IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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07 縁

なんとか2時間の公演を眠ることなくヒカルは乗り越えられた。

眠らずに済んだ最大の要因は、開始30分あたりで佐為と話したことだろう。

舞い方どころか、芝居以上にゆっくりとした動きの能の舞台は、ただ歩いて扇をパタパタ扇いでいるようにしか見えなかった。

眠気が最も襲ってくる舞台開始30分に佐為と会話したことで、随分と眠気が紛れてくれた。

お陰でヒカルはアキラのお小言を聞かずに済むと、心の中で胸をなでおろす。

能の舞台が終わって、緒方たちの後をついていくと、劇場から歩いて数分のところにあるホテルへと辿り着いた。

 

30階あるという高層ホテルの会席料理の店。

すでに予約してあり、待たされることなく奥の座敷部屋へとスタッフに案内される。

ヒカルも何度か仕事としてこういった場所で食事したお陰で、体がカチカチになるほど緊張することはなくなったが、それでもアキラのように完全に慣れたわけではない。

下手に動くのではなく、分らないことは分らないと言い、自分以外の他に誰かがいればその者をよく見て真似ればいいのだ。

 

ただ、今回は食事する店が会席料理専門店なので、フレンチなどの洋食の店より、安堵していた。

和食系なら行洋と会っていた店でよく昼の御前でヒカルはいろいろ珍しいものを食べさせてもらっていたから、それの素材が何で、どういう風に調理され、どういう作法で食べるのか、行洋とお店の女将さんに教えてもらっている。

 

部屋に行洋とヒカルと佐為だけだったので、ヒカルは何も恥ずかしがることなく、尋ねることが出来た。

当然ながら、ヒカルたちの方が店に先に着き、お茶とお茶受けの菓子だけ出された机に座り、待つこと15分ほどして相手方が到着し、70近くと思わしき老人を先頭に部屋に入ってくる。

緒方が挨拶をしている後ろで、もっと待たされるだろうと思っていたヒカルは、予想外に早く着いた先方に、軽く頭を下げながら佐為に話を振る。

 

――えらく早かったな

 

――舞台に出ていたのではないのでしょうね。もし出ていれば、舞手も謡い手も着替えるのに時間がかかるでしょうから

 

――それもそうか。あんなゆっくりした舞でも、あんなじいちゃんなら衣装着るだけで大変そうだし

 

恐らく、今日ヒカルたちを食事に招いた能の家元で梨川本人であろう老人に視線だけ向けて、ヒカルはひとりごちる。

上品な色合いの着流しと羽織を着て、背は曲がっておらず真っ直ぐな姿勢で正座している。

髪の毛は真っ白だったが、はげているところはなく、短く切りそろえた髪をオールバックに流していた。

顔には歳相応の皺があり、芦原から聞いていた通り穏やかそうな顔立ちに、伏せ目がちな目元だった。

 

けれど、食事に招いてもらったことに、緒方が棋士の代表となって会話している傍で、不意にヒカルは梨川と呼ばれる老人と視線が合い、ドキリとした。

ついっさき舞台ではもう舞うことは出来ないだろうと思えたのに、静かで揺ぎ無い強さが瞳の奥にあった。

こういう瞳をヒカルはよく知っていた。

二人だけしかいない小さな離れで、碁盤を挟んだだけの近い距離から眺めては、その瞳の強さに憧れたのだ。

ヒカルの思考をよんだ佐為も、ヒカルと同じことを思う。

碁と舞という違いはあるが、梨川という老人も高みを極めんと志す者なのだと察する。

 

――行洋殿に似てますね

 

――うん

 

