IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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エピローグ (完)

青々とした芝生は綺麗に刈られ、見事な枝ぶりの松や、秋には燃えるような紅に染まってくれるだろう紅葉が植えられている日本庭。青い空には薄い雲が流れ、風にサワサワと擦れる木の葉ずれの音も耳に心地良い。

住宅街にある料亭はヒカルがいつ来ても東京のど真ん中にいるとは思えないほど、静けさに満たされていた。

 

「取り戻したな、本因坊」

 

――はい

 

「他のタイトルは別にいいけど、それだけは絶対誰にも渡すなよ」

 

――もちろん。誰にも渡す気はありません

 

本因坊を取ると自分たちに約束してくれた人はもうこの世にはいないけれど。

今はヒカルが手にしている扇子を手に持ち、毅然とした強い眼差しで佐為と対局することは叶わないけれど。

この料亭で会って対局したのが、全ての始まりだったように思う。

そこに

 

「ヒカル君、梨川先生がお見えになられましたよ」

 

後ろからかけられた声にヒカルが振り返れば、店の女将に案内されて来たのだろう梨川の姿があった。被っていた帽子を取り、小さく会釈した梨川にヒカルもそっと会釈する。

この店に誘ったのはヒカルだったが、既にこの店のことを梨川は知っていて何度か来たことがあったらしい。

 

「この店で塔矢先生と打っていたとは、確かに秘密を隠すには最適な店だ」

 

昔馴染みの客の紹介でしか客を取らない料亭。今時客を選ぶ料亭はそれこそ珍しい。だが、店に紹介する相手は逆に自分の信頼が掛かっており、本当に信頼のおける人物しか紹介しない。それが積み重なって、逆に客と店双方の信頼で成り立つ、貴重な店になりえた。

人の目を逃れ、人外のモノと碁を打つには打ってつけの場所だ。まだ何も知らなかった筈の行洋がこの店にヒカルを招きいれたのは、やはり運命が働いたように梨川には感じられた。

 

「庭の感じとか梨川先生の家の庭と似てるでしょ?ほら、あの奥の紅葉とか」

 

無邪気にヒカルが指さす紅葉を見て、

 

「いい枝振りの紅葉だ。秋になればさぞ紅葉が美しかろう」

 

紅葉は樹木の中でも幹が太くなりやすいとは言えない部類の木だが、この店に植えられている紅葉の幹は太くがっしりとしており、四方に大きく伸びてしな垂れている枝を、添木無しで支えている。

紅葉したところを梨川は見たことはなかったが、想像するだけでも素晴らしい色づきを見せてくれる気がした。

そんな梨川の感想が嬉しかったのか、ヒカルははにかんだように小さく笑ってから、無言のまま手に持っていた扇子を開いていく。

 

――人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり――

 

一年ぶりかにヒカルが舞う。

歌い手はおらず、堤の音もない。

開かれた扇子を手に、ヒカルの腕が空を薙ぎ、地を踏み、失われた筈の舞型を蘇らせていく。

 

「久しぶりだと全然ダメだな。ほとんど忘れてる」

 

「そんなことはない。いい舞だったよ」

 

パチパチと手を叩く梨川に、一通り舞い終えたヒカルが、ハハハと恥ずかしそうに扇子を閉じた。すぐ傍で佐為も同じように舞うのを見ながら舞ってみたが、忘れているところだらけだった。梨川以外誰も見ていないからと、なんとなくな気分で舞ってみたが間違いだらけの舞になってしまった。

 

「結局話さなかったのだね」

 

パチパチと叩いていた手をゆるりと止めた梨川が、誰にともなく話し始める。

誰に、何を、結局、話さなかったのか。

問うた梨川の真意をすぐに察して、ヒカルはチラリと佐為を見やる。もちろんヒカルは梨川に何も話してはいない。佐為のことを話したのは、行洋ただ一人である。

だが梨川は佐為の姿に気づいて、気づいていながら気づかないフリをしてくれている。

だから、先ほどの問いも『何が』が抜けていた。

 

