~106~
ワルプルギスの纏っていた密度の濃い暴風が――幕が開くように消えていく。
暴風が消えると同時、虹色に発光する無数の魔方陣が魔女の背後に展開され、舞台照明のようにワルプルギスを照らし出す。
ドレスの修復は、既に完了していた。
暴風の幕が開き、魔法陣に照らされ姿を見せるワルプルギスの夜。ドレスを披露する為に用意した、演出の一環にも思えるほどに仰々しい登場だった。
そう考えるとあの暴風は、ドレスの修復中に邪魔が入らないようにする意図があり、結界的な役割を担っていたのだろう。
修復作業に従事していた使い魔も、役目を終えたからか姿が消えている。主演女優の邪魔をしないよう、舞台裏に引っ込んだのかもしれない。
群青色のプリンセスドレスを纏ったその姿。
絢爛豪華にして、演劇衣装のような派手なデザイン。
フリルのボリューム感が割り増しされ、胸元には光り輝くコサージュが装着されている。
銀色の縁取りと金色の刺繍が随所に施され、総攻撃を受けてボロボロに破損していたドレスは、元の状態より一層優美な仕上がりになっていた。
「キャハハハハハハハハハハッ!!」
歓喜を知らせるように、甲高い笑い声が響き渡った。背筋に悪寒が走る耳触りな声音。
その途端、ワルプルギスの魔力が更に膨れ上がる。
もう私にもその総量を推し量ることができない。途方もない、桁違いな魔力量。規格外過ぎて、変な笑いがこみ上げてくる。私の心を何度殺せば気が済むのだろうか。オーバーキルもいいところだ。
これこそが『正位置』についたワルプルギスの、完全体とでもいうべき姿。
私には、あれを倒せるビジョンがどうしても見出せない。何をどうしたって勝てるわけがない。
ああなってしまえばお終いだ。破滅の未来しか残されていない。そうなる前に決着をつけなければならないと改めて認識する。それほどまでに次元が違う。
その凶悪な魔力に当てられ、足の震えが止まらなくなる。身が竦み、全身が凍りついたような寒気に襲われる。
私は、あんな化物と戦えない。逃げ出したい。そう否応無く思わせるほどの圧倒的な魔力。
それこそ、今すぐに時間遡行を行いこの場所から――この絶望に支配された世界から立ち去りたい。
でも。それでも。
屈服してしまいそうな心を偽装し、どうにか心を保つ。必死に繋ぎ止める。
私はこの戦いを見届けなければならない。
無謀な戦いであったとしても――
それが蛮勇であったとしても――
決して勝ち目のない勝負だとしても――
阿良々木暦が戦う意思を示す限り、私はそれを見届けなければならない。
それが、これから彼に助けを求めようとしている私にできる、唯一のことだから。
~107~
阿良々木暦は、既に臨戦態勢に入っていた。
いつもの頼りない緩い表情は消え、口を真一文字に結んだ真剣な面持ち。
吹き荒れる風に煽られ、髪が激しく揺れている。そこから覗く双眸は力強く、ワルプルギスを鋭く睨み付けている。
あのワルプルギスを前に、恐怖の感情は微塵も感じられない。
そしてワルプルギスに対し、ゆっくりと大胆に――真正面から近づいていく。
あまりにも無防備過ぎる前進。無論、ワルプルギスもこの接近してくる相手に、気づいていないわけもなく――敵対者と見定められていた。
その証拠に、ワルプルギスから真空波が放たれる!
空間を歪ませるように迫る風の刃。無数の鎌鼬が襲いかかった!
