テンポ良く、木を叩く音が木霊する。
まな板に打ち付けられる包丁が、調理中の独特の空気を演出し、充満する固有の薄い、けれど香りたつだし汁の匂いが彩りを添えている。
盛り付けられた惣菜が、陳列された小皿を飾り、それ自体が一枚の絵のような仕上がりを魅せていた。
ひじき、焼き魚、小松菜にお吸い物。
甘い出し巻き卵と、炊き立てのご飯を盛り付けて、味付け海苔を揃えたら、完成ですっと。
「あーあー、またそんな格好で寝て……。ほら、永琳さん、起きて下さい。そろそろお仕事行かないと、まずい時間ですよ」
「……ん……ふわぁ……ぁ……。あら……もうそんな時間? ちょっと待ってて。顔を洗ってくるから」
「配膳しておきましたから、ちゃっちゃと支度して食べちゃって下さい。俺もその時に頂きますから」
「ありがとう」
そう言って、永琳さんは寝ていたソファーから体を起こし、洗面所へと向かっていった。
僅かな期間しか共に過していないが、相変わらずベッドで寝ない人である。
―――こうして暮らし始めて、一週間と一日。
こうなった原因は、俺が転送されて来た初日まで遡る。
『この部屋で待ってて』と言われ、熟睡していた俺へ“突撃ドッキリお目覚めバズーカ”宜しく帰ってきた永琳さんは、『予定を早めに切り上げた』『実験するから付き合ってね』と興奮気味に、それはそれは素晴らしい笑顔で、捲くし立てるように言い放ってくれた。
で……まぁ、色々とあった訳だ。
こっちは直前まで寝ていた訳で、意識が完全に覚醒する前に、とんとん拍子で準備が進み。
【死への抵抗】を使ってから一日は経過していなかったようで―――浮いていた円盤に、メスっぽい何かやら光線っぽい何かやらで、色々と何かやってみている、そんな光景をぼんやりと眺めていたら、何故か対象がこちらへと移り、俺も同じような方法を試されたり。
―――そこで初めて分かった事だが、破壊不可な効果が俺自身にも掛かってたらしい。
『ここの試作品♪』と満面の笑みを浮かべながら、豊姫の使っていた、例の粒子分解を引き起こす扇子―――の原型っぽい棒を使って来た時に、衣類が吹き飛び、けれど俺本体は無事なままでいたからだ。
ただ、完全分解とまでは行かずとも、肌がビリビリ痛み出して来た事で、意識が完全に覚醒し、慌てて止めてもらったのだが……先程も言った通り、衣類の方が問題で、一瞬にして上半身裸な男の一丁出来上がり。
……肌がピリピリって事は、完全に破壊不可になってる訳じゃなかったんだな、危ない危ない。
幸運にも、初めの頃に貰った外套は、ベッドの脇にどけてあったので無事だったが、ものの見事に、半露出狂な変態が一人生まれてしまったのですよ。
ただ、その、分解された服も諏訪子さんに作ってもらった、思い入れのある品だっただけに、結構カチンと来た俺が、声を荒げようと腹に力を入れた時、彼女は既に頭をこちらへ下げて、深く陳謝して来た。
どうも、興奮して色々と突っ走ってしまった結果のようで、『すまない』『申し訳ない』等々、矢継ぎ早に放たれる謝罪の言葉に、限界点を超えようとしていた理性は急速に熱を失い、さてどうしたものかと悩んだ末に、またも『じゃ、服、下さい』とお願いしてみた。
何でこう、衣装をコロコロ変えなきゃアカンのだと場違いな感想を洩らしたのはさて置き。
今度は和服いってみようか。もしくはそれっぽいのを仕立ててもらおうかな、とか思っていると、それまでは彼女の所へお世話になる流れに。
興奮していた熱も冷めたようで、冷静に今度の対応を話し始めてくれたのは良かったものの、服を壊した罪悪感も相まったせいか、『永琳で良い』『時間は掛かるが、出来うるだけすぐに地上への渡航許可を取り付ける』と約束してくれ、その間の世話をさせて欲しい、と現在に至っている訳である。
……ただ、このお方。興味のないに関しては、とんと無頓着なようなのです。
世話をするなら近くに居た方が、ってことで初めて彼女の家を訪れたのだけれど、その時の第一印象は『うわぁ』の一言。
レトルトやインスタント食品の残骸のようなものが散らかり、正装と思われる、高そうなドレスなどの衣類も、折り重なるように山済みにされて、そこから僅かにではあるが、下着のようなものが見て取れる―――目の保養、目の保養。
しかし、普段使っている場所や道具、白衣やブラウスといった、仕事用の衣類といったものだけは、手が行き届いているらしく、見えた範囲ではキチンと整理され、あるいはピカピカに磨かれていた。
