「……あれ?」
心からこぼれた吐息に近い言葉は、誰に聞かれることも無く周囲に溶けていく。
―――九十九が、消えた。
正確には凄まじい速度で空へと打ち上がっていったのだが、あまりの速さから、視界からは完全に消え去った。
神気であいつが上空を移動しているのが分かるが、一体これは何の意味があるというのだろう。
先ほどまでの色づいた空気など一瞬で消え去り、残された私はただカカシのように棒立ちになる。
「何だ、あのまま押し倒すのかと思ったぞ」
堂々と、まるで何もやましい事が無いと言わんばかりに神奈子が立っている。
「……覗き見とは趣味が悪いね」
「覗いて、などしておらん。ただ前を見て歩んできたら、たまたま視界の先に居ただけの事だ」
「うっ」
九十九と私が話していた場所は、丁度一本道の先だった。
これなら前を歩くだけで、先ほどまでの光景が嫌でも見えてしまう。
「どうした諏訪子。いつものお前らしくもない。もっと飄々(ひょうひょう)と受け流さんか」
「……良いじゃないか。私だって泣いたり怒ったりくらいするさ」
「それには、愛しさも含まれている……か?」
言われ、僅かに悩む。
「……どうなんだろうね。いつも人間達の営みを通して愛だの恋だの見てきたけど、自分が体験するなんて、考えた事も無かったから」
空に消えた九十九の後を追うように、視線を上へと彷徨わせる。
「今まで、私はあいつを友人だと思っていたんだけど、どうも違ったようだね」
この気持ちは、決して友情の類ではないだろう。
私が知っている友情とは、胸の鼓動が早くなる類のものではない。
トクトクと、駆け足で心の臓が脈打つのが分かる。
そこに手を当て、あぁ、私はこんなにも感情が揺らいでいるのかと、今まで体験した事の無い―――けれどそれが嬉しくて堪らないと思いながら、神奈子に自分の心境を伝えた。
「少しは憧れたこともあったけれど……うん、悪くないね。この感情は」
「それは、惚気、とやらか? 私は生憎と色恋沙汰の神ではないので、縁結びや祝福の効果はないぞ。―――ただ、お前が産む子は別だ。そちらには最大限の賛歌を奏でてみせよう」
「なんだ。バレちゃった?」
「からかうな、お前と同じ神だぞ。………まぁ、九十九は気づいておらんようだったがな」
「それを気づかれちゃったら、楽しみが無くなっちゃうじゃない」
意地の悪い奴だ。
そう言って、神奈子はからからと笑う。
それに釣られるように、私からも笑みがこぼれる。あぁ、気分が良い。まるで青空を羽ばたく鳥のよう。
ずっと、これから1人で生きて、人々から忘れ去れては、誰とも知られずに消えてゆくものだと思っていた。
けれど、今の私は違う。
神奈子がいる。勇丸がいる。九十九がいる。何より――――――の子がいる。
多分、あいつが帰ってくる頃には間に合うだろう。
ほぼ間違いなく、驚くに決まっているのだ。
あぁ楽しみだ。
九十九が来てから、視点の変わった世界を眺めている。傍観でもなく、まして客観でもない。
私は今、誰かの為ではなく、自分の為に動き出そうとしている。
「諏訪子、行くぞ。やる事は山のようにある。惚けている場合か」
背を向けながら、村へと続く道を神奈子が行く。
それに追いすがるように、私も歩みを始める。
「そんな神奈子だって、行事がまだまだ残ってるのに、こっちまで来ちゃって。私に言えた義理?」
「何を言う。お前だって知っているだろう。神様は―――」
「―――我が侭なものさ、って? たはは、神奈子の口からそんな台詞が聞けるとは思わなかった」
木枯らしが吹く山林を歩く。
隣に居るのは私が服従した相手で、私の仇で、私の友達。
何の因果かこうして一緒に肩を並べているけれど、それが決して嫌ではない。
また、私の周りに灯火が増えた。
背後の社から消え去った暖かさとは別に。
私の心には、また別の温もりが宿っていた。
「そんなに嬉しいものか……。ふむ―――私もやってみるかな」
「……え?」