あえなく、阿良々木暦は四方から無残に切り刻まれ、腕が千切れ飛び、体中に深い裂傷を負い、血塗れの姿に…………なったその瞬間、その傷は跡形もなく消え去っていた。切り離された腕も、刻まれた衣服も、全て元に戻っている。飛び散った血も蒸発して、傷を負ったという痕跡が、何一つ残っていない。
一瞬見えた目の錯覚のようだった。
でも、そうじゃないと解っている。驚異的な治癒力でワルプルギスの攻撃を無効化したのだ。これこそが、吸血鬼の不死性。
避けるまでもないと誇示するような、不遜な態度。
何も起きなかったかのように、彼は前進を再開していた。
まるで意に介していないと知らしめるように、愚直に突き進む。
ただ、ワルプルギスにしても、あんなのはただの小手調べに過ぎなかったのだろう。
次いで、発せられたのは、暴風を押し固めた風の塊だった。
竜巻を無理やり押し込めたような、螺旋を宿した巨大な球体。
唸りを上げ周りの空気だけでなく、周囲に浮き散らばっていた瓦礫を吸い込み粉砕していく。
それはまるでブラックホールのように――通り過ぎた空間には何も残っていない。
あれに呑み込まれたら、幾ら治癒力が優れていても、確実に死ぬ。全身が圧搾され押し潰される。肉片一つ残らない。間違いなく“受けてはいけない攻撃”の類だ。
しかし、それが迫ってなお、彼は回避行動に移らない。
寧ろ自ら接近するように近づいていく――いや、そうか。吸引力に抗えず、逃げたくても逃げられないのでは? でも、それにしたって、焦った様子は見られない。
螺旋の球体が間近に迫ったところで、阿良々木暦が右腕を掲げ――
そのまま羽虫を払うような手振りで、その右腕を振り払った。
「え!?」
思わず声が漏れる。目の前で起こった現象をうまく理解できない。
事実だけを述べるなら、その腕を払うという軽い動作だけで、迫り来る風の塊を掻き消した。あの軽い手振りで相殺した?
私の思考が追いついていない状態で、更なる攻防が展開される。
今度は何が起こったのか、容易に理解できた。簡単に説明できる。
まずワルプルギスが魔術で、近場にあった高層ビルを根元から引き抜いた。
次いで、それを操作し、阿良々木暦に向け発射した。暴風を纏わせ、速度を底上げした状態で。
それに対し阿良々木暦は、迫るビルを真正面から受け止め、キャッチボールの要領で投げ返した。
……………………幾らなんでも滅茶苦茶過ぎる。こんなことって!?
理解できるからこそ、理解できることではないのだ。自問せずにはいられなくなってしまうのだ。
目の前で繰り広げられたことなのに、自身の目を疑ってしまう。この出来事を、どう形容すればいい。
だが、ワルプルギスもそう簡単にやられるようなことはなかった。
投げ返されたビルが直撃するも、魔法の防御壁でも展開させて対処したのか、損傷は見られず――体勢を大きく崩しているものの、撃墜には至っていない。
と、そこで。阿良々木暦が大きく動く。
今までは敵の攻撃を受け、それに応じた反撃は行っていたけれど――ここに来て攻めに転じるつもりなのだ。
翼を羽ばたかせ、一気に急上昇し高度を上げる。その遥か上空で異形の翼を大きく羽撃つ。
そこで私の視界から彼の姿が消えた――これも吸血鬼の能力? いや違う。これはただ単に、目で追える速度ではなかったということ。
それほどまでに異常な爆発的加速。
「どこに!?」
視力を強化した上で、注意深く観察していたのにも関わらず見失った。
目線を忙しなく動かし、姿を探していると――――ある異変に気付く。
ワルプルギスがまた逆さの体勢に戻っていた。上下逆さまになっている。
でもそれは『正位置』から戻ったことを意味していない。魔力の量は全く変わっていない。
ならば、それは何らかの予兆。危険の前触れ。ワルプルギスが大規模な魔術を放つ前段階、その準備動作なのではと考えたが………………そうではなかった。
ワルプルギスに気をとられ過ぎて、"その存在"に気付けなかった。
逆さになったワルプルギス。その頭部を両手で掴み、持ち上げている吸血鬼の姿を。
刹那の間にワルプルギスとの間合いを零にし、あの魔女の巨体を"力任せに反転"させたのだ。有り得ない光景だった。
それから何をするつもりかと思えば、弓なりに大きく身体をのけ反らせ――スローインするようなフォームでワルプルギスを地面に投げつけた!
