっているのではないかという錯覚に囚われる。
常に死が背後にあるという感覚の中で『緊張を解いて』とは、自殺願望があるのか、精神破綻している者に他ならないだろう。
「それ言うなら、むしろこっちがあんたに言いたいわよ。そこのジェイスって奴に命令して、その気配を収めさせなさい。疲れるったらありゃしない」
そう言って目線を俺からジェイスへと向ける輝夜だったが、当の本人は気づいていない筈は無いというのに、輝夜に意識すら傾けようとしない。初めから存在していないかの如く振舞っている。
それが甚くお気に召さないようで、月のお姫様は、ふんと鼻を鳴らして視線を切った。
彼を呼び出した当初、この針の筵な空気が堪らないもんだから、輝夜は今のような口調で。依姫は『その闘気を収めてはもらえないだろうか』とお願いする形で頼んだものの、ものの見事にガン無視。彼と彼女達―――主に輝夜―――の間にグランドキャニオンやらマリアナ海溝ばりの溝が完成した。
その時には日本サラリーマン固有スキル“なぁなぁ空間”を発動させて事なきを得たものの、あれから輝夜は一切ジェイスに向かって話し掛けていない。依姫が時折、恐る恐るといった感じで単発の質問などを繰り出すばかりだ。
依姫が彼と接する態度から察するに、ジェイスの力を感じてどこぞの名のある存在と認識し、偉人やら英雄やら神やら、目上の人と付き合うような感じでコミュニケーションの成立を図っていた。
尤も、それにジェイスは応えているのかと問われれば、首を横に振らざるを得ない。
彼、頑なに周囲との関係の成立を拒絶していた。というか『こっちに踏み込んできたらどうなるか分かってんだろうな』的な空気を撒き散らしていらっしゃる。
せめてもの救いは彼が俺の話に耳を傾けてくれている事だが、【ジェイス・ベレレン】としての反応と比べると、あまりに素っ気無い。
その辺の疑問を投げ掛けてみると、微かにだが、苦笑とも自虐とも取れる感覚が伝わって来る。語りたくない内容なのだと判断して、追及は避ける方針にした。
先程終わったと思っていた一触即発状態が、またも誕生してしまった事に現実逃避をしてしまいたくなるけれど、今、俺がそれをしてしまえば、火に油……どころか爆弾を投げ込むようなものだ。必ず何かしらの、最悪の方面で事件が勃発するだろう。
(まさか上司や得意先に怒られてる時の方が楽だったなんて……)
あれはあれで脂汗やら胃のストレスがマッハであったが、今この一触即発空間を経験している身としては、あの程度の仕事などはもはや、全て鼻歌交じりで対応出来る自信がある。
比べる対象があれなのだが、こう、板ばさみ的な状況の比較対象がそれくらいしか無いので仕方が無い。
常に首筋に刃が突きつけられている感覚になりながら、既に穴でも開いたんじゃないかと思ってしまう胃を腹の上から押さえつつ、俺達は無人の通路を移動していった。
まっすぐ進む事、約二分。
壁と同様、真っ白な扉を抜けたその先には二つのベッドが現れ、それと同数の眠り姫がいた。それぞれに目を閉じ昏々と夢の世界へと旅立ってるのが分かる。
中央に居る二人以外、室内には誰も居ない。
パイプ椅子的な安物ではなく、純白の大理石を思わせる寝台には、赤や緑、黄色といった電飾が点灯や点滅を繰り返し、所狭しとケーブルやら何やらの機器達が、その中央へと伸びていた。
「もったいぶるなんて事はしないでよね。やるやら、とっととやって頂戴」
急かす様に輝夜が言った。
表情こそ面倒臭さを装ってはいるが、俺ですら隠し通せていない程に、彼女の周りに“必死”の二文字が透けて見えた。
対して依姫は、形相こそ無を表現してはいるものの、阿修羅の如き雰囲気が辺りに漏れ出して、そこまで広くない病室を、より一段と小さくさせている。もはや眉一つの動きですらも、異常と判断すれば斬って掛かって来る勢いだ。
横たわる二名が、普段どれほど思われているのかが分かる光景を目にしながら、後ろに居た刻む者へとお願いをする。
「ジェイス、頼む」
硬い表情の輝夜と依姫は、自ずとジェイスへ道を譲る。
それを当然。と二人の間を突き進んで、彼は意識の無い八意永琳と綿月豊姫の横に立ち、歩みを止めた。
