侍中とは皇帝直属の機関である侍中府に属する。
侍中府は十四の役職からなり、その中でも特に有名なのが中常侍だろう。何進がこれから先に戦うことになる政敵の宦官。その親玉が中常侍である。そして中常侍を中心に宦官の有力者である十二人を十常侍と呼んだ。十二人なのに十常侍。十二常侍じゃ語呂が悪いからだろうか。
ともかくこいつらが碌でもない。碌でもない連中ばかりいる宦官共の中でも群を抜いて碌でもない。民から必要以上に採取して私腹を肥やす。官職は金で売買する。気に入らない者がいれば罪をでっち上げてでも処罰する。清々しいほどの悪党である。
勿論そんな専横をエリート連中が許すはずもなく、定期的に正義感の強い人物が十常侍の腐敗を弾劾してみるも逆に処罰されている。まったく情けない限りではあるが、見方を変えれば悪の親玉らしく手強いということだろう。帝の寵愛を受けて好き勝手に振る舞う十常侍。正直、今は相手をするだけ時間の無駄である。
「……とまあ、こんな感じです。侍中府に入れば十常侍のアホ共が好き勝手やっているのを目にすると思われますが、放置しておけばいいです」
「ほ、本当にそれでよいのか?か弱き民を虐げておるのなら、やはり止めねばならぬが……」
「止まりませんよ。それは歴史が証明しています。まあ何進殿なら処罰されることもないでしょうし、一度試してみるといいかもしれませんね」
無理だとは思うけど。
侍中も中常侍も三品官だったかな。品官も同程度だろうし、それに何進は外戚となるわけだから簡単に手は出せないだろう。下手に藪を突かなければ問題はない。向こうからちょっかいを出してくることもまだないはずだ。
十常侍の連中の強みは帝の寵愛を受けていること。職務上、常に帝の傍に侍っているから接点をもつ機会が他に比べて抜群に多い。讒言だろうと容易く行えるというわけだ。気に入られれば好き勝手なことができ、そして十常侍の連中は現に気に入られている。
弱みもわかりやすい。好き勝手なことをし過ぎて宦官以外からの評判はすこぶる悪い。落ち目になれば間髪入れずに四面から付け込まれるだろう。十常侍の連中もそんなことは百も承知だろうが、だからといって態度を改めるほど物分かりの良いことはない。
「……そうか。しかし左慈よ。御主なら、なにか良い方法を知っておるのではないか?」
そう言われて言葉に詰まる。
十常侍は何進の死因に直結する相手のはずだ。何進は大将軍になってから反董卓連合の間に死ぬ。畳の上で死んだというわけではなかったはずだから、おそらく十常侍との権力争いに敗れて死んだのだろう。他の可能性がないわけではないが、十常侍関連が本命とみていい。
これまでも何進は死ぬものだと思って見ていた。だが長く仕えていると次第に情も移る。そうしていると漠然とではあるが、助かる道はないものかと模索するようになった。オレが上手く働きかけをすれば何進が助かることもあるのではないかと。
後漢の歴史をみるに外戚と宦官はいがみ合う関係にあるが、この世界の何進は自ら率先して宦官の排斥に乗り出すようには思えない。今は大きなことをしよう時にはオレか妹さんに意見を求めるだろう。妹さんは宦官の排斥に賛成しないだろうから、オレも同調すれば思い止まるはずだ。
大きく動くのは何進が大将軍になった後と考える。身分が高まれば何進を気に入らないと思っているエリート連中も、宦官を始末できるのならと担ぎ上げてくるはずだ。そうなるとオレが止めたところで対立は避けられないだろう。
手を打つならば今のうち。まだ誰も大きく動いてはいないであろう今のうちに大きな楔を打ち込んでおくべきだ。だがどう動くのが最良なのだろうか。
「左慈!ちゃんと聞いとるのか!わらわの話を無視するとはいい度胸じゃのう!」
