IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
次の日、行洋の葬儀が行われた日、前日の通夜で言っていた通りヒカルは葬儀にやってきた。
通夜のように取り乱すことはなく、一番後ろの席に座り、ずっと静かに祭壇上に飾られた行洋の遺影を眺めていた。
焼香の時、棺おけに収められた行洋を見て、『眠ってるみたいだ』とヒカルは呟いた。
If God 55
埋火葬が終わり、精進落としのためにアキラたち家族親類と緒方ら門弟や棋院関係者は塔矢邸に戻った。
行洋が突然倒れてから葬儀まで本当にあっという間の出来事だったとアキラは思う。
突然主を失った家が、1人いなくなっただけなのにどこか寂しそうに見えたのは、アキラ自身が行洋がいなくなってしまった喪失からそう見えたのかもしれない。
精進落としも一通り終わった頃、行洋の弁護士がアキラを含めた門弟、そしてもしこの場に研究会に参加していた人がいたらその方も呼んで欲しいと明子に頼んだ。
弁護士が何事か、と緒方は思ったが、行洋からもし自分に何かあったら渡して欲しいと頼まれたものがあるという。
塔矢邸の一室に集められ、弁護士は一つの封筒を差し出す。
「こちらが塔矢先生からお預かりしていたものになります。もし自分に何かあったら葬儀後にでも弟子たちに渡してほしいと頼まれておりました。私は中身を見ておりませんが、確認をお願いしたします」
弁護士の事務的な言葉に、その場を代表するように息子のアキラがA4の大きさの封筒を受け取った。
後ろを留めてある紐を外し、中身を取り出す。
「棋譜……?」
中から出てきたのは十数枚にもおよぶ棋譜だった。
棋譜は手書きで書かれ、その字から行洋が自ら書いたのだろうと推察できた。
だが、書かれた棋譜の内容はアキラも初めて見るものだった。
何故こんな棋譜が、と疑問に思いながら、兄弟子である緒方や芦原たちにも棋譜を一枚一枚渡していく。
しかし、その棋譜は全て名局といってよかった。
渡された棋譜を見た緒方たちもすぐにそのことに気付いたようで、驚愕の眼差しで棋譜に食い入っている。
「これって誰の棋譜?先生が渡してほしいって言ってたんなら、1人は先生だろうけど相手は誰?」
戸惑いながら芦原が誰に問うとも知れない問いかけをする。
その棋譜の裏を最初にひっくり返したのは誰だったか。
部屋の一角で『あっ』という声が上がったかと思うと、
「佐、為?(さい)」
棋譜の裏の左下に小さく書かれている2文字を緒方は声に出して読む。
そして、その読み方はきっと間違っていないのだろうと緒方は思った。
行洋が当て字で名前を書いたとは考えられない。
HN:saiの本当の名前は『佐為』。
ヒカルではなかった。
「先生の相手はsaiだ……」
「sai!?」
緒方の言葉にその場にいた棋士達は騒然となった。
誰も正体を知らないsaiと行洋が知らないところで対局し、棋譜を残していたのだ。
驚くなという方が無理だった。
■□■□
行洋の四十九日もようやく終わった6月の終わり、まだ7月にもなっていないのに真夏を思わせる暑い日、アキラはヒカルに突然呼び出され、都内の料亭の前に立っていた。
行洋の葬儀の後、通夜でヒカルが言っていた『内緒で打っていた』という言葉の意味をアキラはヒカルに何度か尋ねたが、『今度話す』と言っていつも逃げられていた。
そして行洋が残した棋譜が、日本に留まらず中国や韓国でも騒ぎになり、アキラも少なからずsaiの正体を知っているのではと見に覚えの全くない疑惑に振り回され、余計なストレスになった。
判明したのは正体不明の棋士が、どこかで行洋と会い対局していたことと、名前が『佐為』であるということだけ。
日本でも珍しい名前なので、すぐにsai本人が見つかるのではと思われていた予測を裏切り、以前と変わらず何も情報は出てこない。
アキラもsaiの正体を知りたい一人である。
しかし、アキラの中のsaiは、ヒカルの中のもう1人のヒカルだと一度結論付けてしまった。
そこから全くの別人が出てくるとは思わず、行洋の棋譜の真意が分からず今も戸惑い続けている。
が、今はそのヒカルに呼び出された店の前で、この暑さにも関わらずきっちり白スーツを着込んだ見知った人物をアキラは眼の前に
「何故、緒方さんがここにいるんですか?」
