事の発端は今朝のこと。
特に用事もなく城を歩いていると中庭で焔耶を見つける。オレの知人であるということと何進が許可を出していることもあり、焔耶は頻繁に城に出入りしていたのだが、その横にいる少女のことは知らない。焔耶と一緒にいるところをちょくちょく見かけるがどこの誰だろうか。
騒ぎを起こさないのなら文句を言うこともない。大方何進が許可でも出しているのだろう。なにもなければ一瞥してその場を離れるだけのことではあったが、そうは出来ない事情があった。
自分の背丈を越える斧をぐるぐるとぶん回す少女。その風圧で辺りの砂は舞い上がり、遥か彼方へと飛んでいく。焔耶は少女の横で偉そうに腕を組み、なにやら檄を飛ばしているが一体なにをしているのやら。知らんぷりをしたいところではあるが立場上、素通りはできないだろう。
「……あのさ。君達は一体なにをしてるんだ?遊びにしてはいくらか物騒だけど」
あまり気は乗らなかったが仕方がないので声をかけてみる。
木の枝でも回しているのなら微笑ましいで済むのだが、斧を回されちゃ知らん顔はできない。というか武器持参で入城して来るとか門番も止めろよ。
「……左慈だ。こんにちわ」
「はい、こんにちわ。それで君はこんなところで何をしているんだい?」
「太守様が入っていいって言ったから。焔耶とみんなの邪魔にならないところで訓練してるの」
オレは呼び捨てで何進は様付けとな。
まあいいか。別に敬ってほしいわけでもないし。真名で呼んでいることから焔耶とは仲が良いんだろう。思えば何回か一緒にいるところを見かけたことがある。そういえばいつも斧を振り回していたな。なにかの儀式だろうか。
チラッと焔耶を見ると大きく頷かれた。いや、それじゃわからんよ。
「まあ、頑張るんだぞ。お兄さん忙しいからもう行くわ。怪我だけはしないように」
よくわからないが問題も無さそうなので立ち去ろうと思う。
訓練らしいしオレが居ても仕方がないだろう。焔耶もいるし大事に至ることもないはずだ。何をしているのかはさっぱりだが、時にはそういうこともあるだろうと。何進の許可も取っているらしいし入城していることも問題はない。
そのまま来た道を引き返そうとするも焔耶に肩を掴まれる。
「待ってくれ左慈!ワタシ達がなにをしているのか気にはならないのか?」
「特に気にならないかな」
「そ、そうか。だが理由を聞けば興味を示すはずだ。だがこれはワタシのことじゃないから勝手に話してしまうのも……だな。本当にすまん!」
「いや、ぜんぜん気にしてないから。形式的に尋ねてみただけだし。むしろ邪魔して申し訳ない」
申し訳ないが別に興味はないな。
訓練の内容を聞いてもアドバイスできるとは思わない。それにほとんど赤の他人に割って入られても困るだろう。少女はオレの名を知っているようではあるが、オレは少女の名を知らないし。空気を読んで撤退が無難な判断だろう。
少女は眠たいのかぼんやりとした瞳でオレを見ていた。どこかで見たような髑髏の髪飾りで前髪を上げ、着崩しているのか乱れているのか微妙なラインの服装をしている。乱れているのなら正してやりたいが、お洒落でしていると言われてしまった日には目も当てられない。
少女はぼんやりとオレを見ていたが視線を焔耶に移す。そしてなにかに合点がいったのか二、三回ほど小さく頷き、また視線をオレへ戻す。
「……左慈にも特別に教えてあげる」
「ん?教えてくれるというのなら聞くけど、正直訓練のことはよくわからないが……」
「特別だよ。実はね……」
斧をぐるぐる回して空を飛びたい。
そのための訓練を日夜焔耶と一緒に行っているらしい。最初は聞き間違えたのかと思ったが、二度確認したが同じ返答が返ってきたのでどうやら正しいようだ。
それが少女の夢とのこと。無垢な瞳でそんなことを言われてしまった日にはオレも反応に困る。不可能だと断じてしまうこともできなければ、無責任に煽ってしまうのもどうかと思う。
「良い夢だろ!ワタシが師匠として訓練に付き合ってるんだ!師匠って響きがいいよな!」
「……焔耶はお師匠さんだよ」