地響きを伴わせ地表を猛烈な勢いで削りながら、ワルプルギスは吹っ飛んでいく。
見滝原の中心街に轍のような爪痕が出来上がる。元々戦場になっている場所なので、街に新たな被害が出た訳ではないが、目に見えて地形が変わってしまっていた。
修復されたドレスの大部分が、また崩れている。
それでも致命的なダメージを与えられた訳ではないようで――ワルプルギスは再び浮上を開始する。
その浮上に伴って、周りの瓦礫という瓦礫、放置された自動車や、半壊したビルや木々を根こそぎ――ありとあらゆるものが同時に浮上していく。
元々そういった性質を持っていたが、範囲が拡大している。
しかも、その浮き上がった物質がワルプルギスを中心とし、渦を巻くように動きだし――次第に強烈な暴風と共に魔女の周りを旋廻し始めた。一瞬にして瓦礫の濁流が出来上がっていた。
その異観は、昔見た有名なアニメの天空の城を守護する『竜の巣』のようだ。
これでは迂闊に攻め込むこともできない。近付けば渦に呑まれるのは明らか。
けれど――阿良々木暦はなんの躊躇もなく、その荒れ狂う竜巻に突っ込む!
台風程度の強風ではない。
局所的な一点集中型の強力なサイクロン――それもビルのような建造物を巻き上げる程の、通常ではあり得ない暴風。
それに身を投げ入れるなんて、自殺行為以外の何物でもない。
高密度の暴風の中に侵入した事で、その姿は見えなくなった。飛行能力があろうと、当然その制御を失うことになる。暴風に弄ばれ、瓦礫にぶつかり唯では済まない――
そうなるはずだった。
そうならなければ、絶対におかしい。
しかし『吸血鬼』は人智を超えていた。私の常識を簡単に打ち破ってみせた。
私が次に見たのは、暴風の中心――所謂台風の目と呼ばれる箇所から飛び出した彼の姿だった。
しかも、戦利品のおまけつきで。
「ギャァアアアアアアアアアア!!」
ワルプルギスの叫び声が木霊する。
展開していた暴風が掻き消え、その姿が露わになる。
そこには"片腕を無くした"魔女の姿があった。
そして、その"無くなった片腕"は――阿良々木暦の手の中に。トロフィーを見せつけるように頭上に掲げている。ドレスも纏めて魔女の右腕をもぎ取っていたのだ。
「グァガァアアアアアアアアアア!!」
つい先ほど上がった悲鳴とは趣の異なる咆哮。
絶対の防御――暴風の防御壁に侵入を許し、あまつさえ自身の腕をもぎ取られたワルプルギスは、狂ったように雄叫びをあげていた。
これは痛みによる悲鳴ではなかった。憤然たる空気を醸し出す怒号。
ワルプルギスが、確かな『怒り』の感情を露わにしている。
珍しい……というより初めて聞いた。こんな余裕を無くしたワルプルギスを見るのは初めてだ。
夢でも見ているような異様な光景だった。
完全にワルプルギスを手玉に取っている。一方的な蹂躙劇。
敢えて自分の力を誇示するような戦い方なのは、キュゥべえに対してのパフォーマンスなのかもしれない。
阿良々木暦は、キュゥべえとの交渉を目論んでいる。その一環として、吸血鬼の力の有用性を示すことを目的にしていると話していた。
正直、私はワルプルギスさえ倒せればそれでいい。まどかさえ無事ならそれでいい。
何にしても、彼の力は――吸血鬼の力は想像以上だった。
これなら――勝てる。
そう思った瞬間――それは起こった。
発狂したように、悍ましい絶叫を上げ続けるワルプルギス。
それに呼応するように、魔力が大きくうねり出す。
この魔力の波動は間違いなくワルプルギスのものだった。
中空に描かれた紋様の輝きが増していき、膨大な量の魔力が集まっていく。
周囲に展開していた魔法陣が目映く明滅、発光し――大規模魔術が展開される。
それは、一言で表すのなら――『ワルプルギスの夜』そのもの。