「1人でいいんです。知っているのは。それに俺の存在に気づいてくれただけで十分です」

 

佐為を表で打たせるかわりに、ネット碁でしか打てなくなった自分(ヒカル)の存在に、アキラと緒方の2人だけは気づいてくれた。それ以上を望むのは欲張り過ぎだ。藤原佐為を知っているのは行洋一人だけでいい。

 

「君がそう決めたのなら私はもうこの先何も言うまい」

 

「俺の知らないところで、何かしたんですか?」

 

「結局は年寄の冷や水だよ。散々皆に分を弁えろと口酸っぱく言っておきながら、いざ自分となるとつい余計なことをしてしまった」

 

ヒカルの影の存在に気づきつつ見知らぬ振りを決めていた筈なのに、いざアキラと向き合った時、ヒカルがネット碁をしていることを話してしまっていた。あの時はヒカルの為を思っての判断だと考えていたが、今になって振りかえってみると人外の存在近くにある歓びに釘を刺した自分こそが我を律しきれていなかった気がする。

 

「……今の俺は、話す気はないんです。誰にも。ずっと誰にも話さないってそう決めてました」

 

黙って梨川の話を聞いていたヒカルがぽつりと零す。

行洋と打つようになって、そして行洋が亡くなってからはそれに増して、誰にも話してはいけないと頑なに思いこんでいた。

それは独り言に近いくらい、小さな声だった。

 

「でも、最近になって、この先もしかしたら……と思わなくもないんです。矛盾は分かってます。話す気はないけど、でも、………これから先、遠い未来でいつか自然に話せる日がくればいいなと思うようになりました」

 

たどたどしい声でそこまで言ってから伏せていた顔を上げたヒカルは、無理して作ろうとした笑顔が少し失敗して、梨川には泣き顔のようにも見えた。

 

 

 

 

 

 

■ IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - エピローグ(完)

 

 

 

 

子供囲碁大会のイベント。

全国から予選を勝ち抜いてきた12歳以下の少年少女小学生が全国1位を決める大会。場所は東京の日本棋院で地方から来る参加者であれば、当然保護者もついてくる。会場の脇に並べられた椅子はほとんど満席で、会場の各席で真剣な眼差しで碁を打つわが子を見守っていた。

 

子供たち真剣に石を打つ音と、それを見まわる関係者の足音、碁を打つ邪魔にならないよう僅かな小声だけが室内に響く。

そして子供大会の優勝者が決まる子供大会で会場が日本棋院ともなれば、棋院事務員だけでなくプロ棋士たちも多く補助として参加していた。

 

大 会会場を出て、違う部屋に移動すれば指導碁の席が用意され、対局に負けて時間が余った子供だけでなくイベントを見に来た大人も打つことが出来る。地方から やってきた出場者であれば、テレビやインターネット以外で直接プロ棋士を見たり言葉を交わすのは、それだけでいい刺激になる。

 

今年の大会で司会アシスタントを務めているのは伊角。そしてメイン司会は緒方が務めていた。

対局中であれば、対局の様子を見まわる以外に司会アシスタントの仕事はない。

自分もこんな時期があったと懐かしく思い出しながら見回っていたところで、トントンと腕を叩かれ振り返る。

 

「ちわ」

 

「し、んッ!?」

 

咄嗟に名前を呼ぼうとした口を、伊角は手のひらで塞ぎとどまった。直後周囲に気づかれなかったか見渡し、誰にも気づかれなかったことに思わずほっと溜息が漏れた。

麻のニット帽に黒縁のメガネ、そしてTシャツにチェックシャツを羽織ったラフな格好。

今日の大会に出演予定のなかったヒカルが来ていると周囲にバレたら、途端に騒ぎになって大会どころではなくなる。

 

