「彼女は秋月摩耶。私の婚約者です」
「ははは、はじめまして。あ、秋月です」
東郷さんの言葉に促されるように、俺は居住まいを正すと、佐藤さんに向かって頭を下げた。
垂れ気味の目を僅かに見開いて、佐藤さんはまじまじと指輪の嵌った俺の右手を凝視している。
俎板の上の鯉にでもなったような気がして、物凄く居心地が悪い。
「もう……いやですわ、三笠様ったら。冗談が過ぎますわよ?」
やがて佐藤さんは、さもおかしそうに顔をほころばせた。
余程おかしかったのか、クスクスと微笑みながら、目尻には涙まで浮かべている。
取り出したハンカチでそっと目元を拭う仕草なんかは、文句なしの大和撫子なんだけどな。
「佐藤さん。私は冗談を言っているつもりはありません。そうだろう、摩耶」
頼むから、こっちに話を振らないでくれよ、東郷さん。
俺は置物だって言ったじゃないか。
そう思ったけど、無視してスルーするわけにもいかず、無言でコクコクと頷いた。
「彼女はまだ15ですが、16になり次第、結婚を考えております」
端で聞いていると、物凄く危険な話だ。
25歳の良い大人の男が、15歳の小娘を「婚約者」だと言い張り、挙句、法的に結婚可能な年齢になったら、嫁にすると宣言しているのだ。
イケメンでなかったら、間違いなく通報されている。
俺のそんな思いを余所に、東郷さんはいかに俺の事を大切に思っているか、同様に俺がどれだけ東郷さんに尽くしているかを力説していた。
それはもう、歯が浮くような台詞のオンパレードで、隣で聞いてる俺にとっては拷問に等しかった。
限られたプライベートな場では、リア充全快でいちゃつきまくってているだとか、毎朝俺が早起きして、東郷さんの為に愛情たっぷりの手作り弁当をこさえているだとか、とにかく色々だ。
よくもまあ、こんな作り話を即興ででっち上げられるものだと、ある意味感心もした。
もちろん、全て東郷さんの作り話なので、そんな事実は全く無い。
「三笠様のお話は分りました。でも……」
微笑みながら東郷さんの話に耳を傾けていた佐藤さんは、俺のほうに視線を転じた。
その顔の動きと口元に湛えられた笑みが、獲物に狙いを定める肉食獣のように思えて落ち着かない。
「摩耶さん……と言ったかしら?」
「は、はひっ!」
佐藤さんに見つめられ、俺は背筋を伸ばした。
口調も表情も穏やかなんだけど、ほんの僅かに開かれた目だけが全く笑っていない。
「その格好、まるで軍人さんみたいね?」
佐藤さんは、俺の格好を上から下まで舐めるように眺めた後、言った。
「あー、えー。こ、これでも、現役の軍人なんで……」
「あら、そうなの。うふふ……てっきり、歳が歳だから、学生さんかと思ったわ。特優者さんなのね」
俺の目から片時も視線を外さず、佐藤さんは少しずつ身を乗り出すようにして、俺に顔を近づけてきた。怖い。
なまじ美人なうえ、おっとりとした外見からは、そういう片鱗を全く感じさせなかっただけに、ギャップが凄まじかった。
東郷さんにアイコンタクトで助けを求めるが、あからさまに視線を逸らして気付かないフリをされた。使えねえ。
「三笠様と同じお仕事をしているのね。それなら、憧れるのもわかるわ。とっても素敵な殿方ですものね」
自分の言葉に自分で納得するように、佐藤さんは何度も首肯した。
「でもね。憧れと愛は違うものなのよ、摩耶さん」
「は、はぁ……」
愛と来たか。いきなり重過ぎる。
「口先だけで、婚約者を名乗るのは、それは簡単なことよ」
「は、はぁ……」
「本当に愛しているのなら、その人のことを何から何まで知っていなくてはいけないの……わかる?」
わかる? のところで僅かに語気が強くなり、更に俺のほうに身を乗り出してきた。
既に佐藤さんは、テーブルの上に覆いかぶさるような態勢になっている。
