かん、と軽い音が響いて木刀が弾かれる。弾かれた木刀を一瞬目で追うと目の前からの衝撃に体が軽く浮いた。蹴り飛ばされたと気付いたのは地面に体を打ち付けてからだった。
追撃を恐れて即座に立ち上がると自分を弾いて飛ばした男が片手に木刀を構えたまま殺意とも取れる視線を自分へ向けている。その向こう側にはにこにことこの場に全く似つかわしくない笑顔を浮かべる美しい女性。
「英雄が聞いて呆れる。貴族に転がされる程度なのか?」
男の言葉に何の感情も抱けない。ただの貴族に転がされたのであれば、気にする。だが、彼は。
痛む体に無視を決め込んで立ち上がると木刀が足下に投げられる。もう一度、と言われているようだ。木刀を手に取るのと同時に男が駆け込んでくる。
素早い動きから振り上げられる剣閃を防ぐために木刀を横にして構える。手が痺れるような衝撃。近付いた男の体。隠されることのない怒気が木刀の力となって襲い来る。
「戦争を生き抜いた英雄、シュヴァーン・オルトレイン。ふざけた名前だ。人魔戦争に向かった騎士のリストの中に名前が無かったというのに、『生き抜いた』と?」
他に聞こえない小さな声で男は続ける。
「大して隠しもしないその風貌で、中途半端に。生きているのに腹が立つ」
ニッ、と気持よく笑みを浮かべた。
直後シュヴァーンの体はまたも軽く空を飛んだ。
「殺したいくらいだ。だが、今の状態で殺せば本格的にあの子は壊れるだろう。せめて、僕より強く在ってくれないか」
腹が立つから。二回目の言葉はどこか諦めたような響きを持って。
貴族の男が持つ木刀がシュヴァーンの足元に落ちる。
顔を上げると息も乱していない男が自分の妻である女性を連れて隊舎を後にしていた。信じられない。
ルディアースの家柄が元々剣に通じていることは知識として知っていた。だがそれも騎士として働いてきた自分には敵わないと思っていた。慢心、というのだろうか。
あの強さは何なのだろう。
その場で座り込んで木刀を見つめた。
きっと真剣でも同じ結果となる。
――せめて、僕より強く在ってくれないか。
何故だろうか。この言葉に優しさを感じてしまうのは。
何故だろうか。この優しさを向けられているのが自分だと思ってしまうのは。
「シュヴァーン隊長!」
大声を上げて近づいて来るのはシュヴァーン隊の隊士たち。貴族と木刀で仕合をすると聞いて周りで見ていたようだ。気づく余裕もなかった。きっとあの人は気付いていたのだろう。気付いていて、派手に転がされた。
まだ、弱い。まだ、これではダメだ。
隊士たちの声に大丈夫だと答え、解散させる。
あの人の居なくなった場所を見つめ、考える。
もしもあの方があの二人を危険だと考えたら自分は。
シュヴァーンはため息をついた。勝てる気がしない。
イチトシは今日も今日とてカレンの説教を真っ向から受け止めていた。話題はここ数ヶ月でひとつ増えた。
あのレイヴンという男は。
カレンの説教はいつもここから始まる。
レイヴンをカレンと会わせたのは完全に失敗だった。まさかここまで嫌うとは思わなかった。イチトシは手元の書類から必要な情報を書き出しながらカレンの言葉を聞き流していた。
「……それで、君は何をしたいんだい? 天を射る矢の幹部となった彼とは関わりを切れないよ」
「っ。だったらユニオンを」
「抜ける気は無い。ドンからの情報はありがたい。……気に食わないなら、君には他の道もあるよ」
呆れたような、脅すような口調。この口調で物を言われると何も言い返せなくなる。まして、いまさら、ギルドをやめて一人になることなんて考えたくはない。
カレンはイチトシを睨むように見て、勢い良く背を向けた。
気に喰わないのだろう。何もかも。