バレないうちにと無言手招きして、会場脇の関係者席へヒカルを連れて行く。幸いにも子供たちは目の前の碁盤に集中しているし、保護者もその子供を見守るのに必死だ。関係者席に引き入れてしまえば、早々ばれるということはないだろう。

関係者席に連れて行くと、伊角の後ろからやってくるヒカルの姿に事務員や他のプロ棋士たちもすぐに気が付き、伊角と同じようにあっと驚きつつも騒ぎを起こさないよう平静を装い、ヒカルを席の奥へと引き入れる。

 

「子供囲碁大会に出演する予定はなかっただろ?いきなり来るとかこっちが驚いた」

 

「ちょっと寄ったら子供囲碁大会やってるっていうから覗きにきた」

 

「寄ってみたじゃない。全く。こっちの心臓が止まるかと思ったぞ」

 

「ははは」

 

ヒカルは軽く笑って、伊角の机に置いてありまだ使っていない紙コップ一つだして、途中で買ってきたのだろうペットボトルのコーラを注ぎ、目の前ではなく隣に置く。

出演予定の無かった7冠棋士が連絡なく会場に来るというのは十分過ぎる程に大事だ。

既に対局過多であるヒカルの負担を減らすためにイベントは本人と相談の上でスケジュール調整されているとはいえ、事務院たちの胃を常にキリキリさせる悩みの種である。

 

なにせヒカルには本因坊戦対局後、記者会見ドタキャン&ホテル脱走という真新しい前科がある。

そ れまでのストレスやプレッシャーから解放されて無我夢中で覚えていないとヒカルは曖昧に誤魔化したが、ヒカルを東京まで送ったらしいタクシー運転手から 『真っ青に青ざめて今にも自殺しそうだった』と連絡を受けていた事務員関係者は、ヒカルを保護したと緒方から知らせを受けるまで生きた心地がしなかった。

 

今回の子供囲碁大会も、本来ならタイトルホルダーが一人参加する予定だったのだが、中国で行われる天元戦直前のヒカルは、移動などの疲労も考慮に入れて、負担を減らすために出演を除外されていた。

 

「俺はそろそろ2回戦の対局が終わり始めてるから司会戻るけど、あまり騒ぎは起こさないでくれよ」

 

子供たちが真剣に打っている大会だ。ヒカルが来ていると知れば皆喜ぶだろうが、それで集中力を切れさせたくはない。

 

「司会?伊角さんが?」

 

「俺はアシスタント。メインは緒方先生だ」

 

ほらと檀上に首を振ると、緒方が薄い冊子に視線を落とし、次の司会進行のスケジュールを確認している。

 

「どうしたんだ?君は今日出演の予定はなかっただろう?」

 

伊角と入れ替わるようにして、各対局席を見回っていたアキラが関係者席に戻ってくる。

 

「んー、ちょっと。用事あって、って何だよじろじろ見やがって」

 

「……それはまさかとは思うが、変装のつもりか?」

 

「コレか?7冠祝いに院生一緒だった皆からもらった」

 

怪訝な眼差しで見てくるアキラに似合わないかな?とキャップを目深に被りなおす。自分でこういうものを買うタイミングがなかなかな無く、めんどくさがりなヒカルの性格を見越して和谷たちは7冠祝いでくれたのだろう。

帽子とメガネくらいでどれくらい変化があるものか疑っていたヒカルだったが、こうして公共の場ではない子供囲碁大会の場であっても、帽子とメガネを被っているだけで気づかれることなく関係者席に潜り込めた。

全くしないよりは、それなりに効果はあるのだろう。

 

「君はこういう子供囲碁大会に出場したことはないんだろう?」

 

「ないよ。ないけど一回だけ見に行ったら、つい対局中に口挟んで、怒られて終わった。帰り道にお前に捕まって碁会所連れて行かれたやつだよ」

 

「あれか。君らしい」

 