別に謎かけをしたい訳じゃない。
本来の意味で使用される『ワルプルギスの夜』という言葉は――中欧や北欧で広く行われる行事を指す。
その行事では、『復活祭の篝火』として、火を焚く風習が残っている。大きな篝火を焚いて、春の到来を祝う祝祭の日。本来は大きな篝火を焚いて、魔女を追い払う儀式。
そんな光景が今、この見滝原の一角で始まっていた。
ワルプルギスの眼下に広がる荒廃した街並みに、不自然な自然発生ではない火の手が上がる。それはすぐに中心街全域に燃え広がり、見滝原は火の海と化す。
その炎は、青、紫、黒といった色合い混ざり合い、異質な色をしていた。
黒き炎が地表を浸食していき、地を這うように範囲を広げる。一帯が炎で覆われていく。
生命に満ち溢れていた草木は瞬時に炭化し脆くも崩れ落ちた。
コンクリートで出来たビルであろうと、鉄製の車だろうと――全てが等しく融解し、溶けて爛れ堕ちる。
溶岩地帯のように、地表はドロドロになり――車の液体燃料に引火したのか、其処かしこで爆発が巻き起こっている。
灼熱の炎――地獄のような光景だった。
そして、燃え広がった炎がワルプルギスの巻き起こした風に煽られ、更に焚き付けられる。
火の手が一層激しくなり、強風と合わさって逆巻く巨大な火柱となった。
火災旋風と呼ばれる現象に近いのだろうが――それとは全く異なる魔術的な力だ。
火柱が龍のように立ち昇り、蜷局を巻くようにワルプルギスの周囲を包み込んでいく。
一見すれば、魔女の火炙り――それは火刑に処される魔女を想起させる。
しかし、この炎の発生源はワルプルギスなのだから、自身が焼かれ自滅するようなことはなんてあるはずがない。
これはワルプルギスの意志によって引き起こされた、凶悪な魔法なのだ。
魔女狩りで行われた処刑方法。それに酷似した攻撃手段を用いるなんて、皮肉的だ。
もしかしたら、そういった最後を遂げた魔法少女なのかもしれないなんて、場違いな考察をしてしまう。
見かけ倒しじゃない、全てを焼き尽くす闇の炎。火種が燃え尽きようとも、その炎は消えることはない。ワルプルギスの膨大な魔力を糧にしているのだから、際限なくどこまでも延焼していく。
その火焔地獄を前に、阿良々木暦は初めて逡巡を見せていた。
表情は相変わらず無表情に近い研ぎ澄まされたものなので、そこから感情を読み取るのは難しいが、攻めあぐねているのは確かだった。
当然だ。ワルプルギスは猛炎を纏っている。近寄よるだけで炙り殺される。焼き殺される。これでは手も足も出ない。
加えて問題なのは、『火』という現象――それは吸血鬼にとって、致命的な弱点に他ならない。
強大な力を有していることへの反動ともいうべき代償なのか、吸血鬼は数多くの弱点を持っている。
日光、十字架、大蒜、聖水、銀、他にも細かなモノを上げればまだまだあるが、そうした数ある吸血鬼の弱点の一つに『火』も含まれている。世界に普及している代表的な、私でも知っている、吸血鬼の有する弱点の一つ。
しかもそれは、『弱点』と表現するよりも、吸血鬼を退治するために用いられる、かなり有効な『攻撃手段』と言ったほうが正鵠を射ていた。驚異的な不死力、回復力を持つ吸血鬼を再生させることなく殺しきる方法だった。
古来より炎は『太陽の断片』として、神聖なものとして扱われることが多い。現代においても、邪悪なモノを払う儀式などには用いられている。
あの禍々しい炎が神聖なモノだなんて思えないけれど、それでも『火』という性質を持っているのは間違いない。
吸血鬼に対する特効の攻撃手段として、ワルプルギスがこの炎の魔術を発動させた訳ではないのだろうが………………。
あと少しだったのに…………希望を抱いた瞬間、それは儚く消える。
なんでなんでなんで!
