IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
ヒカルが気をつけることは、石を置き間違えないということだけだった。
佐為が言うままに石を置いていく。
佐為と、行洋。
2人は長考することなく、長くても10分ほどで次の一手を打ち続けた。
石を打つ音以外は、部屋の周りに生えている竹が風に揺れて、障子越しにさわさわと葉音を立てるくらいだった。
それ以外の雑音は存在せず、この部屋にヒカルを案内した女性も近寄らない。
石を3子置いての一局だったが、真剣勝負には変わりない。
碁盤の上に黒と白の石模様が形創られる様子を眺めながら、ヒカルは静かだと思った。
対局が終盤にさしかかった頃だった。
自らの番になっても瞼を閉ざしたままじっと考えこんでいた行洋が、すぅと瞳を開き顔を上げてヒカルを見やる。
「もう十分だ。ありがとう」
「え?」
対局途中に、行洋が突然何を言っているのかヒカルは理解出来なかった。
「君の実力は分かった。このまま終局まで打ってもいいが、君の勝ちは揺るがないだろう」
――この一局は真剣勝負ではありますが、実力を試すのを第一とした一局でもあったのです
行洋の言葉を補足するように、佐為が説明する。
しかし、まだ目算が苦手なヒカルには、碁盤を見ても、どちらが勝っているのか判別つかない。
行洋の前だということも忘れ、ヒカルは隣りに座る佐為の方を振り向く。
――佐為が勝ったのか?
――はい
対局中の真剣な佐為の眼差しが、穏やかに微笑み、ヒカルもまたニコリと安心したように微笑む。
それから行洋に振り返り
「ありがとうございました」
遅れながら、ヒカルも終局の挨拶を述べた。
ヒカルが佐為と出会ってから、一度も佐為が負けたところを見たことがないからだろうか。
常に勝ち続ける佐為しか見たことがなく、佐為の負けた姿をヒカルは想像できなかった。
しかし、今回の相手は現役のトッププロでタイトルホルダーということもあり、石を3つ置いた置碁だが、もしかすると佐為が負けるかもしれないという一抹の不安もあった。
事実、佐為の強さがどれほどなのかヒカルは完全には分かっていない。
プロ棋士にも引けを取らないくらい強い、というのがヒカルの中での漠然とした佐為の強さだ。
佐為が勝つのは、ヒカルも嬉しい。
現実にこうして佐為が行洋に勝ったことも素直に喜べる。
しかし、いくら佐為が勝っても、他の人の目に佐為の姿は見えず、ヒカルが勝っているようにしか映らない。
その勝った相手が、プロ棋士であれば、塔矢行洋であればどうなるのか。
勝ってしまった後、自分がどうなるのか予想出来ず、この対局が決まってからヒカルは何度も億劫になってしまった。
「君がsaiだったのだね」
「saiを知っているんですか?」
ネット碁などしないだろうと思っていた行洋からsaiの名前が出てきて、ヒカルと佐為の目が見開く。
「アキラと打った一局以外にも、弟子たちがsaiの棋譜を何度か研究会に持ってきたことがある」
弟子たちが見て欲しいと持ってきた棋譜を前に、行洋は初手から最期まで並べたこともあった。
韓国のプロ棋士と対局し打たれた棋譜を並べて行洋が思ったのは、saiの洗練され卓越した打ち回しが決してアマではないということだ。
けれど、打ち筋に心当たりもなかった。
3子の置き碁ではあったが、確かにこの実力があれば、アキラでは敵わないだろうと行洋は思う。
小さい頃から碁に親しんできたアキラ以上の棋力を持つ子供が本当にいたということに、行洋は感慨深く打たれた碁盤の盤面を見やる。
この歳でこの棋力であれば、これから先、日本はおろか世界の囲碁を牽引するのは、目の前の少年に違いないだろう。
それだけではない。
今からすぐにプロになっても十分通じる。
あっという間にトッププロの仲間入りを果たす筈だ。
どこで、どんな風に囲碁を学んだのか、多少の詮索をされるとしても、実力は否定できない。
しかし、ヒカルは首を横に振り、
「……自分がsaiかと問われれば、俺は違うと答えます。saiは俺じゃない。でも、マウスを持って打っているのは俺だから……塔矢と打った時だって、石を持っていたのは俺だから、結局は俺がsaiってことになるんだろうけれど」
目を細め、碁盤を眺める行洋を前に、ヒカルは一つ一つ言葉を選ぶように、途切れ途切れにゆっくり話し出す。
上手く説明できるかという不安より、これから言う話を信じてもらえるかどうかという事がヒカルにとって怖く、行洋を直視できずに知らず俯いてしまう。
「進藤くん、君の言っている意味が私には理解できない。先ほどの一局は君が打ったものではないのか?」
「……違います。俺は……佐為の言うとおりに置いただけです」
「saiの言ったとおりに?」
「……塔矢と初めて打ったときも、俺は囲碁のルールなんて全然知らなくて、佐為に言われたまま石を置きました」
「……では、先ほどの対局はズルをしたと?どこかでこの対局を見ていたsaiが、君に打つ場所を指示していたと言うのか?」
「どこかじゃありません。佐為は俺の隣りにいます。でも幽霊だから俺以外の他の人には見えなくて、声も聞こえなくて、……俺にしか佐為が分からなくて……佐為は幽霊だから石を持てないから、俺が代わりに打つんです」
言いながら恐る恐るヒカルが顔を上げれば、行洋は眉間に皺を寄せ、
「進藤くん、話の要領が見えない」
首を横に振る行洋に、ヒカルは失敗したと思ったが、それまでヒカルの隣りに座り、話の成り行きを静かに見ていた佐為が堪え切れなかったように立ち上がり叫ぶ。
――私はここにいる!ヒカル!もう一度対局を!!
――でもっ!
――次はヒカルは碁盤を見ずに、打つ場所だけをあの者に伝えてください。
――え?
――ヒカルは後ろを向き、碁盤を見ずに私が言う場所をあの者に伝えるのです!置き石も不要です!!
「進藤くん?」
隣りを向いたまま動揺したように口を開閉させるヒカルに、行洋は訝しみながら声をかける。
対局直後も、ヒカルは同じように誰もいない隣りを振り向いた。
――さぁ!ヒカル!
佐為と行洋の両方を交互に見やり、佐為の気迫に押し負けるようにしてヒカルは口を開く。
「……佐為が……もう一度打ちたいって。今度は俺が後ろを向いて置石無しで碁盤を見ずに、打つ場所だけを伝えてくれって言ってます」
「君は本気で言っているのか?碁盤を見ずに碁を打つと?」
「……はい。だって佐為は本当にいるんだ、俺の隣りに!俺が見てなくても、佐為はちゃんと見てる!佐為が誰にも見えなくても、俺は知ってる!」
最期の方で声が荒げてしまったと思ったが、ヒカルもこの期を逃せば、行洋に二度と話を聞いてもらえないということだけは何となく分かっていた。
だからこそ、行洋には佐為の存在を知って欲しいと思う。
幽霊の存在を信じてくれという方が初めから無理だろう。
ヒカルも佐為と出会うまで、幽霊なんて信じていなかった。
「……いいだろう。しかし、碁の内容次第では私は君を碁打ちとして一生信じられなくなるが、それでもいいかね?」
「はい」
碁盤に並べられた石を再度黒と白にわけ、碁笥ごと行洋へ渡したあと、ヒカルは碁盤から離れる。
そして、それまでヒカルが座っていた位置に佐為が座り、佐為と背中を合わせるようにして、ヒカルは後ろ向きに座った。
「お願いします」
ヒカルが対局の挨拶を述べた。