珍しく苛ついていた。表情が戻ったと喜びたいところでは在ったが、必要な書類を書くこともままならない彼女の状況は望ましくない。
ジイとの賭けに負けてからずっとだった。騎士団長に何を言われたのかは知らされることがなかったけれど。ジイはあの時あの場所でかけをしたことを少しだけ後悔していた。結局騎士団長の思惑は多少分かったが、それは得ていた知識と変わらない。収穫はゼロだった、と言っても過言ではないだろう。むしろ首領が苛立っている今、マイナスが大きい。カレンなんかは首領を怖がって近寄りもしなくなった。
仕事に影響どころではない。
意を決したジイが首領の私室の扉を叩いた。
「誰?」
いつもより声が低い。
笑ってしまいそうになる。
「私、ジイでございます」
「ああ、悪いけど今は――」
「入りますね」
珍しく相手の言葉を無視して扉を開けると不機嫌な顔をしたイチトシがベッドに座っている。
「珍しいね。ジイが私の話を聞かないなんて」
「……事態が事態ですから。何を言われたのですか?」
「諦めろ、だって。諦めて自分の力になれ、って」
それもひとつの道ではありませんか、そう言おうとした口を閉じる。そんなことを言えば彼女は自分すら近くに置かなくなるだろう。それでは役目が果たせない。
イチトシは笑った。
「思わずエクスプロード落として逃げちゃった」
言葉を無くした。騎士団本部の真ん中で、騎士団長の部屋で、上級魔術を落として逃げた? 騎士団長が触れ回れば自分たちの立場も危うくなるというのを分かっているはずだ。
それほどに、嫌だったというのか。それほどに、まだ。
「アレクセイには当てていないし、アレから私達がそれをしたという噂も流れてない。……反省はしてないよ。あの子を諦める気はないし、あの子を馬鹿にするようなら、ああいう扱いをされたって仕方ないでしょ?」
「騎士団長閣下は考えを改めるつもり、無さそうですね?」
「そうだね。改めるどころか私に亡霊になれと言ってくるくらいだ。私の両親に亡霊をけしかけているかもしれないね」
「それほどまで……。あの方々の強さは身にしみているでしょうに」
過去に父親が騎士団長閣下と剣を交えたことを思い出す。まだ騎士団長になったばかりのアレクセイはルディアース当主に無残なまでに転がされていた。
ジイもよく覚えている。
いくらルディアースが衰え、アレクセイが強くなったのだとしてもまだ、勝てないはずだ。
それにしても。
ジイは顎に手を置いた。
「亡霊……『帝都の亡霊』ですか。未だ正体の知れない、貴族暗殺の噂、調べるおつもりで?」
「いや。それには私達の利益が少ない。私や爺ならともかく、カレンは相手の口車に乗せられる可能性もある。……今、誰かを奪われるわけにはいかないよ。しばらくはいつもどおり」
ジイはイチトシに向き合ったまま、視線だけを自分の愛護の扉へとやった。感覚を研ぎ澄ませればようやく聞こえる程度の音で、何かが離れていく。
完全に音が聞こえなくなってから、ジイは溜息をつく。まったくわざとらしい。そう呟いて咎めるような視線をイチトシへやる。
扉の外にはカレンが居た。
わざと聞こえるような声で言ったのは聴かせるためだろう。まだ、すべてを任せることは出来ないというイチトシの意思を。
イチトシに心酔している彼にとっては衝撃的なことなはずだ。取り乱しても不思議ではない。大事だとは言いながら、突き放すようなことをする。苛立ちからだけではないだろう。
「何をお考えですか」
「……アレクセイからの接触、私が知らない場所での彼との接触が欲しい。ジイは警戒をされるからね」
「危険な賭けですね」
「そうだね、危険だよ。でも、必要だ」
「……分かりました。最期にひとつ、お聞かせください。貴女は、貴女の望みは――本当にあの人と会うことですか?」
ジイの問にイチトシは笑みを返した。
言葉はなくともそれは立派な答え。ジイは深く頭を下げるとイチトシの部屋をあとにする。
今も彼との再会を望んでいるのか。
イチトシは左手の薬指に触れた。シルバーの輝きは何年たっても色あせない。記憶がどれだけ薄れてきても、曖昧になってきても、物だけは変わらない。
放り出された夜空の下で仰向けに寝転がり、掲げた右手に絡めたペンダントから下がる指輪が街の明かりに反射して光を返す。変わらないのは、これだけだ。
自分の弱さも、あの人達の強さも、増していく。
周りの環境はぐるりと一転。
ため息を付いた。
環境に文句を言っているようではダメだ。このままじゃまだ、駄目だ。ダメなんだ。
ペンダントを強く握りしめた。
いつか、迎えに行くまで。
「まってて」
(2016/01/24 20:25:00)