片や物置、片や聖域の清濁併呑(せいだくへいどん)的な光景を拝む事が出来て、興味の有無で、ここまでキッパリ分かれるものか、と逆に感心してしまう。
“これは興味云々ではなく、彼女の中で必要な行為と不必要な行為を決めている結果ではないか”なんて考えを頭の中で巡らせていると、その事実を忘れていた永琳さんに、『少し出て行って下さい!』と、わたわたしながら部屋から俺を追い出していた時には、何本か、理性のネジが吹き飛びそうになったものである。
そんな訳で、ただ住まわせてもらうのも、忙しそうにしている永琳さんを見ていて気が引けたので、家事全般を俺が引き受け、渡航許可が出るまで永琳さんの実験に付き合いつつ日々を過ごしています。
しかし、一体いつになったら戻れるんだろうか。
一日や二日じゃあ問題はないけれど、週単位での誤差は、正直厳しいですよ。
……といった疑問をぶつけてみたいのだけれど、いつも忙しそう駆けずり回っている彼女に、今日も今日とて、何も言い出せずに、いつも通りに過ごすのでした、っと。
「お待たせ。それじゃあ食べちゃいましょうか」
考えに耽っていると、永琳さんが身なりを整えて、食卓へと着いていた。
それに倣って俺も正面の席に腰掛けて、互いに頂きますの挨拶をして、食事を始める。
恐らく一度も使われていなかったであろう台所を片付けて、こうして料理を出せるようになるまでは、片付けやら整理整頓やらで何度か心が折れそうになったけれど、『俺ファイト!』な精神と怠惰抑制機能をフルに活用して、何とか乗り切った。
家電だと思われる、色々なハイテクっぽい機器は色々とあったものの、あまり俺の中の常識を逸脱した家電製品とかが無くて助かった、と、片付けながら、思ったものだ。
「ん、今日のご飯も美味しいわね。これはどんな料理なのかしら」
「和食、ですね。魚介類と穀物なんかが主体の、俺の故郷の味です」
「あなたの故郷の味……ね。昨日食べたのが洋食で、その前が、中華。……何品か私達も食べている馴染みのものが出てきたけれど、どれもこちらのものより美味しいわ」
「良い食材使ってるからだと思いますよ。俺自身の腕なんて、素人に毛の生えたようなもんですし」
「【ジャンドールの鞍袋】……だったわよね。……本当、どういった原理で食材が出てくるのか、解明出来ていないけれど、凄く便利だわ。本来含まれている筈の穢れが一切付着していない、地上の品物。……元々ここでも自給自足の為に食材方面での供給は行っているけれど、こうして比べてしまうと味の差……劣化具合が良く分かる。―――やっぱり、地上の生き物は、地上にいなければ本領を発揮しないのでしょうね」
寂しそうに微笑を浮かべ、永琳さんは食事を再開した。
食材にこういった意見を述べるのもどうかと思うのだが、ある程度の辛い経験は、その後の良い肥やしになる。
穢れと呼ばれる―――まぁ具体的にどんなものなのかは知らないが、良くないものであるのは確かだろう。
それを一度も経験する事無く育った……言ってみれば温室育ちが、日々過酷な環境で精一杯その命を真っ当しとうと努力している者に適うだろうか。
『野菜舐めてんのか』なんて台詞が聞こえてきそうだが、あくまで俺だけのイメージという事で、ご了承頂きたい。
「ご馳走様」
「はい、お粗末様です。後はこっちで片付けちゃいますんで」
「お願いね」
がっついていた訳ではないのに、あっという間に食べ終わり、食器をまとめて、荷物を持って外へと向かっていく。
一週間前と変わらず、慌しい朝の出勤風景だが、忙しいからといって、省いてはいけない事まで、寛容でいる気はない。
「永琳さん!」
「ん、何?」
「挨拶、忘れてます」
「……そうだったわね。―――行って来ます」
「はい、いってらっしゃい」
この辺は、独男だった俺の自己満足が多分に含まれているが、彼女もそれに嫌な顔一つせずに付き合ってくれているのだから、決して嫌という訳ではない……と思いたい。
やっぱり、こういう挨拶は良い。
家に誰かが居て、『いってきます』や『ただいま』を言えるというのは、この上ない贅沢のうちの一つだと、転生前に、一人暮らしを始めて一年目にして実感した。
この辺は、各々の家庭環境で感想が変わるっぽいのだが、俺の場合は円満だった為に、このような心中になってる。
殺伐とした家族構成で無かった事へ感謝しつつ、若干冷めた緑茶を一口啜った。
備え付け荒れている、窓の方へと足を向ける。
下に広がる景色から、一体どれくらいの高さにいるのか分からないが、中々の上層にいることだけは分かっている。
