次の話はうまくいけば今日中に投稿します。
「はぁ、はぁ……」
息が上がる。
別に100m走を何度もしたわけでも、それこそ25mプールを何度も泳いだわけではない。
すでにその疲れはある程度癒えている。水泳で鍛えた体は数十分も前の疲労で息を切らしたりはしない。
だというのに。
荒い呼吸が止まらない。
止めようとしても、止めなくてはいけないとわかっていても収まってなどくれない。
汗が滲む。体が震える。
「みく、怖いよ……」
「やっち……」
ロッカーの中。水着姿の二人は体を寄せて震えていた。
こつ、こつと迫るハイヒールの足音。それは死神の足音のごとく一歩一歩近づいてくる。
いつもは強気な真鍋美久も、この状況では借りてきた猫のように、いや、その猫にすら追い詰められるネズミのように震え、怯えていた。
しかしそれは仕方がないことだ。
彼女たちは特別な訓練を受けた人間ではない。
恐怖に耐える訓練も、自分を抑える訓練も何もしていない。神楽や黄泉のように、このような緊急の事態に備えて来た人間ではないのだ。
彼女たちがしてきたことなど部活動で単に体を鍛えることぐらい。だというのにこの状態で冷静にしていろという方が無理な話である。
足音が近づいてくる。
人間の耳は優秀なもので、両方の耳が正常に聞こえているならばその音がどの方向か、どのくらいの距離なのかをある程度把握することができる。
特に静寂に満ちた空間では顕著であり、そしてそれが二人をかえって苦しめる事となっていた。
「……!!」
二人は息を飲む。その音が自分たちの隠れているロッカーの本当に近くで止まったのだ。
すぐ近く。もしかすると目の前にいるかもしれない。
そんな恐怖に怯えながら二人は息を殺してロッカーの中で互いに抱きあう。
抱き合うことしばし。
祈りが通じたのか、その足音は自分たちの方から離れていった。
ほっと息をつく。
死の恐怖から開放された二人は冷や汗を流しながらも体の力を抜く。
助かった。そう思った瞬間、
「「きゃあぁぁぁぁぁ!!」」
ガンガンとロッカーが叩かれる。
異常なまでの轟音がロッカー内に響く。
殴られているのはロッカーなのにまるで自分たちが叩かれているような錯覚に陥る。
怖いという感情すら浮かばない。
感情を理解する暇もない。できることと言えばただただ自分を守ろうと必死に体を丸くすることだった。
何度も何度も鉄パイプがロッカーに叩きつけられる。まるでロッカーごと潰して来るかのように、何度も何度も。
「―――ふっ!」
いつまで続くかもわからないような地獄。
それから二人を救ったのは、どこか聞き慣れた少女の声と、鉄パイプと何か有機物が床に叩きつけられる音だった。
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「―――ふっ!」
舞蹴を一閃させる。
もう息を吐くように行えるようになった動作。最初は重かった舞蹴も、今や既に私の一部と言っても過言ではないくらいになっている。
そんな舞蹴を一閃させれば、カテゴリーDの腕くらい断つことは容易だ。それこそ目をつぶってだってできる自信がある。
このままもう一太刀を浴びせればそれで終わる。
女の子が入っているロッカーを叩き続けていた凶悪なカテゴリーDを除霊することができるのだ。
ただ刃を振るう、それだけで解決する簡単なこと。
そう、簡単なこと。簡単なことなのに。
「ダメ……来ないで……」
刃が震える。
カタカタカタカタと、音を鳴らして鋼が揺れる。
隠しきれない心の動揺を、刀身の震えが雄弁に主張する。
瞳が揺れる。呼吸が乱れる。
苦しくて、視野が狭まる。見えているはずで、すべて視界には収まっているはずなのに。
それでもその世界を見たくなくて、否定したくて。
「お願い……やめて……」
ヒールの音が一歩一歩近づいてくる。こつ、こつと、ゆっくり、私に向って明確な殺意を持って歩み寄ってくる。
腕を切られているというのに、痛みなど全く感じさせないゆったりとした歩み。
普通に日常を生活するかのような歩みで距離を詰めてくる。
それもそのはず。私が相対しているのはカテゴリーD。怨霊化した人間の死体。怨霊に操られた、もはや人間ではない《《モノ》》なのだから。
退魔師ならばどんな相手であろうと、毅然として刃を向けなければならないことはわかっている。いつも言われているし、心がけてもいる。
どんな状況で、どんな場面で、どんな相手であろうと。向けるべきものは駆逐の意思であり、決して動揺であってはならない。退魔師が背負うのは人類の命であり、それを守る責任なのだから。
だが、そうは言っても、わかっていても―――。
「先生……っ」
簡単に割り切れる訳がない。
だって。私の目の前で動いている《《モノ》》は。
私がこの手で腕を切り落としたカテゴリーDは。
私の、好きになった先生なのだから。
足が後退する。後ろに一歩、二歩と下がっていってしまう。
ダメだ。下がってはダメだ。でも、でも。
「……人の世に、死の穢れを撒くものを退治するのが私たちの使命。人の世に死の穢れを撒くものを退治するのが私たちの使命」
念仏のように唱える。
助けて。誰か助けて。
「人の世に死の穢れを撒くものを退治するのが私たちの使命。人の世に死の穢れを撒くものを退治するのが私たちの使命」
嘘だ、いやだ。なんで、どうして。
動揺で足が震えているのがはっきりとわかる。
たぶん、瞳も揺れ動いているだろう。はたから見れば異常なまでに震えているに違いない。
気丈に振舞おうとしたけど、とても無理だ。
こんなの、耐えられない。斬れる訳がないよ……。
助けて、助けて。黄泉、凛ちゃん……!