どうしてどうしてどうして!
心の中で叫ぶ。慟哭する。
必死で手を伸ばしやっと手が届きそうだと思ったら、見計らったようなタイミングで消えて無くなる。悔しく、歯痒くて、もどかしくて、胸が締め付けられる。この行き場のない感情をどうしたらいいのかわからない。
もう、苦しくて、見ているのも辛い。
この現実から目を逸らしたい。
この理不尽な世界から抜け出したい。
「…………え?」
そんな精神的に摩耗しきった私の心に止めをさす、惨憺たる光景が目に入った。
私は呆気にとられ、絶句する。
血の気が一気に引いていく。
もう駄目だ。
何をとち狂ったのか…………阿良々木暦が、あの炎の中に――業火を纏ったワルプルギスに突っ込んだのだ…………。
………………他に方策があるわけではないのだから、そうするしかなかったのだとしても――本当に本当に、正気の沙汰ではない。
生身で溶鉱炉に身を投げ入れるようなものだ。鉄を融解させる程の熱を持つ炎は、人間なんて完全に燃やし尽くしてしまうだろう。いとも容易く。骨すら残さずに灰燼に帰す。
それが吸血鬼であろうとも。
…………もう、十分だ。
これ以上この世界に留まっても――より深い絶望を感じるだけだ。
私は全てを見届けた――
阿良々木暦の最後を――
そう判断し、私は――もう一度『繰り返す』為に、小楯に触れ――
ようとした――その手が止まる。
異音。
何かが激しくぶつかったような、不可解な轟音が響き渡った。
次いで――
「グァギャアアアアアアアアアアアアアア」
断末魔の叫び声。ワルプルギスの絶叫が異音に遅れて耳に届く。
崩壊した天空の城のようにワルプルギスが地に落ちてく。いや違う。落とされたのだ!
魔力の供給が断たれたせいか、魔法陣が消失し、黒い炎が消えていく。
いったい何が起こったというの? 阿良々木暦はいったい何をした!?
その答えは、焦土と化した地上に横たわるワルプルギスの状態を見て、推察することができた。
ボロボロに崩れ落ちたドレス――その半壊したスカートの奥。
片腕のなくなった上半身と、歯車でできた下半身を繋ぐ、鉄柱のような一本の車軸。
身体を支える背骨の役割を担う、その太い車軸が――ぐにゃりと折れ曲がっていた。
これが意味することは――あの灼熱の炎の中で、阿良々木暦が問答無用に攻撃を決行したということ。
どうやってあの灼熱を耐えたのかは解からない。でも、彼は吸血鬼としての異能を使って、対処したのだろう。何かしら火に対する耐性、無効化する術を持っていたということだ。
流石に無策で飛び込むわけがない。そう思った。
そう、確かに――阿良々木暦は"その術"を持っていた。
しかしそれは、あまりにもあんまりな対抗手段。
いや――"対抗"なんてしていなかったのだ。
阿良々木暦の身に何が起きたのか、彼が何をしたのか――私は、それを知る。
地に横たわるワルプルギスの傍に、異様な白煙が上がっている箇所があった。
他にも煙の上がっている場所はあるけれど、そこだけが、やけに異質な雰囲気を放っていた。
次第に薄れていく煙。
その薄煙の中に、幽鬼のように立つ黒い影があった。
焦土となった黒き土壌の上に、得体の知れない何かが立っていた。でも、間違いない。それ以外考えられない。煙の発生源は、阿良々木暦だった――――そう思われるモノが立っていた。
炭化し黒く変色した肌から、煙を立ち昇らせている。噴出している。
無謀にも炎に身を投じた代償。無事で済むわけがない。全身の肉が焼かれ、焼け焦げた死体そのものに見える。
だけど、彼は立っていた。揺らぐことなく、地を足で踏みしめている。
確実に生命としての鼓動を脈打っていた。
炭化してしまったどす黒い肌が……確かに死んだ体細胞が……壮絶な勢いで"再生"していく。
この白煙は、再生に伴って生じる現象だったのだ。
間違いなく『死』に直結する致命的な外傷。
死んだモノは決して蘇らない……その不文律を覆す悍しい異観。
生と死の混在。常軌を逸する所業。
「…………」
あまりにも凄惨な光景に、思わず息を呑む。
吸血鬼の治癒力が高いのは知っていた。先の戦いでもその脅威の治癒力は目の当たりにし、知ってはいたのだ――けれど、これほど馬鹿げた治癒力だとは思っていない!
