IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
その知らせが緒方に届いたのは、明け方近い5時頃だった。
部屋の戸をドンドンと叩き、同室の芦原と自分の名前が呼ばれているのは酒がまだ抜けない頭でなんとなく気付いたが、重い体は言うことをきかず、芦原が対応に出た。
そしてすぐにその芦原から緒方は叩き起こされ、事の次第を聞かされた。
体に残っていたアルコールや酔いなどは一瞬でどこかへ飛んで行った。
急いでスーツに着替え荷物をまとめると、すでに誰かが呼んでくれたらしいタクシーに芦原と一緒に乗り込み、そのまま行洋が運び込まれたという病院へ急いだ。
しかし、どんなに急いでも岐阜と東京では距離があり、病院に到着したのは昼前だった。
棋院の関係者が大勢集まる中に、動揺するなと自分に言い聞かせ病室の戸を開いてすぐ、そこに泣き崩れる明子夫人とその夫人の隣に寄り添うアキラの姿を見つけ、緒方は愕然とする。
当人である行洋が寝ているだろうベッドは、入り口に立つ緒方からは白い仕切り用のカーテンに隠れ見えなかったが、二人の姿を見ただけで知らせが本当なのだと緒方は悟った。
行洋が亡くなった。
あまりにも突然で早すぎる逝去だった。
明け方、連絡を受けたときはまだ病院に運ばれたという知らせだったのだが、その3時間後にはアキラからの電話で亡くなったことが伝えられた。
行洋が亡くなったその日の夜に、訪れるであろう弔問者の数を考え広い式場を借りて通夜が行われることになり、急過ぎる死去に誰もが驚き悼んだ。
心筋梗塞で倒れる原因の一端は、やはり対局過多で心労が溜まっていたのではないか、という推測が誰の口からも上がった。
タイトル戦は1年を通し対局時期をずらしているものの、7大タイトルのうち6つを保持していれば、ほぼ年中タイトル戦を戦っていると言って差し支えない。
そのタイトル戦を戦っている合間にも、大手合などの対局が組み込まれ、若いとは言えない行洋の心身にかかる疲労負担は計り知れなかっただろう。
もう少し対局数を減らし、負担を減らしてあげることは出来なかったのかと、今更ながらに悔やむ声が棋院関係者や後援会関係者からあがる。
しかし、故人を悼む声と同時に、声を潜めてはいても困惑したような声もまた式場内の所々で聞かれた。
現役の6冠の大棋士が突如他界したのだ。
囲碁界の損失は計り知れない。
通夜の最中に不謹慎だというのに、空位になったタイトルをどうするべきか、前例がないだけに今後の運営をどう行えばよいのか、誰もが今後の行方について勝手な推測が流れている。
「おう進藤、来たのか。遅かったな」
通夜に出席していた森下が、弔問も遅い時間にやってきたヒカルを見つける。
すでに弟子の冴木や和谷たち低段の若い者達は、夕方5時に弔問が始まった早い時間にやってきて、9時も過ぎようとしている現在はどうしても仕事や用事でこの時間になった者か、居残る親族くらいしかいない。
そこに親族でもない学生服を着た子供が通夜会場のロビーに現れれば、どうしても目立つ。
「俺、さっき知って……それで急いで来て……」
明らかに動揺し不安げに瞳を揺らしながら、ヒカルは森下を見やる。
「何で……?どうして?嘘でしょ?塔矢先生が亡くなったなんて……」
「俺も連絡を受けたときは信じられなかったが……行洋のやつ、くそっ……」
同じ年のプロ試験で合格し、それから頭角を現していく行洋に同期として負けてなるものかと森下は日々囲碁の探求を惜しまなかった。
リーグ戦で戦ったこともあったが、結局森下は一度も行洋からタイトルを奪うことが出来ないまま、行洋は逝ってしまった。
『勝ち逃げしやがって』『俺の許可なく死にやがって』と何度心の中で叫んだか分からない。
もう二度と行洋と碁を打つことが出来なくなったという行き場のない憤りだけが森下を苛む。
しかし、森下の言葉も何も耳に入っていない様子で、扉の開いた通夜会場の中を真っ青な顔でじっと見やるヒカルに、森下はどうかしたのかと声をかけようとして、
「だってっ、この前会ったときだって、すごく元気そうにしてたんだよ?」
「何だ、進藤?お前、行洋と会ってたのか?」
ヒカルの口から思わぬ事実が出てきて、森下は目を見開く。
研究会繋がりの森下ならいざしらず、門下でもないヒカルがタイトルホルダーでありトップ棋士の行洋とどこで会う機会があるというのか。