ヒカルは視線を逸らせなかったが、梨川の方が小さく微笑み、話をしている緒方の方を向いたため視線は逸れてしまう。

部屋に全員が揃ったことで、時間を計ったように懐石料理が運ばれてくる。

お腹が空いていなくても、食事が前に出されれば無かった空腹も、ヨダレを垂らすのが成長期だ。

隣に座るアキラが食事に箸を付けたのを見計らって、ヒカルも自分の食事に失礼にならない程度に気を付けながらがっつく。

何かを口に入れていれば、間に困って自ら話さなくていいというのも、これまでの経験から覚えた知恵である。

会話はもっぱらヒカル以外の塔矢門下と先方で、談笑を交えながら和やかな雰囲気が流れる。

何度か会って食事しているだけあり、相手方に下手に気を使わず会話できるのが大きい。時折、アキラも気の利いた相槌を入れている。

何も話さずヒカルは黙々と食事していたが、何を離せばいいのか分らないし、無理して会話に入る必要もなさそうなので、話は緒方たちに任せるのが最良だろう。

 

「もう現役は退いたよ。今は後輩の指導ばかりだ」と梨川。

 

「勿体無いですね。梨川先生の舞がもう見られないなんて」

 

「煽てられても困るよ、緒方君。どうにも歳には勝てんのが人間の限界なのだろう。だが、引退したからこそ、これまで舞台スケジュールやどうにもついて回る周囲のしがらみからも開放されて楽になった部分もある」

 

「先生は今、後輩の指導と同時に、舞の研究をされていらっしゃるんです」

 

と梨川の隣に座っていた上野という40代くらいのスーツを着た男が説明を付け足す。

会話の流れに乗って緒方も問い返す。

 

「舞の研究?」

 

「昼間、『敦盛』をごらんになったでしょう?だが、あれは古く江戸時代に舞われていたものとは微妙に違っているのです。戦時中に一度『敦盛』の舞が廃れたことで、現代に伝わっている舞と平安時代に舞われていた『敦盛』は舞が違うのです」

 

「なにしろ口伝で伝わってきた文化だ。残っている文献も限りがあって作業は難攻しておるが、やりがいはある。私が生きているうちにどうにか復活させたいものだ」

 

上野の言葉を浚い、梨川がこれから自らが選んだ道を語る。

 

――それで舞の内容が所々違っていたのですね

 

ヒカルの中学の教科書でしか、世界が二つに分かれて戦ったという戦争を佐為は知らなかったが、それで一度能の文化が廃れてしまったのは素直に驚いた。

虎次郎と一緒に読んだ書物に、戦国の世でも人心が廃れたと書かれてあったが、それと同じように能だけでなく他の文化も廃れたのかもしれない。

 

――そういや先生が戦時中は娯楽は敵だったとか言ってたな

 

――残念なことです。でもこうしてまた能舞の文化が復興したのは素晴らしいことです。もう二度と廃れることがないよう大切にしないと

 

梨川たちの会話を聞きながら、佐為と二人でヒカルはそっと話をする。

おかしなことに、梨川は自らヒカルに話を振ることはなかった。

最初に緒方がヒカルを紹介したのと、途中、上野が連勝を続けるヒカルの話題をさらりと振っただけで、他のスポンサー関係者のようにしつこく碁の勉強方法や、行洋との関係について聞いてくることはなかった。

 

しかも食事が終れば、相手方持ちでタクシーで家まで真っ直ぐ帰ることが出来たのだ。

さすがにそれはとヒカルは断ろうとしたが、梨川は気にしないでほしいといい、横から緒方が何度も断るのは失礼だとヒカルを下がらせた。

まさに至れり尽くせりの食事会だった。

仕事として付き合いで食事してきたこれまでと比べようがない。

満腹になったお腹をさすりながら、ベッドに仰向けに寝転び、昼間の出来事を思い出す。

 

――単に塔矢門下の前だから、話したくてもできなかっただけかも

 

――それも全く無いとは言い切れませんが、あのご老人は自身の好奇だけを優先して場の雰囲気を省みない会話はしないと私は思います

 

――どうして?