(幾ら月でもそうそう地球側へ向かえないって事なんだろうなぁ。豊姫の助力が得られれば戻れそうなんだけど。……そろそろ本気で帰還方法を考えますかね)
視線の先。
低空を走る車。何をするのか分からない機械の数々。時折、宙を浮く人々に混じって、ウサミミを付けて歩くお方がちらほらと。
窓から見えるその光景は、俺が思い描いていた未来都市とは違う世界である事を訴えかけてきているかのよう。だって、ウサミミとかマジありねぇッスよ。―――美人は別枠ですがね。
そんな思いに耽りながら、俺は首元に掛けられた小さな青い宝石の付いたネックレスを弄りつつ、朝食を片付ける準備に取り掛かった。
……まるで新婚生活のようだ、という感想に辿り着き身悶えするのは、もう少し先の話である。
いつもの定例報告会。代わり映えもせず、大して新しい事など無いけれど、それでも私にとっては至福の時。
このやり取りも、もはや数える事が適わぬ位に数を重ねてきた。
私の師となって、様々な事を教えて下さった、八意永琳様。
この国の誰もがあの方の事を知り、神格化している者までいる始末。―――それには私も含まれているのだけれど。
ただ、今日の永琳様は、いつもと変わっていた。
話をしても何処か上の空で、時折何か思い出したように忍び笑いを洩らしたり、明らかに、別のものに対して思考を向けているのが見て取れる。
時折あることなのだけれど、前にそれがあったのは……かなり昔の事。
あの時は確か、永琳様が、輝夜様の下へ、教師として通い始めた頃。
手の掛かる子供をあやすかのように、けれど一歩一歩着実に成果を上げている輝夜様を見て、永琳様はとても楽しそうにしていらっしゃっていた。
「あの……永琳様」
「……ん? どうかした?」
はぁ、と、隣に居た姉が、私にだけ聞こえるか聞こえないか、といった大きさの溜め息をつく。
私だってそうしたいけれど、だからといって、よりにもよって、永琳様本人の前で、それをやる勇気は無い。
「永琳様。興味をそそられるものが見つかったのは分かりますけれど、依姫ちゃんのお話を聞かないのは困ります。―――拗ねちゃいますよ?」
「なっ!?」
あまりに唐突過ぎた為に、思わず突拍子も無い声を上げてしまう。
情けない。
如何なる時でも冷静に、それでいて優雅に振舞うよう、努力を重ねてきたというのに。
反省する点は反省し……。
「何を言い出すのですか、姉上。私は別に、そのような気持ちは持ち合わせておりません」
言うべき所は言っておく。
そうでないと、この私の姉―――綿月豊姫は、どんどんこちらに踏み込んでくる。悪い意味で。
「あらそう? あながち間違いでは無いと思うのだけれど。―――依姫ちゃん、目が泳いでいるもの」
「ぐっ」
みっともない声が漏れて、永琳様に聞かれてしまったであろう事実に、羞恥心から顔へと血が上るのが分かる。
これはまずい、と、弁明するべく、視線を永琳様に向けるが、
「……」
何とかこの醜態をカバーしなければと思った相手は、またもや思考の旅へと出て行ってしまっていた。
「……これは重症ねぇ」
「姉上、永琳様が病気のような発言はお控え下さい。それに、今までにもこのような事は、何度かあったではないですか」
「でも、その時だって、こんなにご自身の考えに没頭しているの、初めてじゃない?」
「それは……」
確かに、今までに見た事無い程に上の空であるのは、間違いない。
過去に似たような事態は間々あったけれど、それでも少し意識が他所へ行く程度のもので、ここまで自己の世界へ閉じこもってしまう様なものではなかった。
永琳様が、そこまで頭を悩ませる出来事……。
……私にも、何か手伝える事は無いだろうか。
「永琳様」
「……あら、またやっちゃったのね。ごめんなさい。ええと……豊姫に、試作兵器の実験をお願いする話だったかしら」
「そうですが、それは後ほどで構いません。ただ、永琳様があまりに他所へと意識を飛ばしていらっしゃるので―――。一体、何があったのですか?」
「―――そう! そうなのよ! 何かあったの! 聞いてくれる!?」
「は、はい。私で宜しければ……」
後は、永琳様の独壇場だった。
何でも、数日前に探査機の帰還に巻き込まれ、人間が一人、巻き込まれて来たのだとか。
その人間に興味が沸き、色々と経て家に住まわせ、実験に付き合ってもらっているらしい。
まさかあの探索機械の転送に巻き込まれて、生きている生物が居るなんて……ん? 家……に……?
