IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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08 一夜の夢幻

『どうした?』

 

もうすぐ夜の7時になろうかという時刻に、これから劇場に来て欲しいと上野から電話を受け、梨川は首を捻った。

自主的な練習を弟子の誰かがしていて、それで自分を呼んでいるのかもしれないと思い当たったが、例えそうだとしても時間を考えず、己が出向くのではなく相手を呼び出すというのは礼を欠いている。

 

『稽古か?だがもうこんな時間だし明後日も舞台があるのだろう?稽古も大事だが、舞台中はしっかり休憩を取ることも』

 

『稽古ではありません。梨川先生に是非見ていただきたいものがあるのです』

 

『見て欲しいもの?何だね?』

 

『夢です』

 

『夢?』

 

『見られればきっと分ります。今夜だけの、夢です』

 

用件を得ない内容だったが、上野の声が常になく上ずり興奮していることだけは、電話口から聞こえてくる声で梨川も分った。

己の付き人として長い付き合いもある。

上野はくだらないことで自分を呼び出すような性格ではない。

上野が何を自分に見せたがっているのか、梨川には全く検討もつかなかったが、ここまで乞われて断るのも忍びなく、簡単に出かける支度を整えると、迎えにきた上野の車に乗り劇場へと向うことにした。

だが、その劇場で思わぬ人物の姿を見つけ、梨川は目を見開いた。

 

「塔矢君?君も上野に呼ばれたのですか?」

 

足早にアキラの元へ梨川は歩み寄った。

するとアキラも梨川に気付いたのか、ペコリとお辞儀をして困惑気味に

 

「いいえ、上野さんではありません。理由は聞かされていないのですが、見て欲しいものがあると進藤から突然電話がありまして」

 

「進藤君から?」

 

次から次へと予想だにできなかった名前が出てきて、梨川は今度こそ顎に手をあて頭を捻った。

その様子にアキラも梨川がここへ呼ばれた目的を、自身と同じように知らされていないのだと察する。

家で棋譜並べをしていたところに突然きたヒカルからの電話。

こんな時間にどうかしたのかと問えば、一拍置いて、

 

『理由は言えないけど、言えないから、見せることだけしか出来ないから、お前には見て欲しいんだ』

 

『何を?』

 

『……夢、かな』

 

電話口の向こうにいるヒカルが、少しだけ笑ったような気がした。

理由を聞かされぬままアキラが劇場へ到着すれば、同じように呼ばれたらしい梨川も現れた。

 

(君は何をやりたいんだ?だいたい舞台劇場で君が何を出来るというんだ?)

 

今回の首謀者はまず間違いなくヒカルだろう。

しかし、アキラを呼んだ当人であるヒカルの姿は見えず、疑問だけが増えていく中、上野に案内され、梨川と共に観客席の一番舞台がよく見える中央の席へと腰を下ろした。

すぐに客席を含めた舞台の雰囲気が、これまで見てきたものと違うことにアキラは気付く。

稽古ではないというわりに、舞台の幕があがり、楽奏者と謡い手が舞台本番の衣装を着込んで、客を入れて行われる舞台に劣らない真剣な眼差しから、ピンと張った緊張感が伝わってくる。

舞台本番以上の用意と心構えだ。

 

アキラたちが座ったのを見計らい、客席の照明が弱められる。

鼓の一拍を置いて謡い手が歌いはじめると、舞台袖からしずしずとした足運びで舞い手が現れた。

鳥帽子、平安時代に貴族が着ていた直衣。

顔は能面を付けている。

薄い紫の地に、銀糸で刺繍が施され、照明の光に刺繍が輝き美しい。

 

しかし舞い手を見て、アキラはふと違和感を覚えた。

舞い手の身長が若干大人に比べ低いような気がしたのだ。

才能があれば身長など関係ないと完全に言い切れないのが舞台だ。

客によく見てもらうため、舞をより大きく見せるため、舞い手の身長は高いことに越したことは無い。

だが、今、舞台で舞っている舞い手の身長はアキラと同じぐらいの高さしかないように思える。

これまで何度か会食に招かれ能舞台を見たことがあったが、そのどれと比べても今舞っている舞い手が一番低い。

 

(ボクと同じ年頃の子供?しかも舞が演目の途中からだ)

 

舞われているのはアキラも先日見た『幸若舞』だが、初めの部分が飛ばされている。

舞い手が舞っているのは恐らく『敦盛』だろう。

恐らく、という不確定な言葉になってしまったのは、舞い方がこれまで見てきた舞と少し違う気がしたからだ。

舞う仕草の細部までアキラも全てを覚えているわけではないから、舞から受ける漠然とした印象だったが。

その違和感に、アキラは隣に座る梨川をチラリと見やり、梨川がアキラも初めてみるような驚きの表情で目を見開き舞を見ていることに気付く。

 

