恋姫立志伝   作:アロンソ

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十八話 孫家上洛

 

 後に大陸を三国に割る蜀、魏、呉。

 

 その中でも蜀や魏と比べ、呉について知っていることは少ない。オレが元の世界でこの時代について初めに触れた文献は蜀を主役に書いたものであったし、次に読んだ物は魏が主役であった。

 

 選んでそうしたというよりかは極々自然にそうなった。三国時代において一番人気が高かったのは蜀で次が魏であったと記憶している。それこそコアなファンに話を聞くとまた違うかもしれないが、歴史の授業で習う程度の知識であればこの順番になるはずだ。蜀が一番華のある話が多い。

 

 超大国の魏に対し劉備の下に集う名将、名軍師が戦いを挑むような構図。そんなイメージを持って読んでいた。呉は第三勢力という印象が強い。呉の見せ場であろう赤壁も孔明の功績のように書かれていることが多く、蜀を破った夷陵の戦いも呉の視点より蜀の視点での話がほとんどだ。

 

 孫堅、孫策、孫権の孫呉三代。火計が得意で蜀と魏を大いに打ち破った周喩と陸遜。この前に会った黄蓋や劉備の下へ嫁いだ孫尚香。それ以外にも名前は浮かび上がるが、どうしても蜀や魏に比べてしまうと全体的に弱い。名前は知っていても、どの程度優れているのかはピンとこない。

 

「……要するに地味な田舎者ってことね。アンタも少しは良い事言うじゃないの」

「いや、そこまでは言わんが。というか君はなんでまた孫家に対抗意識を燃やしてるんだ?」

 

 孫堅上洛予定日の前日。

 

 荀彧に孫家について知っていることはないかと尋ねられたので記憶を思い返してみる。

 

 それでも国を割るだなんてことを洩らせるわけもなければ、未来のことを語るわけにもいかない。周喩と陸遜のことぐらいなら構わないかと思いもしたが、二人が今孫家にいるという確証もないので止めておいた。そんなこんなで言葉を選んでいると、なんとも歯切れが悪くなってしまう。

 

「……愚問ね。私は敗北に塗れた過去を栄光へと塗り替える必要があるの。なんとしてでもね」

「なんだかカッコいいな。敗北って確か胸囲格差のことだったか?アレはどう足掻いてもさ……」

 

 オレの言葉を荀彧は手で制す。

 

「私は一時の敗北を機にもう一度見つめ直したのよ。真の敗北とは一体何かと言うことを……」

「拝聴しよう」

「戦場での敗北とは凶刃に倒れて命を落とすこと。これはもう覆りようがないわ。なら口舌の刃で雌雄を決する舞台においての敗北とは一体何を指すのか。アンタにはそれがわかるかしら?」

「まるで見当もつかんな。是非教えてくれ」

 

 荀彧は小さく頷く。孫堅とは別に言い争いをしたわけではないのだが、どういうことやら。

 

 荀彧は利き手をグッと握り、その小さな胸をトントンと二度叩く。輝く翡翠の瞳には強い意志が宿っており、また強く握ったその拳には断固たる決意が籠められているようであった。

 

「それは心が折れた時よ。極論ではあるけど、敗北を認めなければ負けたことにはならないの」

「また極端な話だな。ほとんど根性論じゃないか。君がこの手の精神論を持つ出すとは意外だ」

「何とでも言いなさい。私は決して敗北を認めはしない。そして重箱の隅をつつくようにネチネチと乳牛共の失言や振る舞いを指摘しては、私の恐ろしさを叩き込んでやるわ!名案でしょ!」

 

 荀彧はやはり南陽郡での一件のことを気にしていたようだ。その仕返しを企てているらしい。

 

 孫家のことを尋ねてきたから何事かと思えば私怨もいいとこだな。変なことをするなと引き止めてもいいが、負けたままというのは気になるのだろう。そもそも勝負にもなってなかったが。

 

「……ま、好きにするといい」

「ふふふっ。見てなさいよ。言葉遣いから行動の一つに至るまで常に目を光らせてやるわ……」

「ほとほどにな。向こうも太守になるんだから、あんまり事を荒らげることは止めておけよ」

 

 小姑みたいなことをいう荀彧。

 

 前回の二の舞になるのがオチだと思い静観することにした。あるいはオレがここで強く止めておけば、荀彧が再び敗北を重ねることもなかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 翌日の昼下がりのこと。

