薄い魚のような半透明の姿の中にある丸い核。ジイがいつかのように核を切り捨てればその姿は霧となって消え、空に溶ける。眷属、と呼んだそれはノードポリカに侵入していた。だが、どこからか降りてきたイチトシたちが『慣れたように』それを討伐した。ナッツは目の前の光景にため息をつく。
この人に常識はいつだって通用しない。
「今、連れが結界魔導器を直してる。普段通りの方が襲われないで済むよ、ナッツさん」
薄く笑うイチトシ。
後ろに控えて小さく頭を下げるジイすらも変わらない。
「妙な魔物を警戒したのが、仇になったのですね」
助かりました。
ナッツの言葉を遮り、誰かがイチトシの名を呼んだ。
「……ああ本当に。君たちはすごいね。レイヴン」
ナッツの背後から走って姿を現したのは愛用の弓を片手に持つ、天を射る矢幹部の姿。力強く弓を持つ姿にジイが一歩イチトシより前に進み出る。
イチトシはジイを退かず、一定の距離を持って立ち止まるレイヴンをただ見ていた。
名を呼ばれるのも、いつぶりなのだろう。
気を抜けば自分も名を呼びそうで。
互いに何も言わず。ただ静かな時間を裂いたのは足早に近付いてくる足音だった。難なくレイヴンの背を超え、イチトシの隣に並んだ彼は首を傾げる。
「相変わらず身内の空気を読むのは苦手なようですね」
レイヴンを見たままのジイに指摘され彼は慌てて謝った。何かまずかったか、と。
「いや、ありがとうアレクセイ。これで大丈夫だろう。じゃあナッツさん、壮健で」
何も言わないままのレイヴンを視界から外そうと足に力を入れた瞬間。ジイの前でエアルが集まり、水球を成した。水球はやがて形を変え、人のような形でジイと相対した。
『寄り添う者、そしてイチトシ。久しぶりじゃな』
「その声、ベリウスか……? 小さく、力強くなったな」
「ベリウスなのかい?」
『今は名を変えてウンディーネと』
「名を変え、力を変えても変わらぬな」
珍しいジイの敬語ではない言葉。親しい仲のように話す彼の肩を少し叩くとジイは足を下げ、ウンディーネと名乗った存在の前にイチトシが歩み出る。
違う対応にレイヴンは奥歯を噛みしめた。
よく知った名前にナッツも駆け寄り、ウンディーネは目を細めた。苦労をかけておる。頭領の声にナッツは深く、深く頭を下げた。
「君が居たからか。流石に到着が早いと思ったんだ」
『エアルの流れは伝えたが、わらわを救ったのはかの少女たちの力よ。人というのはまことすごいものよ』
「そうだね、今度は消し去れる」
『……、そうじゃな。そうかもしれぬ』
「私たちを止めに出てきたのか?」
ジイの言葉にウンディーネは首を振る。
『向かう先は同じ。わらわはただのお節介じゃよ。先が短いなら後悔せぬようーー』
「貴様っ!」
『ではの』
ジイが敵意持って伸ばした手はウンディーネの残滓である水球を握り潰した。ぱしゃり、地面に落ちた水を憎むよう睨みつけ手についたそれも同じ場所に打ち払った。
聞こえていた。
レイヴンはウンディーネを見送り、視線を上げた。
「ジイ」
その人は従者の名を呼んだ。
「出過ぎた真似を致しました」
「帝都に。もともとの予定を遂行しよう」
お言葉のままに。
光が辺りに満ち、レイヴンは目を庇った。光が収まれば駆け出してでもその人を止めるつもりだった。
白と蒼の始祖の隷長に、睨まれるまでは。
『アレクセイ様、また引っ掴まれたいですか?』
それは変わらない口調で、変わらない性格で、鋭い前脚でアレクセイの肩を軽く叩いた。
「ご勘弁願おう……。レイヴン、と呼べば良いのか」