「……え?ええっと、なんの話をしてましたっけ?出立の日時は明日の予定ですが?」
「そんなこと聞いとらんわ!まったく締りがない顔をしよって。そんなことではいかんぞよ」
まだ時間はあるはずだ。
黄巾の乱が起こるまで年単位の猶予があるだろう。じっくり策を練ってやればいい。何進もそうだがオレだって決して安全な身分ではない。邪魔者と判断されれば始末されるかもしれない。
だが危険があるからといってすぐ見捨てることもない。余裕のあるうちは人助けをしようとしても構わないだろう。これからも何進の影に隠れて大局を見ていればいい。巧みに世を渡り、さらに望む結果が得られるのであれば申し分のないことだ。
「まさか何進殿に締りがない顔と言われるとは。こんな屈辱、覚えている限り初めてですよ」
「何を言うとる。そんなの言葉の綾に決まっておるでは……。いや、待て。……ちょっと待たぬか!わらわの顔に締りがないと言いたいのか!?」
「冗談ですよ冗談。都へ戻ってもしっかりやりましょうね。侍中は中々大変だと思いますよ」
出立の日には荀彧が見送りにやってきた。
相変わらず愚痴愚痴と文句を垂れていたが「またいつでも遊びに来いよ」と声をかけると少し涙目になっていた。寂しいなら文でも送ろうかと言うと「それはキモイから止めろ」と釘を刺されたので毎月大量に送りつけてやろうと思う。
香風もオレと焔耶に着いて来ると言った。勿論歓迎して迎え入れ、その流れで姓名を聞いてみると香風は徐晃であると名乗った。ここ数年で一番驚いたかも知れない。
自分の認識の甘さに気づいたのは都へ戻ったすぐのこと。
潁川郡での統治に功有りという理由でオレは出世し、そして何進の補佐から外れることとなった。これを文字通りの出世とみることもできるが、何進には他に頼れる補佐がいるわけでもないので、やはりおかしい。切り離されたとみるほうが正しいだろう。
嫌がらせにしては少し物足りない。現にオレは出世しているわけだし、事の次第によっては良い方向に働くことも十分にあり得る。だが言葉通りの意味に受け取れるほどオレも素直に生きてきたわけではない。何進も決まってから聞かされたようであるし、やはりなにか裏があるはずだ。
「おや左騎都尉。こんなところで浮かぬ顔をしておるようではあるが、如何なされたかな?」
宮中の一角。
普段は役人が行き来するこの場所も今は閑散としている。人が通る気配はなく、それでいて目の前の老人の背後には人の気配がある。おそらく護衛を影に忍ばせているのだろう。
「……私のような小吏にお声をかけて頂き幸甚の極みでは御座いますが、張常侍のお耳に入れるような大それた話でもありませんので」
十常侍のトップである張譲。
十常侍のトップということはつまり敵の親玉ということである。これまでに姿を見たのは遠目で二度。話をするのは当然初めてのことだ。
予想外もいいところではあるがこのタイミングで話しかけてくるということは、張譲が動いたと考えるべきなのだろうか。いや、それは流石に深読みし過ぎだろう。敵の親玉である張譲が動いたのならこんな軽い手で済むことはないはずだ。
「ふむ。ならば見事当ててみせよう。叙任された官職が想定していた物と違っていた。……図星のようじゃな。顔に出るとはまだまだ若い」
咄嗟に顔を顰めてしまう。
まさか本当に張譲が動いたのか。急なことに頭が回らない。張譲は兵を伏せているようだが、こうして話しかけてきたということは危害を加えるつもりはないのか。いや、オレの返答次第か。ならば一体なにを問いかけてくるのか。
「……とんでも御座いません。身に余る大役を前に恐縮致しておりました」
「ふん。抜かしよるわ。腹の探り合いをするのもよいが、儂もまだやるべきことが多くあっての。故に単刀直入に申す。左慈よ。こちらにつけ」