「進藤に呼びだされたからだ。アキラくんこそ何故ここへ?」
「僕も進藤にここに来るよう呼ばれたんです」
お互い自分以外で呼び出された相手がいるとは思っておらず、そして知らされてもいなかったので、なぜお前がいるのか、と門の前で火花を散らす。
その2人を前に、熱い日差しですでにバテかけたヒカルが疲れ口調で
「……2人とも、なに店の前でにらみ合ってんだよ。営業妨害だぞ。暑いしさっさと入ろうぜ?」
と言って、2人の間を通り店の中に入っていく。
すぐに店の者がヒカルの姿に気付き、案内しようとしたが、ヒカルが自分達で部屋に行っているから構わないでくれと断り、母屋ではなく店の奥の離れの方へ歩いていく。
緒方は二度目、そしてアキラは初めて来た店だった。
なぜこんな店にヒカルが慣れた様子で入っているのかアキラは驚きながらついていき、緒方もこの店が行洋とヒカルが密会していた店ではないかと戸惑いながら後を追う。
少し歩いて着いた部屋は、すでに室内に空調が効いており、外の暑さからようやく逃げられたヒカルはだらしなく冷たい畳に寝転がる。
「オイ、進藤。呼ばれた俺が言うのもなんだが、本当に大丈夫なのか?この店、相当高いだろうが」
「それは平気。俺もそう思って確認しようとしたらさ、塔矢先生が自分に何かあったときにって一日分多めにもう払ってたらしくて、女将さんも気にしなくていいって」
予想外なヒカルの答えに驚いたのは緒方だけでなく、アキラもだった。
突然呼び出された高級そうな店で、いきなり何の前置きもなく行洋の名前がヒカルの口から出てきた。
「お父さんが!?」
「うん」
一つ頷き、ヒカルは寝転がっていた体を起こし座りなおす。
「ここで、塔矢先生といつも打ってた」
ヒカルが部屋を見渡す。
和式で掛け軸が一つかけられているだけの小奇麗な部屋。
料亭のはずなのに、室内の机は隅にやられ、代わりに碁盤と碁石が中央に用意されている。
「失礼いたします」
一言声がかかり、女将が部屋に入ってくる。
「お茶をお持ちしました」
そう言って持ってきた盆の上には急須が一つとお茶が4つ乗っている。
持ってきたお茶を緒方、アキラ、そしてヒカルへは2つ渡し、『ごゆっくり』と言い残し女将は部屋を出て行く。
――ありがとう、ヒカル
二つ渡されたお茶のうち一つをヒカルから差し出され、佐為は軽く頭を下げた。
「お茶がもう一つってことは、あと1人だれか来るのか?」
自分が飲む様子でもないヒカルに、お茶がもう一つ用意されている意図をアキラが問う。
「もう全員そろってるぜ」
「でも、このお茶は?」
「それはそれでいいんだよ。んじゃ、取り合えず打とっか」
ぐっと背伸びをして、まだ戸惑っている緒方とアキラを他所に、勝手に2人の座る位置を指示していく。
「緒方先生はそっちで、塔矢はこっちね。塔矢は俺が言うとおりに打ってくれればいいから。緒方先生はもちろん打った石の場所は黙っててね。俺はこっち向いてる」
と、自分のお茶を持ってヒカルは碁盤に背を向けてしまう。
ここで、兄弟子同様、短いアキラの忍耐の尾が切れた。
何も説明されず対局しろと言われたかと思ったら、アキラには自分が指示するところ石を打てと言い、ヒカルは後ろを向いてしまった。
これでは碁盤が見えない。
緒方がどこに打ったのかヒカルには分からない。
目隠し碁のようなものだ。
アキラと同じように緒方もまたヒカルが何をしたいのか分からない様子で戸惑っていた。
自分達をからかいたいだけなのかとアキラはヒカルを批難する。
「進藤、何がやりたい!?いきなり呼び出したかと思ったら、緒方さんと打て?しかも後ろむいた自分の言うとおりに打てとは、何がしたいのか全く分からない!もっと詳しく説明しろ!」
「塔矢先生の時は、塔矢先生1人で打ってもらった。初めて塔矢先生とここで会ったとき、こんな風に俺は碁盤を見ないように後ろを向いて、俺が言う位置に石を打ってもらって対局したんだ」
淡々とヒカル言って、お茶を一口飲んだ。
行洋とも同じような状況で碁を打ったのだというヒカルに、緒方とアキラは信じられないと絶句し互いに目を合わせた。
「緒方先生、本気で打ってね。本気で打っても多分勝てないけど。すでにコイツ、臨戦態勢入ってるし。2人とも会いたかったんでしょ?」
鼻歌でも歌うような風情で、ヒカルは面白そうに言うと、間をおいてからその名前を口にする。
「佐為に」