3マナで呼び出した時の彼とは、文字通り一つランクが上になった事によってなのか、その動作は一瞬。
ベッドいる者達の頭上を撫でるかのように通過させたかと思えば、
「……ん」
「……ぅ」
場違いだと分かっているのに、漏れる吐息が男としての性を掻き立てる。
多分、普通の流れだったなら、輝夜やら依姫やらが『そんな目で見るな!』とか言って、直接殴打とかは無いにしろ、罵倒なり絶対零度の目線なりが飛んでくるものだと思っていた。
「……ここ、は」
「……あら……私……。依姫ちゃんや永琳様と一緒に……確か……」
だというのに。
「永琳様! 姉上! ……良かった……本当に……」
「おはよう、二人とも。気分はどう?」
輝夜が気にした風も無く、けれど、隠し切れぬ安堵の表情を浮かべながら。
依姫は感極まったように自分の顔を両手で押さえ、声を押し殺しながら泣いている。―――良かった、本当に良かったと。顔に添えられた手の隙間から、ほろほろと雫が零れ落ちていた。
(……なんで……あんなに泣いてるんだ……)
ただ寝ていただけだろうに。どうしてそんなに感極まっているというのだ。
静かに涙する依姫と、目元に薄く光を湛えた輝夜。そんな二人を見て、事態が飲み込めずにいる綿月豊姫と、冷静に周囲を観察し状況把握に努めている八意永琳に、それぞれの個性が如実に現れているのを実感した。
とても感動的な光景だ。思わずもらい泣きをしてしまいそうになる。
―――俺が、関わっていなかったのなら。
この光景を作り出した原因の一端は、間違いなく俺にある。
月の軍を壊滅させた事も、依姫を気絶するまで追い込んだ事も、輝夜の精神を乗っ取った事も。今のところは、どれ一つとして謝罪する気は無い。
けれど、これだけは別。
百歩譲って殺気を放っていた依姫が悪いとしても、それを理由に完全に無関係であったその姉である綿月豊姫や、衣食住から地上への帰還の手続きまで、全ての面倒を見てくれていた永琳さんを昏倒させて良い理由にはならないし、したく無い。
だからそれだけは謝ろうと。
良い所はそのままに、悪い所があれば改善するという自分ルールに則って、こうしてここまでやって来た。
けれど、とてもではないがこの光景を前に『ごめん、それだけは謝るわ』などという、自分ルールを通す事など出来ない。
それをしてしまえば、それはもはや謝罪や反省などというものではない。謝っているようで性質は正反対という、悪質な嫌味の域だ。恩を受けた相手に行うものでは、決して無い。
一歩、後ろへと下がる。
これは受け入れられない。これは俺が望んでいない光景だと。
一歩、後ろへと下がる。
この場に居てはいけない。すぐに離れてしまおうと。体が後ろに振り向いた。
もう耐えられない。一刻も早くここから―――
「―――待って」
体は出口へと向けたまま、顔を少しだけ横にして見た。
未だに体はベッドへ横たえたままだったが、そこには上半身を起こし、患者が着る薄い水色のガウンのような診察服を身に着けた八意永琳がこちらを見ていた。
「何処へ行くの?」
「……」
何も言えない。
逃げ出したくてたまらない。今彼女の顔を正面から見る事など出来ない。
あの人の故郷でこれだけの事を仕出かしておいて、今更どんな面下げて話せというのだ。
「永琳様」
横から、依姫が彼女に向かって話し掛ける。
耳が拾う単語から、今までの出来事を説明しているのだと分かる。
嫌な気分だ。胸が締め付けられる。
気分は裁判官を前にした罪人の心境に似て。今か今かと審判が下されるのを、ただ待つばかり。
そこに被告の証言は無い。今更、何を取り繕ったところで言い訳にしか感じられないのだから、言葉の一つとして発しようとは思わなかった。
「―――そう」
五分か十分か。
もしくはたった数十秒だったのかもしれないが、今の自分に時間の感覚が曖昧になっていた。
それでも依姫の説明は終わったようで、一通り聞き終えた彼女が、言葉短く頷いた。
「九十九さん」
俺への呼称の変化は無い。
彼女からは罵倒の一つでも飛んでくるものだと覚悟していたというのに。
「―――御免なさい」
紡がれた言葉は、真逆。
