一度意識し始めると、あとは感情を抑えることが出来なかった。
次に東郷さんが見舞いに来るまでに、気持ちの整理が出来る自信がまるでない。
いや、そもそも、次があるのだろうか。
最後に見舞いに来てくれた時、軍務が立込んでいて暫く来れそうにないと聞いていた。
本当にそうなんだろうか。
俺のような面倒くさい女の相手をするのに疲れてきたんじゃないんだろうか。
普段は乏しいはずの想像力が余計な仕事をして、とにかく悪い方向へと掻き立てられていく。
悶々としていたら、控えめに病室のドアをノックする音が聞こえた。
「提督。いえ、摩耶さん。アデルです」
東郷さんじゃなかったことに、安堵しつつも落胆した。
俺はいったい、どうしたいんだろうか。
「……摩耶さん?」
「あ、ああ。どうぞ」
失礼しますという言葉の後、扉が開きアデルが入ってきた。
余裕のあるオトナの美女に成長したアデルは、口元に優しげな笑みを浮かべ、見舞い客用の椅子に静かに腰を降ろした。
「もうすぐ退院できるのに、最近、元気が無いみたいですね?
「べ、別にそんなことは……」
オドオドしながら、心配そうに見つめるアデルの視線から逃れるように目を逸らした。
「顔色も優れませんし、あまり眠れていないのでは?」
その通りだった。
東郷さんの事で頭が一杯で、ここ最近は、まんじりともできずにいた。
医者や看護婦からも、体調が万全でなければ退院は出来ないと言われていたところだった。
「東郷さんも岩野さんも心配してましたよ」
東郷さんの名前が出た途端、俺は危険を察知した小動物のように身体を強張らせた。
二人のうちどちらかが、気を使ってアデルを寄越したのだろうか。
余計な気を使わせちゃったな。アデルだって、暇じゃないだろうし。
「摩耶さん。東郷さんと何かあったんですか?」
「……何も無いよ」
「本当に?」
「ほ、本当だよ……」
本当になんにも無い。
俺が勝手に一人で悪い妄想を繰り広げて、どつぼに嵌っているだけだ。
「そうですか」
アデルは意外なほどあっさりと追求を止めた。
会話が途切れる。沈黙が気まずい。
「摩耶さん」
「うん?」
「人を好きになるって、とても素晴らしいことですね」
藪から棒にそんな事を言い出した。
「その人のことしか考えられない、その人のためならどんなことでも出来る。そんな気分になっちゃいます」
「……うん。そうだな。アデルも、そうなのか?」
「ええ、もちろん。そして」
アデルは言葉を続ける。
「同じくらい難しいです。一方的では何の意味もないし、お互い想いあっていても、ちょっとしたすれ違いでぎくしゃくしてしまうこともあります。それが長く続くと、どうしようもない疑心暗鬼に陥ってしまいますし」
すれ違い、か。
アデルになら、聞いて貰っても良いかもしれないな。
少なくとも、恋愛に関しては俺よりも先達だもんな。
「実はさ……」
俺は、目を覚ましてからの東郷さんとのやりとりや、俺自身の東郷さんへの想いを包み隠さず話した。
東郷さんの事が、どうしようもなく好きで好きで堪らないこと。
それをはっきりと自覚してからは、見舞いに来てもらっても、まともに会話も出来ない有様になっていること。
それがきっかけで、愛想を尽かされたりしないかと怯えていること。
自分の気持ちにどう向き合えばいいのか分からず、不安を抱えて思い悩んでいること。
……いかん。話しているうちに、情けなさで涙が滲んできた。
話終えた途端、俺は物凄い勢いでアデルに抱き締められた。必然的に豊満な彼女の胸に顔を埋めることになってしまう。
「可愛い……! 可愛いです、摩耶さん! もう堪らない……!!」
目を白黒させる俺に構わず、アデルは抱き締めた俺の頭を、今度は撫で回し始めた。
「お、おい、アデル。放してくれ。苦しいよ」
抱き枕状態から我に返った俺は、アデルの肩を少し乱暴に押しやった。
「ああ、ごめんなさい。つい、興奮してしまって……」
「……俺の情けない暴露話のどこに、お前を興奮させる要素があったんだ」
「何を言ってるんですか! 可愛いところしかありませんよぉ!」
頬を紅潮させて力強く言い切った。もうわけがわからん。
