「本当に大丈夫なの?」
夜更けに、傍に居るのは誰でもない。レイヴンだった。拠点に夜駆け鼠以外の人を入れたのは初めてだよ。そうやって言葉を返した。いつものように、笑って。
レイヴンはそう、と短く言葉を返して彼女の座るベッドの隣に腰を下ろした。
深く息を吐き出す。恐る恐る片手を伸ばして灰色のふわりとした髪に触れると彼女は小さく首を傾げながらレイヴンを見た。怯えはなく、安堵も、何もない。
だからこそ、歪だと感じてしまう。
それが彼女に感じる違和感の正体なのだろうか。
「ねえイチトシちゃん?」
「なあに、レイヴン」
そう見せているのか、そうするしか方法を知らないのか。
柔らかな彼女の髪を撫でながら、せめてもとレイヴンは優しげに笑ったまま言葉を続けた。
「たまには諦めていいんでなあい?」
イチトシの気配が変わる。
敵意や、嫌悪。負の感情とも言えるそれが混ざり合ってレイヴンに突き刺さる。けれどあの時のように手を振り払われることはなく、ただ視線が向けられるのみ。
「イチトシちゃんが何を探してるのかおっさんは知らない。けどもそんなに肩肘張るモノなの? たまには休憩しなくちゃ、見つかるもんも見つからないわ」
「あの子は私が見付けると誓ったんだ。あの子は私が見付けて守るんだ、もう二度と、不幸なことがあの子に降りかからないように」
「……イチトシちゃん、少なくとも今日は寝なさいな。おっさんがここにいてあげるから、見張りもしてあげるから」
疲れたでしょ?
軽く肩を押すと驚くほど従順に彼女の体はベッドに倒れる。
掛布をかけて、おやすみ、と声をかけた時彼女は既に目を閉じていた。規則正しい吐息に懐かしさを感じ、思わず笑ってしまう。彼女の首に軽く手をかければ明らかに皮膚ではない金属の感触。
細い金属のチェーン。その先は服に隠れているが、彼は何があるか知っている。
きっとドッグタグのようなシンプルな飾り。
彼女に、とても良く似合う。
最後に、その頬を撫でて部屋を出る。信用する人間にしか場所を明かさないという夜駆け鼠の本拠地。ここに来れるのは首領である彼女と、幹部であるジイとカレン。そして、もう一人。
現在本拠地の管理を任される彼が居た。
「ちょっとレイヴンさんにお話があるんすけど、いいすか?」
カイ、と名乗る彼。
セミロングの赤い髪を無造作に跳ねさせた彼はいたずらっぽく笑って居た。
「それとも、隊長さんって呼んだほうが良いすかね? 騎士団隊長首席さん」
お茶でも飲もうか。
ケラ。笑う彼が小悪魔に見える。可愛くない、悪魔の子。
懐に小刀があることを確認し、彼はその話に応じた。
目が覚めた場所で待っていたのは、騎士団長閣下の不機嫌極まりないような顔だった。不思議だった。単純に。彼なら自分を殺そうとすると思っていたからだ。現に騎士団長は帝都の亡霊と呼ばれる刺客を自分の家へ差し向けた。殺すために。
そして今回のことも、彼が仕組んだこと、そう思い気を失った。
愛しい娘の心の安否を気遣いながら。
騎士団長をさておき、ルディアースは周りの様子を観察した。今場所は自分の家ではない。どこか分からない。帝都ではない、気がする。
当たり前だろうが妻の姿は近くにない。
「ふと、我に返ることがある」
独白と言うに相応しい小さな声だった。
「これではダメだと、こんなやり方をすべきではないと思う時がある。だがもう、私たちは戻ることが出来ない所まで来てしまった」
胸が痛い。おそらく銃で打たれたのだろう。
「今更な言葉だな、アレクセイ。僕らに亡霊をけしかけ、殺そうとした。後戻り出来ないのは今に始まったことじゃない。だから僕らは立場ある人間として、ひとつひとつの行動に責任を持たなければいけない。ディノイアの家でもそう育てられたんじゃないのか」
起こそうとした体は痛みで再度布団の中に逆戻り。情けないな。これでは見限られても仕方ないな。ただそれでも。