そして焔耶は師匠ときた。
だから偉そうに腕を組んでいたのか。そして師匠とはどういう意味の師匠なのか。別に焔耶に空を飛ぶ術があるわけでもないだろうに。なにについて教えているのやら。
無難に頑張れとでも言っておくべきか。それとも心を鬼にして現実を教えてやるべきか。この世界ならあるいは可能なのかという考えが一瞬過ぎるが、やっぱりそれはない。
「そうだ!左慈は凄く頭が良いからさ。きっと斧で空を飛ぶ方法も知ってると思うぞ!」
「いやいや焔耶。冗談でもそういうことを言うもんじゃない。真に受けられると……」
「……ホント?左慈はお空を飛ぶ方法を知ってるの?シャンにも教えてくれない……かな?」
どうしてこんな流れになるのだろうか。
少女に羨望の眼差しを向けられてしまう。オレに落ち度はなかったはずだが、今更知らないとは言い出せない雰囲気が出来上がっている。どうして追い詰められているのだろうか。今のオレはかなり引き攣った顔をしていると思うけど二人がそれに気づいている様子はない。
しかし面倒な展開になってしまった。この流れのまま適当に誘導して、何進にでも丸投げしてやろうかと考えるも、それは流石に意地が悪過ぎると思い直す。でもまあ、いいや。少女が子供らしく夢のある言葉を言うのなら、オレは大人らしく夢のない言葉を返そうと思う。
「ああ、いいよ。だがこれには準備がかかるし、オレも仕事があるから今すぐにとは難しい。そのうち時間がとれた時に前向きに検討してみるから。それまでは師匠の焔耶と励みなさい。うん。そんなかんじでよろしく」
玉虫色の返事をしておく。
「……わかった。お仕事頑張ってね」
「頑張れよ左慈!今日の夕飯は肉がいいな!きっとお腹空くだろうから大目に頼むぞ!」
「はいはい。好きなだけ食え。じゃあオレは行くから。二人共怪我のないように頑張れよ」
後は時間が流してくれるだろう。
変に期待させるのも申し訳ないが無理なものは無理だ。文句は妙なことを言い出した焔耶にでも言っておいてくれ。そのうち諦めて可能性のある夢を抱いた時は力になれるかもしれない。
それから一週間が経った。
相変わらず二人の訓練とやらは続いているようではあるが、オレが参加することはなかった。二人から急かされるようなことを言われたこともないし、おそらくもう忘れているんだと考える。
一言二言ばかり言葉を交わしただけのことである。二人の訓練は以前から続いているようであるし、同じようなやりとりをした者も過去には何人かいたことだろう。
思惑通り時間が洗い流してくれたようだ。少し汚い方法だったかもしれないが、止むを得ないと理解してほしい。それに本を正せば焔耶が悪い。斧を回して空を飛ぶなんて方法を知っているわけないだろうに。まったく勘弁してほしいものだ。
そんなことを考えているとこの日も中庭で二人を見つける。相も変わらず訓練とやらに明け暮れているようではあるが、はたして効果は出ているのだろうか。丁度一段落ついたのだろう。二人は手を止めて大きく息を吐いた。
「……今日も左慈は来てくれないね」
「きっと仕事が忙しいんだよ。でも大丈夫!左慈はワタシとの約束を破ったりしないからさ」
「焔耶と左慈はとっても仲良しだもんね。焔耶が信じるならシャンも左慈を信じて待ってみる」
「そ、そうかなあ。やっぱりそんな風に見えてしまうものか。……うむうむ。そっかそっか」
まったく勘弁してほしいものだ。
そもそも斧は空を飛ぶための道具ではない。樹木を伐採したりするためのものだ。戦場では人だって斬るだろう。相応の素材を用いているだろうから軽いわけもない。空を飛ぶために特化した形状をしていないどころか、むしろ地に足をつけて使うことを前提とすらしている。
つまり無理だ。それでも違った形の訓練にはなるだろう。体も鍛えられるだろうし斧の扱いも上手くなるに違いない。決して無駄なことはない。いつか少女が夢に破れる時もこの経験はなんらかの形で活きるだろう。だから問題はないはずだ。問題は一つもないはずだ。