 

 お供に荀彧と高順と公孫賛を引き連れ、オレ達は少し遅めの昼食を取りに城下町へと向かう。

 

 この日は孫家が上洛する日であったが、だからと言って仕事が休みになることはない。孫堅の配下やその一族の人間と会ってみたい気持ちは強く、そのために一日空け城門の前で待っていても良かったが、そうは出来ない事情があった。

 

 オレが外を歩いていると凄く目立つ。それは背丈や容姿の話ではなく、顔と名前が売れているからだ。そのため食事を取りに外へ出るのにも職場から家まで往復するのにも護衛が付く。身分を考えると当たり前のことなのだが、これが意外と億劫である。一人になれることが滅多にない。

 

 そんなオレが城門の前で孫家一行がやって来るのを待つのはどうだろう。何事かと人が集まってくるのは目に見えている。孫堅は目立つのが好きそうではあったが、今回は止めておくのが無難だろう。そもそも一戦共闘した程度で知り合い面して待ち伏せるのもどうかという思いがあった。

 

 それともう一つ。前々からこの日は予定が埋まっていた。小さな予定であれば後回しにしても構わないが、太尉である楊賜に呼び出されてはそうもいかない。まだ予定の時刻までは時間があり、こうして食事を取る余裕もあるのだが、まさか遅れるなんてことは許されないだろう。

 

 そんなわけで孫堅側から出向いて来るか。はたまたオレが連絡を取り付ける必要があると考えていたが、どういう巡り合わせだろうか。なんともあっさりと孫家一行との邂逅の時は訪れた。

 

「おお、孫堅か。こんなところで会うとはなんとも奇遇だな。もう怪我は良くなったのか?」

 

 大通りの一角で孫家一行と鉢合わせる。

 

「怪我はすぐ治ったぞ。久しいな左慈。……いや、失敬。御無沙汰ぶりでありますな。左慈殿」

「はははっ。御無沙汰ぶりってなんだよ。前から思っていたが、貴女は敬語が似合わないな」

「然りだな。しかし使わぬわけにもいかん」

「まあ、確かに。適度に使ってくれればそれでいいよ。あまり細かいことを言うことはない」

 

 孫堅に敬語で話されると違和感を覚える。

 

 私的な場では普段通りの口調が好ましいが、人通りの多い場所ではそうも言ってはいられないだろう。周りの目ばかりを気にしているようでなんとも嫌になってくる話だが。

 

「黄蓋殿も壮健そうだな。後は…………あっ」

 

 顔見知りの黄蓋に声をかけた後、孫家一行の面々に視線を向けてみる。

 

 孫堅と良く似た容姿が二人。幼女が一人。眼鏡の女が二人。目つきが鋭い女が一人。孫堅と黄蓋も合わせると全員で八名となる。オレはその八名を見た瞬間に荀彧の避けられぬ敗北を予感した。

 

「どうかしたのか?」

「いや、なんでもない……」

「ならいい。せっかくの機会だ。ウチの者を紹介しよう。お前達、一人ずつ左慈の前に立て」

 

 孫堅の言葉を受け、黄蓋と幼女を除く残りの五人の背筋がピンと伸びた。

 

 まずは孫堅に似た容姿の二人。孫伯符は孫策。孫仲謀は孫権。末娘の孫尚香はまだ字がないようだ。これが孫三姉妹。オレの気のせいかも知れないが、やけに好感度が高いように感じた。

 

 その次は眼鏡の二人。黒髪眼鏡の周公謹は周喩。緑色の髪をしたおっとり眼鏡の陸伯言は陸遜。周喩も陸遜も既に孫家に仕えていたんだな。二人からもどこか好意的な雰囲気を感じる。

 

 そして最後の一人。目つきの鋭い甘興覇は甘寧。睨まれてるのかと思いもしたがその逆で、緊張してるのか何度か言葉を噛んでいた。甘寧はその立ち振る舞いからお堅い人物であるような印象を受けるも、やはりオレに向けられる感情は好意的であるように感じ取れた。

 

「偉い人って聞いてたからね。シャオはてっきり左慈のことおじちゃんだと思ってた!」

「初めて会う人には割とよく言われるよ。とは言えオレも二十半ばを過ぎている。三十回れば壮年期に入るし、外から見ればおじちゃんと呼ばれる年でも間違ってないかもしれないな」

 