端から見ると結構怖い絵面だ。
「私はね、三笠様の全てを知っているつもり。あなたは知っているかしら? 三笠様はトランクス派ではなく、ブリーフ派なのよ?」
「ぶふっ!」
隣で東郷さんが盛大に吹いていた。
ふうん、そうだったのか。東郷さんはブリーフ派だったのか。
どうでも良い知識が増えてしまった。
もしかしたら、俺の
「くっ……!」
ブリーフ一丁の東郷さんが姿見を前にして、次々とポージングを決めている光景を脳裏に思い浮かべてしまい、俺は顔を伏せて噴出しそうになるのを必死に堪えた。
俯いて肩を震わせている俺を見て、佐藤さんは自分の言葉に恥じ入ったとでも思ったのだろうか、笑みが少し得意げなものに見えた。
「どうかしら、摩耶さん。そのことはご存知だった?」
「いっ、いいえ。今、初めて知りました」
笑いを必死で堪えながら、そう応えるのが精一杯だった。
俺の答えを聞いた佐藤さんは、我が意を得たりとばかりに、満足そうに頷いた。
「愛する人の下着の趣味なんて、基本中の基本よ。そんなことも知らずに、婚約者を名乗るなんて、おこがましい限りではなくて?」
たかが下着の好みぐらいで、随分な言われようだ。
「あなたの愛は軽いのよ、摩耶さん」
あなたの愛は、とてつもなく重いです、佐藤さん。
見た目と第一印象に騙されてしまったけど、これは結構な筋金入りだ。
東郷さんも本気で辟易しているのだろう。
正直に言って、さっさと逃げ出したい。
……でも。PCなのかNPCなのかは分らないが、好き放題言われっぱなしのままというのも何か癪に障る。
嫌々引き受けた婚約者役ではあるが、こんなアレな女に、これ以上東郷さんの周りをうろちょろされたりしたら、艦隊業務にも支障が出てしまう。
そうなると、
こちとら、常に人手不足で日頃の領宙警備任務でさえバタついているっていうのに、こんなストーカー女に構っているほど暇じゃない。
そう考えると、無性に腹が立ってきた。
俺は顔を上げると、真っ向から佐藤さんの顔を見据えた。
「下着の好みぐらい、結婚すればわかる事です。洗濯のたびに、嫌でも目にすることになるわけですし、その時で十分じゃないですか」
なんで、こう、ストーカーとかになるタイプの人間は、何でも知っているイコール愛が深い、みたいな考え方になるんだろうか。
それが相手にドン引きされるというのが、分らないんだろうか。
結局この手の連中というのは、相手が好きなんじゃなくて、「相手が好きな自分」とか「相手の為に一生懸命な自分」が大好きなだけの超絶ナルシスト野郎(この場合は女郎か)なんだろう。
「本当に相手のことを好きで思いやっているというのなら、もっと他にやるべきこと、出来ることがあるんじゃないですか?」
「あらあら。言ってくれるわねえ……」
佐藤さんの声が少しだけ低くなった。
反論されてムカついたのか、言葉にも棘がある。
さっきまでは、どことなく年長者の余裕みたいな感じの比較的落ち着いた口調だったんだけど、それも一瞬にして消え去った。
この種の人間全てに共通することだけど、煽り耐性があまり高くないようだ。
「それなら、あなたは、三笠様の為に何が出来るのかしら? そこまで言うのなら、是非とも聞かせて欲しいものですわね」
「俺……いえ、私は」
隣で固唾を呑んでいる東郷さん、目の前の佐藤さんと順に視線を巡らせた後、俺は昼飯の話でもするような気軽な口調で言った。
「私は、東郷さ……三笠さんが死ねと言ったら死ねます」
「は、え……?」
さすがに予想外の一言だったのか、佐藤さんは呆気に取られたように目と口を見開いた。
隣にいる東郷さんも、似たような表情になっている。
うん、まあ。いきなりそんなこと言われたら、普通はそうなるだろうね。