 

――あの老人がヒカルたちを招いたのです。招いた相手に気持ちよく会話してもらい美味しい食事をしてもらいたいというおもてなしの心ですよ

 

――おもてなし……スポンサー関係とかでする食事の相手も、みんなこんなだったらいいのに

 

心底思ってヒカルは大きな溜息をつく。

その場にいるみんなで食事と会話を楽しむ場だったと思う。誰も気分を害すことなく、気を張らず楽しめた。

その空気を作っていたのは、恐らく梨川という老人の存在であろう。

どこか一本筋が通っているような梨川の姿勢が、周囲に良い雰囲気を作り出していたのだとヒカルは思う。

 

 

 

 

 

 

塔矢門下らと共にヒカルが梨川と会食してから約3週間後だった。

断れる指導碁は全て断ってほしいと事務方には伝えてある。なのに連絡してきたということは事務の方では指導碁を断り難い相手からの申し込みだったということになる。

指導碁の予約が入ったと連絡を受けた直後、一瞬誰だろうとヒカルは首を捻ったが、相手が梨川と聞かされ、安堵と不安が心の中で激しくせめぎあった。

梨川なら会食のときのように相手が聞いて欲しくないことを好奇心で強引に尋ねてくることはないだろうと思う反面、指導碁という名目で二人っきりになれたからこそ尋ねてくるようにも考えられる。

前回と同じように、今度はヒカルの家までタクシーがやってきて梨川の自宅まで連れて行ってくれる。

指導碁をする客にそこまでさせていいものか、心苦しいヒカルの後ろで、見送る美津子は手を振りながら頭を押さえていた。

 

「こ、こんにちは」

 

梨川の家にやってきたヒカルが玄関先でペコリと頭を下げる。

会食の時にも思ったが、大人の付き合いに慣れているアキラと対称的なほど、落ち着かない素振りのヒカルに、梨川は歳相応の幼さと未熟さが入り混じったような印象を受けた。

大人の付き合いに不慣れな部分があるとしても、ヒカルの碁の実力までが未熟というわけでない。

行洋の突然の逝去と同時に現れた稀代の才能の持ち主は、小さい頃から知っているアキラ以上の、200年に一人の逸材と言われるほど、早熟で圧倒的な実力を秘めているというだから。

 

――さて、塔矢先生はこの子に何を見たのか

 

梨川が舞を一生の生業と決めたのと同じで、行洋にとってそれは碁だった。

目指すものは違っても、ただ一つを極めんとする志は何も変わらない。

その所為か、歳は少しばかり離れていたが、梨川と行洋は気が合い、親しい付き合いをするようになったのだ。

 

先日の会食で初めて梨川はヒカルを見た。

話すのが苦手なのか、話しかけられたくないのか食事を黙々と口に運んでいたヒカルを無理に会話の中に入れることはしなかった。

もちろん梨川とてヒカルから直に話を聞いてみたい気持ちはあったが、緒方たち他者がいる前で無理に聞いて、ヒカルを気分を害させてしまい、次から誘って断られても困ると気持ちよく食事だけしてもらうことにしたのだ。

ヒカルを自宅に招き入れ、碁盤が用意されてある部屋に案内する。

案内されたヒカルは立ったまま中庭を眺め、

 

「キレイな庭ですね」

 

中庭に面している部屋であるため、外の景色が一望できる。

そこの広がる日本庭園にヒカルは懐かしそうに呟いた。

行洋と会っていた店の庭もきれいに手入れされていたが、梨川の自宅の庭も、負けず劣らずの見事さで、ヒカルの心に懐古の気持ちが沸き起こる。

薄い雲が流れる快晴の天気のお陰で日当たりのよい部屋は、とても気持ちいい。

 

「ありがとう。いつもね、この部屋で庭を眺めながら塔矢先生に指導碁を打ってもらっていたんだよ。塔矢先生もよく庭のことを褒めてくださった」

 

そう言い終わると、梨川は碁盤の向かいに置かれた座布団に座るようヒカルを促す。

ヒカルも素直に応じて碁盤の前に正座する。

 

――梨川さんの棋力がどれくいらいか分りませんが、ヒカルが指導碁打ってみては?