「まさか、これはっ………」

 

舞から視線を離さないまま、無意識に梨川は立ち上がった。

文献の中でしか存在しなかった『敦盛』が目の前で舞われている。

ただでさえ難しい古文は、解釈となるとさらに輪をかけて困難で、文が表す舞の細部がどういう仕草なのか全く分らない部分ばかりだった。

元々が舞を後世に伝えるために書かれた古文ではなく、大名公家屋敷で舞われる舞いの一つ、その美しさを讃称するために書かれた文献であることから、舞を美しい修飾語で並べ立てた比喩表現から舞の動きを手探りで探るしかない。

だが、今、目の前で舞われている舞は、文献の中で比喩された通りの舞だった。

扇の動き一つ、開きから手を返していく初動に至るまで、文献を読み漁るだけでは分らなかった舞が、一つ一つ丁寧に具現されていく。

 

雅(みやび)な舞だ。

謡い手の歌に合わせて舞われる『敦盛』

舞われる動きに沿って翻る袖の軌跡さえ、舞の一部となっている。

パッと目をひく派手さが落ち着き、流れるような優雅さで人を惹きつけはなさない。

 

「これが真の『敦盛』か……」

 

貴族や大名が愛し、織田信長が死を目前にして舞った舞。

その梨川の隣で能面をつけているため顔は分らなかったが、

 

「進藤?」

 

漠然とアキラは呟く。

 

顔を能面で隠しているため舞い手がヒカルである確証はない。

ヒカルが能舞を舞う姿など一度も見たことがなく、聞いたことも無い。

先日、一緒に舞台を見たときだって、興味の欠片もない様子で眠気と戦っていた。

なのに、

 

――舞っているのは、進藤だ!

 

舞は素人のアキラにも分るほど見事な舞で、軽やかに謡や鼓の楽に合わせて舞っている。

 

「アレは進藤君ではない。夢だよ。これは、夢だ。とても素晴らしい夢を、私達は見ているのだ」

 

舞台から視線をそらさず、陶酔したように梨川はアキラを止める。

その様子を、アキラと反対の隣から見守っていた上野が、昼間の出来事を思い出す。

何の連絡も無く突然劇場にやってきて、舞台スケジュールの打ち合わせをしていた上野を捕まえたのだ。

しかも開口一番、

 

『梨川先生に俺の舞を見て欲しいんです』

 

『舞?進藤君は舞をどこかで習ったことが?』

 

全く知らない相手ではなかったので、無碍に断ることはせず、とりあえず話だけでもと劇場内へ通した。

 

『習ったことはないです。でも、知ってるんです。江戸時代の『敦盛』を』

 

自信に溢れた顔でそういうヒカルに、上野はどう言ったものかと反応に困ったものだ。

舞を習ったこともないのに、江戸時代の『敦盛』を知っているとは、ヒカルが碁のプロ棋士で梨川が会食に呼んだことを知らなければ、その場で会場外に追い出していた。

 

『楽は鼓(つつみ)だけでいいです』

 

ヒカルに引く様子が見られず、少しだけならいいかとヒカルの要望通り少しだけ舞ってもらうかと、舞台に上がらせた。

それから10分後、己を含め自主的な稽古に来ていた楽奏者、舞師全員の注目をヒカルが集めるとは予想もつかずに。

 

一通り、舞い終えたヒカルに

 

<どうしてこの若者は、この舞を知っているのか?>

 

同じ疑問を抱いていたのは上野だけでなく、楽を奏で、謡った者たち全員が、同じ疑問を抱き、驚愕でヒカルを見ていた。

突然現れた若者が、誰も知らない『敦盛』を見事に舞って見せたのだ。

それは自分達が練習し数え切れないほど見てきた『敦盛』と違うものだったが、若者が舞った舞も間違いなく『敦盛』だと感じた。

 

囲碁がマグレが起きて素人がプロに勝てないように、能舞もまた素人が見よう見まねで舞うことの出来ないものである。

定石と同じで能にも基本がある。

それを少しでも外れれば、プロにはすぐに分るのだ。その舞が適当に舞っているものか、真面目に基本を押さえ舞われたものなのか。

ヒカルはまさしく後者だった。

何故、『敦盛』を知っているのかと上野が驚きを隠せないまま尋ねると、ヒカルは少し淋しげな顔で

 

『佐為(オレ)はこの敦盛しか知らない』

 

と答えた。

他の舞は舞い方知らないから、舞えないんだ、と笑って付け足して。

だが、今は鼓一つで舞われた昼以上の、驚きと興奮と畏怖を上野は覚えていた。

 

