自分のパンチは効いているのか?
全く効いていないのか?
盤面はヒカルが優勢だが、芹沢も黙って受けているだけではない。
受けない分の損を承知で、ヒカルの石を攻める。
芹沢の攻撃が決して効いていないということはないだろう。
しかし、盤面からも、そして視線だけ向けて対局相手の様子を伺ても、ヒカルの表情からは何一つ感情が読み取れない。
(この子は、こんな目で碁を打つのか?)
冷静、というのも違う。
カフェで打ったときは、間に摺りガラスがありヒカルの表情を見ることはできなかったが、まるで盤面にただ視線を向け、対局を見守るだけの傍観者の目だと芹沢は感じた。
持ち時間三十分を残して、芹沢は投了し、観戦していた桑原や倉田も交えて検討まで終えたのは、夜も8時過ぎだった。
それぞれが家路についたり飲みに出る中、棋院の玄関を出たばかりのヒカルを芹沢が捕まえる。
「進藤君は碁を打つのは楽しいかい?」
「プロになったら、楽しいとか楽しくないとかそんなことは言ってられないと思うんですが」
いつものリュックを背負い、振り返ったヒカルが少し思案して答える。
誰もが納得する模範回答だ。
この回答には、芹沢も同じプロ棋士として苦笑いするしかなかった。
「質問の仕方が間違っていた。すまない。私が聞きたいのは何故君は碁を打つのかということだ。君は強い。しかし、今日打ってみて、君が碁にちゃんと向き合っているのか私には疑問に思えた」
「何故打つのかって、それは……俺にとって碁は絆だから」
「塔矢先生との?」
問われてヒカルは否定した。
違う
塔矢先生と佐為と俺の3人だ
けれど、それは心の中だけの呟きで、現実には芹沢に無言の微かな微笑みを作るだけで。
そんなヒカルに芹沢は言いにくそうに口を開いた。
「もしかしてと思うのだが、進藤君は塔矢先生が亡くなられたのを自分のせいに考えてはいないか?」
息子であるアキラにさえもヒカルは言われていない。
アキラが真実そう思っていないのか、思っていても単に口に出して言わないだけなのかは分からなかったが、ヒカル自身思ってはいても誰かに面と向かって言われたのは、これが初めてだった。
そのため反応が遅れてしまったヒカルが、問われた質問に対して肯定したのだと受け取った芹沢が
「先生は心筋梗塞で亡くなられたんだ。君と打ったことが原因で亡くなったという事実はないんだよ」
事実はなくても、約束はちゃんと現実にあったんだ
そうヒカルは言い返す代わりに
「……楽しかったんです。塔矢先生と打つの、本当に、すごく、すごく楽しかったんです」
過去形で締めくくった後、芹沢の返事を待たず頭を下げ走り行くヒカルを、もう一度引き止めることは出来なかった。
■■■
プロ棋士、それも高段位、またタイトルホルダーやそれに準じる挑戦者、リーグ戦出場者となってくると、スポンサーや関係者たちとの付き合いが、仕事の一部となってくる。
その中で、6冠を有していた行洋が亡くなった今、タイトル保持者は本因坊の桑原以外おらず、その仕事はその他のトップ棋士一同に分配されることになる。
だが、緒方は事務員から戸惑いがちに確認を取られ、吸おうとしていたタバコを、箱の中に戻した。
「梨川先生と食事ですか?それは一向に構いませんが」
変に棋士に絡み、強引に酒を勧めたり、怪しい投資や宗教を誘ってくることもない。
梨川治夫(なしかわはるお)という人物は、棋士たちの間で、性質の非常に良い上客として周知だ。
家柄は江戸時代初期より続くという舞踊の家元で、名は大っぴらに出ないが大会が開催される際は、援助や後援として囲碁界を支えてくれる貴重なスポンサーであることに変わりない。
もちろん棋士達のスケジュールを管理し、相手側と間にたち食事などの日程を調整する事務方も当然、梨川の人となりは知っているだろうから、わざわざ確認を取りにくる理由が分らなかった。