正直、どうにかなってしまいそうだった。
でも、退魔師として磨いてきた経験というのは非常に優秀で、同時に残酷だった。
「―――うぁぁぁぁぁぁ!」
刀が一閃する。
この緊張状態からは申し分のない一撃。たぶんこの状況下でなら満点解答のそれだった。
私にとっての満点解答。それはつまり相手にとっては致命的なことで。
「……っう」
綺麗なまでに真っ二つになった先生の姿。
それを私の体は、拒絶した。
胃の中のものが逆流する。受け入れたくない現実を吐き出すかのように、溢れ、零れていく。
まるで体のすべてがしぼりだされるかのような、そんな感覚。
―――痛い。痛いよ……。
斬ったのは私なのに。手にかけたのは私なのに。
私の心は、まるで私自身が両断されたかのように痛みを主張していた。
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「神楽!!……くそ、遅かったか……!!」
血が各所に飛び散る廊下を走り、俺は神楽のいる教室に飛び込む。
都内各所に発生したカテゴリーD、Cの群れ。
本当にとんでもない量が発生しており、俺もその制圧に参加していた。
低級の怨霊ばかりであったため駆除にそこまで労力を要しはしなかったが、その量が異常であり、対策室では手が回らないという状況であった。
なので新米である俺も一人で持ち場を持たされて駆除していた。なかなかソロで除霊を任されることは少ないのだが、それだけ人材が不足しているということなのだろう。
俺の持ち場が片付いたので次の指令を求めて携帯を開くと、一つ気になる霊力分布図が送られてきていた。
それは一つの中学校。よく名前を聞いたことのある、聞き覚えのある中学校だ。
その名前を見た瞬間俺は走っていた。俺の持ち場からも近いし、何よりもそこは神楽の学校だったのだ。
なんで走ったのかは俺にもよくわからないけど、なんとなく嫌な予感がしたのだ。
果たして、その嫌な予感は当たってしまった。
教室に飛び込むと同時に感じる酷い血の臭い。
この臭いだけはどれだけ経験を積んでも、どれだけ強くなっても慣れることが出来そうにない。
「神楽、神楽!大丈夫か!」
「けん、ちゃん」
呆然とした顔をしながらも神楽はこちらを振り向く。
へたり込む神楽の前にあるのは生命を失ったことが一瞬でわかる―――元々死んでいたのだからこの表現が適切なのかはわからないが―――女性の死体だった。
まだ自分には難しいような綺麗な切り口で一刀のもとに両断されている、女性の死体。
カテゴリーD、怨霊化した人間の死体。それがここにあるということは。
それを神楽が切ったということだ。
「けん、ちゃん、けんちゃん!」
俺がぼけっとしていると、神楽が俺に抱き着いてくる。
飛び込む、という表現が一番適切な勢いで、生まれたての小鹿のように震えながら。
「……神楽」
「けんちゃん!けんちゃん……!」
痛いぐらいの力で俺の腕をつかみながら、俺の胸に頭を埋めて涙を流す。
まるで幼い少女のように、まるで無力な少女のように。
退魔師土宮神楽ではなく、一人の少女が俺の胸の中で泣いていた。
―――今まで、神楽はカテゴリーDを切れなかった。
俺とかからすればあんなものそこらの物体と変わらないのだが、神楽からすればそうではなかったらしい。
彼女にとって、あれは人間だったのだろう。決して、簡単に切れる《《モノ》》ではなかったのだ。
そして―――
(神楽、お前が《《斬った》》のってもしかして……)
抱きしめてあげようと思い手を背中に回そうとすると、後ろからキィ、という音が聞こえてくる。
「……!!」
とっさに首だけで後ろを振り向く。
瞬間的に頭に浮かんだのは怨霊の残党。この異常事態だ。まだ怨霊が潜んでいても全くおかしくはない。
そう思い戦闘態勢に移行しようとしたのだが、そこにいたのは駆逐すべき怨霊ではなく、水着姿の一般人だった。
「……先生」
そう行って立ち尽くす彼女らが出てきたのはボコボコにされたロッカーだった。
なぜドアが開いたのか不思議なほどにボコボコにされたそれから、二人の女の子が出てきたらしい。
「一般人……?えっと、君らは……」
「土宮……?」
理解できない、といった顔でこちらを眺める二人の少女。
その二人の視線は神楽に向けられている。
名前を知っている、ということは恐らく知り合いなのだろう。
「神楽の知り合い……か?」
「そう、だけど。何で土宮がここにいるんだよ……」
「えーっと……」
「先生はどうなってるんだよ……なんで土宮が剣なんかもってんの……?」
「えっと、それは。とにかく少し落ち着いてくれ」