ギルドを始めたことでさえ、彼は未だに嫌がっているだろう。
ジイとは違う。彼は自分の意志を貫こうとするだけの力を持っている。
「カレンは貴女を尊敬し続けているのですよ」
見終えた書類をファイリングしながらジイが笑う。
「今も昔も、私は尊敬される人ではないよ」
「今も、昔も。貴女は変わらず尊敬に値する人ですよ」
カレンをなだめて参ります。
ジイはいつもの礼服姿のままカレンの後ろ姿を追った。
薄いファイルの中に収めた一枚の紙を見ながら、イチトシはその中のリストを指でなぞる。
人の名前の羅列。大勢の人の名前。
いつか、テムザに向かった人魔戦争参加者の騎士一覧。どれだけ見返しても、何度確認しても書いてある名前は変わらなかった。ダミュロン・アトマイス。
そして、シュヴァーン・オルトレイン。人魔戦争から『生きて戻った』彼の名前はどこにもなかった。
ジイが一部のみを持ってきたということは考えづらい。情報が正しいことを前提とするならば生まれる疑問がある。
シュヴァーン・オルトレインが人魔戦争参加者でないならば、彼は誰だ。どこから出てきた。騎士団長が気に入るならば新入りとは考えにくい。
「直接話を聞ければね」
手間もなくなるが、それが出来ない。シュヴァーン・オルトレインはよほど騎士団長に気に入られているのか密命を受けて騎士隊舎を留守にしていることが多い。
「……外に出よう。確か街道に巨大獣が出ていたよね」
一体であれば一人で。そう思った時だった。
「こんにちは~」
間延びした声が聞こた。扉をノックもせずに入ってくる一人の男。初めて会った時から幾分か伸びた髪を一つにまとめながらもボサボサなのは変わりない。
カレンの大嫌いなレイヴンだ。
「こんにちは、レイヴンさん。カレンと会わなかった?」
「あー、さっきすれ違ったわ。すっごい睨まれた」
「ごめんね。さっきまで言い争ってたからだろう」
「いやいや、そうでなくても俺様嫌われてるし。じゃなくて、本題に入らせてちょうだいな」
袖からひとつの封筒を取り出し、イチトシへ渡す。封をする蝋封に描かれているのは天を射る矢の紋章。また仕事か。
最近は何故か天を射る矢からの依頼が多い。
レイヴンの目の前で封を破り、中を確認する。重要文書だったらどうするのと慌てるレイヴンには無視を決め込んで中身を読み進める。
「レイヴンさん、ドンから聞いてる?」
「なんか書いてあった?」
「うん。ケーブモックの巨大獣を倒して来いって。レイヴンさんと、私とジイで」
「……戦えるの?」
誰が、とまでは言わないが。言われたイチトシは笑ってみせた。
ジイの名を呼べば程なくジイがカレンの慰めから戻ってくる。両手に、何かを持って。布に包まれた片方をイチトシの机に置く。包の布を開けると中にはふた振りの剣。
「あまり戦えることを露見したくは無いから隠してる」
「……」
てっきり、また飄々とした態度で何かを言われると思ったけれど。そんなイチトシの言葉でレイヴンの意識は自分の手元に帰ってくる。
「意外、すぎてさ。ドンのじいさんから元貴族だと聞いてたし」
「そうか。うん、でも私は元々武芸を嗜む家に生まれたから。『ルディアース』 暇だったらこの家名を調べてみると良いよ。……もっとも、私の腕なんてあの方々の足下にも及ばないけれど」
行こうか。
イチトシの一言でジイは全てを知ったかのように部屋を出て、イチトシが拠点の扉を開ける頃にはすべての準備を終え、自身の武器であるレイピアを腰に備えていた。
ケーブモック大森林に着くまで何を話していたか。
聞き出したいと思ったことを聞いていたはずだが、レイヴンにはそれが思い出せなかった。
それだけ、巨大獣との戦いが彼にとって衝撃的だった。
(2015/12/29 21:04:23)