IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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19 神の一手

本因坊戦の対局は全て地方でおこなわれる。持ち時間は8時間であるため対局は2日がかりで行われた。

対局が行われる会場もホテルから旅館だけでなく神社や時には海外で打たれたこともある。そこへ出場者は前日入りしてまず大会関係者が集まった前夜祭パーティーが催され、次の日から対局本番となる。

 

今年の第一局は広島県のホテルで行われ、その前夜祭。

去年の1.5倍はいようかという人数がパーティーに参加していた。前夜祭パーティー自体は参加費を支払えば誰でも参加できるとはいえ、本因坊戦スポンサーや棋院、後援会関係者だけでなく記者の数も相当数いる中、

 

「あれじゃあ対局打つ前に取材で疲れて碁なんて打てないんじゃないか?」

 

偶然にも本因坊戦第一局の記録係になった伊角が、多数の記者たちに囲まれて取材攻勢にあっているヒカルにそうため息をつく。前人未到の7冠棋士が誕生するかもしれない対局だ。注目されるのは分かる。

しかし明日から2日間かけて対局する棋士に対して、もう少し配慮してもいいのでは?と思うのは自分の感傷に過ぎないのだろうか。インタビューだけでなくずっとフラッシュを近くで焚かれ続けて、少し疲れ始めている気がする。

 

対して挑戦者のヒカルを迎え撃つ側である桑原の方も、当然記者に囲まれてはいるが既に慣れたもので、既に見知った者も多いのか談笑交じりに楽しそうにしていた。

 

「伊角君、聞いたかい?」

 

「何をです?」

 

明日の対局で同じ記録係になった辻岡に肩をたたかれ、伊角は振り返る。

声を幾分低めている気配を察して、伊角も自然と小声になった。

 

「明日の対局だけど、すでに結構な数の高段者が観戦の為にホテル入りしているらしい。俺もさっき倉田先生が入っていく姿を見たよ。他にも緒方先生や芹澤先生も来られているらしいぞ」

 

「それって相当なメンツじゃないですか!?」

 

思わず声が大きくなりかけて伊角は慌てて口を塞いだ。辻岡が上げた名前はどれもタイトル戦を戦う常連だ。ヒカルがいなければ、誰がどのタイトルを取っていてもおかしくない。タイトルを持っていなくても挑戦者リーグなどの対局で過密スケジュールのトップ棋士が、家でも見られる中継ではなくわざわざ地方にまで足を運び観戦しようとする。

 

むしろトップ棋士だからこそ、自分たちが勝たなくてはいけない相手の対局を少しでも近くで観戦しようとしているのかもしれない。

注目しているのは世間だけでなく棋士たちも同じなのだと様々と思い知らされる。

 

「今日でそれだけの棋士が来てるということは、明日の対局当日もまだ何人か来るんじゃないか?」

 

「なんだか本当にすごい対局になりそうですね」

 

「歴史に残るのは確実だろうな」

 

普段から落ち着いている辻岡らしくなく、僅かに興奮をのぞかせ、取材陣に囲まれているヒカルをチラと振り返る。

そんな大事なタイトル戦第一局の係りとして、対局を間近で見ることの出来るのは棋士として間違いなく自分は幸運なのだろうと伊角は思う。

 

 

 

記者たちの取材がひと段落し、関係者への挨拶も終えたヒカルはそっとパーティー会場の窓際に立って外を眺めていた。ホテルは海にほど近い山中に建っており、窓から海岸線を見下ろすことができた。

明日から対局が控えている対局者は、明日に備えて20時前には退出する。

パーティー中にゆっくり出来るのはほんのわずかな時間だろう。

 

「どうした進藤?もう疲れていては明日の対局が目に見えるようじゃ。パーティーで疲れて打ち間違えても待ったは聞かんぞ?」

 

コーラ片手にぼんやり海の方を眺めているヒカルに桑原が声をかけた。現在の7大タイトル戦で最も歴史が古い本因坊戦に初めて挑戦する棋士は、特有の雰囲気と桑原の雑談(盤外戦)に大概呑まれてしまう。

だがヒカルは表情を変えることなく、チラリと桑原を見ただけで視線を暗い海へと戻し、

 

「因島はどっちかなって」

 

「因島?本因坊秀策か?」

 

「秀策知ってるんですか?」

 

島の名前を言っただけで秀策の名前が出てきた桑原に、ヒカルだけでなく佐為も目を見張る。

 

「当たり前じゃ。昔からよく秀策の棋譜は並べたもんじゃ。因島は秀策の生まれた土地じゃな。若いくせによう知っておる。お前も並べるのか?」

 

まさか島の名前を出しただけで秀策の名前が出てくるとは思っていなかった。

それに『並べるのか?』と聞かれても、秀策本人が後ろにいては

 

「たまにですけど。秀策か……」

 

曖昧にはぐらかすしかない。

その心内で、

 

――因島で虎次郎と出会ったんだったよな?

