知り合ってから初めて喧嘩をした。
普段は隊舎で寝泊まりしているが、週に一度くらいの周期で彼女の部屋に泊まりに行く。その日も、仕事の疲れなど忘れて彼女の部屋に行った。
そして自分は苛立ちのままに彼女の部屋の扉を勢い良く閉めて隊舎へ向かった。イライラして道に落ちていた小石を蹴飛ばしたりもした。
喧嘩をしてからもう十日程が経つ。
青年はため息をついた。
そんな青年の姿を見る同じ格好の人たちも隠れてため息をつく。
赤茶の髪をなびかせ、ひとりの女性が青年の背を叩いた。
「喧嘩するのは勝手だけど仕事に影響を出さないでもらえるかしら」
「仕事に影響は出てないだろ」
少し横柄な言葉に赤茶の髪の女性はため息をつく。
想い人と喧嘩をしてからというもの、彼の作る書類には今までになかった誤字脱字が目立つ。書類と言えないレベルの物も多い。どこが影響は出てない、のだろうか。
「アナタにやってもらいたい仕事よ。今日一日、貴族の護衛をして来なさい。詳しいことは此処に書いてあるから確認しておくこと」
「りょーかい」
書類を片手に、ふらふらと彼はクライアントとの待ち合わせ場所に向かう。
書類には待ち合わせ場所と、仕事内容だけが書かれている。どこの貴族の護衛をするかが書かれていない。
どーせどこかのお高く止まった貴族様が騎士団長に頼み込んで、騎士団長から降りてきた仕事が自分の小隊に来たのだろう。
貴族の可愛いお嬢さんも一緒だったら気が紛れるんだけど。
可愛いお嬢さん。
青年の頭に浮かんだのは灰色のふわふわとした髪。暖かくて柔らかい、彼女が微笑むとこちらも温かい気持ちになれる女性。
すかさず頭を振って彼女の姿を瞼の裏から追い出す。けれど女性を思うたびに頭には灰色の髪、柔らかな微笑み。
「迎えの騎士ですかな」
待ち合わせの場所に立っていたのは貴族服を着こなす精悍な老人だった。
ああこれは面倒なタイプの貴族だな、と青年は背筋を正して自己紹介を済ませる。老人は品定めをするように青年をにらみ、小さくため息をつく。
「今日はまた礼儀を欠いていそうな男だな」
「はっははは! 違いねえ!」
青年の後ろから聞こえたのは大きな笑い声。振り返れば赤い短髪に如何にもヤンチャそうな服装をした男が居る。けらけらと青年を指差して笑う彼の耳にはいくつものシルバーの輝き。
ささいな輝きでさえ彼女に繋がるのは重症だな。
青年は内心苦笑をこぼす。
「大体、あの方は護衛なんざいらねえだろ。一人でも行っちまうよ」
「供は私だけで充分だ」
「供? 貴方が依頼主の方ではないのですか?」
思わず口を出すと赤髪の男がゲラゲラと笑う。まさに抱腹絶倒、といった笑い方だった。
「私は貴族に見せるためのダミーに過ぎん。あの方はこういった格好を好まれない」
「ぜってえ似合うよなー。つかどんな格好でも似合うんだからもっと色んな格好してくれりゃいいのに」
「……不服ながら同意だ。あの方は」
「本人がいないところで何を話してるのかな。ジイ、カレン」
三人の居る場所に凛とした声が通りすぎる。世間話を咎めるような口調。ゆっくりと歩いてくるかすかな足音。
振り返りたくない。青年の心が体を引き止める。それでも、体は反射的に振り返ってしまう。
灰色のふわふわとした髪の毛。柔らかな笑み。
呼びかける声すらも懐かしく、そして嬉しく感じてしまう。
「おや、今日は君なんだね。よろしく」
「ご主人ー、こんな騎士より俺のが役に立ちますよー」
「お前は貴族の供に見えないから騎士を定期的に雇ってるんじゃないか。でなければジイと二人で行くさ」
普段見かけることのない、少しだけ乱暴さを感じる彼女の言葉。聞いたことのない口調を向けられるカレンという男を知らず知らず睨む。
「さあ、時間がない。ハルルに向けて出発しよう。馬車に乗るとはいえ警戒は怠らないでね」
返事をするジイとカレンを横目に、青年はじっと彼女の胸元を見ていた。
彼女の首から胸元を彩っているはずのシルバーチェーンはどこにも見えない。
彼の渡したペンダントを、彼女は外していた。