 どうしてだろうと考えながら、足元をぐるぐる回る孫尚香の脇の下を持って抱き上げてみる。

 

 上の孫策、孫権とは一回りは年が離れていそうな孫尚香。字も無いようだし見たまんまの子供なんだろう。子供は元気だな、などと思ってしまうあたりオレも年を取った気がする。

 

「さ、左慈殿。三十手前でおじちゃんと呼ばれることを受け入れるのは些か早計では……?」

「そうかな?まあ、子供の言うことだしね。あんまり深く気にしていても仕方がないだろう」

 

 なぜか顔色の優れない黄蓋。

 

「ふっ取り乱しているようね祭。貴女はもう老いぼれよ。現実をしっかり受け入れなさい」

「余計なお世話じゃ!それに策殿じゃって近い将来、伯母さんと呼ばれることになるんじゃぞ!」

「うっさいわね!私はそんなこと認めてないわ!それに万が一そんなことになろうとも、しっかり教育すればお姉様って呼んでくれるかもしれないでしょ!うん!きっとそうよ!」

 

 突然言い争いを始めた孫策と黄蓋。

 

「二人はどうして喧嘩してるのかな?」

「うんとね。シャオもよくわかんないけど雪蓮お姉ちゃんが祭に余計なことを言ったんだって。お母様が面白がって祭に教えたんだったかな?それからずっとあんな感じだよ」

 

 余計なことってなんだろう。

 

 孫堅は腕を組み言い争う二人を笑いながら見ていた。周喩は二人を見ながらやれやれと頭を抱えていた。孫権はモジモジとオレの方を見ていたが目が合うと背けられた。後の面々も動じていないようであるし、おそらくよくあることなんだろう。孫家の面々は仲が良さそうである。

 

 腕が疲れてきたので孫尚香を地面へと降ろし頭を撫でてやる。孫尚香は白い歯を覗かせながら嬉しそうに笑った。政務に追われる日々の中でこういう癒しは心が和む。

 

 そうは言っても言い争いを眺めている程オレも暇ではなかったので、そろそろこの場から離れようかと考え始めた時、孫堅がゆっくりと口を開いた。

 

「時に左慈よ。大事な話があるのだが、これから時間を割くことはできるだろうか」

 

 その瞬間、孫策と黄蓋の動きが同時にピタリと止まり場の空気が途端に締まる。

 

「大事な話?この場じゃ駄目か?」

「とても大事な話だ。それ相応の場で話をしたい。忙しいのはわかるがなんとかならないか」

「今日は難しい。これから太尉に出頭するように言われていてな。流石に断ることはできんし、太尉の話が何時終わるのかもわからない。悪いが日を改めては貰えないだろうか」

 

 楊賜の呼び出しはだいたい察しがついていた。大した用件ではないだろう。

 

 だが三公位である太尉に呼ばれれば無視は出来ない。他にも人を呼んでいるようであるしその中には何進もいた。適当に話を聞いて何進と帰ればいいだろうと考えている。

 

「三公の太尉か。流石に飛び出す名がでかいな」

「頻繁にあるわけじゃないけどね。都にはいつまで滞在する予定なんだ?」

「一週間を予定している。配下である周公謹の一族である周家の屋敷で世話になるつもりだ」

「なら明日の夜はどうだ。突然予定が入ることも少なくないし、なるべく早い方がいいだろう」

 

 大事な話と聞くと早いうちに知りたくなる。

 

 それに孫家が都に滞在する最終日を予定していて、双方のどちらかに何か特別な出来事が起こって流れでもしたら面倒だ。なるべく早いほうがいい。大事な話であれば尚のことだ。

 

「それは助かる。夜はこちらにとっても非常に都合が良い。それで場所なんだが……」

「左慈殿。是非我が周家の屋敷へ足を運んで下さい。それはもう盛大に歓迎致しますので」

 

 ほんの僅かな動きではあったが一瞬、孫堅が周喩に目で合図を送っていたように見えた。

 

 なんだろうと思いはしたが、特に嫌な予感はしなかったので深く考えないことにした。オレの見間違いであったかもしれないし、周家の屋敷にも行ってみたい気持ちもあった。

 

「ならそれでよろしく。夕餉の時刻にでも遣いを寄越してくれ。明日は早めに片付けるとするよ」

 

 それから一言二言と言葉を交わし孫家一行とは別れる。大事な話とはなんだろうか。

 

