IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
行洋が初めてこの店に訪れたのはいつだっただろうか。
まだタイトルを持たずリーグ戦で己より高段の棋士達を相手に、日々揉まれていた頃に何かのタイトルのスポンサーをしていた会長に連れられてきたのが初めてだったと朧げに思い出す。
初めて訪れた行洋の目を奪ったのは庭の美しさだった。
華美な花はなく、松や紅葉、つつじなどの木々が細部にまで手入れされ、かといって神経質なほどに手入れをするわけでなく、落ち葉一つ、葉の落葉の様をありのままに残すことで、季節の移ろいを見るものに感じさせてくれた。
店の客は昔ながらの贔屓客か、その贔屓客の紹介でしか予約を取らなかったので、変な客はおらず、店の店員も最低限の少人数できりもりされ、礼儀やおもてなしなどの教育がきちんとほどこされている。
行き過ぎたサービスはせず、控えめな気配りと気遣いを気に入り、何度となく行洋は店に足を運んだ。
単に誰にも見られず打つだけなら、どこかホテルの一室でもよかった。
にも関わらず、数回しか会ったことのなかったヒカルを、この店に行洋が招いたのは、何か見えない運命が働いたからかもしれないと今更ながらに思う。
そしてこの店にヒカルを招いたのは間違いではなかった。
初めてヒカルと対局した日に佐為の存在を知らされ、たまに会う日は離れの部屋で時間を忘れて碁に没頭する。
弟子達や他のトップ棋士達と碁を打ち検討するのも、それはそれで行洋も勉強になったが、佐為と比べれば、どうしても天秤は佐為に傾く。
ヒカルにだけしか見えない平安時代の幽霊は、行洋に新しい世界を見せてくれた。
改めて碁を打つことがこの上なく楽しいと感じ、最善の一手の追求に無我夢中で没頭した。
それは行洋が碁を知ってから初めて見る世界であり、至福の世界でもあった。
「ここは?」
行洋の後ろから緒方がゆるりと近づき、手入れされた周囲の庭を見渡す。
意を決して緒方は行洋に2人きりで話ができないかと電話をしたのだが、これから出かける用事があると一度は断られた。
しかし、そこで諦めず5分だけでもいいから時間が欲しいと食い下がった緒方に、行洋はこの店に来るよう指示をした。
緒方より先に着いていた行洋は、店の庭の奥で、庭の木々を眺めており、緒方も急に時間を取らせてしまった非礼をまず詫びてから、この店を指名した意図を問う。
「私がたまに1人でいたいときなどに使っている店だ。客のプライバシーには特に厳しく守ってくれる」
「なぜそのような場所に私を?」
緒方の想定では行洋の家で人払いをして話すことになるだろうと思っていたのだが、行洋は外で会うことを提示し、そして恐らくこれから誰かとこの店で会う約束をしているのだろうと察する。
「ずっと、十段戦の最中から何か問いたそうな顔をしていたからね、君は。それは、私に対して聞きにくく、そして誰にも聞かれたくない話なのだろう?あまり時間は取れないから、用件を聞こうか」
「…………」
振り返らず庭を眺めたまま話す行洋に、緒方が問いたい内容に気付いていて、わざと塔矢邸を除外したのだと気付く。
いくら人払いをしても、いつ何時、行洋を尋ねてくる者が来るとも知れない家より、こうした店の方が話しが漏れることを心配しないで話すことができるだろう。
行洋がそのつもりでここに緒方を呼んだのならば、緒方も気をつかって遠まわしに言う必要はない。
正面から疑問をぶつける。
「先生は進藤がsaiであることをご存知ですね?そして、先日の……進藤が新初段で芹澤先生と対局した日、ネットに現われたsaiは塔矢先生ではありませんか?進藤がsaiではないかと疑っている芹澤先生の目を欺くために、先生がsaiとして打った……」
「気付くとすれば、君かアキラのどちらかだろうと思っていた」
行洋の顔は見えなかったが、そのどこかゆるやかな口調から、緒方は行洋が少し笑ったような気がした。
「気付いたのは森下先生です。私はsai本人ではないと思っていましたが、塔矢先生とまでは気付けませんでした。森下先生は塔矢先生がおかしな打ち方をしていると興味をもたれた様子でしたよ。」
「佐為になったつもりで、佐為ならばどこに打つか考えながら打ってみた。石の感触がないのは寂しかったが、あれはあれで面白かった。相手が誰かわからない分、どの相手にも全力で打つしかない。なにしろ、saiとして打つからには絶対に負けてはならないのだからね。まさか森下に見抜かれるとは思ってなかったが、 芹澤先生の目を逸らすには十分だったかな」
そうか、森下が気付いたのか、と行洋は面白そうに漏らす。
saiになったつもりで打ったという行洋に、緒方は見事にはまってしまい、もしあのイベントで偶然にも森下が緒方の並べている棋譜を覗かなければ、今もsaiの影武者が誰か分からずにいただろう。
十段戦で挑戦者の緒方が破れ、行洋はタイトルを防衛した。
その6冠の棋士が、息子のアキラならいざ知らず、今年プロになったばかりの子供の後ろにいると誰が考えるだろうか。
だがそれ以前に、行洋がsaiの正体を知っていて、一人秘密にしていたことが分かり、緒方は腹立たしい気持ちになる。