以前、棋院内で偶然行洋とヒカルが一緒にいるところを森下は見かけたことはあったが、そこまで親しいという印象は受けなかった。
行洋というよりも緒方の方とヒカルが何かあって、そこに行洋が間に入っていたという淡々とした感じだった。
けれど、目の前のヒカルの様子が明らかにおかしいと森下はこの時点で気付く。
真っ青な顔がさらに青ざめ、身体が小刻みに震えている。
会場内を見ているようでその焦点は合っていない。
「その先生がなんで死んじゃうの?変だよ、こんなのおかしいよ!」
「オイ?進藤!?」
ゴールデンウィークに入る前の日曜日に会った行洋の姿が、ヒカルの脳裏に走馬灯のように蘇る。
いつもと変わらない様子で行洋は佐為と対局していた。
何もおかしいところはなかった。
限界だった。
取り乱し、ヒカルは叫ぶ。
「また打とうって言った!別れるときだって塔矢先生は笑ってたんだ!!」
「saiッ!!しっかりしろ!!」
我を忘れたヒカルの顔を両手で掴み、自分の方を向かせ、緒方が大声で呼ぶ。
瞬間、ビクリと身体を震わせヒカルが反応した。
次第に我を取り戻し、ゆっくりと定まっていく焦点に、緒方の顔が映る。
呼吸を乱れさせながら、ヒカルは緒方の名前を呼んだ。
「お、おが、たせん…せ……」
「緒方君!?」
突然現われヒカルを怒鳴った緒方に、流石の森下も驚く。
普段から冷静で態度を崩したところを見たことがない緒方が、いきなり怒鳴ったのだ。
「少し落ち着け、進藤」
低い声で諭し、緒方はヒカルの顔から手を離し、そのまま下へ持ってきて肩から二の腕にかけて気が静まるように数度撫でてやった。
「動揺してるみたいなので、すこし外の空気吸わせてきます。すいません、『ウルサイ』なんて怒鳴ってしまって」
「あ、ああ。分かった」
「ほら、こっち来い、進藤」
森下が頷くのを確認しながら、緒方はまだ呆然とその場に立ち竦むヒカルを急かすように、ヒカルの腕を掴み引っ張り外へと連れて行ってしまう。
その森下の近くに、何事かとやってきた芦原は、
「なんだ、うるさいって言ったのか、びっくりした~~」
緒方が怒鳴った一言が一瞬『sai』に聞こえ、やはり聞き間違いだったのだと分かった反面、自分にはいつも冷たい兄弟子の珍しい光景を見たと興味深々でヒカルを連れて行く緒方の後姿を見ていた。
そして緒方がヒカルを連れて行った先は、緒方の車の中だった。
ガラス窓から中が見えるとはいえ、それでも他人に話を聞かれる危険性はほぼない。
助手席にヒカルを座らせ、
「……信じられない気持ちは分かる。俺も同じだ。いくらなんでも死ぬなんて早すぎるっ」
ハンドルにもたれかけながら緒方が言う。
寝耳に水とは本当にこのことを言うのだと思う。
寝ていたところに行洋が病院に運ばれ危険な状態であることが知らされたかと思うと、急ぎタクシーで帰っている途中の電話は処置の甲斐なく亡くなったと言う。
まだまだ行洋から学ぶ碁はたくさんあった。
行洋からタイトル一つも奪えていない。
saiについても何一つ話してもらっていない。
なのに、行洋は突然逝ってしまった。
「動揺するなとは言わん。だが取り乱すな。お前と先生の関係は誰も知らないんだ。お前が自ら周囲に疑いを持たれるような真似をしてどうする?先生はお前を守り隠そうとしてたんだろうが」
緒方は一つ一つの言葉に間を置きながら、ヒカルに言い聞かせるように話す。
すると、ずっと俯いていたヒカルが、おずおずと顔を上げ緒方を見上げた。
「お前が先生に会いに料亭に行った日、俺も直前に塔矢先生と会っていたんだ。お前の新初段の対局の日に現われたsai、それが塔矢先生であることに気づいて、真偽を確かめに行った」
「……塔矢先生は、なんて?」
「お前と先生が繋がっていたことはこっちが拍子抜けするくらい簡単に認めたが、お前はsaiであってsaiではない、そう先生は言われた。そしてその意味は教 えては下さらなかった。時が来るまで静かに見守れと……。だが、肝心なことは教えてもらえず、ただ見守れと言わたところで到底納得できるもんじゃない。正 直、先生とお前の世界に、俺が立ち入れない線引きをされた気分になった」
行洋がsaiであるヒカルを特別視しているのか、ヒカルがsaiの秘密を話した行洋だけを特別視しているのか、それともその両方なのかは緒方には分からない。
しかし、緒方がヒカルを問い詰めたとき咄嗟に行洋の後ろに隠れ助けを求めたり、ヒカルが窮地に立った時は似合わないネット碁を打ってまでsaiであることを隠そうとした行洋に、目に見えない確かな繋がりが2人の間に見えたのは確かだった。