「東郷さんの事が好きで好きで堪らないのなら、素直にそれを言葉にすれば良いだけです」
「素直に……」
言われて俺は、はたと気が付いた。
思い返してみれば、俺は一度も東郷さんに自分の気持ちを伝えていなかった。
日記には色々と思いの丈を書き綴ってはいたものの、本人にそれを伝えたと思しき描写は全く無い。
艦隊勤務が忙しかったし、照れくさかったというのもある。
「で、でも、今更どういう風に伝えれば……」
「じゃあ、ずっとこのままでも良いんですか?」
「うっ……」
そう言われると、何も言い返せなかった。
「ああ、そうそう。前から言おうと思っていたんですが、旦那様の事を苗字で呼ぶのもおかしいです。だいたい、今は摩耶さんだって同じ姓なんですよ」
同じことを前にガンさんからも言われていたことを思い出した。
「あと、ご自分の事を「俺」というのもすぐに止めるべきです。女性らしく、慎ましくあるべきです」
「そ、それは分かってるんだけど……」
これもガンさんに言われていたことだ。
二人に言われるまでもなく、俺自身が分かっていたことではある。
あるんだけど、今までの習慣というか、なんと言うか。
義両親の前とかでは、きちんと三笠さんって呼んでるから、二人きりの時は別に良いかなとか。
東郷さんだって、特に何も言わないし、なんだか照れくさいし……
「そんなことだから、今回みたいなことになってしまうんです。東郷さんに甘えてばかりいては駄目ですよ」
「うっ……」
ぐうの音も出ないというのは、こういうときの事を言うんだろうか。
こんなアホみたいな考えに捕らわれてしまっているのも、俺の中にそういった部分があったからなのかもしれない。
二人の人間に全く同じことを言われているのだから、客観的にもそう見えるということなんだろう。
「そうと決まれば、岩野さんから東郷さんに伝えてもらいましょう。摩耶さんが、すぐにでも会いたがっているって!」
「えっ! そ、そんな、心の準備が……」
止める暇も無く、アデルは病室から出て行ってしまった。
(間もなく定時か)
執務室の時計に目をやり東郷は思った。
溜まりに溜まっていた重要書類の決裁がようやく終わり、このまま何事も無ければ、久しぶりに定時で退勤することが出来る。
あくまで表向きではあるが、ここ最近は情勢も安定しているおかげで、それまでと比べて時間的な余裕が増えていた。
そんなときは、早めに執務を切り上げ、摩耶の見舞いに行くことが多かったのだが、最近は彼女の様子がおかしいこともあり、二の足を踏んでいた。岩野が任せてくれと大見得を切っていたこともあって、何か動きがあるまでは任せることにしていたが、そうなると早めに帰宅したところで、暇と時間を持て余してしまう。ワーカーホリック気味の東郷は、趣味らしい趣味を持ち合わせていなかった。
とはいえ、司令長官が用も無いのに鎮守府に居座っているわけにもいかない。
何よりも、書類の提出や報告に訪れる士官や、通路ですれ違う将士ががこぞってする質問にかなり辟易していた。
彼らは自らの用件よりも先に、開口一番こう言うのだ。奥様と何かあったのですか、と。
何の事だと不機嫌に睨みつけてやれば、今度は全員が異口同音に、閣下の機嫌が悪い理由なんてそれ以外に無いでしょうと肩を竦め言うのだ。
それが面白半分ではなく、本気で心配しているように見えるのが、東郷には煩わしくて仕方が無かった。
他の艦隊であれば、部下が上官の、それも司令長官の私事を忖度するなどありえないことなのだが、第二機動艦隊群の場合は少し毛色が違う。
二群の主だった将士は、能力は申し分ないものの服務態度に問題があって、元々所属していた艦隊で厄介者扱いされていた者を東郷自らがスカウトしたり、かつての摩耶のように傭人から登用された者が多数を占めている。
そういった事情もあってか、良くも悪くも軍隊らしい堅苦しさや常識とは無縁で、最低限の節度はあるものの、司令長官に対する皆の態度が非常に気安いのだ。
彼らは本気で東郷と摩耶の事を気に掛けているのだが、当人からしてみれば、個人的な問題に土足で踏み込まれているようで非常に気分が悪かった。