「私がもっと早くあなたを地上へと還していれば―――いえ、そもそもあの実験にあなたを巻き込んでいなければ、こんな事にはならなかった」
……待ってくれ。俺はこんな展開は望んでいない。
それを言うのなら、俺が調子に乗って【稲妻】など使わなければ、このような事にはならかった。
それがどうだ。
よりにもよって、どうしてこの人に謝罪の言葉を口にさせているというのか。
「ごめんなさい九十九さん、私に出来る事なら―――」
「待って下さい」
それ以上は、ダメだ。
頼むからその先を口にしないで欲しい。
「違います。違うんです。そもそもの原因はあなたじゃない―――俺なんです」
依姫でも、輝夜でも。正直、無関係に巻き込んだ豊姫であったとしても、謝罪する意思はあったにしろ、ここまで自分が不利になる言葉など口にする気は無かった。
けれど彼女だけは―――八意永琳という人物だけは。
たった数日であったけれど、発端はどうであれ、内心はどうであれ。彼女とは笑い合って過ごして来た。
そんな人が、一方的に謝罪をしている。
私が悪いと、こちらが悪いと。誠心誠意、謝っていた。
―――とてもじゃないが、許容出来るものではない。
事の始まりを話す。
とある漁村。名前は浦辺の戸島村。
鬼へ向けた威嚇行為に託けた、自分自身の驕りから発生した結果だと。
ここに至るまでの過程を説明した。自分の気持ちに偽り無く、何をどう感じ、どういう行動に移ったのかを。
そのまま数刻。
「―――依姫」
「はっ」
全てを聞き終えた八意永琳は、控えていた依姫へと指示を飛ばす。
「軍部へ通達。今回の事態を指揮した者に連絡を取れるようにしなさい。それと、彼を狙撃したという人物も。―――大至急」
「はっ」
視線を変えて、次は隣に居る人物へ。
「豊姫」
「はい」
「目覚めたばかりで申し訳ないけど、上層部へ掛け合って、今回記録した全ての資料を集め、すぐ私の所へ提出させなさい」
「畏まりました」
そして最後は、目の前に佇んでいる者へと。
「輝夜様」
「……何?」
「大変恐縮ではありますが、その者達の先達を務めて頂きたく」
「……構わないわ。九十九―――ジェイス、こっちよ」
その場にて、空中に浮かび上がる光学タッチパネルを操作し始めた綿月姉妹と、病室の出口へと向かう月の姫。
その後をとぼとぼと、完全に魂の抜け切った状態で後を追う。
……先程自身が言った例えが、まさに的中しようとしていた。
裁判官。
彼女達に背を向けて退室する最中、耳が拾う単語を並べ立てて思い描くのは、証拠を揃えて判決を下す月の頭脳の姿。
自分の事ながら、彼女ならば公平な判断……とまでは行かずとも、それなりに釣り合いの取れた判決をしてくれる事だろう。
言うべき事は偽り無く伝え切った。後は、それを材料に彼女がどう判断するか、だ。
「しばらく―――待っていて頂戴」
扉の閉まる僅かの間。
開閉の音に紛れて耳にした永琳さんの声は、さて―――暖かかったのか、冷たかったのか。どちらだったのだろうか。
それによって俺の扱いが決定されると言っても過言ではないというのに、肝心なところが聞き取れずに、けれどそれを後悔する事も無くただ呆然と、俺とジェイスは輝夜に連れられ部屋から出て行った。
ここまで睡眠欲を貪り尽くしたのは、いつ以来だっただろうか。
あまりに寝過ぎて体の節から『もっとゆっくり動いてくれ』という抗議が聞こえてくる。
「……ここ、は」
ギシリと音を立てるそれを無視して上半身を起こしてみれば、部屋一面真っ白な―――ここは確か、中央病院の集中治療室ではなかったか。
「永琳様! 姉上! ……良かった……本当に……」
「おはよう、二人とも。気分はどう?」
声につられてふと横を見れば、こちらと同じように豊姫が上半身を起こして、『ここは何処?』と、彼女の周囲に居た依姫と輝夜に問い掛けていた。
何か不調がったのか、病衣を纏っていつも目にするぽけぽけとした反応をしているのだが、それは自身にも言える事。
豊姫と同様の病衣を身に着け、同じく寝台に横たえていた。
けれど、自分でこのような事をした記憶は無い。
まさか夢遊病の気があったのかとも思うが、数万年前ならばいざ知らず、現代においてたかだか夢遊病の一つや二つなど、ドラッグストアに行けば解決出来る問題だ。