「……イベントの時は悪かった。酒が入っていたとはいえ、他人の目があるところで問い詰めるようなことじゃなかった。俺はもう……saiの正体を追わない。 saiが誰であっても構わない。……ただ、もし許してもらえるなら、これからもたまにネットで打ってくれれば、それだけで十分だ。落ち着いたら会場に来 い。そして先生の顔を見てやってくれ」
落ち着くまで車にいていいから、車を出るとき鍵を閉めて来いと、緒方はヒカルに車の鍵を差し出す。
その鍵を受け取り、車から出て行こうとする緒方に、
「緒方先生……」
ヒカルに名前を呼ばれ、緒方は顔だけ振り向く。
「ありがと、助かった……。でも変な感じ」
「何が?」
「緒方先生が白のスーツじゃない」
ぎこちない笑みではあったが、ヒカルが見慣れない緒方の黒スーツを笑う。
「通夜に白のスーツで来れるか、バカヤロウ」
フンッ、と笑い飛ばし、緒方は車のドアを閉め、会場の方へ戻っていく。
ヒカルの顔から再び笑みが消え、手のひらに握られた車の鍵に視線が落ちる。
通夜の会場につき、集まった人を見ても行洋が死んだことがヒカルには信じられなかった。
皆で笑えない冗談でもしているんじゃないかと思った。
はじめは佐為の願いで会うようになった行洋が、いつのまにかこんなに自分の中で大事な人になっていたことをヒカルは失って初めて気付かされた。
思い出されるのは、射抜くほどに真剣な眼差しで碁盤をはさみ佐為と向き合う行洋の姿。
そして、検討している最中にふと見せる穏やかで優しい微笑み。
手のひらの鍵をヒカルはぐっと握り締める。
――行こっか、佐為
――はい。ちゃんとお別れを言いましょう
気持ちを静めるために一度深呼吸をしてから、ヒカルは緒方の車を出る。
それから会場に向かい、入り口近くに立っていた緒方に車の鍵を渡した。
また会場内で自分が取り乱したりしないか気になって、こんなところで待っていてくれたのだろうかと思うと、ヒカルは申し訳ない気持ちになり、もう大丈夫だと言う代わりに
「先生に、会ってくる……」
それだけでヒカルが冷静さを取り戻し落ち着いたのだと伝わったのか
「ああ、行って来い」
緒方も小さく頷いた。
「進藤、さっき取り乱したって聞いたけど、もう大丈夫か?」
会場内で通夜にやってきた客の相手をしていたアキラが、会場内に入ってきたヒカルに気付き、スタッフに一言断ってからヒカルの元へ歩み寄る。
「うん……ごめん、もう大丈夫だから。息子のお前じゃなくて他人の俺が動揺するとかありえないよな、はは……」
乾いた笑みを浮かべる。
しかし、何事もないと言うヒカルの目は赤かった。
落ち着かせると緒方に連れていかれたらしいが、そこでヒカルは泣いたのだろうかとアキラは思う。
そして、芦原が言っていたことが本当なのか、聞き難そうにアキラは尋ねる。
「……お父さんと打ったことがあったって聞いたんだけど」
その問いに、ヒカルは『うん』と一度頷き、
「先生すごく忙しくて、数ヶ月に一回とかぐらいしか会えなかったけど……たまに会ってくれて、俺が院生になってからは指導碁も打ってくれたんだ」
「お父さんが進藤に指導碁?」
「指導碁のあともいっぱい検討してもらった」
「知らなかった……お父さんが進藤に……」
何時の間に2人がそんな親しい関係になっていたのだろうと、アキラは初めて知った行洋の隠れた過去に素直に驚いた。
アキラがヒカルを気にしていたことで、行洋も多少なりヒカルに興味を持っている風ではあったが、多忙なスケジュールの合間をぬって会ってまで、ヒカルと打っていたとは知らなかった。
「お互い会ってることを誰にも話さないって約束してたからな。内緒で会って、打ってた」
「それって……どういう」
意味か、と問おうとしたがヒカルはパッとアキラを振り向き笑むと
「明日葬儀だろ?」
「え?ああ、そうだけど」
「また明日くるよ。お前も大変だろうけどしっかりな。じゃっ」
それだけ言うとヒカルは踵を返し帰ろうとする。
先ほど言ったヒカルの言葉の意味は何だ、と追いかけようとしたアキラの手が止まったのは、目を赤くしたヒカルの顔が過ぎったからだった。
家族でも親戚でも門弟ですらなかったが、知らないところで行洋と親しくなっていたヒカルは、行洋の死に自分と同じかそれ以上に傷つき悲しんでいる。
それで先ほど取り乱したのかもしれない。
そのヒカルに問い詰めるような真似はできず、今だけは静かにしてやりたいと思った。