IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

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12 バタフライ

佐為の眼差しが厳しいままであることにヒカルは気づいていた。

そして、佐為をそうさせている理由にも同じく気づいていた。

 

先ほど黒の地に踏み込んだ一手で、佐為の白石は大きく黒に追いついた。

しかし―――

 

石を打てない佐為の代わりにヒカルは石を打っているだけの対局だったが、二人の間で、誰よりも一柳の狙い、佐為のヨミをヒカルは感じ取ることが出来た。

最後まで読みきると、佐為が半目届かない。

佐為もそれを理解しており、刻々と終局へ向かおうとしている盤上から、それでも起死回生の死活を探そうと必死になっているのだ。

 

「ありません」

 

頭の中は佐為の半目負けで盤上を判断していた為、一柳の投了がヒカルには少しの間、理解できなかった。

 

 

――投了?でも……

 

確認するようにヒカルは視線だけ佐為の様子を見やったが、佐為もまた一柳の投了に驚いたように目を見開いている。それからすぐにヒカルの視線が己の判断を伺っていることに気づき、佐為は複雑な表情で瞼を閉ざす。

 

――気づかなかったのですね、一柳殿。けれど……

 

閉ざした瞼を開き、ヒカルを見やれば、このまま一柳の投了を受け入れていいのかどうか迷い、佐為の答えを待っている。

ヒカルも佐為同様気づいているのだ。

この一局、一柳の黒に逆転の一手が潜んでいるということに。

だから、ヒカルは一柳の投了を受けて、どうするべきか佐為の応えを待っている。

 

 

佐為は無言で頭(こうべ)を横に振った。

それを見て、ヒカルは口を開いた。

 

「……ここ、確かに必要な一手だって誰でも思う」

 

 

 

 

『今日の名人戦の一局すごかったですね』

 

大阪で行われた名人戦第一局の検討が一通り終り、和谷のアパートから帰る道すがら、携帯を取り出し、大阪まで観戦しに行っている門脇に電話をしたのだ。

ネット中継や中継ブログでもある程度棋譜について分かるが、会場にいて直に対局者二人に混じって検討するのでは全く違うだろう。

ついでに第一局目を勝利したヒカルの様子も聞ければというとことだ。

けれど、電話口に出た門脇の口はいやに重い。

 

『………』

 

『門脇さん?どうかされたんですか?』

 

『……これはまだ大阪の会場関係者でしか知られていないんだが、……やったんだよ、進藤くんが。こんなの間違いなく前代未聞だろうな』

 

ようやく口を開いたと思っても、門脇の話は要点が抜けていて、伊角には何を話しているのか全く分からない。

 

『やった?進藤が何か?』

 

『一柳先生が投了した直後に、逆転の一手を指摘して一柳先生の勝ちだって、負けを宣言した相手を逆に勝ちだと笑顔で言ったんだよ』

 

『……なんですか、ソレ?え?でも、あそこから逆転が?』

 

言われてすぐに伊角は理解できず、家への歩いていた足が止まる。

対局の終了中継をテレビで見たが、そんな様子は何も映されていなかった。

確かに、テレビ中継の映像が、おかしな編集がされていると、伊角以外にもテレビを一緒に見ていた和谷たちも同じように首をひねっていた。

最初に一柳が投了し頭を下げて、そこで一度映像が編集され、次にヒカルがアップで映され礼をとる画面へと変わった。

 

通例らば、1画面に二人が入った状態で、両方が交互に礼を取る映像が映されるのに。

 

けれど、それを指摘するより、碁の棋士として聞き逃せないことを門脇は言った。

ヒカルが逆転の一手を指摘したのだと。

一柳の投了後に指摘したというからには、その一手は一柳が持つ黒石の一手なのだろう。

 

『整地が極端に細かくて俺にも完璧には理解できていないんだが、どうもそうらしい』

 

『ええええ!?それって対局中に指摘したってことなんですよね!?それで一柳先生はどうされたんですか!?けど対局は進藤が勝って!?』

 

『どうもこうも、狐に抓まれたような顔になったと思ったら、いきなり爆笑し始めて』

 

『ソレで?』

 

『あとは、どっちが勝ちか言い争いだ。一柳先生も一度言った自分の投了を引っ込めるつもりはないの一点張りだし、進藤君は逆転しているんだから一柳先生の勝ちだって言うし』

 

『じゃあ、結果はどうなったんですか!?』 

 

『手番は一柳先生だから、そのまま打たずに時間切れを待てば自然進藤君の勝ちだ。進藤君が勝ちを認めないなら、時間が切れるまでお茶飲んで待つって一柳先生が言い始めて』

『それで進藤が勝ちを認めたんですか?』

『渋々ね……』

もはや門脇の口調は呆れている。

『渋々で一勝……』

 