 

――でも……

 

ヒカルは指導碁を渋る。

 

――アキラたちプロの棋士らは誰も見てません

 

だからヒカル自身が打っても恐らくバレはしない、とGW前のセミナーでヒカルが佐為に言った言葉を、今度は佐為が返す。

それに複雑な気持ちになりつつヒカルは碁笥を手元に引き寄せた。

 

打ち始めて20手目近くで、梨川の棋力を大体把握する。

アマ4段はあるだろう。それよりヒカルだけでなく佐為も目を見張ったのは、梨川の打ち筋が変な癖がなくとても真っ直ぐで筋が良かったことだった。

変な癖がある相手を指導するより、遥かに指導しやすい。

行洋と親しい付き合いをしていて、時々指導碁を打ってもらっていたというからその所為だろう。

行洋がどれほど丁寧に梨川に指導をしていたか、碁盤から伺い知れた。

 

打っている碁はヒカルが指導碁を打つという内容だったが、手入れされた庭を見たときからずっと。もっと遡れば会食で梨川の瞳に行洋と同じ瞳の強さを見つけてから、ふわふわと心地よい概視感にヒカルは満たされていた。

離れの部屋で指導碁を打ってもらった行洋の姿が梨川に重なる。

ヒカルの打つ番になったとき、

 

「……梨川さんは、他の人のように俺がどうやって碁の勉強してたとか、塔矢先生とどうやって打つようになったのかとか、聞かないんですね」

 

「その様子だと、すでにたくさんの人から聞かれたみたいだね」

 

「オレは梨川さんも知っての通り、塔矢先生と誰にも内緒で打ってました。内緒にって最初にお願いしたのはオレです。誰にも知られたくなかった」

 

聞かれてもいないのに、ヒカルはポツリポツリと話し始める。

梨川が察したように、すでに数え切れないほどヒカルはウンザリするほど聞かれて、その全てを曖昧に誤魔化した。

なのに、目の前の梨川には何も聞かれていないのに、ヒカル自ら話そうとしている。

梨川と行洋の姿が重なるからだ。

だから、懐かしさが嬉しいのに、梨川の目が見れなくなる。

 

「そうか」

 

ヒカルの話にそれだけしか返さない梨川に、ヒカルは俯きながら

 

「何故って、どうして内緒にしたのか?って聞かないのですか?」

 

「知りたくはあるが、それを承諾したのは塔矢先生ご本人なのだろう?それを私がどうこういう筋合いはないと思う」

 

「先生はたくさんタイトル取ってて、対局スケジュールもすごくつまって、でも佐為(オレ)と隠れて打つことで、そのスケジュールはもっと大変になっていたと思う」

 

梨川は黙ったままだった。だが、無言がヒカルの話を肯定していることになる。

 

「オレが先生に内緒にってお願いしなきゃ、……最初に塔矢先生と会って対局したいって手紙なんか出さなければ、先生はっ……」

 

死ななかったかもしれない、と言葉を続けることは、奥歯を噛み締めることで出来なかった。

佐為もまたヒカルが心の奥底で蟠(わだかま)り続けていることに気付いていたが、最初に行洋と打ちたいと願った佐為だからこそ、ヒカルにかける言葉が見つからなかった。

 

――ヒカル……

 

自分が行洋と打ちたいと願ったばかりに、ヒカルの心に深い傷を負わせてしまったという負い目が佐為の中にもあった。

実際にヒカルが言葉にして言うと、直接言葉を向けられたわけではないのに、直接責められたように胸が苦しくなる。

 

やや置いて梨川は閉ざしていた口を開く。

 

「進藤君が塔矢先生以外とは、インターネット碁という世界でのみ本来の実力で打っていたという噂を聞いたが、塔矢先生はそれに影響されたのかな」

 

「えっ?」

 

パッとヒカルは顔を上げた。

 

「塔矢先生が亡くなられる前、3ヶ月くらい前になるだろうか。私は先生と打った。もちろん、互戦には程遠い、こうして君と打っているような指導碁だがね」

 

「先生に会っていたんですか?先生はどんな感じでしたか!?」

 

何か体調の変化を訴えてはいなかっただろうか、おかしなところは無かっただろうかと、問い重ねるヒカルに、梨川は首を横に振った。

 