「あの、永琳様」
「どうしたの? 今の説明じゃ、足りなかったかしら」
「足りないといえば足りません。今さらっと、その人間を家に住まわせている、と聞こえた気がしたのですが」
「ええ、そうよ? 彼、こっちが悪い事をしたっていうのに、色々と家事を引き受けてくれて―――。掃除は普通で、洗濯は、やっぱり私も女ですから、完全に任せられないけれど、料理がとても美味しいの。……やっぱりあの【ジャンドールの鞍袋】は量産されるべきよね、あれの技術を獲得すれば輝夜が統べる頃には、月はまた一歩豊かになる……そうすると輝夜の家の研究所じゃ物足りない、か……。国立の研究所に持っていって……それから……」
またも別の思考へと、考えが飛び火している永琳様を他所に、私もまた、別の考えを巡らせる。
……今、あの方は何と言った?
家に、人間を置いている?
訪れる事は度々あったが、あのきっちりと住み分けされた家に、人間がいる。
……永琳様は、あのようなお方だ。月の頭脳であり、様々な知識を行使して、各種分野で、その英知を存分に振るっている。
それに限らずあの容姿。
流れる星々ですらも、見惚れて、その動きを止めてしまうだろう。
加えて、その権力。
色々な機関の相談役やお目付け役を任されており、彼女が白と言えば、例えブラックホールやダークマターですらも、白くなる程の力をお持ちだ。
そんなお方なものだから、その付属品―――権力や友好関係―――に惹かれるのは、一部の者にとっては当然だが、異性は勿論、同姓からもそれらを抜きにしても、一生を添い遂げたいという思いの丈を、何度も告白されている事を、私は知っている。
……私だって、今の立場でなければ、それら人々の仲間入りを果たしていたであろう事は確実。
それ程、魅力的なお方だという事だ。
そして、永琳様はそれら全てをお断りして、現在に至る。
いつか、前にさり気なく、『添い遂げる相手はどんな人が良いか』と尋ねてみたが、『興味を引くような相手が好ましい』と仰っていた。
事実、言い寄ってくる者達はすべて、すぐに底が見えてしまったりするようで、未だにそれらしいお話はお伺いしたことは無い。
資産、権力、頭脳であの方に適う者は居らず、かといって個人特有の―――能力と呼べるそれは、その性質から名前を聞けば、対外の憶測は立つ。
言い換えるのなら先程の例と同じように底が浅く、継続的に興味を掻き立てられない場合が殆どだ。
その点で言うのなら、私の『神霊の依代となる能力』は、永琳様に大変喜ばれていた。
世界には、無数とも思えるほどの神が居る。
穢れてしまった地上を管理する為、古今東西、ありとあらゆる神々がその能力を行使し、それぞれの理に沿って存在しているのだ。
私は、そんな方々を呼び出し、使用してもらう事が出来る。
要約するのなら、能力のレンタル。
数日に一度、永琳様と一緒にこの能力を検証し、データを取る事が、もはや当たり前になってから久しいけれど、その役目を私以外の者に奪われそうになっている。
―――分かってはいるのだ。これは暴論どころか、ただの我が侭だという事くらい。
あの方が他のものに興味を向けられる事態は、今に始まった事ではないし、私達との関係を無碍にしている訳でもない。
ただ単に、永琳様と他の誰かが、私以上に親しくなるのが許せないだけ。おまけに、その相手は異性だと言うではないか。
―――ギシリと。
腰に据えられた刀を強く握り込む音が鳴る。
「……依姫ちゃん、顔が怖い事になってるわよ?」
「……申し訳ありません、姉上」
「良いのよ。可愛い妹の為ですもの。―――見栄を張りたい人の前では、しゃんとして居たいわよね」
「……ありがとうございます」