そこまで心配する必要は無い。
……筈……なの……だが……。
(一体、どういう事なの……)
誰に聞かせるでもなく内心で呟いた。
自分の記憶を辿る。
何処まで繋がっているのかと記憶の糸を手繰り寄せてみれば、存外あっさりと、目的のところまで―――記憶が途切れた場面まで思い返すことが出来た。
―――だから、ますます分からない。
(何故、あなたがここに居るの、九十九さん。……その、青い者と一緒に)
脳裏に焼き付いた最後の映像では、もう少し小奇麗な格好であった筈なのだが、こちらが目覚めるまでに何かしらあったのだろう。その衣類は所々に綻びが見受けられ、それとは対照的に、九十九が着ている服は、新品同様だ。皺一つ、染み一つとして確認出来ない。
しかも彼らは、一歩、また一歩と後退し、ついには背を向けてこの部屋から出て行こうとするではないか。
「―――待って」
こちらに背を向けたまま、彼の体がビクリと震える。
何かに怯えているとしか思えない行動に困惑するが、
「永琳様」
状況を把握し兼ねている私に、依姫が顔を近づける。
そうして語られたのは、今、こうして私がここに横たわるに至るまでの経緯。
彼が呼び出した者が、その青き衣を纏ったジェイスであり、その彼が使う精神魔法によって、私と豊姫、そして依姫は昏倒させられてしまったのだと言う。
しかし、不可解だった。
何故九十九さんが私達にそのような行為に及ぶのかが謎であったのだ。
もしや今まで月への侵略の糸口を見つける為に自身を偽っていたのかという考えにも行きついたけれど……
「そして……その……」
説明中であった依姫が言い澱む。
何かこの場では言い難い事でもあるのかと思いながら続きを促してみれば、
「どうしたの?」
「……ジェイス・ベレレン殿は……私の……殺気……に反応し、それが原因で我らを敵と判断。永琳様や私達姉妹を昏倒させたようです」
「……え?」
殺気? 誰が? 誰に向かって?
「依姫。あなた―――九十九さんを殺そうとしたの?」
「決してそのような事は!」
口数少なく状況を語っていた時の表情とは打って変わり、自分の言葉に偽りは無いと言い切った。
殺気を感じた者と、殺気など出していないと言う者。
その辺りに今回の騒動の原因があるのかもしれない、と目星をつけたところで、
「永琳様」
今まで横で口を噤んでいた豊姫が話し掛けて来た。
「何かしら」
「あくまで私の判断、としてお聞き下さい。―――前提として、私達月の民は彼ら地上人よりも遥かに長寿です。さらにその中でも、我ら姉妹と永琳様との付き合いは長い。……それらを踏まえた上で先に結論を申しますと、そもそもの解釈の尺度に差があるのではないかと」
つまりは、こういう事。
依姫が、死なない(破壊されない)事を前提として全力で斬撃を与えようとした気概を、彼の者はそれを亡き者にする為だという意図を感じ取り、それを防いだというのだ。
能力持ちの中でも特に戦闘能力が高い依姫の気迫は、それこそ精々百年にも満たない程度しか生きていない者達にとって、生死に関わるものであったのだろう、と。
―――そうして、事態は最悪の方向へと転がり落ちる事になる。
青き者を迎え撃とうと依姫が応戦し、胸部を一閃。
これは不味いとその場を離脱した九十九とジェイスだったが、それでも事態を収拾する為投降しようとした矢先、死の恐怖に耐え切れなかった兵の先走りによってそれはご破算となり、結果は軍の壊滅。
それを見た依姫が怒りに我を忘れ、負の連鎖に身を落とす。
その後、その連鎖に巻き込まれる様に輝夜も参戦し、敗北。
それでもこちらの昏睡状態を回復させようと、こうして戻り、今に至る。
輝夜の精神を弄った事には考えさせられるものがあったが……当の本人がそれをさして気にした様子が無いので、流すことにした。
怠惰に身を委ねているあの子から発せられる、薄い嫌悪に覆われた、強い好奇心。
『面倒臭い』『飽きた』『詰まらない』が口癖であったあの子が、ああも自分の感情を剥き出しにしている様子など、ここ幾年も目にした事が無かった。