「特に変わった様子は見受けられなかったよ。いつものように、この縁側でこうしてのんびり碁を打った。何故だか分らないのだが、なんとなく打っているときに、塔矢先生が楽しそうにしているような気がしてね。対局中だったが聞いてみた。何か面白いことでもあったのかと」

 

そこまで言うと、梨川は碁笥に置いていた手を胸の前で組み、思い出すように瞼を下ろした。

 

「そうしたら初めてインターネット碁を打ったと笑って言われるんだよ。今まで疎遠にしていたが、たまたま機会があって打ってみたら意外に面白かったと。もし機会があればまた打ってみたいとまでおっしゃって驚いた。自分が長い年月積み重ねてきたもの以外の、全く知らない新しい何かを受け入れることはとても難しいものだ。インターネットというものが便利であることは認める。しかし、どうしても塔矢先生が碁盤ではなくパソコンに向かい合っている姿が想像できなくてね、失礼だったがつい笑いが堪えきれなかった。しかも臆面なく面白かっただの、また打ちたいだの言われるものだから、アレにはさしもの私も負けたと思ったよ」

 

「ハハ……」

 

思い出し笑いをする梨川に、ヒカルも緊張していた表情が緩み笑みが零れた。

梨川が驚き笑ったように、ヒカルも行洋がネット碁をする姿が思い浮かばなかったのだから。

 

「後輩への指導も確かにやりがいがあるものだ。先代から譲り受け、生涯を賭けて培ってきた技術の全てを後の者に託すのだから。しかし、まるで自分で自分の幕を引いているような感は否めない。もう自分は終ったのだと自ら認めているようで。だが、本当に自分は終ったのだと認めたくない自分も確かにいるのだよ。まだやれる、もっと、もっとやれると思っている自分が体の奥底にくすぶっている。だが、思っているだけで一歩が踏み出せなかった」

 

梨川の瞳が開かれ、老いても決して衰えが微塵もない強い瞳がヒカルを射る。

 

「今の世界に満足せず、新しい世界を受け入れていく塔矢先生の姿勢に、足踏みするだけの私の背中を塔矢先生に押してもらった気がしたよ。そうしたときに、『敦盛』の古い文献を見せていただく機会を頂いて、これだと思った。これは私でなければ出来ないものだと。失われた『敦盛』を再び現代に蘇らせる。それが私の次の目標だ」

 

自信溢れた顔で梨川は断言した。

舞うことは体力的に無理かもしれない。

しかし、無理になるまで舞続けたことで得たものも確かにあるのだ。

 

「もし、誰にも内緒で打たなければ、もし塔矢先生と対局したいと思わなければ……全部がもしも、という今更変えることの出来ない仮の話に過ぎない。だが、仮に変えれるとして、塔矢先生がインターネット碁を打つ機会を進藤君と知り合うことで得られたのなら、それ無しで今の私はなかったことになる」

 

「それは……」

 

「君が塔矢先生と会って対局していたことは、少なくとも私にとって変えたいと願う過去ではない。それに、塔矢先生を昔から知っている私だから思うのだが、もし進藤君と打たなかったらということの方を塔矢先生は残念がると思うよ?」

 

梨川の言葉に許されたような気がしたのはヒカルだけではなかった。

佐為もまた許されたと感じた。

ヒカルが行洋に他言無用と頼んだのは、佐為の存在を隠すためだった。そして元はといえば、佐為がヒカルに行洋と打ちたいと願わなければ、ヒカルが手紙を出すこともなかった。

 

不思議な縁を感じた。

佐為がヒカルに願い、行洋と打つようになり、行洋が亡くなり碁を打つことに疑問を持ったとき、行洋と知り合いの梨川が過去を肯定してくれた。

これはアキラや緒方らでは、決して無理だったろう。

プロ棋士でなく、親しい知人としての立場であった梨川の言葉だからこそ、ヒカルと佐為の心に届いた。

 

 

 

 

 

梨川の家から帰るタクシーの中、窓の外に視線を向けたままで

 

――佐為、お願いがあるんだ

 

ヒカルのお願いに佐為は何も答えなかったが、口元にたたえている微笑が、その願いを受け入れていた。

 


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