茶髪の女の子が話しかけてくるが、俺はあまり口が上手い方じゃないため、しどろもどろになってしまう。
こんな時に桜庭さんとか岩端さんとかがいてくれたら楽なのに。
「事情はもう少し後でくる人達が説明するから、ちょっとだけ今は待ってくれないか?」
「待ってって、そんな」
「理解が追いついてないのはわかる。でも少し落ち着いてくれ。……いや、落ち着ける状況じゃないっていうのはわかるんだけどさ」
「この状況で落ち着けって……?そもそもあんた誰なんだよ?」
「俺はなんていうか、神楽の仕事仲間?みたいなもんで……、とにかく、君たちが危ない目にあうことはもうないから安心してほしい」
首だけを女の子たちの方に向けながらなだめるという不思議なことをやりながら神楽の背中をたたいてあげる。
本当になんでこんな時に
そのあとも色々と言葉を投げかけてくる女の子をなだめながら、到着してきた桜庭さんたちに説得は任せ、何とかこの場は凌ぐことができた。
ただ、神楽と女の子二人の間にできた溝は、なかなか埋まりそうにない。そんな、印象を抱かせた。
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「―――誰だ」
熱で朦朧とする頭と意識の中、俺は部屋の隅に向かってそう問いかける。
部屋の中には誰もいない。居るのは本当に俺だけだ。
だが、何かが確実に存在する。何故かわからないが俺にはそれがわかる。
殺生石に近づいたときのような、そんな不快感が俺の中に存在している。その感覚が告げる。
―――俺にとって良くないものがこの部屋にいると。
『ほう、気がつくのか。やはりお前はこの世界の中でも異物のようだ』
ふわりと、意識が歪むかのごとく。まるで最初からそこにいたみたいに突然白髪の、白スーツをまとった筋骨隆々の老人が部屋に現れる。
180は優に超える長身に、土宮殿クラスの体格。非常に威圧感のある男だが、正直今回そんなことはどうでもいい。
明らかに人間ではないことがすぐわかるだとか、そんなことも正直どうでもいい。
それよりも、
「土地神……?」
『お前と私は初対面のはずだが、それもわかるのか。本当に貴様は規格外の人間なのだな』
なぜ、土地神が俺の前に姿を現す。
土地神。それは
こいつは決して喰霊-零-の中の登場人物ではない。漫画の、喰霊-零-の数年後を描いた作品の終盤で登場するキャラクターなのだ。
こいつは最終版の剣輔達の前に姿を現し、世界の終わりに関する重要な情報を教える役目を持った存在だ。
それが、今俺の目の前に現れている。これは、一体どういうことだ。何故こいつが俺の眼の前に居る。
本気で理解が追いつかない。何故、こいつが……?
こいつは喰霊-零-の時間軸で出てきていいわけがないというのに。
「なんであんたが……?」
『本当なら現れるつもりはなかったのだがな。個人的にお前に興味があって今日は現れた』
「興味があって、だって?」
本気で困惑する。
黄泉の粥のおかげか熱が多少下がってきたとはいえ、まだ39℃を超えている。
そんな頭で思考し続けるが、本当にこの男が俺の目の前にいることに疑問しかわかないのだ。
「神とやらがなんで俺に興味を持つ?それにあんたの登場は……」
もっと、後のはずだ。
そう言いかけた言葉をのむ。
『そう邪険にするな。今日は別にお前にとって悪い話をしに来たわけではないのだ』
「悪いけど、何故か知らないけど俺はあんたに
『嫌悪感?お前と私は初対面のはずだが。……いや、成程。そういうことか』
「……なんで納得するんだ?よくわからないがとにかく、残念ながら俺はあんたに良いイメージを抱けないらしい」
『ふむ。それもお前の自己防御の術なのだろうな。ますます興味深い』
顎に手を当て、そう呟く土地神。
「自己防御……?」
『あくまで推測だがな。お前は我々神をして解明のできない謎の多い存在だ。私が語ることもあくまで推測に過ぎん』
戦闘は非常に頭を使う。一瞬にして生死が入り乱れるその瞬間を的確に把握しなければならないのだから、勉強なんて比ではないくらいに頭を使う。
だから俺も頭を使うことには慣れているつもりだったが、こいつの言葉は殆どが理解できない。
本気でこいつは何を言っている……?
『訳が分からない、といった顔だな、小野寺凛』
「当たり前だ。ここで訳が分かる人間がいるか」
『それもそうだな。だが、こう言えば察しがつくのではないか?―――この世界に生まれるはずのない
理解が出来ていない俺に向けて。
理解が出来ていないまま目の前の男はそう告げたのだった。