あれはあれで、ある程度の自覚の元で現状を楽しんでいる節が見受けられる。何とも分かり難い性格だと思った。
―――今までの話を反芻する。
するとそこには、一つの疑問点が見つかった。
「自分の立場は把握しているつもりだけれど……それにしたって、一応地上人として知れていた者を相手に、軍のほぼ全てを動かすのはどう考えてもおかしいわ。様々な実験を行ってきたけれど、その時には直接的な戦闘能力のデータは皆無だった筈よ。月の脅威に値する、と考える筈が無い」
「それについては、私から」
そうして聞いた依姫からの言葉に、私は耳を疑った。
「高御産巣日―――」
月の民の中でも、特にこの国の行く末を懸念していた者。
私と同様の古参である彼は、建国の際にも助力を惜しまず、身を粉にして働いていたのを思い出す。
誰よりもこの国を愛し、誰よりも今の月の現状を嘆いていた事も。
私にとっての第一が蓬莱山輝夜ならば、彼にとっての第一がこの国だ。その気持ちは、それなり以上に理解出来た。
「はい。司令はこの現状を打破するべく、今回の件を実行したのだと仰っていました」
だからといって、一を指摘して十の罪を償わせるような行為など、認められる筈が無い。
―――と、そう言えたのならどんなに楽であったか。
私も、彼の事は言えない。
もしも月と輝夜のどちらかを選ばなければならない状況になったのなら、私は後者を選択する。
たまたまそういう状況が訪れていないだけで、いずれその時が来たのならば、彼と同じ様に、最も大切なものを守る為には他の全てを犠牲にするだろう。
気持ちが分かる故に決断に迷いが生まれる。
結論を出すには今の段階では決定打に欠ける、と思っていると。
「永琳様」
こちらの思考を中断させるように、依姫がこちらの名を呼んだ。
「全ては私の未熟が招いた事。司令にそう決断させてしまったのも、九十九をあのような戦火に巻き込んでしまった事も、全て。―――とうに覚悟は出来ております。後は、如何様にも」
そう言って、頭を垂れた。
―――だが、違う。責任を負うのはお前だけではない。
「―――分かりました。ただ、今はそれよりも」
視線の奥。
先程から微動だにしない外なる者へと言葉を掛ける。
全ては、こちらの不備が招いた結果。
後は、それを何処まで償えるかどうか……。
「―――御免なさい」
反応は無い。
「私がもっと早くあなたを地上へと還していれば―――いえ、そもそもあの実験にあなたを巻き込んでいなければ、こんな事にはならなかった」
そもそもの原因は、高御でも依姫でもない。
彼をこちらの実験の失敗によって招き入れた私にある。
「ごめんなさい九十九さん、私に出来る事なら―――」
何処まで償えるのか分からないけれど、だからといって何もしない訳にはいかない。
そう思って謝罪の言葉を口にした。
「待って下さい」
けれど、彼に止められた。
「違います。違うんです。そもそもの原因はあなたじゃない―――俺なんです」
別視点から語られる出来事は、ただただ淡々と記憶を言葉にしているだけ、という作業を見ている気分にさせる。
懺悔のようだ、と。彼の話す姿を見て思った。
こちら側からの視野ではなく、彼から見た、彼の思考や気持ちの含まれたそれは、私からしてみればあまりに荒唐無稽な話であった。
そもそもの発端。彼の言う【稲妻】が原因だと言っていた。
しかしあらゆる文明がこちらと桁違いである場所において、そも、転送装置付きの擬態した生物調査機器が存在する、という可能性を考慮しろとは、神でも仏でも不可能だ。どうして存在しないものにまで配慮出来ようか。これではまだ、竹に花が咲く方の率が高いと言えるだろう。
事実だけを見れば彼が引き起こしたという天災が切欠だが、それを懺悔する理由とするには、無理に因縁を吹っ掛ける詐欺師にすら見えてくる。
(私がここで説明してあげても良いけれど……)
彼は今回の騒動に、幾許か以上の負い目を感じている。
これでは私の言葉は付け焼刃にしかならず、表面上は理解を示すだろうが、内心では依然として自負の念に囚われ続ける事になるのは目に見えていた。
少しだけ。今の私では彼の絶対に足り得ないのだという事実を突き付けられ……胸が痛んだ。