でも、別に対抗するためにヤンデレ染みた事を口走っているわけじゃない。
だから、まさかお前まで、みたいな表情になるのはやめてくれ、東郷さん。
「私は、三笠さんが死ねと言ったら死ねる。そう言いました」
噛んで含めるように、同じ言葉を繰り返した。
「そ、それは、三笠様の為に命を懸けるということかしら。そのくらいなら、私にだって……」
「いいえ。そんなどこにでも転がっているような、ありふれた精神論ではありません」
俺はゆっくりと
「私人としては婚約者同士といえ、公人としての私達は、銃後の国民を守る軍人であり、上官と部下の関係であります」
佐藤さんを見据えたまま、俺は慎重に言葉を続けた。
「国民の生命と財産を守るため任務を遂行するにあたり、三笠さんは私や他の部下に対して、戦え、殺せ、死ねと命令しなければなりません。その立場にあります。そして、私はそれに従わなくてはならない。そこには、一切の私情を挟む余地はありません」
さすがにちょっと大袈裟かもしれないが、嘘は言っていない。
突き詰めれば、戦闘指揮とはそういうものだし、俺も自分の部下に同様の命令を下していることになるのだ。
「この先、結婚したとしてもそれは変わりません。三笠さんは、妻である私に死ねと命令し、私は夫である上官の命に従い、死地に赴きます。あなたに、私と同じことが出来ますか?」
我ながら、中二病全開の無茶苦茶な理屈だとは思う。
だけど、俺の意外な反論に、佐藤さんは少し怯んでいるようにも見えた。
このまま一気に畳み掛けようと、俺はテーブルに手を付いて立ち上がると、挑みかかるように佐藤さんに顔を近づけた。
「佐藤さん。あなたは、憧れと愛は全く違うものだと言いましたね。その言葉、そっくりそのまま、お返しいたします」
佐藤さんの顔から取り繕うような笑みが消えた。
そこまで言って、俺も少し冷静になる。
つい強めの口調で言い返してしまったけど、相手はストーカーだ。ちょっとやばかったかもしれない。
佐藤さんは俺から目を逸らし、俯き加減で下唇を僅かに噛み締めていた。
いきなり刃物でも突きつけられたらどうしようかとヒヤヒヤしたが、幸いそんなことにはならなかった。
「佐藤さん。摩耶の言い方は少し乱暴かもしれませんが、真実ではあります」
それまで置物と化していた東郷さんが、タイミングよく割って入ってくれた。
「私か摩耶、いずれかが戦場に斃れるという可能性は常に付きまといます」
東郷さんは俺の肩に手を置き、席に着かせた。
「私も摩耶も。それを覚悟の上で、添い遂げるつもりです」
俺はその通りだとばかりに、ゆっくりと頷いた。
イケメンエリートに憧れてストーキングしているあんたとは違うんだと、言外に滲ませながら。
と、その時、周囲からパチパチというまばらな拍手が聞こえてきた。
「いいぞ、軍人の兄さん!」
などという、無責任な声援を飛ばしてくる声もあった。
店内には俺達以外にも数人の客が居たことを、すっかり失念していた。
ちょっと……いや、かなり恥ずかしい。
「こほん……く、加えて――」
誤魔化すように軽く咳払いをした後、東郷さんは話を続けた。
「加えて、この先、摩耶が退役して主婦になったとしても。いつ何時未亡人になるかしれない」
もっともこれは、妻帯している将兵全てに言える事ですが――と、東郷さんは付け加えた。
「あなたには、その覚悟がおありでしょうか。佐藤さん」
身を乗り出すようにしていた佐藤さんは、のろのろと自分の席に腰を降ろした。
項垂れるように顔を俯かせているので、表情は分らないが、僅かに肩を震わせている。
「そう、ですか。お二人の婚約は、それほどの覚悟の上でのことなのですね……」
抑揚の無い声で独り言のように小声で呟いた後、佐藤さんはゆっくりと顔を上げた――