 

――ええ。まだ幼かった虎次郎が私が宿っていた碁盤を蔵で見つけたのです。それから対局を重ね江戸に出たんです

 

――いつか時間が取れたら行ってみようか、因島。多分お前が知っている頃と今は全然変わってるだろうけど

 

――ほんとですか!?いつかと言わず、必ず行きましょうねヒカル!

 

喜ぶ佐為の反応に気分を良くしつつ、そこでヒカルは体ごと桑原を振り返る。そこで周囲がちらちらと自分たちを見ていくことに気づく。

対局者同士が話しているのを邪魔しないよう気を使っても、関心と興味はそそられるのだろう。

 

「知らなかったな。桑原先生がそんなに秀策が好きだったなんて」

 

「今でもたまに耳赤の一局は並べるぞ。研究が進んだ今なら見つけられるかもしれんが、あの時代、あの場、あの対局で、それを見つけられた棋士が秀策の他にいたかどうか」

 

桑原が口にした<耳赤の一局>が何なのか分からず反応出来ないでいるヒカルに、佐為が補足する。

 

――耳赤の一局とは江戸の頃、私と井上殿が打った対局のことをそう呼ぶのです。

 

江戸時代に打たれた対局が、当時から耳赤の一局と呼ばれていたのは佐為も知っているが、この時代にまで伝わっていると分かり説明しながら感慨深いものが込み上げる。

 

「良し悪しに関係なくあれは見事な一手じゃ。だから今も語り継がれとる」

 

「もしも秀策が現代に蘇ったら、桑原先生は秀策と打ちたい?」

 

「む?いきなり面白いことを言う。そうじゃな、本因坊秀策と打てるものなら打ってみたいが」

 

突拍子もないヒカルの問いかけに、桑原も一瞬目を見開く。自身が本因坊を持ってるとはいえ、桑原に面とむかって既に遥か昔に亡くなっている本因坊秀策と打ちたいかと尋ねられたことはなかった。

それをヒカルは雑談の中で普通に尋ねてくる。

 

普通の大人でも桑原相手に話すのは緊張するというのに、義務教育を終えたばかりの歳でごく自然に問う。

やはり碁の強さだけでなく、人間性の面でも普通の子供の枠に当てはまらないということかと桑原が内心思案していると

 

「……打てるよ」

 

「進藤?」

 

――ヒカル?

 

独り言に近いヒカルの呟きが聞こえたのは傍にいた佐為だけだったろう。上手く聞き取れなかった桑原は片眉をピクリとさせつつ話題を別方向に持って行く。

自分から本因坊の座を奪おうとしてきている相手と何の意味もない雑談をするだけに話しかけたわけではない。

 

「じゃが、飛ぶ鳥を落とす勢いじゃないかのう?進藤。6冠か、欲張って調子を崩しては元も子もないぞ?それでも本因坊が欲しいか?」

 

「うん」

 

あまりにも迷いのない即答。

それもたった一言『うん』。

胸を借りるとか、大人らしい言い回しに聞きなれていた桑原にとって新鮮過ぎた。

 

「ひゃっひゃっひゃっひゃ!正直な小僧じゃ。だが簡単に本因坊は渡さんぞ?そう容易くワシから奪い取れると思わんことじゃ」

 

「………取りたいんじゃないよ」

 

僅かに目を細めたヒカルに影がよぎる。緩慢に首をふるふる横に振ってからじっと桑原を見った。そこに若手の棋士にありがちな桑原の挑発に乗るのを警戒した様子はどこにもない。

ありのままの自然体。

タイトル戦の場数を踏んだ棋士でも隠せない挑戦者側が保有者に向ける対抗意識すら全く見つけられなかった。

いくら相手が既に本因坊以外の6タイトルを勝ち取り才能に溢れた早熟の天才であろうと、たった十代の棋士だ。これから挑戦する対局相手に闘争心や対抗心を向けない棋士がいるだろうか?先ほどまでの雑談といい、ヒカルからは何も感じられない。

 

――こやつ、本当にわしと打つ気があるのか?

