「もう、状況が分からないのだが」
あれから一日。アレクセイは裸で広すぎる湯に浸かっていた。
「納得は諦めてはいかがです? 貴方は理解していれば良いのだと思いますよ」
ジイと呼ばれる男と。
「オレは納得したぞ!」
イチトシの父ルディアースの現当主と。
時間を遡り考えることすら億劫で。何度考えても行き着く結論は最初の一言に尽きる。
ここに連れてこられて何度目のため息だろうか。
秘境ユウマンジュ。秘湯ユウマンジュとも呼ばれる。ほぼ空からしか訪れることのできないであろうこの場所はいつからか彼女たちの秘密基地になっていたらしく連れてこられて知った顔をいくつも見た。
どれだけ探させても見つからなくなったわけだ。ルディアースを見ればただ穏やかで。ジイを見れば変わらず静かで。
何もかもが上手くいっていたあの頃を思い出す光景だった。
ルディアースの胸元にはいつかの襲撃の傷痕が残っている。傷痕を見つけて謝ったのはもう昨日のこと。そんなこと忘れた、と笑って済ませられたのも昨日。
誰もが自分のしでかしたことを知っていて、誰もが状況と『彼女』を知る。
「未だ信じられないな」
「オレたちの娘をか?」
「そういうわけではなくですね」
「人ではない味方が居ればそれなりに貴方の知らない知識はあります。人にしては知り過ぎているくらいです、貴方は」
私はもう上がります。
湯の中で立ち上がった白髪の男、ジイは二人よりも早く脱衣所へ向かう。
「ジイが始祖の隷長だと、ご存知でしたか」
「そういう名前だとは知らなかったなー。ただイチトシにずっとついてて、年を経ってるようには見えなかった。若作りが上手いもんだとは皮肉ってやったことはある」
あはは。
空の見える風呂にルディアースの笑い声が響く。
ザウデ不落宮から逃げる際に乗った白と蒼の始祖の隷長。それはザーフィアスからユウマンジュへ飛ぶとさも当たり前のように人に姿を変えた。
「謝られたのは……衝撃でした」
人に姿を変えた始祖の隷長、ジイは一言目にアレクセイへの謝罪を口にした。何も理解していなかったアレクセイが驚いている最中に彼は言葉を続けた。
星喰みのこともザウデのことも全ては始祖の隷長が押し隠していたのが悪い。人と手を取り全ての情報を共有していればこんなことは起こらなかった。盟主に代わり謝罪を。
始祖の隷長よりも人らしく。人では決して口にできない謝罪に未だアレクセイは言葉を返していない。
「中心に居たのはアレクセイだろうけどな、周りにも誰か居たんだろ。アレクセイが思うより、ずっとな」
全員の責任だから押し付けてしまえ。
からりと笑ったルディアースもまた湯を上がる。
広い空間にただ一人。
アレクセイは空を見上げる。
空に空いた穴は埋められない。だからその先の災厄を消し去ろう。
自分が起こした事象に誰一人口を出さない。ルディアース夫妻はイチトシの耳と手となり、ジイは足として、そして自分は知恵となれ。イチトシはアレクセイがある程度落ち着いた昨夜にそう告げた。
知恵となれ。
言葉を繰り返し、手を握る。
知恵となろう。
アレクセイは湯を上ると着替え、いつもと違う髪型に整え彼女の部屋の扉を叩いた。どうぞ。柔らかな声が帰り開いた扉の先には足の置き場もないほどに散乱した書類と本。
「相変わらず、片付けるのは苦手か」
「屋敷ではジイが、ギルドでは皆がやってくれてたからね」
「ふむ。魔導器同士のネットワークだったか?」
「もう。直感的に出来たらいいのに。数式やら回路やらを組み立てるのは苦手なんだ」
「意外だな。必要なら何も言わずやるタイプかと思っていた」
「ふふ、そう見せるのは得意」
これは君に任せた方が早そうだ。手元の資料も天井に向かって投げ捨てた彼女はあっけらかんと笑う。
感情表現に乏しいと思っていたのは最早過去。捨てられた紙を拾い上げたアレクセイは手早くそれらをまとめるとまだ物を置ける机に置く。
「問題は核かあ……。やっぱり聖核が欲しいな」
「……それは」
「フェローとかくれたら良いのに」
世界の敵とか言われたからきっとくれないんだ。くるりと椅子ごと振り返りイチトシは頬を膨らませる。
「私を差し上げましょうか。またこんなに散らかして」
燕尾服を着たジイはアレクセイの背後から顔を出すと荒れ放題の床へと手を伸ばす。
「却下。今君を失うと部屋の片付けが出来ない」
「そうですね。私もこの部屋を見て気が変わりました」
「……今のは冗談か?」
イチトシは首を振り、ジイは言葉で否定する。必要ならば構わない。
「正確に言うのであれば私の役目はイチトシ様の死を見届けるか確信すること。その後であれば構いません」
「死神のようだな……」
「死神。そう例えられたことはありませんね。もたらしたりはしませんが」
「見届けてくれるなら嬉しいね。その時はアレクセイも」
一緒に見届けて。
彼女たちの会話に同じ立場で言葉を返せず、暇な手が剣の柄を握る。この場で柄を握っても誰も警戒しない。アレクセイの目の前では散らかす主人に嫌味を言う従者と、適度に聞き流す主人の姿。
明日からは行動しよう。
数少ない仲間に声をかければ彼らは一も二もなく立ち上がり準備を始める。
笑って死に向かう彼女の手を引くことは出来なかった。