強引に駅前の碁会所に連れて行って、佐為が一刀両断した対局である。アキラもすぐに思い出して納得して頷く。

市河にパンフを渡されたらしいヒカルが、大会が終わる時間でもないのに駅前に戻ってきたところをアキラが捕まえた。あの頃のヒカルは碁の強さは別として、ルールなどは基本的な部分が本当に疎かった。

軽いはずみで口を挟んでもおかしくない。

 

「用事は事務所に?」

 

「それもある。飛行機のチケット受け取りと、それとは別でパスポート受け取りと、必要なもん買い出し」

 

「ああ、そういえば君は今週末から天元戦にでるんだったか」

 

「そ、明日から中国」

 

「随分早く行くんだな。天元戦は金曜からだろう?対局前に観光でもするつもりか?」

 

別に対局前をどう過ごそうとその棋士の自由である。今日が日曜で明日から行くとなれば天元戦までに3日も余裕がある。しかし飛行機に乗って移動するだけでも体力を使うのに観光までとなると肝心の対局に支障が出ないか、アキラの目に避難の色がにじむ。

それを『相変わらず真面目過ぎだなぁ』と内心思いつつ、ヒカルはすぐに否定した。

 

「時間あればちょっと観光できればとは思うけど別用。伊角さんが向こうで世話になったっぽい中国の楊海8段って人と打とうって話になってて、ちょっと早めに行くことにしたんだ。あと他にも中国のプロの人といろいろ打ってみたい」

 

前から伊角から中国武者修行で世話になった人がいると聞いていたのと、滅多に中国に行く機会もないので、他国の棋士と打てるのはチャンスである。

しかも相手は日本語が非常に流暢で通訳の心配もないというのだ。

だが、アキラは別の部分で反応する。

 

「楊海?それって君がネット碁で対局した中国棋士の名前じゃないか」

 

「塔矢よく知ってんな~。俺だって言われなきゃ思い出せなかったのに」

 

実際にネット碁を打ったのが佐為だった所為もあるだろう。伊角に楊海を紹介された時も、ヒカルより先に佐為が反応した。

それですでに一度対局したことがある相手ならばと、天元戦前の対局を了承し、事務所に当初の予定より早い日程で飛行機のチケットを手配し直してもらったのである。

子供大会2回戦の対局が全て終了し、整地した地の数を各スタッフが確認し勝敗の結果を記録していく様子を、ヒカルはぼうっと見やりつつ、

 

「塔矢は今、どっか研究会参加してるのか?」

 

「研究会なら芹澤先生のところと、若手棋士で集まってるくらいかな。君が参加しているのは森下先生のところだけだったか。自分で研究会を開いたりはしないのか?」

 

「研究会したいなとは思うけど、する場所がなぁ。棋院で部屋借りようかと思ったら緒方さんに騒ぎになるから止めろ言われたし」

 

自分の狭い部屋は論外。

今の収入があれば和谷のように一人暮らしして少し広い部屋を借りれなくもないが、そうなると家事炊事が億劫に思えてくる。

 

「場所がないなら、ウチでするか?部屋なら余ってる」

 

「えー?塔矢んち?」

 

アキラの誘いに、ヒカルは当人の前であろうと隠すことなく口をへ字にして難色を示す。いくら場所がないからと、自分が開く研究会で他人の家を使うのは避けたい。

しかし、コーラをヒカルが一口飲んだところで、アキラの提案に態度を一変させた。

 

「お父さんがよく並べていた棋譜集とか詰碁の本も部屋にたくさん残って」

 

「いく」

 

――行きます!ぜひ読みたいです!

 

ヒカルと隣で話を聞いていた佐為が同時にアキラを振り返り、途端に話に乗り気になる。

 

「やる。研究会。する」

 

――しましょう!研究会!!是非とも!