「もっと軽い素材にしてそれでも耐久性を落とさず、揚力を最大限に活かすためには……」
オレは一体なにをしているんだか。
それからというもの仕事が終わってから空を飛ぶための方法ばかり考えている。設計図を書いては首を捻り、毎晩遅くまで作業に明け暮れる。心得の無いことだから手探りで始めてはみたものの、正直ぜんぜんピンとこない。
無理だ無理だと言っておきながらなんとかならないものかと考えている。いい加減諦めればいいものだが、どうにも馬鹿みたいに拘ってしまっている。笑えるぐらい馬鹿みたいだ。
「相反する抗力の押し返す力を……ああ、違う。これじゃ駄目だ……」
設計図の完成まで一月の時間を費やした。
それを町工場まで持っていき、そこから意見交換でまたけっこう時間を食った。総日数で表すとどのぐらい掛かっただろうか。その割に完成品がちんけな物になり、なんとも言い難い気分になったりもしたが一先ずはいいだろう。
そして完成品ができた翌日に二人の下を訪れる。
「ローマは一日にして……じゃなかった。万里は一日にして成らずという言葉があります」
「な、なあ左慈。目の下が真っ黒だけど大丈夫か?ここんとこ体調も悪そうだけど……」
「最近ちょっと寝不足でな。それで話の続きだけど……ええっと、なにを話してたっけ?」
「本当に大丈夫なのか!?」
心配してくれているのは嬉しいが、頭に響くからあまりデカイ声を出さないでくれ。
「ああ、大丈夫大丈夫。つまりはどんな大業も始めの一歩が肝心ということだ。君の夢はとても大きなものだけど、いきなり斧はやはり難しい。まずはこちらから挑戦してみるといい。きっと良い経験になるだろう」
そう言って少女に開発した道具を手渡す。
早い話が銅で作った巨大な竹とんぼ。羽根が二組あり、形ばかりに少女の得物である斧の色を似せて塗った。羽根の厚みも試行錯誤の末に辿り着いたものだが、実際どうなるかはわからん。
素材は木にしておくべきかとも悩んだが、斧を回しているところを見るに少女の膂力は相当なもののようだ。木じゃ風圧に負けて折れかねん。銅でも圧し折れるかもしれないが、そうなったらどうしようか。赤っ恥もいいところだな。
「……左慈がシャンのために作ってくれたの?」
「作ったのは町の連中だがな。オレは考えただけだ。それと遅くなってごめんな」
「いいよ。とってもとっても嬉しい」
「そう言って貰えると助かる。方法は任せるよ。オレはちょっと脇で休んでいるから、なにか問題があったら声をかけてくれ」
そう言ってオレは中庭の木陰に腰を下ろす。
真剣な様子の二人を眺めていると次第に瞼が落ちてくる。天から射し込む木漏れ日を浴びながらウトウトするのも悪くない。なんとも言い表せない達成感を得ていた。これで少女がなにかきっかけを掴んでくれるというのなら、これ以上のことはないだろう。
思えばオレも変わったものだ。昔ならこんな一文の得にもならないことに労力を費やしたりはしなかっただろう。あるいは焔耶の言葉の直後に無理だと即答していたかもしれない。それが悪い事だとは思わないけど、今では少し味気なく思える。
眠気のためか次第に頭も回らなくなりそのまま瞼を閉じた。体感時間にしては一瞬のことだったけど、声をかけられた時にはいくらか時間が経っていることに気づく。
「さ、左慈!今の見てたか!香風が、香風がちょっと浮いたぞ!いや、けっこう浮いたかも!」
焔耶の声に目が覚めたので体を起こす。
視線の先にいる少女は驚いているのだろうか。竹とんぼの柄を握り締めたまま固まっていたが、オレが声をかけると満面の笑みを見せてくれた。
「お空をふわふわ……。風がとっても、とっても気持ちよかったよ」
「それはよかったな。ちょっと見逃してたからさ。もう一度見せてはくれないかな」
「うん。いいよ。左慈……ありがとう」
少女はあんまり喜怒哀楽を見せるほうではないんだと思う。
それでも咲いた花のように華やかな笑顔を見せてくれることもある。そんな少女を見ていると随分と労力を割いたこともまた、決して無駄ではなかったんだと実感することができた。
四季が移り変わっていく。