 

思わず桑原は本気でヒカルの姿勢を疑ってしまう。

その桑原の心中にヒカルはいくらも気づくことなく、

 

「返してもらうだけだ」

 

「何じゃと?」

 

「本因坊(アレ)はもともと佐為(オレ)のものだ」

 

「まるで自分が前は本因坊だったかのような言い方をする」

 

「打てるよ、秀策と。でも本因坊秀策は絶対負けない。返せ、あれは佐為(オレ)のものだ」

 

ヒカルは桑原を向いている。だが、その言葉の半分は桑原に、残り半分は背後にいる佐為に対して向けられていることにすぐに佐為も勘付く。

虎次郎のように初めから佐為が打ってきたわけではない。ヒカルは自分を殺して佐為に打たせている。その覚悟と犠牲の上に自分は今打っているのだというプレッシャーは、本因坊秀策だった時よりも遥かに重い。

 

――ええ、必ず勝ちます。私は負けません

 

それだけに佐為にとっても行洋との約束を果たすのと同じくらいに、ヒカルの為にも絶対負けるわけにはいかない対局なのだ。

 

「約束したんだ………必ず取るって………先生は『俺たち』に約束してくれたんだ…………」

 

ヒカルはもう桑原を見ていなかった。桑原を通り越して、誰もいないそこに別の誰かの姿を見ていた。軽く頭を下げ、桑原の横を通り過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

対局検討室で、まだ一手も打たれていない碁盤が中継テレビに映し出されている。

少し離れた位置には対局室全体を映したテレビが置かれ、盤面に向かい合う桑原とヒカルの様子を見ることが出来た。

和服の桑原が上座に座り、同じく和服に身を包んだヒカルが対面に正座し、扇子を碁盤の手前に置いて対局が始まるのを静かに待っている。

 

そして棋士たちが対局検討する部屋には本因坊のタイトルを賭けた第一戦に、緒方やアキラ、倉田、森下など段位を問わず多数のプロ棋士たちがつめかけていた。

そのなかで、ベテランに入るだろう記者の天野が

 

「勢いで言えば圧倒的に進藤くんだ。普段囲碁に見向きもしないテレビ局まで今回の対局は多数の取材班を出してきている。速報を中継する局もいくつかある。世間の期待も進藤君が7冠になるのを待っている。しかし何が起こるか分からないのが対局だ。こんな何十年に一度あるかないかの名場面、桑原先生もずっと本因坊に居座ってきた甲斐があるというものでしょうね」

 

そして自らもそんな一世一代の対局を記者として観戦できることに、常になく気持ちが昂るのを抑えられない。棋士たちが対局会場に足を運び検討することは決して珍しくないが、ここまで集まったとなると部屋の熱気も自然と上がってくる。

部屋の中央に置かれた長机に碁盤を用意し、それを中心にして各々座り、棋士たちは対局が始まるのを待っている。

 

「緒方さん、進藤が勝つと思ってるでしょ?」

 

「そういう自分はどうなんだ?他人の意見を聞くならまず自分の考えを先に言ったらどうだ倉田」

 

桑原とヒカルが映ったテレビ画面を、悠然とした態度で見やっていた緒方がフイに話を振ってきた倉田に問い返す。緒方も内心はヒカルが勝つだろうと思っている。何しろヒカルの本因坊に対する執着が半端ではない。これまで獲ったどのタイトル戦より全霊を込めて打ってくるだろう。

ただし、記者である天野が同席している場で、対局が始まってもいないのに本音を言うのは躊躇われた。

しかし、緒方とちがって倉田の方は記者が同席していようと隠すことをする性格ではなかった。

 

「もちろん進藤が勝つと思ってますよ。桑原のじいさんも大概しぶとく本因坊にしがみついてきたけど、進藤は執念とか執着とかそんなものでタイトル守れるような相手じゃない。ただあえて言わせてもらうなら、俺は進藤の碁は認めない」

 

「自分より強くてもか?」

 

元々明るく裏表のない(時にふてぶてしい)性格の倉田が、ハッキリと他の棋士を否定することは滅多にない。それが自分が対局し負けた相手であれば尚更に。

 

「自分より強くてもですよ。他のタイトル戦とかで何度か進藤と打ったけど、盤面挟んでいてもアイツと本当に打ってる気がしないんですよ。進藤通りこして別の誰かと打ってる気分になる」

 

ピクリと反応したのは緒方だけではなかった。この場にいてヒカルと対局したことのある棋士なら、薄々感じていたのと同じ印象を倉田も受けていたのかと、自分の気のせいではなかったのか?という反応だった。