地を蹴ったイチトシが始祖の隷長に乗ったのを見届け、アレクセイは肩を叩く前脚をはたき落としてレイヴンを振り返る。
「……今はイチトシに命を預けている。全面的にそちらにはつけないが、敵とはみなさないことだ」
「アンタがそんなこというわけ、今まで好き勝手しといて」
「お互いにルディアースにはしてやられている。今、かの貴族を相手にしている余裕は君に、君たちに無いはずだ。君たちは君たちのすべきことを」
『喋りすぎです』
ばさり。一度空を打ち浮き上がった始祖の隷長は鋭い爪を持つ前脚でアレクセイの掴むと再び空を打ち、翔んだ。またたく間に消えていく姿を、レイヴンはずっと見送っていた。
酷く穏やかに。知る限り初めて会ったときのような顔でアレクセイは諭してきた。ルディアースが居るからこちらに入れ込むな、と。
胸元で重なる二つの飾りを服の上から握った。
日なたに濡れた地面。
あの方も始祖の隷長だったのですね。
そう言って近付いてきたナッツにも目をやれない。
「どういう、ことよ、ウンディーネ」
『真実はイチトシより聞くといい。これが、かの者の幸福のきっかけになると願っておる』
レイヴンの前に現れた水球はそれだけの言葉を発するとそのまま崩れ落ち、黒く滲んだ水たまりを増やした。
無知だと馬鹿にするのなら、嘲るのなら、知識を。
それとも、調べろというのか。時間が残されていない、今のこの状況で。先が短いのなら。
最短の時間で知識を得るため、誰の力なら借りられる。
「ちょっとオッサン、こっちに騎士団長来たでしょ! どこ行ったの、アイツ――絶対私の知らないことを知ってる」
もしも今の騎士団長が、昔の騎士団長と同じなのであればあの人が意味もなく先程の情報を伝えたとは思えない。喋りすぎた、とあの始祖の隷長、おそらくジイも言っていた。
つまり。
先程の言葉は自分にとってただのヒント。
「調べることに関してはほんっとうに回りくどいわ……」
それらの知識に触れられた数年。もう少し真面目にしておくべきだっただろうか。
過ぎた話だ。
「ダングレストなら」
話をつけられるか。
強靭な鳥の足のような前脚に掴まれ、地面を遠く足下に感じながらアレクセイは始祖の隷長を見上げた。
『落としても良いのですが』
おそらくアレクセイにだけ聞こえるように届けられた声に笑うと両肩に少し大きすぎる爪が食い込んだ。
「永く彼女の傍にあったならば、情が湧いているだろう? ……せめて悔いが無いようにとは思わないか」
常に風の魔術を展開しているのか酷く早い速度で飛んでいるにも関わらずアレクセイは風を感じない。だからこそ言葉を届けることが出来る。
『寄り添う者はあの方の意志に想うことはありません』
「言い聞かせるようだ――なっ」
言葉の途中で自分を襲った浮遊感。本当に前脚を放された。見上げた視線の先で高度を落とす始祖の隷長が見えた。
思いの外柔らかに落ちた場所で、つかめる何かを探した手は小さな手を捉えた。
「まったく。何を二人で遊んでるの」
『あまり始祖の隷長を馬鹿にするようなら今度は本当に落とすと伝えておいてください』
「馬鹿にしたつもりはないが」
『イチトシ様、空は飛べますか?』
「うん? うーん、試したことは無いなあ」
「待て、待て! 謝る、すまなかった」
ばさり。わざとらしく大きく羽ばたかれ、慌ててアレクセイは始祖の隷長の白い羽毛を握った。
「なんだ、ただの仲良しじゃないか」
くるり。
空中で一回転した始祖の隷長から二つの人影が帝都に落ちた。一つは楽しげに笑い声を上げ、一つは悲痛な叫び声を上げた。