少女の真名を預けられたのはあの日からそう遠くないことであった。少女の真名は香風といった。香風はオレによく懐き、それからというものどこへでも着いてくるようになる。それに焔耶が怒ったりと色々あったが、今ではみんな仲良くやっている。
仕事面でも変化があった。物は試しとこれまで一人でやっていた仕事をいくらか部下に任せてみる。仕事が増えることに不満がでるかと思いもしたがそんなこともなく、みんな生真面目に働くものだから感心する。そして想像していたよりも優秀な者が多かった。
大きな仕事を任せた時に部下が見せた喜びようと、それに伴う責任を告げた時に見せた引き締まった表情。人を使うということは簡単なことではなかった。オレも周りも失敗することも当然あったが、得る物はそれよりも多くあった。
それからというもの心なしか城の者も気さくに話しかけてくるようになった。始めは急なことに驚き、その姿を見た何進に大笑いされたりもした。腹が立ったのでそれから一週間、何進の仕事量を強制的に倍にしてやった。
そんな日々の中でも緩めているつもりはなかった。
都の動向については逐一耳に入れていたし、将来的な政敵となる人物についても完璧とはいかずとも、ある程度は調べ上げた。そして時代が遂に、本格的な動きを見せる。
「……ここからが本番だな」
帝の始めの皇后であった宋氏が廃されると、何氏が皇后に立てられた。
つまりは何進の妹さんが皇后の地位まで昇ったということになる。どうして前皇后が廃されたのか。どうして妹さんが立てられたのかは現時点ではわからない。それこそ帝の気分だったのかもしれないし、裏で何者かの暗躍が行われていたのかもしれない。
都の伝手から送られてきた情報を精査する。何進は近いうちに都へ戻り侍中となる。さらには将作大匠も兼ねるとの話だ。正式に決まる前の情報ではあるが、おそらくはそのまま通るのだろう。侍中ともなるといよいよ上が限られてくる。
「さ、左慈よ!瑞姫が!瑞姫が天子様の后に立てられたとのことじゃぞ!」
「みたいですね。そんで何進殿は都に戻って侍中と将作大匠を兼ねるとのことです」
「そうじゃろ!驚いたじゃろ……って御主はもう既に知っておったのか!?」
「はい。まあオレも耳にしたのはつい先日のことですが。さてこれから忙しくなりますね」
準備は整っている。
オレはおそらく属官として将作丞か校令になるのだろうと考える。それが極自然な流れであったし、なにもなければそうなるだろうと。
緩めているつもりはなかった。情報も正しいものが十分に入っていたし、この先の動きも頭にあった。群丞としてやってきたことからいくらか自信も深めていたし、きっとやれるだろうと考えていた。誰が相手だろうが渡り合える自負もある。
それでも結果としてオレの考えは甘かったんだと思う。宮中は小物ばかりだと高を括っていたのかもしれないし、もしくは自分の力量を慢心していたのかもしれない。あるいは都から離れたことや、ここでの和やかな生活に気持ちが緩んでいたのかもしれない。
「ああ、でも心配だな。何進殿に大役が務まるんだろうか。きっとまたヘマをやらかして処罰されるんだろうな。容易に思い浮かびます」
「ぶ、物騒なことを言うでないわ!御主もこれまで以上に励むのじゃぞ!よいな?」
「まあ、ほどほどに頑張りますよ」
基本的なことであった。
相手を見ているということは相手もこちらを見ているということ。こちらが相手のこと調べているのなら、相手もまたこちらのことを調べているということ。どうしてそんな当たり前のことにオレは頭が回らなかったのだろうか。
「荀彧にも別れの挨拶をしておかないとな。清々するとか言われそうだけど」
何進は皇帝の外戚となり、やがては武官の頂きである大将軍へとなる。
関わる相手もこれまでのような温い連中ばかりではない。相手もまたこちらのことを十分に調べ上げた上で万全の準備をしている。
相対する政敵が巨大なものであると実感するのは都へ戻った後のこと。その時にオレは自分が周りにどんな評価を下されているのかを知ることになる。