IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
ヒカルは碁盤に背を向け、一度も碁盤の方を振り向かなかった。
しかし、碁盤を見ることなく、緒方が無言で打つ石に対し、一度も打ち間違えることなく最善の一手で打ち返してきた。
緒方の動揺など全く意に介すことなく、容赦なく斬り込んでくる。
結果は対局前にヒカルが言った通りの結果だった。
「何故……」
見えていない碁盤の石の位置が分かるのだと、緒方は続けようとして言葉が出てこなかった。
ヒカルの言う位置に石を打っていたアキラの驚愕はそれ以上のようで、声すら失ったようだった。常識では絶対にありえない。
耳に届くのはヒカルの指示と石を打つ音。そして離れの周囲に植えられている竹の葉がさわさわと風に揺れる葉擦れの音だけの、静寂に満ちていた。
「俺は見えてないよ。でも佐為は見てる。俺の後ろで、塔矢の隣から碁盤を見てる。『藤原佐為』は確かにここに存在するんだ」
If God 56
佐為については行洋に話したのとほぼ同様のことをアキラと緒方に話し、そして行洋と密会して打つようになった経緯もヒカルは続けて話した。
碁会所で初めて出会い二度アキラと打ったのは佐為であること、中学囲碁大会の三将戦でアキラと佐為が打っていたのを途中でヒカルが打ちダメにしてしまったこと、ネット碁でアキラと対局したのは佐為であったということ。
そして今もネット碁でsaiとして打っているのは『藤原佐為』であるということ。
全てを話し終わったあと、ヒカルは苦笑しながら
「俺のこと軽蔑する?」
とアキラに尋ねた。
幽霊から絶対に見つからないカンニングのように打つ場所を教えてもらい、アキラに勝っていたのだ。
卑怯だ、ズルだと言われても仕方ないとヒカルは思っている。
「……たしかに君と対局したはじめの二度の対局はズルかもしれない。しかし、それから囲碁を覚えてたった2年でプロになって、大手合で僕と打ったのは佐為ではなく進藤、君なんだろう」
ヒカルの話は到底信じられる話ではなかった。
幽霊が見えて、その幽霊は過去に本因坊秀策にとりつき、秀策として打っていた本人なのだと言うのだ。
単に説明されていただけなら馬鹿にしているのかと怒鳴っていたかもしれない。
しかし、ヒカルは後ろを向いたまま石を打つ場所を言い、そしてsaiの実力そのままに緒方に勝ったのだ。
その様を見せ付けられて頭ごなしにヒカルを批難することはできない。
「まぁ、そうだな」
「対局のあと、キミの打つ碁がキミの全てだと僕は言った。その言葉は佐為のことを話してくれた今も変わらない。僕は君を軽蔑などしないよ。僕はこれからも君と打ちたい」
戸惑いを隠すことまでは出来なかったが、アキラはヒカルを責めることなくありのままのヒカルを受け入れようと思う。
「そっか……ありがと」
ヘラリと、気が抜けたようにヒカルは笑む。
そしてもう1人、佐為の存在を知った相手に、ヒカルは首を傾げ問いかける。
「緒方先生はどう?納得できた?塔矢先生が、俺がsaiであって佐為じゃないって言った意味」
「……大まかにはな。だが、全部が全部すぐに理解できたわけじゃない。俺は目に見えないものは信じない主義だったんだ」
本因坊秀策の幽霊が見えるだと、と緒方は顎に手を当てたまま苦悩している。
見えるものしか信じないという言葉がとても緒方らしく、ヒカルはクスクス笑う。
それから、説明を補足するように
「塔矢先生のこと、誤解しないで欲しいんだけどいいかな?」
ヒカルは前置き一つ置いて緒方に確認を取る。
「何だ?」
「塔矢先生、きっと緒方先生にも本当は佐為のこと話したかったんだと思う。一度、俺に緒方先生には話さないのかって聞いてきたことがあって……」
「それで?」
「俺が塔矢先生だけでいいって断った」
「お前……」
張本人はやはりお前か、と緒方は苦々しくヒカルを見やる。
しかし、ヒカルは緒方に構うことなく言葉を続ける。
「塔 矢先生は、誰にも内緒で佐為と打ってくれて、俺にも指導碁打ってくれて、それはそれですごく感謝してたし嬉しかったんだけど、先生が佐為の存在を信じてく れて、俺と佐為を同一視しなかったことが一番嬉しかったんだ。だからその関係が壊れるようなことは少しでもしたくなかった。ずっと先生と俺と佐為の3人で 打てればそれでいいって、俺、自分のことしか考えてなかった」
自分のことしか考えていなかったヒカルと違い、行洋はアキラや弟子たちに佐為と対局した棋譜を残した。
行洋が残した棋譜は、日本の棋士だけに留まらず中国や韓国の棋士にも伝わり並べられ検討されているという。
世界で最も神の一手に近いと言われていた行洋と、ネットで並み居るプロ棋士を打ち破り無敗のsaiの対局。
棋譜を手に入れ並べた棋士の大多数が、その名局と賞賛するのに相応しい棋譜に、驚き感嘆しているらしい。
