知っている。
ゆっくりと立ち上がったイチトシを一人、視界に収めて目を見開き驚いた。だが、イチトシはそちらに視線を向けるよりも早く床を蹴った。よく見知った銀髪に迫る黒を弾くと黒から驚かれる。
空を見上げれば限界を訴えるようにパチパチと音を鳴らし力の漏れ出す大きすぎる魔核。
「イチトシ……、私は」
背後から聞こえる酷く弱々しい声に彼女は振り向き、わらった。
それはかつて彼にしか見せなかった柔らかく、幼い笑顔。弱々しく俯きかけていた男は一瞬息を止め、前を見た。
「アンタ、何のつもりだ?」
黒の青年から声をかけられ正面に向き直ったイチトシはいつもの無表情。
「ユーリくん。気持ちはわからないではない、けどこの人の知識はこれから有用でね。ワガママかな? 向こう見ずかな? でもこうなった以上、頼れるものは全て使わないと」
見上げた空は開き、限界を迎えた魔核はゆっくりと降下を始める。
「この人を追い詰めるほど世界を想う君たちとは、また会えるだろう」
急速に落下を始めた魔核から逃れるように黒に背中を向け、アレクセイの手を引いた。力の入っていない男の体はいともたやすく引っ張られイチトシの後を追う。
立ち上る煙の中でようやく背後を振り返った彼女の目の前で橙の瞳から一筋の光が落ちた。
頬を撫で、大丈夫、と声をかけるも彼は視線を上げず下を向く。
「アレクセイ。君は知らなかったから間違えただけじゃないか。間違いは正せばいい。まだ間に合う」
「もう間に合わないだろう!! 星喰みは姿を現し、過去の滅亡を今の世界にもたらす。私が引き金を引いた!」
優しい手を振り払い、剣を向ける勢いで強く視線を向けた。だが彼は途端その勢いを消した。
無表情で居ることが多い彼女は笑っていた。
泣きそうに。諦めたように。
「今で良かったよ。君がいて、彼らが居る。どうにかなるじゃないか」
「君は、なにを」
「さあまず、君の物を回収してから傷と心を癒そう」
お互いにね。
背を向けた彼女の背中の服は袈裟懸けに斬られたまま。
その背にあるはずの傷は見当たらない。
小さな背中に声をかけようと開いた口に、空から落ちる風が詰め込まれた。魔核が落ちた今、何が。
頭を過ぎる赤い始祖の隷長。
目の前に姿を現したのは白と蒼。
かつてその力を得るためにいくつも刈った、エアルを溜め込み、世界を護る命。
イチトシはその場に一度しゃがみ込み、床に何かを置くと白と蒼の始祖の隷長を背にアレクセイへ片手を伸ばした。
「その命、捨てるつもりなら私に」
小さく白いその手を、アレクセイは掴んだ。
事件の中心に居た人が皆居なくなった。
仲間たちは黒の青年、ユーリが海に落ちたと騒いでいるのが遠く聞こえる。
男は騒ぎとは逆の位置で、高いその場所の縁で、細い鎖を拾い上げた。持ち上げられて揺れチリ、とわずかに音を返した銀色の光。鎖に繋がる二枚のドッグタグ。彼女もずっと付けてくれていた。その左手にも、きっと。
リヴァヴィウス。かつて彼女から聞いた鉱石の名前。
大事にされていた。ただ置いていかれた。
「追ってくるな、ってわけ」
ようやく心を決め永く差し出されていた手を取ろうとした矢先。彼女が掴んだのは元上司、世界を窮地に陥れた元騎士団長の手。
細い鎖を自分の首にかけて留め金を嵌める。空いた襟元にドッグタグが見えいつもより多くボタンを留める。
「突っ返してやるから」
待ってろ。
見上げた空は、嫌味なほどにただ青い。