IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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17 扇子

大手合の対局を終えて、アキラが廊下のベンチに座っていたところに

 

「調子はどうだ?」

 

返事を待たずすっとアキラの隣に腰掛けた白スーツの相手に、振り向きかけた顔を正面に戻す。

 

「まぁまぁです」

 

「対局そのものは勝っているものな。だが明子さんが心配していらっしゃった。家にいれば四六時中君がパソコンに噛り付いていると」

 

「緒方さんがあんな棋譜見せるからですよ」

 

アキラに直接言ってくることはないが、やはり明子は心配で緒方に相談したのだろうと察せられた。だが今回の原因は緒方も絡んでいるから、普段なら聞きたくない小言でも軽く受け流せる。緒方が『light』の棋譜をアキラに見せなければ、ヒカルが隠れてネット碁をしていようと、探す手がかりが何もなかったのだから。

 

「止めはしないが、寝るのと食事だけは抜くなよ。本当に対局できたとき、集中できず無様な碁になる」

 

「ご忠告、ありがたく。一回だけです。一回対局出来たらやめますよ」

 

それだけ聞くと緒方は立ち上がり、

 

「違っていても落胆するなよ?」

 

そう言い、最初に隣に座った時と同様さっさと立ち去って行く。

 

――落胆するのはもう慣れた。けど諦めることだけはしない。諦めたら全部終わりだ

 

 

 

 

対局申込みされたlightが先番の黒。アキラが後番の白となり、持ち時間はlight側から再設定された3時間。これまでアキラが観戦していたlightの対局は全て持ち時間30分から1時間だった。

そしてこうして対局ウィンドウが開いた対局開始時間は夕方6時過ぎ。これから持ち時間を互いに使い切って打ったとなると、対局が終わるのは日付を越えるかもしれない。

なのに『light』は『akira』にだけ持ち時間を3時間で再設定してきた。増々『light』がヒカル本人なのかと疑いが濃くなる。

 

互いに一手目は星。

お互い相手を警戒し、正体を見定めようと試してくるような手堅い碁がしばらく続く。

先に動いたのはアキラだった。次にいつ対局できるか分からない一度きりの相手に、いつまでも出方を待つだけではせっかくの好機を無駄にしてしまう。

相手が動かないなら、自分から動けば嫌でも動くだろう。

 

仕掛けてきたアキラにlightもすぐに反応した。

 

それまでの手堅かった碁が嘘のように碁盤全体に戦いが広がっていく。相手の薄いところに多少強引であっても打ち込み、地を荒らす。しかし自分の地が荒らされようとしていても、守りに入らず攻撃の手を休めない。

もはや乱戦だった。

 

気を抜けば、一気に崩れる危険性が黒白どちらにもあり、ほんの数ミリ踏み外せば転落する綱の上で戦い続けるような緊迫感。

 

――強い。lightは絶対にアマじゃない。だけど進藤の強さじゃない。誰だ?僕はこの棋士を知ってる!

 

打たれる一手ごとにディスプレイ上の碁盤から伝わってくる対局相手の気迫と情熱。

と同時に胸の奥から込み上げてくるどこか懐かしい気持ち。

 

対局はお互いの持ち時間3時間を使い切った夜の12時半近くに終わった。アキラが3目半で勝った。しかし、逆に考えれば高段者に混ざってリーグ戦を戦っているアキラが気晴らし程度ではなく真剣に打って3目半で負けるような相手なのだ。

アマの域を超えた棋力であるのは間違いない。

 

saiとネットで打った時とはまた別の驚愕。

あの時は想像していたより遥か高みから見下ろされる強さと、ヒカルと重なった一手に混乱が増すばかりだった。

だが、先ほど打った対局は驚きと共に、ずっと自信のなかった疑いが確信に変わっていた。

 

「進藤だ……」

 

――以前は初めて碁会所で僕を負かした進藤を追って追って逃げられて、ようやくネットの中で捕まえた気がした。実際、saiの正体は進藤だった。けど、これも確かに進藤だ

 

お互いプロになってから再び対局し、駅前の碁会所で何度となくアキラと対局した進藤ヒカル。アキラから見てもまだ甘いところが少しあるが、自分の生涯の好敵手として認めた相手。

