もうすぐGW間近という休日に、いつものように誰に知られることなくヒカルと佐為に会っていた行洋は、興奮しながら来月から行われる本因坊戦で行洋ならきっと勝てると応援してくるヒカルに、クスリと苦笑しながら答えた。
「本因坊か」
もちろん、ヒカルに言われるまでもなく、行洋も当然考えてはいる。
本因坊のタイトルは5月から7月にかけて行われる7番勝負。
行洋は1月から行われる棋聖戦を勝ち、一柳からタイトルを奪取したことで前人未到の6冠タイトル保持者となっており、もしこの本因坊のタイトルも手に入れれば7大タイトル全てを制覇することになる。
無言で行洋に寄せられる周囲の期待も分っている。
だが、息子であるアキラはヒカルと同じ歳だが、幼い頃から囲碁に親しみ、碁を打つことの苦しさを知っているせいか、慎重に言葉を選ぶきらいがあった。
タイトルを取ることが、どれだけ難しく困難なことか十二分に分っているので、父親であろうともタイトルが取れるなど軽々しく口にすることはない。
だから、囲碁を覚えて2年、そしてプロになって一ヶ月足らずのヒカルから、臆面なく無邪気に言われると苦笑するしかなかった。
囲碁界に疎いヒカルに悪気はなく、心から行洋に本因坊を取ってほしいと思っているだけなのだ。
「先生ならきっと取れます!」
「しかし、桑原先生は一筋縄ではいかない方だ。そう簡単にはタイトルをお譲り下さらないだろう」
現に去年は緒方が挑戦者として対局したが、惜しいところで手が届かなかった。
緒方は何も言わなかったが、5番勝負で行われる対局で4番勝負まで全て桑原が行っている。
タイトルをかけた対局でこれまで緒方が封じ手を行ったことはない。
最期の第5局目で緒方が初めて封じ手をしていることに、ありえなくはないが、僅かな引っかかりを行洋は覚える。
しかし、それが反則というわけではないので、全ては対局結果が全てだ。
もしワザと桑原が仕組んだとしても、緒方が言いがかりをつける理由にはならず、盤外戦のいい経験をしたと言うしかない。
だが、盤外戦を仕組んでまで桑原は本因坊のタイトルにしぶとくしがみ付いているのだ。
相手が緒方から行洋に代わったところで、桑原がハイどうぞと素直に対局することはないだろう。
そんな行洋の思考が佐為にも伝わったのか、
――あ~…言われて見ると確かに……
行洋の言い様に、佐為はエレベータですれ違った桑原を思い出し、自分も苦手だとばかりに顰めてしまう。
あれほど『年季』と『老獪』が似合う人物も、これまで佐為が知っている者たちの中にもそうそういない。
「佐為まで何弱気になってるんだよ!本因坊ってお前のタイトルだろ!?」
―― うっ……それはそうですけれど……
ヒカルに怒鳴られるも、佐為は言い返すことが出来ず、痛いところを突かれたように言葉を濁す。
本因坊のタイトル戦が創られたのは、最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉が『本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものである』という思いから、日本棋院に『本因坊』名跡が日本棋院に譲渡されたのが始まりである。
そして江戸時代に『本因坊秀策』として現代に名を残しているからには、『本因坊』のタイトルは佐為のタイトルと言っても差し支えないが、ヒカルが佐為を背負うことを拒んだため、再び佐為が『本因坊』になることは叶わない。
けれど『本因坊』になれないとしても、その名前に名残はある。
虎次郎と佐為が二人で歴史に残した大切な名前だ。
それを行洋が佐為の存在を知った今、『本因坊』は他のタイトルとは違った意味と重みが出てくる。
「佐為のタイトルならば、私も是非頑張らねばならないな」
「ホントに!?絶対『本因坊』取ってねっ先生!約束だよ!?」
念を押すヒカルに、ふとプロ試験で行洋が口にした全勝合格を、ヒカルが本当に果たしてしまったことを思い出す。
あの時は、プロ試験に臨む気構えと目標として行洋は言ったのだが、合格したヒカルは合格が決まったことではなく、全勝合格出来たことをわざわざ電話で行洋に知らせた。
それが二人の間で交わした『約束』として。
タイトル戦で、誰かに必ずタイトルを取るといった見栄や約束をしたことは、行洋はこれまで一度もない。
他の棋士が何と言おうとも、他人は他人であり自分は自分と割り切り、どの対局にも全力で臨んできた。
タイトルを必ず取るなどと無責任なことは行洋は決して口に出さず控えてきたのだが、行洋の目の前にいるヒカルは、反対に行洋が軽はずみで言った全勝合格を約束として真剣に受け止め、そして約束を果たした。
行洋の表情が穏やかに緩む。
「そうだね、約束だ」
ヒカルが行洋に言われて合格ではなく全勝を目指したように、必ずタイトルを取ってみせると自らをより強くするための、ささやかな決意の表れなのかもしれない。
大勢の前ではなく、スポンサーや後援会の付き合いでもなく、ましてや息子のアキラや弟子達でもない。
聞いているのは、見ているのは、恐らくヒカルにだけしか見えない佐為だけ。
佐為だけがこの約束の証人。
行洋は棋士として初めて、最強の幽霊をその身に憑かせた子供と、小さくささやかな約束をした。