 

盤面向かい合い、対局しているのはヒカル以外の誰でもない。自分の打った一手に対してヒカルが応え石を打つ。

なのに、ヒカルの盤面を見やる眼差しや気持ちの面での姿勢というべきか、自らがヒカルに向ける威圧感や闘志は全て通り抜けていく。

反対にヒカルから受けるプレッシャーや強さはホンモノだったのだが、対局後も違和感は拭えなかった。

 

「……行洋もそうだったな」

 

ポツリと森下が零した名前に、緒方が反応する。

 

「森下先生?」

 

「死ぬ前あたりにアイツが打ってた碁も対局相手を見ていなかった。碁の強さ云々の問題じゃあねぇ。最善の一手でも最強の一手でもない。対局相手を無視して盤上にいつも探してた。そんなところまで似なくていいのによ、くそったれめ」

 

忌々しそうに言うが、それもヒカルを院生時代から見てきた過去があるからこそだろう。自分の研究会に参加していたごく普通の子供が、本当の実力を隠し、隠れて行洋と打っていた。胸に一物抱えたものは必ずある筈だ。

ただそれでも森下がヒカルを心配し現状を憂えている気持ちだけは誰にも伝わってくる。

 

「塔矢先生は盤上に何を探していらっしゃったのですか?」

 

ずっと棋士たちの会話を聞いていた天野が持っていたノートとペンを机に置いて尋ねる。自分がこの話題に関して記事にするつもりはないという意思表示である。

それを見て森下が話を続ける。

 

「神の一手。アイツは本気で神の一手を求めていた」

 

恐らくヒカルと隠れて打つようになってからだろう。急に行洋の碁は若返り強くなった。しかし、行洋の碁そのものも同時に変化し始めた。

盤面に誰かを探し、神の一手など求めてしまえば、対局相手であろうと人間など見れなくなるだろう。

 

行洋が生きていた頃は森下も深く考えることなく馬鹿なことをと呆れたものだが、こうして行洋が亡くなりヒカルが高みに昇りつめようとしている今となると、深く考えなかった自分に対しての後悔と溜息しかでてこない。

 

「僕も生前父に一度だけ尋ねたことがあります……」

 

「塔矢くんも?」

 

思いがけないアキラの告白に森下が目を見開く。

あれはまだアキラがプロになった最初の年だった。

急に強くなり始めた行洋に戸惑い、また森下と同様の印象をアキラも感じて尋ねたのだ。

『お父さんは誰と碁を打っているのですか?』と。

その質問に行洋が答えることはなかったが、代わりに問われたのは<神の一手>の存在だった。

行洋自身が神の一手を求めながら、人には決して打てないという矛盾。

 

「何故神の一手を求めるのですか?と僕は問いました。そして父の答えは………」

 

僅かに間を置いて、

 

「神が神の一手を打つところを見たいがため、だと」

 

本当のヒカルをネット碁の中で見つけることの出来た今ならば行洋が誰を指してそう言ったのか理解できる。

ずっと最善の一手を探求し続けてきた行洋にとって、saiはそれだけ魅力あるものだったのだろう。

しかし、

 

(進藤の中に潜むsaiをお父さんは神と捉え、僕は鬼として見ている)

 

見ているものは同じ筈なのに、見る者次第で神にも鬼にも変わる。

梨川の言う通りだ。

 

「なぁ、俺たちは進藤を通して本当は誰と打ってるんだ?」

 

誰に言うともない緒方の疑問に答えられる者はこの場には一人もいなかった。それこそこの場にいる全員が一番に知りたいと思っている疑問だからだ。

本当は自分は誰と対局しているのか。自分と対局している相手の正体を見極めたいのだ。

 

『進藤くんはsaiであってsaiではない』

 

緒方の脳裏に料亭の庭で行洋が言っていた言葉が蘇る。

 

――塔矢先生、貴方は一体誰と打っていたのですか?

 

緒方は真実にたどり着くことは出来ていないが、今の全てのタイトルを手中にせんとしているヒカルの全てを受け入れた行洋に一種の畏れすら緒方は抱き始めていた。

例え緒方がヒカルから真実を話してもらえたとしても、行洋と同様に受け入れることが出来るかどうか疑わしい。

対局室を映したテレビ画面で、桑原とヒカルが交互に頭を下げる。

 

「時間だ、対局が始まった」

 

本因坊戦第一局が始まる。

 




モノローグにあげていた内容に到達したので、
モノローグを下げました。

この勢いのまま完結いきたい

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