タイトル戦の一勝を渋々で認める棋士など、過去の棋士にもいないだろう。

テレビとネット中継でしか経過を知らなかったが、大阪の会場ではそんな騒ぎになっていたのかと、伊角は開いた口がふさがらない。

和谷のアパートで皆と集まっていたとき、和谷が『天才の気持ちは凡人には分からない』と言っていたが、今の伊角の気持ちは正しくそれだった。

対局後の検討で、逆転の勝ち筋を正直に伝えるのならまだ分かる。

気づいてしまった一手を、自分の中だけの秘密にせず、ちゃんと相手に言うことの出来る勇気も、すごいと思う。

しかし、投了した直後に、勝ち筋を教えて相手の勝利を笑顔で言ってのける天才の気持ちは、凡人には皆目分からない。

『検討会の後にさ、進藤君が退室したあと一柳先生が言ったんだが……』

『門脇さん?』

『もしも、どこかに碁の神様がいて、その神様が愛す棋士がいるとしたら、それはきっと進藤君だろうな、ってさ』

『一柳先生がそんなことを……』

その時の一柳の顔を伊角は直接見ていなかったが、どうしてか穏やかに晴れ晴れとした顔で一柳は言ったような気がした。

名人戦は第一局目の問題以外は、何事もなく終わった。

世間の期待通りに、世間の関心を集めるネタを欲するメディアの希望通りに、ヒカルがストレートで一柳を下した。

まだタイトル戦が終わるまではと、第一局でヒカルが起こした問題は公に伏せられていたが、タイトル戦が終わって『名人戦』のダイジェストと特番が組まれる中に、その前代未聞の事件は天才ゆえの事件として、メディアを賑わせた。

投了した相手に、逆転の一手を笑顔で指摘した棋士。

15歳という歳で名人というタイトルを取ったニュースに、さらなる華を添える形になった。

各局のテレビの中で、これから囲碁界はしばらくヒカルの時代が続くだろうと解説者が語るとともに、世界に遅れを取っている日本の代表として、再び世界で戦える棋士として活躍が期待されると熱弁している。

そのテレビ取材にヒカルもプロ棋士の仕事の一環としていくつか出演したが、棋院側も名人戦が終わっても次のタイトル戦が控えているヒカルに配慮して、最低限の取材数に抑えた。

テレビの特番で、どこにでもいるような若者がよく着ている私服姿で、しどろもどろにアナウンサーの質問に答えるヒカルと、対局中のスーツに身を包み真剣な眼差し碁盤に向き合うヒカルと、より対比が目立つように交互に映される。

ヒカルが名人のタイトルを取って、メディアの熱がまだ冷めやらぬ中、ヒカルはスケジュールの合間を縫って都内のとある墓地にいた。

来る途中の電車の中で、テレビの中で持て囃されるヒカルの姿に気づいた者も幾人かいたが、囁かれるまでに留まり、声まではかけられることなく辿り着くことができた。

 

墓石に彫られた『塔矢家の墓』の文字。

そしてサイドにある墓標の列に『塔矢行洋』の名がある。

この墓に行洋は眠っている。

 

一通り墓石に桶の水をかけ、持参した花と線香を添える。

「先生、今日は報告に来たんだ。もう誰か先に来て言っちゃってるかな?」

テレビの中では一度も映されなかったような、自然で親しみのある笑顔を浮かべ、ヒカルは行洋の眠る墓石に語り続ける。

「いい報告だよ。佐為がね、名人に」

――ヒカル、『私』ではありません

言っている途中で佐為の訂正が入り、ヒカルは隣を振り返った。

 

「佐為?」

 

――『私たち』です。ヒカルと私が二人で『名人』になったのです

 

そうでしょう?と首をかしげて問いかける佐為に、ヒカルはきょとんと無防備な表情になった。

佐為に言われるまでそんなこと考えたこともなかったのだ。

碁を打つのは佐為であり、ヒカルは石を置いているだけに過ぎないのだといつも思っていた。

 

『二人で名人』

 

その言葉が、ヒカルには新鮮であり、どうしてか胸の奥が熱くなる。

対局中、いつも除け者のような疎外感を感じていた風穴を佐為の言葉が埋めていく。

 

クルリと行洋の墓に振り返り、

 

 

「ごめん、さっきの訂正する。佐為と俺が、二人で名人になったんだよ。でもそんな実感全然無いんだ。みんなが俺のことを『名人』って呼ぶんだけど、変な感じ。名人って言ったら、塔矢先生のイメージしかないし」

 

逆に名人と呼ばれるたびに、自分のことではなく、行洋が呼ばれているのだとその姿を探して振り向いてしまうほど、ヒカルの中で『名人のタイトル』は行洋に浸透している。

 

「来年は、いよいよ本因坊だ」

 

本因坊のタイトル戦は5月から7月にかけて7番勝負で行われる。

行洋が亡くなったのが、ちょうどタイトル戦の真っ最中であったことで、ヒカルの本因坊への挑戦は2年越しになってしまった。

行洋がヒカルと佐為に『本因坊』を取ると約束してくれた日のことが、昨日のことのように鮮明に思い出される。

佐為の存在を受け入れてくれた行洋と、何も隠すことなく、ヒカルのありのままで碁を打つことが出来た。

3人だけの閉ざされた空間で、一番碁を打つのが楽しく嬉しかった時間。

 

「また来るね。次は、本因坊を取ってから。必ず取ってみせる。だから……」

 

ヒカルの表情が、ここに来て初めて引き締められる。

 

「……だから、先生、俺たちのこと応援しててね」

 


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