 いくらか話し込んでいたため食事を取る時間が減ってしまった。これはもう簡単な軽食に切り替えるべきだろう。そしてオレはどうするべきだろうか。明らかに様子のおかしい荀彧に触れるべきか。それともこのまま見逃しておくべきか。彼女の主君として試される場面である。

 

 チラッと横目で様子を窺うと荀彧の被っているフードの耳がシナシナにくたびれていた。ほんの十分やそこらの間に十年は時が経ったかのような老朽っぷりである。その一方、フードの耳とは違い荀彧は何かを悟ったかのように落ちつきを払っていた。

 

「……私もね。一応は覚悟していたの」

 

 しばらく歩いていると荀彧が口を開く。

 

「孫堅殿があんなだったからね。その娘達もまたその血を強く受け継いでるんだろうって……」

「結果的にその通りだったな」

「孫一族の者はまだわかるわ。それでもね。その配下まで巨乳ってどういうことよ?持てる者と持たざる者とでもいいたいわけ?孫家に仕えるには巨乳が条件とでも言いたいのかしらね……」

 

 呼吸する度に揺れた、と荀彧は呟いた。

 

「確かに粗だらけな連中だったわ。それでも突っ込むと負けたような気になったのよ」

「天下の往来で言い争いまでしてたしな」

「それでも私は声を出せなかった。まさに封殺……。まさに完敗……。私の負けよ。ぐうの音も出ないほど完膚なきまでに叩きのめされたわ」

 

 前日の主張とは打って変わり潔く敗北を認める荀彧。心がポッキリと折れたのだろう。

 

 孫尚香はともかくとして甘寧は別に巨乳というわけではなかったはずだが、荀彧の目にはあれも巨乳に含まれるのだろうか。それとも巨乳を見過ぎてオレの目が麻痺しているのか。どちらにせよこのまま荀彧が引き下がるのを認めてしまうのはどうかと思った。

 

「荀彧よ。君は本当にそれでいいのか?」

「下手な慰めや挑発は止めてよね。私は事実をきちんと受け止めた上で敗北を認めて…………」

「いや、オレは呆れているんだよ。育ちの良い嬢ちゃんはまるでなってない。全く笑える話だ」

 

 落ち込む荀彧をあえて鼻で笑ってやる。

 

「な、なんですって……?」

「昨日あれだけ大きな事を言っておきながらこの体たらく。これを笑わずしてなんとする。なまじ頭の良い人間は壁にぶつかるといつもこうだ。すぐに諦める理由を探しては逃げ出そうとする」

「わ、私は逃げ出してなんて……」

「このままで本当にいいのか?一度や二度敗れた程度でおめおめと引き下がっていいのか?」

 

 ここで終わらすには惜しい話だ。それに荀彧が孫家に苦手意識を覚えるかもしれない。

 

 巨乳と貧乳が争う構図は完全にミスマッチではあるが、だからこそ応援したくもなる。何を持って勝利とするのかは定かではないけど、定期的に起こるイベントとしては面白そうだ。

 

「……くない。……よくない。よくないわ!あんな理不尽が許されていいわけないじゃないの!」

「なら君はこんなところで油を売っている場合じゃないだろう。今日は半日で上がっていいぞ」

「気が利くじゃないの!こうしちゃいられないわ!すぐにでも月華のところへ行かなきゃ!!」

 

 そう言い残すと荀彧は一度も後ろを振り返ることなく走り去って行った。

 

 月華は休みの日なのに荀彧の話に付き合わされるのか。あの分だとかなり長くなりそうだな。

 

「中郎将。軍師殿はどこへ行かれたんです?」

 

 のんびり荀彧の後ろ姿を眺めていると公孫賛に声をかけられる。

 

「彼女は自分の殻を破りに行ったんだ。壁を乗り越え、大きくなって帰ってくることだろう」

「軍師殿の胸がですか?」

「いや、それを望むのは酷だな。彼女の胸は人事を尽くしたところで変わることはない……」

 

 この日のことが全ての始まりであった。

 

 後に形成される貧乳党。あるいは巨乳禁止令。さらには貧尊巨卑に始まる諸々の法案の提出。荀彧の戦いはこの日から始まったのだとオレはやがて知ることとなった。

 

 

 

 

 

 楊賜の呼び出しは予想していた通り、最近の世の乱れについてのことであった。

 