うんうん、と、満足そうに頷く姉上に頭を撫でられながら、それを振り解けずに居るのは、こういった行為を幾度となくやられている―――長年に渡る刷り込みが原因だろう。
そうだ、そうに違いない。
決してこの感触が心地良いからではなく、もはや抗えぬ体にされてしまっただけの事だ。
撫でる姉上の穏やかな笑みも、それに釣られる様に緩む私の頬も、もはや仕方の無い事なのだ。
「んもー、依姫ちゃんったら、かーわいー」
そう言って、姉上は撫でるだけでは飽き足らず、こちらを包み込むかのように抱擁して来るのを感じながら、私は流れに身を任せる。
……これも仕方の無い事なのだと。そう、思いながら。
永琳様は思考の海に漕ぎ出しており、依姫ちゃんは、そんな永琳様が気に入らない様子。
明日か明後日になれば依姫ちゃんの能力の実験を行う予定だというのに、少し嫉妬深いのではないかと将来が不安になる。
この分では、今日の定例報告会は取り止めてしまった方が、建設的だろう。
何か真新しい出来事があった訳でもなく、すぐさま対処しなければならない問題がある訳でもない。
だったらこんな不毛な会議は中止して、永琳様にも、依姫ちゃんにも、そして私にも有益な提案をしてみる。
「じゃあ、その九十九さんって方に会ってみない?」
はっとした様に顔を上げる依姫ちゃんに、それは良い、と何処か納得されたような表情を浮かべる、永琳様。
「ですが、今回の定例報告会は……」
「早急に対処しなければいけない問題なんて無いでしょ? だったら、もっと時間を有意義に使わないと」
「しかし……」
やっぱり依姫ちゃんは真面目だ。
本当は、今すぐにでも悩みの元であるその人物の所へと向かいたいのに、任せられた仕事を完遂しようと、がんばっている。
「律儀なのは、あなたの誇るべき所だけれど、時と場合でそれらを使い分けても良いんじゃないかしら。今は戦でもなければ急を要する事態でもない。だったら、今までがんばっている分を、こういった時に生かさないと。……それに、あなただけじゃないのよ? 私や、そして永琳様も望んでいる事なの」
「永琳様が……」
この手の言葉に弱い妹は、うんうんと唸り込んで下を向いてしまった。
このパターンは倫理と私情が葛藤して、しばらく決着のつかない状態だ。
グラグラと、どちらに倒れるともしれない振り子のような存在。
……つまりは、後一押ししてあげれば、どちらにでも転ぶ状態でもある。
「悩んでいても始まらないわ。さぁ、行きましょう。永琳様もそれで構いませんわよね」
「そうね。そうしてくれるのなら、私は嬉しいかしら」
「ほら、永琳様も喜んで下さっているわ」
「喜ぶ―――。分かりました。そう仰られるのでしたら、その提案を受け入れます」
そんな事言って、こっちには頬が緩んでいるのが丸分かりよ? あちら(永琳様)はどうか知らないけれど。
あの方って、変なところで鈍いんだから。
「よし決まり。じゃあ早速出発しましょう。永琳様の家なんて、いつ以来かしら。相変わらず、色々と「飽きさせないお部屋なのでしょうね………あ、そういえば、九十九さんという方が家事をしているんでしたっけ」
「ええ。必要な事以外だと、どうも優先順位が下がるのだけれど、彼が居てくれるだけでその手の仕事が片付いて、楽になって良いわ」
「ですから、前々から給仕か玉兎を雇ってみてはどうですか、と、申し上げているのです。姉上からも何か仰って下さい」
「えー、永琳様は『完全に、自分に仕える気でいる人を相手にするには、どうも………』って前々から仰っていたじゃない」
「では、何故今は地上の……しかも異性を家に置いているのですか!」
あらあら、とうとう不満が爆発しちゃったわ。
すぐに我に返っているのは評価出来るとして、その後の―――わたわたとしている態度は、軍部の上に籍を置くものとして、先が思いやられるわよ?
