【ベルリンの総合商社本部】〔9/1〕
私は買収した企業を総合商社とまとめ、第一世界大戦で通貨偽造スキャンダルに巻き込まれていたヒャルマル・シャハト氏をスカウトし、戦争中はラーイシュタット内で過ごしてもらっていたので、私は彼に頼んで総合商社を運営してもらうことになった。
彼の補佐には、元々ラーイシュタット内で経済を学んでいた孤児10人とミレニアム軍集団時にジークフリード線で土木関連の統率能力が優れていたフリッツ・トートと戦争末期に少年ながら大人以上の効率重視の統率で武器を造ったアルベルト・シュペーアをあてた。
アルベルト・シュペーアはまだ14歳の少年だったが、トートとシャハト氏を師匠と呼び、メキメキと頭角を現すのだった。
(後にシュペーアは少年達の人気者となり、写真集が出るのだった。)
また、私はアメリカに残っていた金の全てを使ったマネーゲームを開始した。
【ラーイシュタット】〔9/14〕
私は同志トロツキーに旧ドイツ帝国の余っていた武器の輸出をすることを報告した。
これにはグレーナーからの要望もあったからだ。
同志トロツキーも日本のシベリア出兵に困っていたのでちょうどよかったようだ。
〔9/16〕
この日、ミレニアム軍にいた士官と若い士官達がグレーナーから送られて来た。
理由は、士官達の質を向上させることと、機甲戦と兵站を理解させてほしいとのことだった。
グレーナーはⅠ号Z型戦車を見て、今後の戦争は戦車が主役だと確信していたのだ。
彼らを私は歓迎し、私と雨咲が機甲戦を、機動防御作戦についてをシャトロハイムとマックスに、冬季の防御及び攻撃をトハチェフスキー等のロシア士官に、航空機の運用をLとNに、兵站をホフマンとヒトラーに任せた。
ヒトラーは今回の戦争で物資不足に一時陥ってしまったことで、末期には兵站のスペシャリストと呼ばれるようになっていたのだ。
共和国軍の若い士官達はⅠ号Z型戦車の性能を見て、すぐに有用性を確信し、今回の戦争で大量に生産できればと涙を流すのだった。
彼らには、新型としてⅡ号X型戦車とⅡ号戦車Y型を見せると、評価はⅡ号戦車Y型が好評だったので、私達はⅡ号戦車Y型を製造することを後日、ミレニアム幹部で決定し、数年後Ⅱ号X型戦車はイタリア軍設計図と実物を別の技術と交換するのだった。
〔12/30〕
この日で士官達の教育が終了し、彼らは帰っていった。
彼らは約10年後、本部の上官となり、機甲戦や電撃戦を基本戦術となるのだった。