何進を見切ってこちらにつけ、と張譲は言った。
「御主も儂のことを調べていたようじゃが、儂も御主のことは調べ上げた。素性は知れぬが、それも言い変えれば悪くもない。その手腕は十二分に評価に値する。故に儂が自ら出向いた」
「……話が急過ぎてついていけません。私は何侍中と故吏関係にあります。そもそもどちらにつくなどという話自体が私には……」
「左慈。腹の探り合いはせぬと申した。人払いは済ませておる。余計な問答は無用と知れ」
なんでオレは勧誘されているのだろうか。
しかも政敵相手の親玉から。この展開は流石に頭になかった。張譲がオレのことを調べ上げていたというのは今聞いた。その可能性を除外していたのは迂闊だったと思う。面倒な相手と見られたのだろう。なら天下の十常侍らしく処罰ではないのだろうか。
処罰されるのは困る。そうなれば何進に泣きつくなり反撃する術を考えるが、この場で斬り落とされてはどうしようもない。オレ程度の人物であれば斬ったところでお得意の根回しを使えばどうとでもなるだろう。いや、斬られるのは非常に困るが、勧誘はちょっとわからない。
「面を喰らっておるようじゃが、特別おかしな話でもあるまい。御主は利によって動くとみた。有能でいて面倒な柵もなく、手元に置く駒としては申し分がない。十分な理由ではないか」
「私が何侍中の下を離れる理由がありません。身を立てて頂いた恩義もあります」
「御主は離れるだろう。何進じゃ儂には勝てん。それが理由じゃ。義じゃ人の腹は膨れん。そんなことは口にせずともわかっておるはずだ」
御尤もな言い分だ。
歴史的に見ても何進は負けている。こちらに逆転のチャンスがあるとすればまず十常侍を出し抜くこと。それも叶わないどころか逆に出し抜かれている。笑えない話だ。始めの第一歩から転んでしまった。敵ながら大したものだ。
流石にこれまで好き勝手やってきただけのことはある。情報戦はお手の物というわけか。オレが処罰されないのは抱き込めると見られたからだろう。義よりも利を重んじると。なるほどよく調べているな。ここまでされてはぐうの音も出ないが、せめて一言ぐらいは言い返しておきたい。
「宦官側が勝つとお考えで?」
「無論」
「そう断言されるということはつまり、何皇后がそちらに御つきになったと判断致しますが」
張譲の眉が僅かに動いた。
やっぱりそうなったか。妹さんは宦官の伝手で後宮に入ったまま、宦官側について皇后まで昇ったようだ。それが一番手っ取り早いわな。しかし何進は苦しいな。異母妹とは言え親族が敵に回るとはお手上げだ。安泰なポジションだと思っていたがとんでもない。
妹さんはこちらが優勢とみれば普通に帰ってきそうではあるが、流石にかなり厳しい。培ってきた人脈も年季も財力も桁違いだ。まったく勝ち目が見えては来ないが、歴史上の何進はどうやって活路を見出したのだろうか。まさか玉砕覚悟ではないだろうが。
となると鍵を握るのは黄巾の乱だろう。そこで派手な勝ち方をして求心力を上げたか、張譲達が大きな失敗を犯したか。熟考を重ねてもいいが今はそれどころじゃない。
この場で断れば伏せられている兵に討たれてしまうのだろうか。オレから見れば急展開ではあるが、張譲から見れば事前に立てた計画なのだろう。単純に張譲がオレを上手く謀りに掛けただけのこと。しかしどうしたものか。死にたくはないが張譲につくってのも嫌だな。
「やはり御主は聡明である。ならば好き好んで穴の見える小舟に乗り込むことはない。堅固な楼船の上でゆるりと見下ろしてやればよい」
どっちも大差ないけどな。
何進は張譲ら宦官に敗れるが張譲もまた滅びる運命にある。討ったのは曹操か袁紹か董卓か。おそらくその辺りだろう。群雄割拠の時代に何進と張譲の名は無い。どちらも沈み落ちるのが歴史の結論だ。張譲を含める宦官共は自業自得だろう。