ただ、その点については私も気になっている。
だからこそ今こうして永琳様の家へと向かおうとしているのだし、その相手―――九十九という男性にも、興味が沸いていたのだけれど。
「あぁ、それは……。彼が気構えせずに……自然体でいるから、かしらね」
そうお答え下さった永琳様は、まるで、今までに無い安らぎを見出せた、疲れた旅人のように、そっと優しげな笑みを浮かべた。
「今まで私の元へ来るような方達って、『命に代えてもがんばります!』、って息巻いているような思考ばかりだったのよ。嬉しくない訳じゃないんだけれど、少しね……」
それを聞いて、依姫ちゃんは、心に刃物を差し込まれたかのように、動きを止めた。
心当たりがあり過ぎるのよね……。
だって、使用人の提案を持ちかけたのは、あなたが言い出した事だけれど、それは、自分が永琳様の下でお世話をしたかったからだし。
事実、それ位の覚悟を伴って、事に当たろうとしていたのでしょう?
それが永琳様には荷が重かった、という事なのでしょうね。
「九十九さんは、がんばります、という気構えではあるのだけれど、そこに自分の命を対価にするような意思は持ち合わせていないの」
続けるように話す内容に、とうとう心が折れたのか、その場でガクリと膝を突かんばかりに影を落とす依姫ちゃんの姿は、見ていて中々に……いじめたく……おほん。守ってあげたくなる。
「依姫ちゃんが連れてくる従者候補って、みんなその手の『命に代えても!』な精神の持ち主だったものねぇ。良かれと思ってやっていた事が、逆だったわけね~」
あぁ、もう天照大神が岩扉に引き篭もってしまったような暗さだわ。
我ながら酷な追撃に、やり過ぎたとは思うものの、反省する気はまるで無い。
だって私、お姉ちゃんですもの。
妹は愛でるのが当然ですわ。
……でも、やっぱりやり過ぎは良くないわよね。
困った顔も落ち込んだ表情も一瞬で充分。
それ以外は、単なる不純物。
「ほらほら、いつまでも落ち込んでないの。そのもやもやを解消する為に、これから永琳様の家へ向かうのでしょう? 今からそんなになっていたら、いざという時に判断も対応も間違えてしまうわよ?」
自分でも、今の状態はまずいと思っているようで、緩慢ではあるが、ゆっくりと気持ちを入れ替えるかのように、雰囲気を払拭させていくのが分かる。
いずれは自力で立ち直れるように……ゆくゆくは、そもそも躓かないようになってほしいのだけれど、この分だと数十年は掛かりそうね。
「申し訳ありません。もう大丈夫です」
「妹を助けるのもお姉ちゃんの勤めよ?(私が原因の一端でもあるし)」
「ありがとうございます」
先程までとは一変し、いつもの凛とした態度に戻った。
我が妹ながらこの変わり様は、将来が不安になってくる。
私も人の事は言えないけれど、添い遂げる人が見つかるのかどうか心配だわ。
しかし、これでも昔に比べれば大分改善はされて来ているのだから、いずれはこういった変化も見る事は無くなるのだろう。
それを嬉しいと思うと同時、自分に弱みを見せてくれない妹に少しの寂しさを感じてしまうのは、少し我が侭なのかしら。
「さて、それじゃあ気分も平常に戻った所で―――。永琳様、行きましょう。迎えに玉兎を呼んであります。外で待機している筈です」
「相変わらず根回しが良いのね。助かるわ」
「いえいえ、私も、その地上の方を早く見たいですから」
あらあら、と困った子供を窘めるかのような様子で、永琳様は微笑む。
なんて暖かい……柔らかい笑みを浮かべる、お方なのだろう。
依姫ちゃんも大概だけれど、私だって負けず劣らず月の頭脳に心酔しているのは、疑いようも無い事実。
ただ、あの子よりも隠すのが上手いだけ。
だから、依姫ちゃんには悪いけれど、今は私が永琳様と戯れよう。
こうしたいが為に、今まで自分を抑えてきたのだし。
羨ましそうにこちらを見つめる妹の目線を背中に感じつつ、私は永琳様の視線を一身に浴びながら、溢れる様な笑顔で玉兎が待つ屋外へと、踊る様に歩いていった。
そろそろ正午を迎えようかという時間帯。
