夜半。宿となる建物の屋根に座り、イチトシは残った空に瞬く星を見ていた。今も昔も綺麗な空だ。隣に並んだ人影に声をかけずにいるといつかそうされたように紫の羽織が肩にかけられる。暖かなそれの端を掴むと、寒いんだから羽織ってなさい、と半ば怒られてしまう。
寒くはないんだけど。
文句を言うも隣に座ったレイヴンは、はいはい、とまともに取り合わない。
「あの、ね。ジイの聖核、精霊になった、ん、だと思うけど。なった瞬間居なくなったって」
「うん、分かるよ。彼はイタズラが好きなんだ」
『言い方が気に食わないですが、まあ否定しないでおきましょうか』
背後から聞こえた声にレイヴンが振り返ると『見知った姿』のジイが悪戯に笑い二人を見下ろしていた。
「気分はどう」
「良いですよ。扱いに慣れるまでは難しいですが、この世界に近くなった気は確かに致しますね」
「始祖の隷長ではないけど、世界を見守る存在ではあるんだろうね」
「そうですね。ですが今はまだ『寄り添う者』です。必要であれば名をお呼びください。では」
軽く一礼を残してジイは夜空に溶けるように姿を消した。
うわあ自由。あまり言うとまた出てくるよ。
小さく笑い合い、夜空を見上げた。夜空半分、後は星喰みに覆い尽くされた空。
空を見ると嫌でも思い出す。
レイヴンは何も言えず、何も言わず、ただ空の中心に座るような姿の星喰みを見上げていた。今、この場所で仲間たちはあの星喰みを消す最終調整をしている。仲間と話し、決意を固め。魔導器の無いこの街の手伝いをすることで未来に思いを馳せ。見知った元騎士団長は気性の激しい天才魔導師と論議しながら魔導器を作っている。その過程で元騎士団長は何年もかけて造ったという剣を奪われていたが、論議をしている間はどちらもどこか楽しそうに見えた。
ルディアースの二人は異常なほど静かだった。大怪我をしてはいたが既に意識は戻っている。様子を見に行ったが、レイヴンは一度視線を向けられるだけで何の言葉をかけても何も言われず、何の反応もされなかった。
おっさんはルディアースに無視されてるのよ。そういうと彼女は彼らのいる建物に目をやった。
「ルディアースは、元々母が当主だった」
「そう、みたいね」
ジイの言葉とあの場の話でわかった。きっとあの人は後からルディアースの家に嫁いだ。武芸に秀でたあの家に。
「きっと母が相手だったら私たちは勝てなかった。父を表に戦ったのは……あの人達なりの譲歩なのだと思う」
「青年を転がしてるのは、少し笑ったわ」
ふふ。虚を突かれて反応できなかったのだろう。力の足りない英雄と笑った母は強い。知る限り誰よりも。
イチトシもレイヴンと同じように空に鎮座する破滅を見た。
「魔導器がない未来は、大変だよ」
「うん、そうかもしれない」
「そんな中、魔導器が使える君はもっと大変だ」
「ああ、そっか。そうね」
「ジイはきっと嫌々ながらも手を貸してくれる。頼ると良い。彼の考え方は人に近い」
「……そうするわ」
誰かの居ない未来の話。
「いや。いいのか。あんなに頼れる仲間が居るんだ」
仲間が居ても。
「心臓魔導器はまだ、アレクセイの方が詳しいかな。嫌だろうけど彼は一生をかけて償うだろうから何かあれば力になる」
「ねえ」
どれだけ頼れる人が居ても。
「イチトシちゃん」
唯一人居ない。
「……」
「なあに、レイヴン」
「イチトシちゃんの……、探してる人。伝言くらい、預かろうか」
イチトシは目を閉じた。
探してる人。
「まだ生きているなら私の言葉で縛りたくない」
「一言くらい、無いの?」
左手を強く握る。一言だけ。
「たすけて」
「え?」
小さな小さなその言葉を聞き取ることができなかったレイヴンは聞き返した。
「ありがとう、と言ったんだよ。充分幸せをもらったからね。明日も早いんだろう? レイヴンも寝なさい」
絶対に違う言葉を言った。
けれど彼女は羽織りをありがとう、と彼を追い返す。もう、きっとどんな言葉をかけても返ってくるのは取り繕ったような言葉。
しかたなく羽織りを片手に屋根を降りて自分が休むように宛てられた部屋の扉を開けた。
「臆病者」
直後贈られた言葉に武器に手が伸びる。部屋の中にいるのが燕尾服だと気付くと安心し、そして贈られた言葉を反復して目を逸らした。
「オレにどうしろって言うの」
ベッドに勢いよく座り込むと正面に回った燕尾服は片手を腰に当てた。
「別に、どうも致しませんよ。あの頃の無邪気さを思い出しているだけです」
「ジイは遠慮ないのね」
「……変えようと思えば変えられたものすら変えずにただお互いに『待ち』つづける姿は見ていて腹が立つほどです」
奪いに行かなきゃ。そう言った青年の方がまだかっこいい。
「そういえば、さっきのイチトシちゃんの声。ジイには届いてたの?」
ありがとうじゃないでしょ?
ジイのわざとらしいため息。
「イチトシ様は弱い。貴方がもし最期を看られるならば、イチトシ様はきっと同じ言葉を言います」
「おっさんは強いと思ってるけどねえ」
「貴方に何も打ち明けられず共にいてほしいとすら言えないのに? 人の強さ弱さは分かりませんね。……その時が来たら力を貸しましょう。それまでどうか、呼び出さないでくださいませ」
透けるように消えていったジイを見送り一人の部屋。座ったまま後ろに倒れ片手を目の上に置いた。
屋根の上に彼女を見つけた時、背中が小さく見えた。膝を抱えるように座っていた彼女は自分を守っているようにも怯えているようにも見えた。
不思議と暖かく感じたんだ。手を握られ、抱きしめられ。
そうしてやることすらできない。
爪が食い込み血が滲む程に強く握りしめた。
それをしたところで。
自分は彼女を『殺す』選択をしたんだ。
「説教は嫌」
未だ屋根に座り続けるイチトシは音もなく背後に現れた燕尾服に振り返らず言い放った。
「まだ何も言っていませんが」
「どうせレイヴンにも説教したんでしょ」
「ああ、そうでした。ではひとつだけ。敬称、忘れておりますよ」
レイヴン、さん、でしょう?
ぱふり。イチトシは抱えた膝の中に顔を埋めた。
「説教より酷いね」
「悪戯が好きなもので」
「……本当に酷い。明日、何があっても君は彼らについてね。アレクセイは連れて行けないから」
「はい。最期のお話をしに参りました。イチトシ様、私はーー最初こそ寄り添う者など辞めたかったですが、今は貴女の元に在れて幸せです」
想定しない言葉に振り向くと既に燕尾服は見当たらず、星の瞬く空が広がっていた。言い逃げなんてらしくない。軽口にも返ってくる言葉はない。
「先を、見たくなるじゃないか」
魔導器の無い世界、始祖の隷長ではなく精霊という存在が増える世界。エアルではなくマナという力が主流になる世界。
破滅なく進んでいく世界。
きっと鮮やかで暖かい。
「……明日より未来。あの子には幸せが数多く訪れますように」
イチトシは生まれて初めて両手を合わせ、空に願った。