だが、残した行洋本人は亡くなっている。
死人に口無し。
どんなに尋ねようとも行洋が佐為について答えることはない。
棋譜だけを残し、行洋は佐為についてのすべてを墓まで持っていってしまった。
「だから、その罪滅ぼしってわけじゃないけど、緒方先生と塔矢には佐為のことを知ってもらいたいって思ったんだ。佐為のことを誰もが信じてくれるとは思わない し、佐為じゃなくて俺が打つことも否定してほしくない。だから2人にも佐為のことは誰にも話さないでほしいんだけどいいかな?あと、こうしてたまに佐為と 打ってもらえるといいんだけど」
ヒカルが恐々とアキラと緒方を交互に見やる。
身勝手な頼みではあったが、それ如何ではヒカルがこれ以降プロとして打っていく人生全てに関わる大問題である。
けれど、アキラは至って尊大に
「馬鹿か君は」
「は?」
「君と佐為は別人なんだろう?どこにそれをわざわざ人に言いふらす必要がある?君は君で打って、佐為は佐為で打てばいい」
とアキラ。
それに続けるようにして間髪入れず
「それで俺たち以外はネット碁で打たせておけ」
とアキラに負けない尊大さと上から目線で緒方が付け足す。
この弟弟子にしてこの兄弟子ありだ。
あれほどsaiの正体を求めておいて、いざsaiの正体を知ると前もって口裏を合わせていたかのようなこの見事な手のひらの返しように、ヒカルは思わずぷっと噴出した。
「なんだよ、それ!2人とも性格わり―!」
「所詮はお父さんの息子だからね」
「俺も所詮は先生の弟子だ。独占出来るものを誰にでも分けてやるほど聖人君子じゃない」
開き直る二人に、ヒカルは腹を抱えて笑う。
しかし、アキラは冗談を言っている風でもなく、ヒカルを指差し、至って真面目な顔で
「だいたい進藤はお父さんを美化し過ぎだ。確かに尊敬できる人ではあるけど、事が碁に関しては誰よりも厳しいし執着心も半端ない。進藤がもし佐為のことを誰かに話したいと相談しても、きっと最後にはやめておいた方がいいって絶対言ってるよ。せっかく自分ひとりが独占できてるのを、あのお父さんが黙って見過ごすとは思えない」
自分の父親であり、6冠という前人未到の最高棋士と謳われる行洋を、ここまでズバズバ言ってのけるアキラの剣幕にヒカルは気圧される。
美化しすぎと言われても、死んだ者が多少美化されてしまうのは仕方ないことであり、そこまで行洋のことを言う必要はないんじゃないかと反論しようとしてヒカルはふと思い出す。
緒方に佐為のことを話そうかどうか行洋と相談しているとき、行洋は『私だけが佐為を独占しているかのような気持ちになる』と確かに言っていた。
となるとあながちアキラの言っていることは言い過ぎといえなくもないし、逆に自分の父親の性格をよく分かっていると手を叩いてやりたくなる。
呆然とするヒカルに追い討ちをかけるように
「あとは進藤、お前がボロをいかに出さないかだ」
「あ、そういえば何で緒方先生は俺がsaiだって分かったの?」
ふと思い出し、ヒカルは何故緒方がsaiがヒカルであると気付いたのか、ずっと疑問に思っていたことを緒方にぶつけてみる。
すると緒方は大仰に溜息をついてから、
「カマをかけたらお前は笑って引っかかったんだよ!芹澤先生とのことを話したとき、俺は前髪が明るいガキだって言っただろうが!」
「それが?」
「芹澤先生は子供と打ったとは言ったが、前髪の明るいガキとは言ってなかったんだ。しかもそのガキはsaiかもしれないんだぞ?それなのにお前は馬鹿正直に信じるし、前髪の明るいガキがお前以外に誰がいる?」
呆れた眼差しで緒方は説明してやると、少しの間呆然としていたヒカルがようやく理解したのか、バッと緒方を指差し叫ぶ。
「……ズリ―!!卑怯くせぇ!!」
「誰が卑怯だ!そんな簡単な引っ掛けに引っかかるほうがバカだ!分かったら少しは用心しろ!」
と緒方は指差すヒカルの手を叩きながら鼻で笑う。
「なんだよそれ!ラーメン奢ってくれて実はすっげぇイイ人だなって見直したのに損した!」
なおもブーブー口を尖らせ、ヒカルは緒方に文句を垂れる。
その傍で
「進藤、君はラーメンごときで口を滑らせたのか……」
アキラはあまりにもヒカルらしい顛末に額を押さえながら溜め息をついた。
人は違うが人が1人増えただけで、行洋のときにはなかった騒がしさが部屋に満ちる。
その様子が面白くて佐為は口元を扇子で隠しながらクスクス笑う。
行洋と同じく、アキラと緒方の2人も佐為のことを誰にも話さないでいてくれるだろう。
佐為の存在抜きでヒカルをヒカルとして見て、碁を打ってくれるだろう。
そしていつか行洋にも負けない棋士として成長し、佐為と対局する日がやってくる。
――どんなに強くなっても私は負けるつもりはありませんけどね、行洋殿
三人が言い争う傍で、佐為の呟きは扇子に隠れ、誰にも聞かれることはなかった。
― 完 ―