周りごと全てを焼き尽くそうとする業炎を止めたのは、それまで一切手を出さなかったウンディーネだった。片手を向けるだけで作られた水の壁に業炎は阻まれ、揺れる景色の向こう側で大きすぎる影が闇雲に暴れ回っていた。
紅く。翼を持った獅子のようなそれは見るからにただの魔物ではなく。だが、理性は感じられないほどに暴れている。
グノーシスの時と同じか。ユーリたちの言葉にイチトシはようやく状況を理解した。
「アレクセイが奪った分、エアルの調整をしていたのか」
その姿を見たことは無かったが、それをしたのが誰か。分かる。
「そしてデュークも倒そうとしてるの?」
水の壁が無くなった向こう側で翼を広げ、真紅の目を向けた彼は吠えた。
「カレン」
言葉を利くことすら出来ず、こちらの言葉も届かない。
「ユーリくん、この子は私のギルド員なんだ。……ここは私に任せてどうか先に」
「ほー。ユニオンのギルドってんならもう一人要るだろ」
強く背を押された紫の羽織がイチトシの前でべしゃりと倒れる。
「じゃ、イチトシさん、おっさん。ここは任せるな」
倒れたまま見上げた景色。困ったように笑う彼女が差し出した小さな手を取った。
「一人でどうにかするつもりだったのに」
「そりゃ無理ね。なんだかんだ青年たちは優しいし」
「レイヴンもでしょう?」
さあ立って。攻撃が来るよ。
強く引っ張られ、一歩足を踏み出す。獅子の吐いた業炎がレイヴンの羽織の裾を少しだけ焼いたが、互いに気にせず笑った。
最後だから。最期だから。
「ああレイヴン、加減はせず。彼はもう、始祖の隷長では在れない」
「うん。今までの鬱憤もついでに晴らしちゃおうかしらね」
「はは、それは良いかもね」
ギルドに居る時は随分と嫌われていたから。
空に向けて打ち上げた矢は墜ちて獅子の翼を抉り、地面を駆けた先に待っているのは灰色の剣。
ざり、と引っかかる感覚にイチトシは両手の剣を離して距離を取った。力を込められた体に食い込み止まった剣は抜けない。
まいったな。
おっさんが前に立とうか。レイヴンが一歩、前に踏み出すと獅子は鼻にシワを寄せて唸った。
『せかいなんて、どうでもいい』
聞こえた声に、二人は顔を歪めた。それはかつての紅の青年と同じ声。
『ただあのひとに、しあわせを、あげたいんだ』
ぐるる。唸り声に重なった言葉。
「……過ぎた願いだ」
ずる。何かを引きずる音が聞こえた。
そしてレイヴンは思わず足を引く。イチトシの足下から這い上がるように半透明の何かが現れる。それはかつてフェローの作り出した幻影や、ノードポリカに現れた星喰みの眷属のような。
「レイヴン。この力でとどめを刺してしまうと彼は星喰みに取り込まれて、戻れない。私が抑えている間に……お願いできないかな」
足下はすっぽりと半透明の闇に覆われ、どこか淀みを増したような灰色の髪を靡かせて。
「おっさんもそんな体力ないから」
「大丈夫。私がこれを出来るのも一度きり」
『しあわせ、を』
聞こえた声を振り切るように足を踏み出したのはイチトシ。大きく近寄ってくるイチトシを踏み潰そうと差し出した前脚は空を切り、残った闇が前足を絡め取り床へと縫い付ける。
じゅう。肉の焼けるような音がしてレイヴンは思わず鼻を押さえた。あれはきっと、酷い毒。
手の中のトリガーを引いた。
剣へと姿を変えた武器を手に、レイヴンも遅れて床を蹴る。
空へ逃げれば翼の付け根を取られ落ち、無事な前脚ですら半透明の闇に囚われる。カレンはわずかに残る意識で自分を捕らえる灰色の『人』を見た。
視界の端を駆ける紫が目に入り、身体の奥から熱が溢れる。
獅子の口元にチラつく炎を見てまずい、と思うが一直線に駆ける勢いを殺しきれない。
溢れた業炎に焼かれても良いかもしれない。わずかにそんなことを考えた彼の耳を鋭い声が貫いた。
「止めろ!!」
珍しい彼女の命令口調。飛んだ声に炎は消え、自分の手は深く獅子の胸元に沈んだ。
ぽたぽたと獅子の口から落ちる液体を浴び、レイヴンは顔を上げた。真紅は真っ直ぐに自分だけを見下ろしている。
『裏切り者』
ただ一つ聞こえた言葉に。
レイヴンは足を引いた。