ルディアースは自分の寝かされたベッドの近くで深く椅子に腰掛け、死んだような目をする騎士団長よりはマシ、だろうか。自分を殺そうとも、諭そうとも、助けようともしない。
ただ、悔いているような男の姿ほど見ていてつまらないものはないな。かつて、男がウジウジしている時ほどつまらないものはないですよ、と妻が言っていたことを思い出す。たしかに、そのとおりだ。
古い考え方では有るが、男は外に出て稼いでくる強いモノだ。家の中は、妻に任せて。
そう思ってから、ルディアースは再度騎士団長を見た。
コイツに、この子に妻は居ない。いい意味でも悪い意味でも。仕事に集中するあまりなのか、敢えてそういう存在を退けたのかは知るところではない。
こうして時折踏みとどまるのは、こうして自分を生かしておくのは――。
「まだあの子のことを気にかけててくれるのか、親不孝者なイチトシを」
「イチトシ、彼女は何故諦めない……。彼は諦めたというのに」
「仕方ないよ。彼女にとってあの子が全てだ、そして全てはあの子であると言っても過言ではない。そのくらい分かるだろう」
そのために彼女は親と家でさえ捨てるんだよ。
くすくす、笑うと傷に障る。
「それに、彼は本当に諦めたのかい? 僕にはとてもそうは見えなかった。諦めたのはどちらかと言えば――」
言葉を遮るように、部屋の向こう側から誰かが騎士団長を呼んだ。知った声に二人共が表情を変えた。ルディアースは単純に驚きを、アレクセイは無表情を。
アレクセイの声に外に居た男は扉を開ける。
ルディアースと同じ驚きを見せた彼はいつもの鎧姿ではなかった。鎧のみを取り払った姿で、髪もどこか乱れているように見える。
かつて自分に娘をくださいと、恐れながら言ってきた青年の姿に、あまりに良く似ていた。
「何故、ルディアース様が。そのお姿は」
「君が気にすることではない。ホワイトホースはなんと言った」
「っ。ノードポリカへの書状を持ち、エステリーゼ様たちの後を追えと」
「ノードポリカか。しばらくはそのまま指示に従っていたまえ。次の指示はおって出そう」
アレクセイが部屋を出て、部屋の中には沈黙が漂った。
眠った姿のままのルディアース、ゆっくりと近づいて来る橙の騎士服を着た、彼。
「僕を、殺すかい。今なら容易だろう」
「指示を、受けておりませんので」
「彼と話せるのかわからないが、ひとつ聞かせてくれないか」
騎士服の男は答えない、ただ、ルディアースからの言葉を待つ。
「今でもあの子が好きかい?」
騎士服の男は答えない。
「僕はね、家族が増えたら父と呼ばれるのも良いかと思っているんだ。もう、手遅れかな?」
騎士服の男は一礼して部屋を出た。片手で強く刀の柄を握る。
――思っているんだ。
今でも、そう。
そんなことを言われたって。
ダングレストの奥まった路地の奥にある小さな療養所。アレクセイが何処からか見つけてきたこの場所で指示を受けることが多かった。今日もだ。鷲が巣に帰った。そんな暗号を聞かされてこの場所にやってきた。
いつもどおり。命令を聞くだけの作業。そう思っていた。
ルディアース。
彼が居ることも傷を負っていることも知らなかった。全てを知らされないことなど今更だが、それでも、ルディアースの事は知っていたかった。
「今でも好き……?」
「何が?」
急に話しかけられ、腰の剣へ手をやった。
振り返った先に居る女性の姿を認めて安心するも、すぐに気を引き締め直す。彼女と会うのは、初めてだから。
「初めまして、騎士団隊長首席シュヴァーン・オルトレインさん」
「お初にお目にかかります、イチトシ・ルディアース様」
「ふふ、家名は捨てたものだよ。今はただのイチトシ。初めて会えた。シュヴァーンさん、貴方に聞きたいことが、いっぱいあります」
剣の柄を握る彼の手を取り、彼女は微笑んだ。
(2016/02/02 15:09:51)