「お疲れですか、閣下」
抑揚の無い声に視線を巡らせると、副官の白菊が僅かに首をかしげ、東郷を見ている。
「ん、ああ。いや、なんでもない。大丈夫だ」
「コーヒーでもお淹れしましょうか」
「すまんが、頼めるか」
「はい」
部下の多くがいらぬ勘繰りをしてくる中、彼女の態度だけはまったく変わらない。
感情を表に出すことが皆無で、艦隊ではマネキンだとか鉄の女だとか揶揄される彼女だったが、このときばかりは有り難かった。
「お待たせしました。どうぞ」
「有難う」
カップを手に取り、芳醇なコーヒーの香りを鼻腔に満たした後口をつける。
カフェインを摂取した効果か、それまで心中にわだかまっていた苛立ちが、霧のように霧散していった。
カップのコーヒーを半分ほど消費したところで、緊急直通回線での通信が入った。
司令長官への緊急直通回線の使用が許可されているのは、戦隊司令クラスの提督達のみだ。
それはすなわち、相応の緊急事態が発生したことを意味する。
「はい。司令長官執務室です」
ワンコールで通信に出た副官の白菊が応対する。
「閣下。岩野提督より奥様の事で緊急通報です。お繋ぎします」
「ぶっ!」
東郷は飲みかけのコーヒーを噴出しそうになった。
眉間にしわを寄せ、咎めるように白菊を睨みつける。
摩耶の事で、岩野に骨を折ってもらっていたのは事実だが、それはあくまで私事だ。
長官執務室の緊急直通回線で伝えてくるとは、いったい何を考えているのか。
なぜそれを、白菊は平然と取り次ぐのか。
「閣下……?」
白菊は不思議そうに首を傾げている。
「……繋いでくれ」
言いたいことは色々あったが、ひとまず話を聞くことにする。
手元の端末を操作すると、ディスプレイに岩野の厳つい顔が大写しで表示された。
「東郷だ」
『閣下。アデルから今しがた連絡が入りましてね。摩耶さんがすぐにでもお会いしたいそうです。退勤後、最大戦速で軍病院へ向かってください』
「岩野一佐」
東郷は殊更に、不機嫌そうな硬い声で応じた。
「確かに私は貴官に個人的な頼み事をしていた。だが、それはこの直通回線で知らせて来るほどのことなのか」
『もちろんですとも』
剣呑な東郷の視線をものともせず、岩野は正にとばかりに大きく頷いてみせた。
『閣下がご夫人の事で心を痛めていることは、艦隊の将士一同が憂慮していることであります。閣下がこのような状態で有事となれば、艦隊全体の士気にも関わります。安全保障に関わる喫緊の問題として早急に対処しなければならないと考え、直通回線を使用いたしました』
「……本気で言っているのか、岩野一佐」
東郷は唸るような声を発した。
『まあまあ。そう硬いことを仰らずに。閣下が私事で軍務を疎かにするような方では無いことは重々承知しています。しかし、皆心配なんですよ、お二人のことが。そうでなければ、白菊二佐だって、閣下に取り次いだりはしませんて』
視界の端に映る白菊の表情は、表面上は普段と全く変わらない。
東郷と岩野の会話に聞き耳を立てる風も無く、淡々と自分の仕事をこなしていた。
『で、話を戻しますが。やはり閣下の杞憂だったようですよ。何の心配も要りません。これからも、時間に余裕が出来た時に会いにいってあげてください』
「私の杞憂だと言うが、何を根拠にそう断言できるのだ」
『根拠ですか? アデルがそう言っていたからですよ』
東郷は本気で頭を抱えそうになった。何の説明にもなっていない。
『理屈で考えちゃいけません。こういうときはね、素直に女の言うことに従うんです』
視界の端で、白菊が何度も頷いているのが見えた。
今更ながら、音声がスピーカーモードのままだったことに気付いた東郷は、平静を装ってスピーカーをオフにする。
『報告を聞いているときのアデルは、終始笑顔でした。つまりまあ、そういうことですよ』
「もういい。わかった、ご苦労」
肺が空になるような深い溜息とともに、東郷は吐き出すように言った。
『それじゃ、失礼致します』
砕けた敬礼を最後に、岩野の顔がモニターから消える。
それと同時に、課業終了を告げる喇叭が鎮守府内に鳴り響いた。