 だがそれはあくまで建て前であり、本音は世の乱れの原因を宦官へ責任追及させてはどうかという話だ。早い話が宦官の親玉の十常侍を追い込もうとする動きである。

 

 宦官の専横が今の世の乱れを招いているという意見は実に理に適っている。来るべき時に上奏文でも送れば十常侍の内の何人かは削れるかもしれないが、それがトップの張譲まで届くかと言われると怪しい。届かないのであればトカゲの尻尾切りとなるのがオチだろう。

 

 オレと何進が呼ばれたのは味方をしろということもあるのだろうが、どうやらこの意見は楊賜が発案したものではなく下に焚きつけられたものであったようなので、この案についてどう思うのかということを遠まわしに尋ねられた。楊賜は張譲までは届かないと考えているようであった。

 

 オレも同意見であったので婉曲的ではあるが止めておいたほうがいいと伝えた。時機尚早というよりは向こうもこっちの思惑なんて百も承知だろうと。成功するかもしれないが失敗すれば酷い目に遭うだろうと伝える。報復を受ければみんな仲良く官を辞するハメになるかもしれないと。

 

 好き勝手なことをするにも能力が必要である。帝の寵愛を受けているからといっても中常侍が無能揃いであれば落日の時はやってきていただろう。今日に至るまで宦官が、中常侍がやって来れたのは無能だけではないという良い証拠である。

 

 オレの意見をその場にいた人達がどう受け止めたのかはわからない。耳を傾ける意見であったと思う人もいれば、ただ中常侍相手に日和ったと受け止めた人もいるだろう。どっちも正しいと思う。オレはわざわざ好き好んでまで、張譲率いる中常侍と争おうとは思っていなかった。

 

「しかし生産性の無い話でしたね。あれだけ長く議論を重ねても結局、答えは出ませんでしたし」

 

 何進と政庁を歩きながら愚痴を零す。

 

 質問責めを受けていくらか疲れた。こんな時は旨いものでも食べてゆっくり休むに限る、とばかりに何進を誘ってみるも反応が無い。二度三度声をかけてようやく耳に届いたようだ。

 

「……ああ、うん。旨いものか。旨いもの。そうじゃなあ。何がいいじゃろうのう…………」

「どうかされました?なんだかここ最近、あまり元気がないように見受けられますが」

 

 このところ何進の様子がおかしい。

 

 あるいはもっと前からそうだったのかもしれないが、オレがそのことに気づいたのはつい最近のことであった。話しかけてもどこか上の空なことが多く、何か悩んでいるようにも見える。

 

「近頃は自分の立っている場所について考えるようになってな。身の丈に合っておらんからのう」

 

 そう言って苦笑する何進。

 

 何進は都へ戻ってからは侍中となり、将作大匠を歴任して今は河南尹となっている。

 

 河南尹とは都のある洛陽を含む河南郡の太守のことを指す。前漢の首都であった長安を含む京兆尹と並び、太守ではなく尹と呼ばれる官職にあたり、格式も当然他の郡よりも数段高い。

 

 河南尹の次が大将軍になるんだろうとオレは考えていた。その下地は徐々に整いつつあるし、後は張角が出てくればそうなるのであろうと。そんな中で何進が零した言葉は意外だった。何進は陽気で人が良く、およそ悩みなどとは無縁の性格をしているものだとずっと思っていた。

 

「碌に教養も備わっておらんわらわが河南尹とはな。今になって思い悩むことが多いのじゃ」

「オレだってそうですよ。独学に過ぎません。細かい作法なんてぜんぜん知りませんからね」

「いや、御主とわらわは違う。先程の協議の場であってもわらわはそこに居ただけであったが、御主は楊賜と共に中心となって話をしていた。同じ場に立ち同じことをすると違いがよくわかる」

 

 それでも、と何進は続ける。

 

「相手が御主以外の者であれば妬ましくも思うたじゃろう。なんせわらわの方が上官で地位も高いからのう。それでも御主とも長い付き合いじゃ。今となってはそんな感情も湧いては来ぬ」

「何進殿…………」

「わらわは御主をずっと誇らしく思うとるぞ。これからも天子様のためによく働くのじゃぞ」

 

 オレが何進の胸の内を知るのはこれからすぐ後のことであった。

 

 大将軍となる内示が下った何進はその重圧に押し潰されそうになる。オレはその時に初めて、何進という人間の本来の姿を見ることとなった。

 


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