 

しかし、行洋が亡くなってヒカルがsaiであると判明してからは、二度と打つことのなくなった相手が、ネットの闇の中にいた。自分の生涯唯一人の好敵手であると認めた相手だ。対局者の姿が見えないネット碁であろうと間違えはしない。

ネット碁の『light』は進藤ヒカル。

 

「どういうことだ?なんだこれは?どうして進藤がネットに?」

 

囲碁界で破竹の勢いでタイトルを総なめにしている最強の実力ではなく、碁会所でアキラと共に検討し切磋琢磨していた頃の、アキラの目にも甘さが見つけられた実力で打っている。

久しぶりに打つことのできたライバルとの対局に、心の片隅で懐かしさを感じ、喧嘩しながら打っていた光景が思い出された。

 

――saiが表に出てきて、代わりに進藤がネットの闇に消えた?

 

「進藤の中に進藤が2人いるんだ………」

 

アキラに初めて挫折を覚えさせたsaiと、全くの初心者から碁を覚えアキラを追ってプロになったヒカルの2人が一人の人間の中に混在している。

混在というには正確ではないかもしれない。一人の人間が二つの棋力を完璧に打ち分けているのだから。

 

そしてsaiが打つとき、ヒカルは盤面に碁石は打っても対局観戦者になる。

今、アキラを含めたプロ棋士たちが対局しているのはヒカルではない。

自分たちが打っているのは、ヒカルの中に潜むヒカルではないもう一人のヒカル:saiと打っている。

 

――お父さんは進藤と打っていたんじゃなかったんだ……。あなたは進藤ではなくsaiと打っていたんだ……

 

行洋が何故他人に内緒でヒカルと対局していた理由をずっと考え続けてきた。と同時にどうして何事にも厳しい厳格な性格の行洋がsaiを隠そうとしたのか、その訳をずっと知りたかった。

 

正直、息子のアキラにも黙っていた行洋を恨んだこともある。

だが、その行洋の意図を、先ほどの対局でようやく掴んだのかもしれない。

闇にいたsaiが表に出てきたせいで、本来表にいるべきヒカルがこうして闇に消えてしまった現実。

棋士たちを打ち破る圧倒的な棋力に目を奪われてしまった周囲。

 

――お父さんはこうなることが分かっていたんだ。saiが表に出てくれば本当の進藤に誰も見向きしなくなって闇の中に消えてしまうって。分かっていたからsaiを隠そうとしたんだ

 

ようやく父親のことが理解できたかもしれない喜びと、そしてヒカルが闇の中に消えてしまいもう二度と表に出て打つことができなくなってしまった悲しみと虚しさ。

 

――お父さんの判断は正しかった、そして………

 

天井を見上げ、両腕で目を覆う。

その重ねた腕の隙間から涙が一筋伝い落ちた。

 

 

 

 

 

待ち合わせ場所はヒカルの自宅がある最寄駅から2つ先の駅のカフェだった。朝9時にアキラがヒカルの家に電話して、どうしても手渡したいものがあるからと待ち合わせを約束し、待ち合わせの昼1時より15分遅れてヒカルは到着した。

カフェの店内を見渡し、すぐに先に到着して座っていたアキラの姿を見つけて小走りにやってくる。

 

「ごめん、待たせた。電車でちょっと捕まって」

 

「別にそこまで待ってないから気にしないでくれ。だから少しは変装しろと言ってるだろう?帽子1つでも十分君のその特徴的な前髪は隠せるんだ。それにこっちもいきなり朝から呼び出してすまなかった」

 

昼間のワイドショーや夕方のニュースでも取り上げられるようになったヒカルが、偶然すれ違った一般人に捕まることは決して少なくない。今日はまだプライベートの待ち合わせだから良かったが、仕事がある日にサイン攻めに合い遅刻寸前で会場に滑り込むという話をアキラは何度となく聞いていた。

その度に服装を変えろと忠告するのだが、ヒカルは一向に自分の服装に頓着せず、今日の服装も長袖のパーカーにGパンとごくラフな装いで、気づいたファンに捕まってしまう。

 

「別に用事はなかったしいいよ。新しい碁の本とかついでに見たかったし」

 

はに噛みながら、ヒカルは通りがかった店員にコーラを頼む。

余所余所しさな不自然なところはどこにも見つけられない。しかし、このヒカルの中に2人のヒカルが存在する。

 

(君の中に君が2人いるのは分かった。お父さんが隠れて進藤ではなく本当は誰と打っていたのかも。何故隠そうとしたのかも理由は分かった。けど、だとするなら進藤の中にいるsaiとは何者なんだ?)

