IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

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週に1度ある塔矢邸での研究会で、集まった棋士たちに振舞うお茶とお茶菓子を、アキラは部屋に持っていく。

すると、すでに部屋へ来て碁盤の準備をしている緒方の傍らに、大きな封筒が置かれていることに気付いた。

だいたい研究会が始まる少し前に来るのが緒方の常なのに、今日は珍しいこともあるものだと内心思いながら、

 

「緒方さん、それは?」

 

お茶の乗ったお盆を部屋の脇に置き、アキラが尋ねる。

 

「先生に頼まれた棋譜だよ」

 

「棋譜?お父さんが頼んだんですか?誰の棋譜です?」

 

塔矢行洋であれば取り寄せられない棋譜はないだろう。

その行洋が弟子の緒方に頼み、わざわざ取り寄せるほど、誰の棋譜を見たかったのかアキラは不思議に思い首を傾げる。

 

「sai」

 

無表情に緒方はその名前を口にしたが、眼差しだけは鋭くアキラの反応を伺っていた。

 

「……saiの棋譜?」

 

「ネットでしかsaiは打たないからな。以前、俺が研究会にsaiの棋譜を持ってきただろう。他にもsaiの棋譜はないかと聞かれたんだ」

 

――お父さんがsaiの棋譜を……

 

夏休み、ネット碁でアキラがsaiと対局し負けた一局を含め、高段者と打ったのだろうsaiの棋譜を、研究会で何枚か見て検討したことがあったが、行洋が自ら棋譜を取り寄せたいと思えるほどsaiに興味を持った素振りは見られなかった。

 

昨夜もアキラがネット碁の参加者をチェックすると、saiの名前をほどなく見つけることが出来た。

saiの対局は、観戦者数が他の対局とは比にならないので、すぐに見つけられる。

アキラもすぐに観戦したが、相手が弱過ぎて検討し得るところは何もなく、対局が終わると、いつものようにsaiは何も語らずネットから消えた。

 

「アキラ君もいるかい?」

 

少し鼻にかけたような緒方の声に、アキラはムッとする。

緒方は悪い人ではない。

本人は認めようとはしないが、囲碁に対する情熱は本物であり、実は後輩の面倒見がいいこともアキラは認めている。

しかし、棋士として順風満帆だったアキラを挫折させたヒカルと、子供かもしれないという憶測だけのsaiを、ことあるごとに突合せようとした。

 

「結構です」

 

きっぱりと断り、また何か緒方に絡まれないうちに、アキラも別の碁盤の準備にとりかかるが

 

「進藤が日本棋院に来てたよ」

 

ヒカルの名前を出され、緒方を無視できずアキラは振り返る。

 

「院生試験を受けたいと受付に来てた」

 

「……院生の受け付け期間は終わっているのでは?」

 

「だから俺が推薦しておいた」

 

誰かプロ棋士の弟子などで才能の見込みがあれば、推薦という形で特例として院生試験を受けられることはアキラも知っていた。

だが、師匠がいる様子が全くないヒカルが、申し込み締め切りを過ぎて院生試験を受けられる筈がないと訝れば、アキラの問いを見越していたように緒方が答える。

タイトルを取るのも間近と言われている緒方の口添えがあれば、特例で申し込みも通るだろう。

ニヤリと笑む緒方に、反応を見て楽しんでいる狙いを感じて、アキラはフイと顔を逸らし突っぱねる。

 

「僕には関係ありません」

 

「そうか?」

 

背後でクスクス笑う声が聞こえると、アキラのもう1人の兄弟子が部屋にやってくる。

 

「あ、緒方さん、今日は早いですね~」

 

「遅いぞ、芦原」

 

「そうですか?いつも来る時間ですけど?」

 

すでに緒方の理不尽な言いがかりにも慣れている様子で、芦原はのほほんと準備の輪に加わる。

そしてさほど時間を置かず、数人の研究会メンバーと共に行洋が部屋に現れ上座に座れば、行洋を中心にして碁盤の前に皆が集まった。

 

「先生、頼まれていた棋譜をお持ちしました」

 

「ありがとう」

 

「先生がそんなにsaiにご執心とは知りませんでした」

 