(はっきりさせないといけない、か)
個人の判断ではなく、もっと大勢の視点から。
自分だけではない。全ての者達がそれで納得―――はしてなくとも理解はしているのだと伝えなければならないのだろう。
彼は弱い。
能力面での多様性は依姫に勝るとも劣らず、戦闘面に至っては、それを圧倒……どころか歯牙にも掛けていなかったと聞く。
けれどそれを支える心が、あまりに脆弱。
―――いや、そもそもが、彼は何かを支えようなどとはしてないのかもしれない。
精々が自分の命を守り、その延長で関わった者達を順々に助けられれば、それで。
確固たるものが無く、強固たる何者も無く。黒にも白にも。善にも悪にも。極論から極論へと容易く染まるであろう、その心。
よくもまぁあれだけのもの(能力)を持ちえながらも、こうも色々と欠けているというのだろう。疑問が尽きない。
答えを一歩間違えば、私は大切に思う人に仇す存在へとなってしまうどころか、月の最大戦力の悉くを一日にも満たない時間で殲滅してしまう戦力を相手にする事になる。
考えろ。
最善の結果を。最良の未来を掴み取る為に。
その為には―――その為に必要なのは、これら出来事の落し所。感情の終着点。
「―――依姫」
彼の望むように。皆の望むように。何より、私が欲する結末を求めて。
事実を、感情を、統合し、最も均衡の取れた答えを導き出そう。
皆に指示を飛ばし、それらの確認を行う時間を作る。
依姫に、関わりの強かった人物を呼び出してもらい。
豊姫に、重要だと思われる記録の選定と提出を。
主である輝夜にすら、彼らを落ち着ける場所へと案内させる為の船頭を頼んでしまった。
先を行く輝夜に連れられて、彼らは無言で追随する。
一瞬、青き者が鋭くこちらに目線を向けたものの、何をするでも何を伝えるでもなく、すぐさま視線を切って、後を追っていった。
「しばらく―――待っていて頂戴」
あなたの―――私の望む結末を。
それらを導き出す為に、今しばらくの時間が必要であった。
―――僅か三時間。
部屋を出る時に見た、壁に貼り付けられていた時計の針が刺し示す数字からは、そう読み取れた。
精神面と体力面の両方の理由から気だるい体を引き摺って、少し気を緩めれば夢の国へと旅立てるであろう意識に活を入れつつ。
俺は、とある扉の前へと来ていた。
暗めの木造。重厚な作りであると伺えるそれは、俺が良く知っている、司法の場の作りに良く似ていて。月の国だという事を忘れて、日本の裁判所にでも訪れている錯覚に囚われた。
触れてもいないというのに、扉が開く。
先頭を俺が、後方からジェイスが。歩幅は小さく、けれど止まる事は無い。
開けた室内。左右に幾つも設置されている椅子。
けれど百を超えるであろうその席には数人しか座っておらず、この場に居るのは、今回の騒動に大きく関わったであろう人物のみ。
綿月依姫。綿月豊姫。蓬莱山輝夜と、俺の視線の先。この場においての裁決権を握っているであろう席に腰掛ける、八意永琳。
そして今入場した、俺とジェイスと―――後ろ姿しか確認出来ないが、紫色をした髪の長い者が一人、右端の席に座っていた。
軍を指揮したと言っていた老人は見受けられないが、なるようにしかならないのだから、と。もはや誰が来ようが居ようがどうでも良かった。
数メートルに先に見える、小さなお立ち台。幾度かテレビで見た最高裁判所の法廷にとても酷似しており、何もここまで日本のものと似通っていなくても良かったのに。と、時間を置いたことで生まれた余裕からのせいか。今にも逃げたしたい気持ちとは裏腹に、周囲の状況くらいは頭に入ってくるようだ。
台へと立つ。後ろに控えるジェイス。
刃物一つ、銃口一門。殺気も、怒気すら向けられていないというのに、俺の心はかつて無い程に押し潰されそうになって来た。
「この度の《月面騒動》から始まる、全ての責の所在を明らかにしましょう。―――開廷」
粛々とした声。
この荘厳な空気は月の都市固有のものか。雰囲気は勿論、思考すらも一切が澄み渡っているような気がした。
―――外で待機させていた【マリット・レイジ】が忽然と姿を消す、一時間程前の出来事である。