舞台の『敦盛』の舞が終る。

梨川とアキラ、上野しかいないガランとした舞台客席が静寂に包まれた。

それからパチパチと拍手が響き渡った。

梨川が舞い手に最大の賞賛を篭めて拍手を送っているのだ。それに続くようにして上野も拍手を送っている。

機械音と友に幕が下ろされる。

完全に幕が下りても、梨川が拍手を止めることはなかった。

 

ヒカルの『敦盛』を見た帰り際、タクシーを待つアキラをヒカルがバタバタと慌てて走ってくる。

その慌てようにアキラははっとして、もしかしてこんな時間に梨川を呼び出しておきながら挨拶一つしないで帰るつもりではと問う。

アキラはいいとしても、梨川に礼を欠いては大変なことになる。

そんなアキラの心配を他所に、ヒカルはムッとした顔で

 

「梨川先生にはちゃんとバイバイしたさ!」

 

「バイバイじゃなく、挨拶だ!君ってやつは……」

 

舞に詳しくないアキラでさえ、見とれ視線が外せないほど、さきほの『敦盛』はすごかったと思うのに、ヒカルの態度が普段通りすぎて、ついさっき見た舞は、ヒカルではない別の誰かが舞った舞に思える。

劇場から帰る方向は同じだからと、同じタクシーに二人乗り込み、帰りのタクシーの中でも話題はもっぱら囲碁についてで、『敦盛』については一つも上がらなかった。

それはヒカルが最初に電話でアキラを呼び出したとき、『言えないから、見せることしかできない』と言った言葉があったからだ。

 

(進藤、君は何者なんだ?)

 

だからこそ、心の中だけで何度も問いかけ続ける。

アキラがヒカルが舞った『敦盛』について何かを尋ねても、ヒカルは決して口を割らないだろう。

それを踏まえて、ヒカルはアキラに『敦盛』を見せたのだ。

 

「俺たちは碁を打ってもいいのかもしれない」

 

不意に窓の外を眺めていたヒカルがポツリと呟いた一言に、アキラは振り返る。

 

「進藤?何か言ったか?」

 

「なんでもない!」

 

ただの独り言だとヒカルは笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

高段者が対局が行われる木曜日。

昼食が取られる打ち掛けの時間、休憩室で食事を取っていたところに、どこかに行っていたらしい桑原が面白そうな顔で戻ってくる。

 

「進藤の後援会スポンサーが決まったらしいの。これでいちいち問い合わせしてくるスポンサー関係者の顔色を伺わんで済むと事務員が喜んでおったわ」

 

「そうなのですか?誰ですか?しかし、彼への問い合わせは一つではなかったんでしょうに。他を納得させ、かつ波風を立てないだけのものを別に用意したんですかね?」

 

乃木が桑原の雑談に乗って軽い気持ちで尋ねると、

 

「梨川の家元じゃ」

 

「梨川先生が!?」

 

予想外の人物の名前が出てきて、乃木は思わず声が大きくなってしまい、すぐに口元を手のひらで押さえた。

梨川が表立ってスポンサーとして名は上げないものの、棋院とは長いこと付き合いがあり援助してもらっている相手であることは、それなりに歳を取った高段者であれば、梨川の名前を知らない者はいないだろう。

家柄が家柄だけに派手に表立つことをよしとしなかった部分もある。

だが、あくまで裏方から棋院を 援助し守り立てる側の立ち位置で、表立つのを避けていた梨川がヒカルの後援として名を上げてきた。

どういう気の変わりようかと、怪訝に思わない者がいるだろうか。

 

「今ちょうど事務所に上野くんが打ち合わせに来て事務方と話しておった。小僧もとんでもないところを落としたものよのう。金なら誰でも用意出来るじゃろうが、家元に張り合うだけの家柄はそうそう用意できんじゃろて。ひゃっひゃっひゃっひゃ」

 

今のうちにヒカルを囲っておきたかったほかのスポンサー企業や個人主は、今頃歯軋りさせていることだろう。

それを想像したのか、愉快そうに桑原は高笑いする。

その話を部屋の角で昼食を取りながら聞いていた緒方は、打ち掛けの時間の終わりが迫っているにも関わらず、休憩室出て事務所の方へ向う。

そこにちょうど打ち合わせが終ったらしい上野の姿を見つけ、

 

「上野さん、進藤の件聞きました。梨川先生自らの意向ですか?」

 

挨拶もそこそこに歩み寄りながら緒方が話しかける。

緒方の姿を見つけた上野も、ペコリとお辞儀を返し、

 

「……そうです」

 

「上野さん?」

 