それぞれの建物からは、少し早めのランチに繰り出している人々や、そんな彼らを迎え入れる為の準備で忙しい飲食店が、各々の役割をこなしている。
そんな地帯を通り過ぎ、一般と呼ばれる裕福層の住む地区を通り過ぎ、閑静な住宅街―――入るのに警備員を通らなければならない、べらぼうに高級な地区に入ってから、また少し移動した所に、八意永琳の住居はあった。
高層マンション。
その名称がピタリと当てはまるその場所は、この蓬莱の国の重鎮や偉人など、本人達の匙加減一つで幾らでも国の方針を変更してしまえるような怪物の住まう場所。
勿論、全員が全員、この建造物に住んでいる訳ではないが、決して少なくない人数が暮らしていた。
永琳自身はこんな場所などではなく、もっと静かで人っ気の無い場所へと住みたかったのだが、周りが『建国の偉人がそんな場所に住んでいては面子が立たない』と全員一致でここに住まうように推し進めた結果である。
「永琳様の住居って、何階だったかしら? 百八?」
「その通りです、姉上。ご存知ではありませんか」
「確認よ確認。……いつ以来かしら。こうして三人で、永琳様のお宅へお邪魔するのは」
「今でも、鮮明に覚えています。あれは永琳様が『あなたの能力、面白そうね。ちょっと家まで来ない?』と誘って頂いた……」
「……こうして改めて聞いてみると、我ながら悩ませられる会話だわ。九十九さんの時には違う対応を出来ただけ、私も進歩出来たのかしら……」
「永琳様、その九十九さんって、印象はどんな方ですの? 家で何をしているのかはお聞きしましたけれど、内面的なお話はまだ伺っていませんわよね?」
「つい先日も、輝夜に似たような事を聞かれた気がするわ……。そうね、まだ一週間程度しか観察していないけれど、悪くは無いわね。性格は、これといって筆頭する点は無し。欠点らしい欠点はないけれど、特に優れている、といった項目も無し。良くも悪くも男の子よ? 彼」
「男性、でしたわよね。お幾つの方ですの?」
「成人になったばかり、と言っていたかしら。肝心の年齢は誤魔化されてしまったけれど」
「なっ! 永琳様の質問を誤魔化すなどと、何と恐れ多い!」
「依姫ちゃん、そういった態度が永琳様を困らせているの、忘れたの? その忠義は素晴らしいものだけれど、程度を考えなきゃ」
「……そうでした。私とした事が、どうもこの話題には、感情が大きく揺さ振られてしまいます」
「あなたは色々と成長する範囲が多そうで、私としても嬉しいわ」
そんな……、と照れた様に俯きながら、永琳達は大きな扉の前で止まった。
永琳自身は純粋に他意のない言葉だったのだが、考え様によっては、大変相手を侮辱している発言でもある。
しかし、言われた当人は永琳の言葉を屈折して捉える人物ではなく、その台詞の裏に隠れた意味を分かった豊姫は、けれど永琳の性格を把握しており、それを指摘する事は無い。
互いに、信頼で結ばれているからこその現状であるのだ、と言えるだろう。
―――そうして現在、百八階にある、玄関前。
この建物は一フロアそれぞれが独立しており、一階層毎に巨大な家が丸々一つ納まっているような作りになっている。
その中でもこの階層は最も拡張が配慮された設計が施されており、言ってしまえば、永琳が研究や実験を行い易くする為に改築に改築を重ねて、国が保有する技術の一つ下か、それと同等の能力を有している。
最も、規模の関係上、幾ら一級品の技術とはいえ、一定の範囲でしか使えないのだが。
「九十九さんには、今日の夜まで戻らないって話していたから、今戻ってきたのなら、きっと驚くわ」
「あら、サプライズな出会い方になる訳ですね。初対面だから、なるべく良い印象を持って貰いたいのだけれど。依姫ちゃんはどうするの?」
「これといって何かしようとは思っていません。いつも通りに会話をしてみて、それから判断します」
「その割には、声が荒くなっているわよ?」
「……多少の感情の変化は、致し方ないだろうと判断します」
「あらあら、物騒な事ね。あ、でも、彼の周りに金属板が浮いているようなら、切り掛かっても良いわよ?」