 

行洋の考えが理解できても、最後に残り続ける謎。それはいくらでも推測は出来ても、ヒカル自ら話さなければ真実を知ることは出来ないだろう。

じっとヒカルを見やるアキラに、様子を伺っていた佐為が口元にそっと扇子をあて、

 

――やはり先日の相手はアキラだったようですね

 

――みたいだな

 

すでにヒカルもネット碁で対局した『akira』が、目の前に座っているアキラである確信はあった。1年以上ぶりに打ったアキラとの対局。自分の甘いところは決して見逃さない。そして多少不利でも地をもぎ取る粘り強さ。記憶の中のアキラよりさらに強くなっていた。

 

ヒカルがオーダーしたコーラはすぐに運ばれてきた。

それに一口つけて

 

「で、俺に渡したいものって?」

 

「これを」

 

脇に置いていた紙袋をアキラは差し出す。

 

「何だこれ?」

 

差し出された紙袋に入っていたのは、長方形の桐箱だった。袋を覗き込み、それからちらりと開けていいのか確かめるようにチラリとヒカルはアキラを見た。

 

「遅れてしまったが、お母さんから君が名人になった祝いを渡して欲しいと頼まれた」

 

「塔矢のお母さんが?俺に?」

 

予想していなかった名前が出てきて、ヒカルは顔を傾げて桐箱を箱から取り出す。そして丁寧に包まれた絹布の中から一本の扇子が現れた。

 

「これ……」

 

「お父さんが生前ずっと使っていたものだ。対局の時はいつも持っていた」

 

「塔矢先生が!?こんな大切なものお前こそ持ってなきゃ!ダメだ!受け取れない!」

 

慌てて絹布で包み直し、ヒカルは桐箱の蓋をしめてアキラの方へと突き返す。棋士として行洋が使っていたものを自分が貰うわけにはいかない。息子のアキラこそこの扇子を持つのが当然だとヒカルは思う。

しかし、突き返された桐箱にアキラは目もくれず、

 

「僕も君に譲るのが最もいいと思った。君が名人だ。お父さんと同じ。君以上にそれを持つのにふさわしい人物は考えられない。お母さんもそれを望んでいる。どうか受け取ってくれ」

 

ヒカルをじっと見ながら静かに語りかけ、アキラが引くつもりがないのは伝わってくる。だがこの扇子を本当に自分が受け取っていいものか迷ってしまう。

 

――ヒカル、ありがたく受け取りましょう。それが行洋殿のご家族の気持ちならありがたく受け取りましょう。

 

優しく微笑みながら、遺族の気持ちを無碍にしてはいけないと諭す佐為に、ヒカルはぎゅっと瞼を閉ざしてから再び瞳を開き、そっと桐箱を引き寄せた。

 

「ありがとう。塔矢、大切にする」

 

もう一度そっと桐箱の蓋をあけ、そっと絹布を開く。純白の和紙と竹で作られ、タイトルはもちろん公式対局でも、そして離れの部屋でも行洋の手に必ずあった扇子。

それがこれからは常に自分と共にある。

 

「次の本因坊戦、頑張ってくれ」

 

あえてヒカルの名前は言わずにアキラは激励した。

石を置くのはヒカルであっても、本当に対局しているのはヒカルではないともう分かっている。

そのアキラの心中に気づくことなく、ヒカルは扇子の入った桐箱を両手で握りしめ

 

「必ず、本因坊取ってみせるよ………」

 

急にヒカルの眼差しが細められ鋭さを帯びる。

 

――まるで君は本当に本因坊に取り憑かれているようだ

 

そしてヒカルの中に潜むsaiが本因坊を奪おうとしている。

 

 


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