 

真剣な眼差しを向けてくるヒカルにアキラは心の中でそっとため息をついた。

自分から提案したことではあるが、ヒカルの態度の変わり様を冷ややかな眼差しでアキラは見つつ、

 

「君の扱い方がなんとなく掴めた気がして喜ぶべきなんだろうが、無性に腹が立つ」

 

最初は全く乗り気でなかったくせに、行洋の名前を出したとたんこの態度の変わり様だ。最早呆れるしかできない。

そこに、

 

「オラ、そこの関係者席。俺が壇上で喋ってんのに私語とはいい度胸だ」

 

檀上で3回戦の組み合わせと場所を指示していた緒方が、不機嫌交じりの低い声で突如矛先を関係者席へと向けたせいで、会場に集まっている子供たちと保護者たちの視線が一斉に向けられた。

 

「第一それで変装したつもりなら、アキラくんと関係者席で堂々喋ってるんじゃない。バレバレなんだよ、進藤」

 

「げ」

 

しかもせっかくバレていなかったのに、思いっきり堂々とバラされる。

途端に大歓声があがって、咄嗟にヒカルは両耳を押さえた。関係者席から遠い位置に座っていた子供などは立ち上がって生の7冠棋士を見ようと身を乗り出す。

アシスタントとして隣に立っていた伊角の顔色は真っ青だ。自分の配慮が全くの徒労に終わってしまったのだから。

 

「ということでせっかく来ていることですし急きょではありますが、本日の子供囲碁大会で勝ち上がった上位4名に進藤7冠と対局してもらいましょうか」

 

緒方のこの予定外の一言に、上がる歓声の多くは子供たちによる歓喜の声だ。16歳という歳で7大タイトルを制覇した天才棋士を一目だけでも見られたらと淡い期待を抱いていたのが、まさか対局まで適うとなれば喜ばない筈がない。

既に対局に負けた子供も、すぐそこに日本で最も強い棋士がそこにいるというだけで目を輝かせはしゃいでいる。

 

ここでヒカルが断っては、せっかく喜んだ子供たちを落胆させてしまうことになるのは明白であり、元を正せば緒方がバラさなくても、ヒカルの下手な変装がばれればその時点で騒ぎになっていた。

それが嫌なら最初から子供大会の会場に顔を出さなければよかったのに、ふらっと興味本位で顔を出してしまったヒカルの自業自得だ。

子供たちのキラキラとした羨望の眼差しと、対局を期待する期待が一心にヒカルへと注がれる。

バレてしまったのなら仕方ない。

 

――子供4人と指導碁だって。いい?

 

――もちろん私は構いません

 

佐為に確認を取りまわりを見渡すも近くにマイクはない。代わりに両腕を上にあげて丸を作り、ヒカルが関係者席から対局了承をジェスチャーで表すと、2度目の歓声があがる。

子供大会で1位になるだけでなく、次の対局に勝てば4位内が確定する。そうすれば憧れの天才棋士と対局することが出来るのだ。

 

それまで以上の意気込みと真剣さで出場者たちは対局開始まであと少し時間があるのに、盤面をさっそく睨んでいる。

ヒカルとの指導碁はアクシデントではあったが、より子供たちの集中力を高める方向に行ってくれたらしい。

 

「子供相手の対局なら少しくらいいいだろう。普段あんまりイベント出てないんだから少し付き合え」

 

司会進行をアシスタントの伊角にバトンタッチして、檀上から脇の関係者席へと、緒方が降りてくる。

予定外ではあるが子供4人と指導碁を打つことはそこまで負担ではなし、全然かまわない。

構わないのだが、どうにもやられっ放しというのは何か性に合わない。

 

「進藤くん、このコーラどうするんだい?自分でコップについでおきながら自分はペットボトルの方を飲んでこっちは一口も飲んでないだろう?なんのために隣に置いて」

 

後ろで見ていたスタッフが、自分でコップに注いでおきながら、自分で飲むわけでも誰かに分けるわけでもないコーラを不審思ったらしいスタッフが問いかける。

誰も飲まないのなら、コップに入っただけのコーラは放置していても誰がぶつかって零してしまうか分からない。さっさと片付けておきたいのだろう。

 