常に無く、どうもにも口が重そうな上野の様子に、緒方の眉間に皺がよる。

 

「緒方先生、進藤ヒカルとは何者なのですか?」

 

「え?何者ですか?進藤は、そうですね……前の会食で見られたとおりの子供としか」

 

碁のプロではない上野がヒカルの棋力について尋ねたのではなく、進藤ヒカルという人物について尋ねたのだろうと緒方は判断した。

そのため、薄い言葉であると承知でその通りにしか、緒方には言い様が無かった。

 

「進藤が梨川先生に何か失礼なことでも?」

 

いくら碁が強くても、それ以外のヒカルとなると、本当に礼儀がなっていない子供というのが緒方のヒカル像だ。

まだヒカルが院生だったときは、プロ棋士である己にむかって『あっかんべー』という悪戯までしでかした悪ガキでもある。

そのヒカルが緒方の知らないところで梨川に何かしでかしたのならば、今日の対局が終わり次第急いで謝罪しに行くと緒方が申し出ると、

 

「先日の会食で先生が『敦盛』の復興に努めていることは話しましたよね」

 

「ええ、それがどうか?」

 

「これは他言無用でお願いします。進藤君は、その『敦盛』を……江戸時代まで舞われていた正しい『敦盛』を舞って見せたんです」

 

「まさかっ!?」

 

ありえない、と緒方は咄嗟に否定した。

しかし、緒方の否定に上野は首を横に振ってさらに否定し、

 

「それに……」

 

言い悩みながら上野はポツリポツリと話し始める。

 

「私はこういう仕事柄、神社などで神や仏に対して奉納舞を舞ったり、誰か別の舞に立ち会う機会が多々あります。そこで、たまに何かの気配を感じることがあるんです。神や仏、幽霊が存在している、と明言はしませんし、何かとしか言いようがありませんが、確かに人ではない何かの存在を感じる瞬間があるのです」

 

緒方も神や仏、幽霊の類はあまり信じていないので上野の言い分は分る。

そして上野が言った『何かの存在の気配』も聞いたことがある。

舞に集中し神経が高ぶったことで、周囲の気配に敏感になり、闇夜に紛れた動物や昆虫の気配でさえも感じることが出来るのだと。

特に神事に関わる者たちはそれが顕著になるのだという。

その気配が、本当に動物や昆虫だけの気配なのか、それ以外の別の何かの気配なのか、現代の科学は説明出来ずにいることことも知っている。

だが、あくまで緒方は見えないものは信じないという主義だ。

幽霊を信じるという相手を頭ごなしに否定はしないが、相手は相手、自分は自分の考えがある。

 

「しかし、進藤君が舞っているとき、それと同じように何かの気配を感じ、そして……視界を掠めるのです。ほんの一瞬です。目で姿を捉えることができないくらいの。断片的な姿が、視界を掠めるのです。」

 

「姿?何が見えたのですか?教えてください」

 

「……はっきり姿を捉えることは出来ませんでしたし、あくまで断片的な一部分なのですが、腰を超えそうな長い髪の一部であったり、翻る直衣の裾であったり、笑う口元であったり、……とにかく、私も長く能に関わってきましたが、こんなことは初めての経験です。あの時、進藤君が『敦盛』を舞っていたとき、………確かに彼の傍で、見えない何かが舞っていた」

 

重々しい口調から、上野が決して冗談で緒方をからかっているわけでないことは明らかだ。

しかも気配を感じるのではなく、断片的であろうとも上野はその姿を見たのだという。

獣や虫ではなく、人の姿を。

しかもそれがヒカルの隣で舞っていたということに、緒方も驚きを隠せなかった。

 

「……梨川先生は何と?」

 

「笑って決して悪いものではないから放っておけと。梨川先生でしたら、恐らく私以上にアレが見えていたと思いますが」

 

「まさか梨川先生はそれで進藤の後援会会長になろうと決められたわけでは……」

 

上野の話を聞きながら、今回、梨川がヒカルの後援会に名乗りを上げたのはそれが理由なのかと恐る恐る尋ねる。

 

「それは、私からはなんとも言えません。でも、進藤君の舞を見た帰り、塔矢先生が魅せられたはずだ、と呟かれておられたんです。もしかしたら塔矢先生も何か気付いて、……いえ、私のつまらない憶測です」

 

行洋の弟子である緒方に確証もないことを自身の憶測だけで言ってしまったと上野はすぐさま謝り、ペコリと再度お辞儀をして棋院を後にする。

緒方も打ち掛けの時間が終わり、対局が始まったので対局場に戻らなければならず、上野の後を追いかけることができなかったが、対局中も上野から聞いた話が頭から離れなかった。

 


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