いや、そうだ。阿良々木暦の話はだいたい聞き流していたので、あまり記憶になかったが、思い出した。
彼は伝説の吸血鬼の眷属。吸血鬼の中でも異質な存在なのだと。
だから彼は――世に居るであろう他の吸血鬼とは『別格』であり『例外』なのだ。
通常なら、炎に焼かれ灰になって死んでいたはずのダメージを、それを上回る不死力で覆した。死を回避してみせた。
そう。治癒速度が著しく減退しているものの――圧倒的な再生能力で、ワルプルギスの炎を"無視"したのだ。
肉を切らせて骨を断つなんて言葉があるけれど、それに倣うなら、肉を焼かせて骨を断った――そういうこと。無理も通れば道理になる。
己の身を考慮に入れず……捨て身の攻撃を決行したのだ。強引に押しきった。
でもまだ、終わってはいない。グリーフシード化していないということは、まだワルプルギスは生きている。しかし、もう浮上することもできないようだ。既に虫の息。満身創痍なのは明らかだ。
魔女に止めをさすべく、緩慢に歩き出す。
横たわるワルプルギスの方へと、ゆっくりと歩みを進める。
一歩進むたびに傷は癒されていき――皮膚も、徐々に復元されていく。ようやく、表情が読み取れる程度に傷が癒える。
火傷なんて言葉では表せない傷を負ったにも関わらず、その表情に苦悶はなく、一切の曇りもない。
そして、ワルプルギスのもとに辿り付いた時には、髪も皮膚も服も、時間を巻き戻したように。全てが元からそうであったように。完全に元通りになっていた。
ワルプルギスの間近――手を伸ばせば歯車に触れられる至近距離で、阿良々木暦が構えをとる。
その構え――その光景は、何度か見たことがあるものだ。
彼が、ずっと繰り返し練習していた――ワルプルギスに対して、とどめの一撃を放つ為の構え。
両脚を地につけ、腰を落とす。
弓矢を射るかのように右腕を後方に引き、あきらかな“溜め”の動作へと移行する。
十分に引き絞られれば、おのずと次の行動に移る。標的を射抜く為、矢を放つ。
溜めの状態から一気に引き絞っていた右拳を繰り出した!!
言ってしまえばただの右ストレート。力任せのパンチに過ぎない。
けれど、それは最強の吸血鬼が、最大の力を込めて放った一撃だ。
即ち、この世界に於ける最大の攻撃手段。
耐久力の高いワルプルギスと言えど――その攻撃に、耐えきることはできなかったようだ。
ワルプルギスを純然たる力で制圧した。
その確かな証として、ワルプルギスはグリーフシードへと変化している。間違いなく、ワルプルギスは消滅した。
ワルプルギスが弱かったなんて絶対に有り得ない。
ただ彼が、それを上回る力で持っていただけのこと。
キュゥべえからの伝言――阿良々木暦の言葉を思い出す。
――紛い物じゃない、偽物じゃない本物の化物の力を、本当の吸血鬼の力を見せてやる! だからまだ諦めるな!――
私は一人、小さく頷く。
本当の吸血鬼の力を見せてもらった――と。
ワルプルギスが偽物とは言えないけれど、彼の前では、偽物同然なのは確かだ。
彼こそが正真正銘、本物の化物だ。