アキラと緒方の2人だけは何故ヒカルが自分で飲みもしないコーラを隣に置いたのか理由を薄々察する。恐らくヒカルにしか見えないsaiのためだ。

結局ヒカルはsaiの正体を話すことは無かった。無理にsaiの正体を話させようと言う気はもう2人とも全くない。そこは人が不用意に踏み込んではならず、明確にせず曖昧のままであるべき場所なのだ。何しろヒカルにしか見えない存在なのだから。

 

恐らくそこにいるのだろうと漠然と考えるしかないかった。

世界中の碁を打つ棋士達を魅了し、行洋が神の一手を求めた存在が、何も見えないヒカルの隣にいる。

 

故に、特にコップのコーラについてアキラと緒方が不審に思うことは無かったのだが、何も知らない者であればヒカルの行動は不可解でしかないだろう。そして今回も適当にヒカルは誤魔化すだろうと考えていた。

 

「何のため?」

 

問われて、一瞬ヒカルはきょとんとした顔で反芻し、次いで静かな笑みを湛えた。

一度深く閉ざされた瞼が薄く開き、口角が僅かに上がった口元、満足そうな微笑み。

そして、見逃してしまいそうなほど刹那に過る闇。

 

「そんなの、『本因坊秀策』のために決まってる」

 

ゾワ、と。底冷えた何かが緒方とアキラ、2人の背筋を一気に駆けた。空調の効いた室内でスーツもきっちり着込んでいる。寒くて冷えているなんてことはない。

なのに、体中の毛という毛が逆立ち、急に血の気が下がっていく気配、そして心臓の脈の音が耳傍近くに聞こえる。

 

「本因坊秀策って、江戸時代のかい?」

 

「そう」

 

「江戸時代の棋士のために、コーラを?」

 

「うん」

 

コーラを片付けようとしたスタッフが満面の笑みで答えるヒカルに、何事もなかったかのように笑って会話を続ける。突拍子もなく出てきた江戸時代の棋士の名前に驚くが、ヒカルが冗談を言って自分はからかわれたのだと思ったのだろう。

しかし仮に冗談だとしても、現代にまで名を残す棋聖の名前を出されては、その人物のために出された飲み物を下げるわけにはいかない。ヒカルはコーラが注がれたコップを、誰も飲まないとしても下げられたくはないのだと、冗談の意図を察し、『分かったよ』とだけ言って、スタッフはそれ以上コップについて言うことなく離れていく。

 

そうして誰も、何も気づかない。

ヒカルの傍に在るのだろう何かに。

目に見えない何かは、そうしてごく自然に現実に溶け込んでいく。

 

だが、ヒカルと共にあるsaiの正体が『本因坊秀策』なのかと、行洋の墓の前でも決して話さなかった真実を不意打ちのように知らされた心地だった。

あまりにもごく自然な会話で、ヒカルの真意は分からない。他愛ない会話の一端に過ぎないと自らに言い聞かせながら、緒方とアキラは目を合わせ、自分たちが同じことを考えているのだと察する。

 

「2人とも、そんな幽霊でも見たような顔してどうかした?」

 

急に真顔になった2人にヒカルが声をかける。そこに先ほど一瞬過った影はどこにも見当たらない。見慣れたヒカルだ。

しかし、確かに自分たちは近づき過ぎてはならない何かの鱗片を垣間見たのかもしれないのだ。

 

「まさか、さっきの本気で考えたとか?」

 

ニヤリとヒカルが人を食ったように笑み、そこでようやくアキラはハッと目を見開いた。

 

(わざとだ!進藤にからかわれたのはさっきのスタッフじゃない!僕たちこそがからかわれたんだ!)