失礼ではない程度に緒方は行洋を見据え、saiの棋譜を取り寄せた真意を伺う。

けれど、行洋は封筒から棋譜を出し中身を確かめると、

 

「執心、という程ではないよ。面白い棋譜があればと思ったまでのことだ。わざわざすまなかったね」

 

やんわりと何事も無いように答え、そのまま棋譜を封筒の中に戻す。

どこにも不自然さは見当たらない。

しかし、行洋がsaiの棋譜を求めたという事実に、アキラは微かな動揺を覚えた。

 

そして行洋であれば、saiがヒカルであるかどうか分かるのではないかという気持ちが、同時に湧き上がる。

もちろん、それはアキラとヒカルが対局した最初と2回目の棋譜を行洋に教えればの話であり、一度は軽蔑したヒカルとの碁を父親に見せるのは憚られた。

 

saiはヒカルではない。

saiの強さは行洋のような百戦錬磨された強さだ。

だが、あの幻のような一局は確かに存在したのだ。

 

「先生、最近棋風を変えられましたか?」

 

緒方が問うと、

 

「え!?そうなんですか!?」

 

問われた行洋ではなく、芦原が反応し、行洋を見る。

いきなり話に割り込まれた緒方は、眉間に皺を寄せ嫌な顔をするも、弟弟子のいつものことと小さなため息を零しただけだった。

言葉を迷っているのか、話す雰囲気のない行洋を見て、アキラが控えめに話の間に入る。

 

「緒方さんも、そう思われましたか?僕もお父さんの打ち方が少し変わってきたなと」

 

「アキラくんも気付いたか、流石だな」

 

メガネの位置を中指で正しながら、緒方が口端を僅かに上げ笑む。

 

緒方とアキラの2人が納得する一方で、芦原は気付かなかったと気落ちするが、集まった研究会メンバーの中にも、行洋が打った最近の碁の棋譜で、棋風の変化に薄々気付いていた者がいたようで、とたんに話が膨んだ。

1人が行洋が打った碁を碁盤に並べはじめると、応手の一手一手の検討が自然と始まる。

順に並べられた石の中に、勝負の要になった一手をパチと打つ。

 

「ここで先生がこう打ってと……、この一手など面白いですよね。この切り替えしで、右下の攻防がより複雑になった。芹沢先生の応手も悪くないけれど、塔矢先生が打った一手と比べると、どうしても見劣りする」

 

皆が碁盤を眺め唸るそばで、それまでずっと傍観を通していた行洋が石を持ち、己が打った次の一手を続けた。

 

「棋風を変えたつもりはない。ただ、もし私の碁が変わったというのなら、もっと深い最善の一手をと望む気持ちの現われなのかもしれない」

 

腕を組み、行洋はじっと碁盤に並べられた石を眺める。

 

「凄いですね、塔矢先生。そのお歳でまだ一手の追求を深められるなんて」

 

「歳は余計だ」

 

ゴツ、と芦原の頭上に緒方の拳骨が落ちた。

とたんに和んだ部屋の雰囲気に、行洋の目がかすかに緩む。

 

アキラは毎朝、学校に行く前に行洋と一局打つのが、幼い頃からの習慣になっていた。

その行洋の打つ碁に微かな変化が出てきたのはいつからだろうかとアキラは思い返す。

微妙な変化は少しづつではあるが、着実に変化は形を成し始めた。

 

毎日打っているアキラだからこそだろう。

棋風が変わることは悪いことばかりではない。

行洋の棋風が変わったのも、悪いどころか、碁が若返り良い方向へ進んでいると言えた。

だが、一顧の棋士の時間をかけ成熟させた碁が若返りを見せるのは、どんな気持ちの変化があったのだろうという疑問が生まれる。

 

特に行洋ほどの棋士であれば、日本の名だたる棋士、果ては中国や韓国のトップ棋士達と打った多くの経験があるだろう。

その経験を含めて熟成した碁に、新しい風を吹き込んだ何か。

 

緒方にsaiの棋譜を頼んだことが、それと何か関わりがあるのか、アキラの胸の中で疑問が燻っていた

 

 

 

 


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