「……何故、そこまでして進藤がsaiであることを隠そうとするのですか?確かにあの歳であれほどの碁が打てるのは驚愕に他ならない。しかし、だからと言って本当の実力を偽る理由はどこにあるのです?対面し真剣に打ってくる相手に、力を抜いて負けたフリをしたり」
憤慨する気持ちを抑えきれず、緒方は感情に任せ責めるような口調で行洋に追求してしまうが、言っている途中で行洋がすっと体ごと振り返り、緒方を見据える。
そこに、それまでのヒカルがsaiであることを気付いたことに対する楽観した雰囲気や、ネット碁をしたと語っているときの、どこか弾んだ雰囲気は微塵もなく、静かに、そして射るように緒方を直視する。
「緒方君、見誤ってはいけない」
「え?」
「進藤君はsaiであって、佐為ではない」
「それはどういう意味……」
意味不明な行洋の言葉に、緒方は行洋から直視されていることでの動揺と相成り、怪訝な表情になる。
「私には彼が佐為を隠す理由が良く分かる。そして佐為の存在もまた、曖昧で儚い」
ヒカルが何故佐為の存在を隠すのかは、佐為が幽霊だという理由だけではないと行洋は思う。
もし世間が本因坊秀策であったという佐為の存在を知れば、途端に『ヒカルの碁』は見向きされず、どんなにヒカルが自分の力で碁を打とうとも、それは正当化されることはないだろう。
ヒカルが尽力を尽くした素晴らしい碁を打とうとも、佐為の助言があったのではと疑われる。
それだけでなく誰もが最強の幽霊をもてはやし、ヒカル自身は見向きされなくなる。
それは碁打ちに碁を打つなと言っているのと同然であり、行洋自身がもしヒカルと同じ境遇になれば、やはり誰にも言わず隠しただろうと思う。
となると、自分の力で碁を打つためには、表向き佐為に打たせず、その存在を隠すのが一番の良策なのだ。
だがヒカルはネット碁という相手の顔が見えない世界で佐為の存在を世界に知らしめてしまった。
行洋がそれを責めるつもりは全くない。
ヒカルが佐為にネット碁を打たせたからこそ、行洋がsaiを知るきっかけになった。
むしろネット碁だからこそ、江戸時代に佐為が取り憑いたという虎次郎のように、佐為の全てを背負い打つ必要が無くなったとも言える。
saiという正体不明の棋士の存在を、発達した現代の技術が許したのだ。
最強の強さと裏腹に、あまりにも儚い存在がこの時代に生きる人の目に留まることを。
「緒方君がどうやってsaiが進藤君であるのかということに辿りついたのかまでは、私は知らないし追求もしない。しかし、佐為に会いたいと緒方君が真実願うのなら、今はまだ静かに彼らを見守りなさい。いずれ、しかるべき時が来るまで。彼らが自ら話すそのときまで」
「しかるべき時とはいつなのです?それに彼らというのは、saiの存在とは……saiは進藤なのでしょう?」
「時がいつかは、私にも分からない。だが、そうでないと佐為は彼の中に隠れてしまい、対面して打つどころかネット碁ですら二度と現われてはくれなくなるやもしれない」
saiが現われなくなるという行洋の言葉に、緒方は言葉を失う。
理解できない行洋の言い様に、緒方は言及を重ねたが、行洋はさらに不可解な回答を返す。
話している途中から、緒方は行洋と話がどうにも噛み合わないと感じたが、行洋のこの言葉で漠然と察知する。
行洋はヒカルとsaiを別人として考えている。
だからヒカルとsaiを同一人物と考えている緒方と会話がずれてしまうのだ。
「進藤君は君を嫌い絶対に話さないと言っているわけではない。むしろ緒方君のことを好ましく思っている。ただ話すタイミングが見つからないだけだろう」
でなければ、メールアドレスを交換してまで緒方に佐為と打たせてやろうとはヒカルは決して思わないはずだ。
そのことを行洋に話したときも、緒方から合格祝いに食事を奢ってもらい、碁会所で一局打ってくれたと嬉しそうに話していた。
行洋の真剣な眼差しがふっと穏やかになり、
「そろそろ時間だ。お引取り願おうか。これから人と会う約束がある」
「先生待ってくださいっ!まだ何も!」
急な申し出で、用事があるという行洋に5分でいいからと強引に頼んだのは緒方の方だ。
行洋が時間だと話を打ち切れば、文句を言う筋合いはない。
しかし、肝心なところは何も話してもらえず、見守れという言葉に快く納得などできようはずがない。
庭から立ち去ろうとする行洋を追おうとして、
「彼が来る」
「……彼?」
「そう、彼だ」
行洋があえて名前を出さない相手に思い当たり、後を追おうとしていた緒方の足が止まる。
行洋と先約しており、これから会う人物は恐らくヒカルなのだ。
そう考えると、もし自分がここにいることをヒカルが知って二度と打てなくなるかもしれないと思うと、緒方は動けなくなる。
店の敷地そのものが広い。
母屋に戻る風でもなかったので奥に離れでもあり、そこで2人は会うのだろうかと、行洋が消えた方向を見ながら思う。
これから行洋と会うのが本当にヒカルなのか、自分の目で確かめるために、そしてもしヒカルなら店から出るところを見られない方がいいだろうと、緒方は母屋の影に身を隠しながらこれから来るであろう人物を待つ。
そこに前髪が明るい特徴的な髪型をした子供が、緒方が見ていることに全く気付かない様子で、すでに知ったる道と行洋が消えていった方へ軽い足取りで歩いて行った。