 

それも心底性質の悪い悪戯で。

ついさっき下がった血の気が、今度は一気に頭に血が上る。

しかしアキラが口を開くより、同じく自分がヒカルにからかわれたのだと悟った緒方の怒号が響くのが早かった。

 

「進藤ぉぉぉっ!」

 

「ごっめーん」

 

緒方の堪忍袋の尾が切れる音を聞くや、ヒカルは素早く両手を顔の前で合わせてその場しのぎな詫びを入れつつ、机を飛び越え逃げ会場脇を走り逃げる。

その後ろから、同じく机を飛び越えた緒方が猛然と追い駆けだした。

 

「こんのっ、クソガキがぁあああ!!!」

 

「緒方先生!?進藤本因坊!?」

 

司 会進行をバトンタッチされていた伊角が何事かと止めようとしても、全速力で会場から走り飛び出していく2人を止めることは不可能である。しかも、子供たちも追いかけっこを始めたヒカルと緒方に気を取られ、ざわついたこの会場をどう収めるかは司会進行をしている自分にかかっていると言っていい。

戸惑いながら他の事務員たちやプロ棋士たちがヒカルたちのあとを追いかけ始めたが、

 

――俺にどうしろって言うんだこの場を!?

 

兎に角、会場内の雰囲気を少しでも落ち着かせるために、強引にでも話を別方向にもっていくしかない。

 

「えー、 囲碁とはずっと碁盤に向かって石を打つゲームですが、頭を使い非常に体力を消耗します。碁の勉強をするのはもちろん大丈夫ですが、体力もしっかりつけておきましょう。次の予定対局開始時間まであと少しですし、せっかくですから進藤本因坊を院生時代から見ていらっしゃった森下先生に当時の様子など聞いてみま しょうか」

 

長年子供囲碁大会に参加し、育成に携わってきた森下ならこの場を助けてくれるだろうと藁をも縋る気持ちで伊角は話を振ったのだが、

 

「進藤か?様子も何も今と何も変わっとらんぞ。昔も何か悪さして棋院の中で緒方君に追いかけまわされてあげくに行洋ん背中隠れて、今と何も成長しとらんな」

 

涼しげな表情でパタパタと扇子を仰ぎながら、同じような光景を以前も見たなと森下は思い出す。森下が偶然出くわした時には、すでにヒカルは行洋の背中にべったり張り付いていたが。後で聞けば原因はヒカルの子供っぽい悪戯だからと、あの行洋が苦笑して気にするなというのだから森下も呆れたものだ。

目上の緒方をからかえるヒカルの悪ガキ根性も、冷静と見えて実は熱くなりやすい性格の緒方にも、そして数年経とうと2人は全く変わっていない。

それでも本因坊をヒカルが取る間際の、何かに取り憑かれたような影が少し潜めただけマシかもしれない。時折ヒカルが垣間見せる影が全く消えることはこの先もないのかもしれないが、今はそれで良しと受け止めておくべきだろう。

 

「まぁ、決勝が終わるまでには2人とも戻ってくるだろ、放っておけ」

 

さすがにそこはプロだ。自分たちの騒ぎが聞こえるような大会会場の近くで追いかけっこはしないだろうし、仕事の出番までには帰ってくるだろうと森下は話を終らせたのだが、どうにか会場内の雰囲気を落ち着かせたいと助けを求めた伊角としては全く助けてもらえず、もうどうしようもないと諦める他ない。

 

「以上、進藤本因坊の懐かし思い出でした。では予定時間となりましたので、対局に戻りましょう。対局を初めてください……。」

 

マイクを握りしめ、弱弱しい口調で伊角は3回戦の対局開始を告げるのだ。

その後、3回戦の対局が終わった直後に、拳骨が落ちたのだろう頭を押さえたヒカルと、ジャケットを脇に持ち不機嫌な顔の緒方が会場に戻ってくるのである。

 

 




消化不十分な点も多々ありますが、一応これで斜陽は完結となります。

また、あと1話だけどこに入れるか迷った番外が続きます;;;

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