黙っているオレを張譲はジッと見ていた。嫌な目をしていると思った。暗く濁っているが、それでもどこか怪しい光を放っている。
「……ふむ。鞍替えを迫るなら器の大きさを示すこともまた肝要か。賊は儂が用意する。騎都尉として羽林を率いて二度征伐に当たれ。それが終われば校尉に上げてやる」
「私には兵の指揮。また兵法の心得はありませんので、とても務まると思いませんが」
「押せば倒れる相手だ。入らぬ心配は不要。それともまさか、賊討伐を断るつもりかな?」
「大役謹んでお受けします」
賊を用意するってなんだよ。
それに出世させとけば靡くと思うのは大間違いだ。そんなものは別に望んではいない。偉くなってもやっかみや仕事が増えるだけのことだ。
「どちらにつくか今は問わん。外戚と宦官との対立が本格化するまでに決めておけ。こちらにつくのなら十分に身を立ててやろう。決して悪い話ではないことをよく覚えておくといい」
確かに悪い話ではない。むしろ安全を買えるという意味では願ってもないことだろう。
だがどうにも心に響くものがない。張譲が悪人だからとか滅ぶ運命にあるからというわけではない。ただ言葉の一つ一つが淡白でなんとも面白味がない。
突っぱねることは出来はしないだろう。この場は保留が正しい判断だ。ギリギリまで結論を焦らず、より優れているほうにつく。張譲がそれでいいと考えていることは見てわかる。相当自信があるのだろう。そしてそれは間違ってはいない。
「御言葉は有り難く。よく覚えておきますよ。私も無駄に死にたくはありませんので」
「下がってよいぞ。ここでの話を何進に告げたいのなら告げるがよい。じゃがまあそうしてところで、事態が好転することはないがな」
張譲に頭を下げ、その場を後にする。
政庁を離れながら張譲との会話を思い返す。
想定していたよりもずっと張譲は手強そうだ。少なくとも独力で勝てる相手ではない。周りを使うにもこれからは、動き一つとっても監視されていると考えるべきだろう。
それにどうしても張譲を討たなければいけないというわけでもない。相手が強敵なら無闇に喧嘩を売ることもない。元々何進の下にいるのは黄巾の乱が終わるまでの予定だったじゃないか。幸いなことに外戚と宦官の対立が本格化するのもそのぐらいの時期のはずだ。
黄巾の乱が終われば何か理由をつけて官を辞すればいい。敵とならないなら刺客を送られることもないだろう。むしろ都合が良いと考えるべきだ。これでどう転んでも問題はないと。当初の予定通りに事が進むのを喜ぶべきだろう。拘る理由なんてない。
妬みも増えるだろうから校尉にされた後は大人しくしていよう。出世し過ぎると黄巾の乱で指揮を執らされることになるかもしれないし。いや、流石にそれはないか。せいぜい従軍させられるぐらいだろう。面倒くさいから断る準備もしておかないといけない。
これからは都でも精神を擦り減らすことはないだろう。焔耶と香風と一緒にのんびり楽しくやってけばいい。どう動くのかも考えていないうちに打つ手を防がれたんだ。こればっかりはどうしようもない。相手が一枚上だったということだろう。
「……だがあのジジイは利いた風な口を叩いてきて腹も立ったな。なんでも知っているとでも言いたげな表情も不快極まりなかった」
子供じゃないんだから腹が立つからといって敵対する道を選ぶことはない。
他に何か理由はないだろうか。わざわざ危険に飛び込むことに納得ができる理由は何かないだろうか。張譲の口車に乗せられるのも面白くない。かといって無策で挑むのも馬鹿らしい。
そんなことを考えながら帰宅の路を進む。実際のところはそれほど腹が立っていたわけではなかったが、不思議と張譲の誘いに乗るという考えは頭にはなかった。