特に行洋とは昔から親しい間柄ということで、弟子の緒方たちや息子のアキラも同席したことが何度かある。
「どうかしたんですか?」
緒方が問い返すと、
「それが、今回は進藤君も一緒にどうかと言われまして……。どうも塔矢先生と進藤君の付き合いがあったことが梨川先生の耳にも入ったようで、進藤君と是非話してみたいということらしいんです」
言い辛そうに事務員は打ち明けた。
塔矢門下と、行洋が内密に会って対局していたヒカルという微妙な関係に、事務員はさしあたり塔矢門下筆頭である緒方の意向を確かめたいらしい。
ヒカルが行洋の隠し弟子というわけではないようなので、塔矢門下との間に波風を立てることはないが、全く何もないということでもない。
己の師が、誰にも、門下にも内緒で打っていたというのは、決していい気持ちはしない筈だろうと。
今回、塔矢門下を食事にと打診してきた梨川の意図は、塔矢門下を引き合いにヒカルと会うのが目的だろう。
自身がsaiであると打ち明けてから、それを証明するような対戦成績と、先日のリーグ戦でも芹沢と打った対局は海外からも高い注目された。
スポンサーの中にはさっそくヒカルの後援会について打診してくるところも出ている。
将来有望な若手棋士を、早いうちに手をつけておきたいのだろう。
囲碁界について多少なり齧っていれば、ヒカルがタイトルを取るのは時間の問題と言われているのも暗黙の周知だ。
タイトルホルダーになるだけの実力を持ち、話題性だって十分過ぎるほどある。
「俺は進藤が一緒でも問題ありませんが、他に呼ばれているメンバーは誰ですか?」
「塔矢君と芦原先生を入れて3人です。他の方はどうしてもスケジュールの都合が合わなくて……」
「では、アキラ君と芦原は梨川さんと何度か会ってますし、俺から話しておきますよ。進藤はそちらから連絡お願いします」
「すいません。助かります」
ほっとした表情で一度頭を下げ、その場から去っていく事務員の背中を見送ってから、緒方はスーツの内ポケットから携帯を取り出した。
■■■
「舞ッ!?そんなの見ないといけないの!?ご飯食べるだけじゃなかったの!?」
スポンサー関係者と付き合い=仕事で食事をするとしか聞かされていなかったヒカルは、待ち合わせ場所にやってきた緒方から詳細を聞かされて、目に見えて不満顔になった。
家に棋院の事務員からかかってきた電話では食事のことしか聞かれていない。
対局で必ず勝ち、リーグ戦へ出場が決まったあたりから、ヒカルの周りに急にそういったスポンサー周りの付き合いという食事会の回数が増えた。
大会の賞金を出してくれるスポンサーがなければ、囲碁のプロ自体が存在できない。
ヒカルだって理屈は分る。
だが、分っていても誰かの機嫌を取るというのは、ヒカルはまだ慣れておらず、どうにも苦手だ。
何度かの食事界で覚えたのは、小奇麗な格好な格好をすることと、『期待している』という言葉に対して、頭を軽く下げて『頑張ります』と返事することの二つ。
そんなヒカルが思っていることを見透かしたように、緒方は呆れ顔で、
「相手は能の家元だ。いつも昼に舞台を見て、そのまま会食という流れだ。覚えておけ」
「のぅ?」
緒方の説明が分らなかったヒカルが、少し斜めに首をかしげた。
「能っていうのは舞とか芝居みたいなものだよ。緒方さんも頭ごなしに言うことないじゃないですか。そんなに心配することないよ、進藤君。梨川先生はとても穏やかな方だし、若手棋士にも変な絡み方なんてしないから」
緒方に一言物申し、不安顔のヒカルに芦原は人懐っこい笑顔を見せた。
――俺、じいちゃんに連れて行かれた芝居でも、始まって5分で寝る自信あるぜ。それなのに全然自信ないんだけど
――私見たいです!
これから碁を打つわけでもないのに、佐為は目を輝かせている。
――お前、舞とか興味あったのか?