「例の『絶対に壊れない能力』でしたか。……面白い。私の長刀の錆にしてくれます」
「本当、面白い子なのよ。……何ていったって、彼の能力、あなたと似ているの」
「私の……ですか?」
「ええ。初めは壊れない能力を検証する為に色々と行っていたのだけれど。……ふふ、まぁ良いわ。実際に会ってみなさいな。八百万の神々を降ろす者として、面白い経験が出来る筈よ」
訝しむ依姫を他所に、私は自宅へと入っていく。
恐らくこの時間帯なら、九十九さんは料理をしているのかもしれない。
……ほぼ間違いなく、【ジャンドールの鞍袋】を使って。
初めこそ、その能力である、絶対に壊れない金属や体について研究しようと息巻いていた。
けれど、どうだ。
時が経つにつれ、彼の持つ能力の多さに、問題が解決するどころか、蓄積されてしまっている。
壊れなくなったかと思えば料理を出し、疲れて帰ってきた時には燃えるような赤い鳥を呼び出して、私の心を楽しませるよう配慮してくれた。
疲れが取れる湯だと言って、特殊な水で湯船を満たしてくれた時には、その効能から、思わず、今行っている研究の何割かを削って、この湯の精製に取り組むべきなのではないかと考え込んだものだ。
残念な事に、彼は過去を聞かれる事と自身の能力について話す事に抵抗があり、詳細までは判明していないけれど、まだまだ色々な事が出来るのだという言動が見てとれた。
お礼にと、念話を応用した、意思疎通が出来る機能を持たせた石を、首飾り状にして渡したら、とても喜んでくれたようで、何でも、今日帰ったらお礼をしれくるのだと言っていた。
本来なら、こちら側の方が、すぐさま渡航許可を取り付けなければいけない状況であるのだし、だからこそ、それが出来ていない現状の貸しを返しただけだというのに、まるでそれを意識していない。
このままでは、一方的に(罪悪感)借りが蓄積されていくだけである筈なのに、この状況が、むしろ心地良い。
さて、お礼とは何かの食事だろうか。それとも贈り物だろうか。
もしかしたら、能力の説明かもしれない。いやいや、それを教えられたのなら面白さが無くなってしまうのではないか。
少し早めに帰宅してしまったけれど、準備が必要なサプライズだったのなら、何と言って困らせてあげよう。
様々な“もし”に心を躍らせながら、九十九さんが居るであろうリビングへと2人を案内する。
はて、自分は一体何故こんなにも心躍るようになっているのだろう。
特別何かをされた訳ではないのに、彼に対する興味は膨らみ続けていて。
「九十九さん、今帰った……わ……」
青い者。
目の前にいるのは、そんな……男性だろうか
容姿について詳細に観察する間もなく―――その男は既に上げられていた腕に、力を込める仕草をした。
そうして。
何の抵抗も出来ずに、豊姫と依姫の二人はその場に崩れ落ちた。
私自身も急速に意識を失いそうになりながら、耐えられないレベルではないと判断しつつ、即座にこの部屋の警報装置を作動させようと、亜空間パネルを開いた。
場所が場所なだけに、この家の警備が厳重な筈だったのに……。
何故、見ず知らずの何者かが侵入しているのか。どうして、警戒網が全く反応していないのか。
でも、この警報装置を作動させたのなら、後は迅速に警備隊がここへ応援に来てくれるようになっている。
何はともあれ、これで謎の侵入者にも対処出来る。
―――そう、全く感触の無い、何も現れていない手元を見るまでは、思っていた。
腕が切れている訳ではない。完全に手だけが五感から切り離されているかのような。
訳が分からない。
そんな些細な疑問に考えを巡らせる間もなく、青い男は何らかの力を使って、こちらの意識を刈り取ろうと、さらに力を強めてきた。
もはや完全に理解の追いつかぬまま、私は床へと倒れ込む。
希薄になっていく意識の中で、青い男の後ろに、九十九さんが何が起きているのか理解出来ないといった表情で現れた―――現れてしまった。
逃げて、と。
そんな言葉すら声にする事は無く、私の意識は、深い闇へと落ちていった。