――まだ私も生きていた頃はよく舞ったものです。それにこの時代に戻ってからは一度も見ていませんが、虎次郎と一緒にいたときも、年に一、二度くらいの頻度で見ましたが、とても素晴らしいものでしたよ
瞳を閉じ、江戸時代の頃を懐かしく思い出す佐為の隣で、ヒカルはどうやれば寝ないでいられるか無い知恵をかき集める。
その横から鋭い視線を向けて、
「能の内容は分らなくていいから、とにかく寝るな。寝るのが一番失礼にあたる。しかも進藤、梨川先生に初めて呼ばれていることを忘れるな。梨川先生はお父さんとも昔から親しい付き合いのある方なんだ」
つまり塔矢行洋の名に泥を塗るなと、緒方に続きアキラもヒカルを一睨みして釘を刺す。
その名を出されてしまえば、ヒカルも易々と寝るわけにはいかない。
もし眠ってしまい、体が船でも漕いでしまえば、アキラの雷がヒカルの頭上に落ちることは絶対だ。
――佐為、俺が寝そうになったらどんな手を使ってでも起こせっ
――ハイ!任せてください!
――けど、この際、塔矢先生の知り合いなのはいいとして、塔矢門下が呼ばれるのは分るけど、何で俺まで……
『sai』の名前が一人歩きしている気配をここでも感じて、ヒカルは気取られないようそっと溜息をつく。
対局以外のこういった付き合いに呼ばれると、高い確率で遠まわしながら好奇の眼差しで、『sai』として打っていたことと、行洋との密会を聞かれた。
前者は腕試しと軽い遊び半分の気持ちでネット碁をはじめたと答えたが、後者は上手い回答が今でも思いつかず、曖昧に笑うしかできない。
今回も行洋との関係を聞かれてなんと答えるか。
しかも、今日はアキラや緒方ら塔矢門下も一緒だから、下手な嘘もつけないのが、ヒカルの目下一番の悩みだ。
ヒカルが到着し全員揃ったことで、緒方たちの後ろについてヒカルも劇場に入る。
開演間近であり客席もほとんど埋まっていたが、緒方たちは来賓としてゲスト席に案内されたことで埋まった席の合間を通ることなく、着席することが出来た。
客層はやはりというべきか年配相応の顔ぶればかりで、未成年はアキラとヒカルの二人だけの可能性が高い。
照明が弱まり、客席が急に静まり返る。
佐為が座る席は無かったが、席の前は通路であったため、通路との段差に佐為は腰を下ろしながら、幕が上がるのを待つ。
――演目は何なのでしょう?
――俺にとっちゃどれも子守唄だ
投げやりに返事して、ヒカルは客席に入る前に、気休めにでもなってくれればめっけもんと自販機で買ったコーヒーを一口飲む。
そこに幕の内側からポンと一つ包みの音が鳴り響き、開幕した。
幕が上がると、本格的な堤や太鼓の音と共に、重低音の声を長く響かせた歌が響き渡る。
そして舞台脇から能面をつけ顔を隠した舞い手が現れる。
劇場に入る前、ヒカルが危惧したとおりすぐに眠気が襲ってきたものの、慣れないブラックコーヒーを飲んだお陰か眠気に負けてしまうまでには至らなかった。
これなら、もう一本ブラックコーヒーを買っておけばよかったかとヒカルは思ったが、舞台の真っ最中にプルトップをぷしゅっと音を立てて開けるわけにもいかないかと考えを改め、舞台が終わる最後までもたせるために、コーヒーをちびちび飲むことにする。
そうしてヒカルが眠気と戦い三十分たった頃だろうか。
舞台が始まってしばらく楽しそうに能を見ていた佐為が、口元を袖で隠し、少し怪訝な表情になっていることにヒカルは気づき、
――佐為?どした?
――……この今、舞台で舞っている『敦盛』……私が知っている『敦盛』とは少し舞い方が違っているのです
――『敦盛』?これ幸若舞っていう舞なんだろ?
開演前に渡されたパンフレットに、ヒカルは軽く目を通したが、今日行われる能舞は大きな文字で『幸若舞』と書かれていた。
――『敦盛』は幸若舞の演目の一つです。かの織田信長公が本能寺の変で最期に舞った舞も、この『敦盛』の一文なのですよ
――人間五十年とかいう?
――そうです。『人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり』
じっと舞台から目を離さずに佐為は答えた。